第28話 私のせいじゃない

 全身黒ずくめの美蘭みらんが車を降りると、まるで影が一人歩きしてるように見える。僕も助手席から降り、ガードレールから下を覗いている彼女の傍に立った。近くに街灯もなく、上弦の月はかなり痩せているから、僕らの周囲はほぼ真っ暗だ。それでも、美蘭の瞳には昼間と変わらないほど、はっきりとした世界が映ってるはず。まあ、それも左目だけなんだけど。

「ロープとってきて。あと毛布も」

 僕は大人しく命令に従い、車のトランクを開けると、中にあるライトを手にしてスイッチを入れた。面倒くさがりの割に、美蘭は色んなものをここに準備している。大小さまざまな工具やロープの他にも、双眼鏡にバーナー、水と食料に断熱シートや寝袋、レインブーツにヘルメットなんかも積んでる。

 でも、彼女はキャンプやバーべキューなんてアウトドアライフには無関心というか、嫌いだ。わざわざ出かけて不便な事するなんて、意味わかんないし、というのが理由で、それは僕も同じ。できれば便利な環境でのらりくらり過ごしたいのだ。ただ、玄蘭げんらんさんの手前、資金稼ぎをおろそかにするわけにもいかず、いつの間にかこんな装備が揃ってしまった。

 僕はロープと毛布を取り出し、トランクを閉めて美蘭の方へ向かった。空気は冷え切っていて、僕の白い息はドラゴンの吐く炎みたいに広がってゆく。「ライト消して」と命令されたので、スイッチを切ってベルトに提げ、声のした方へとロープを投げる。狙いが少し外れたみたいで、舌打ちが聞こえたけど、どうにか受け取ったようだ。

 ガードレールにロープを結びつける音がしばらく聞こえ、それから美蘭が深く積もった落ち葉を踏みしめる、乾いた音が聞こえた。それは二度、三度と続くうちにどんどん遠ざかっていった。

 僕は再び暗闇に慣れてきた目を見開いて、ガードレールのそばまで行くと、固く結ばれたロープに触れてみる。それはぴんと張りつめて、闇の底にいる美蘭とつながっている。僕は数時間前にここで見た光景を思い出しながら、彼女は今どのあたりに立っているかと考えていた。


 ルネさんが友達とのランチを終えて戻ってきたのは夕方だった。僕は彼女のベッドで昼寝していて、「莉夢りむちゃんただいま。ケーキ買ってきたの、食べない?」という声で目が覚めた。

 もちろん莉夢の返事はなかったけど、ルネさんはドアを開けようともしなかった。僕が廊下に出てみると、彼女はちょうどリビングの南京錠を開けているところで、その後について行き、ローテーブルに置かれたケーキの箱を開けようとすると、「悪戯しないの!」と釘をさされた。

 それからルネさんはルームウェアに着替えると、リビングの床にレジャーシートを広げた。昨日と同じようにカメラをセットし、ノートパソコンに電源を入れると、カメラの映り具合を確かめる。そして箱からチョコレートケーキを一つ取り出して皿に載せると、それを手にして莉夢の部屋へ向かった。僕はその隙に箱の中を確認する。残る一つはマンゴーらしい鮮黄色のソースと生クリームに彩られたムースだ。少し長い間何も食べずにいたせいで、ほんのわずかな匂いでも眩暈を起こすほど食欲を刺激する。でも、今はまだその時じゃない。僕はなんとか自分をなだめすかすと、廊下に出た。

 莉夢の部屋のドアは開いたままになっていて、「莉夢ちゃん?」と繰り返し呼ぶ声が聞こえる。覗いてみると、ルネさんが慌てた様子でベッドにいる莉夢を揺さぶっていた。ケーキの皿は床に置いたままだ。

「どうしたの?莉夢ちゃん、莉夢ちゃん!返事して!」

 彼女がいくら呼びかけようと、揺さぶろうと、莉夢は何も反応しない。スクール水着を着たままの身体は血の気がなく真っ白で、まるで蝋人形のように見えた。僕は部屋の入口に立つと「何かあったの?」と声をかけた。ルネさんは一瞬動きを止め、それからゆっくりと振り向いた。

「どうしよう、息してないみたいなの。身体が冷たい」

 僕は訳知り顔で「脈は?」ときいてみた。ルネさんは慌てて莉夢の手首をつかみ、それから何度か握り方を変えて、また僕の方を見た。

「脈って、どうやって計ればいいのよ」

「さあ、手首がふれないなら頸動脈でもいいし、いちばん簡単なのは直接心臓の音を聞くことかな」

 僕が言い終る前に、ルネさんは莉夢の胸に耳をあて、しばらくして反対の耳を押し付けた。

「何も聞こえない。息もしてない」

「だったら死んでるよ」

「うそ!どうして?何があったの?」

「さあ。子供って体力がないからね。食事も与えずに放っておいたら、死んじゃうこともあるんじゃない?」

「でも、お水はあげてたし、ごはんはいらないって、この子の方がそう言ったのよ。私のせいじゃないわ!」

 ルネさんは感情の軸足を混乱から苛立ちに移し換え、莉夢が横たわっているベッドを力任せに何度か叩いた。

「私のせいじゃない!私が悪いんじゃない!」

「まあ、それはそれとして、今は現実的な対応が必要だと思うよ」

 僕は部屋に入ると、ルネさんの背中に近づいた。彼女の丸い肩は荒い息に合わせ、せわしなく上下している。

「救急車を呼べばいい?でもサイレン鳴らされたら困るわ。引っ越してきたばっかりなのに、近所で噂されたくないもの。車で大きな病院の救急に連れて行こうか」

「無駄だと思う。何度も言うけどさ、この子死んでるよ」

 そう言って、僕は莉夢の腕を容赦なくつねった。ひんやりした肌が僕の指先から熱を奪うだけで、何の反応もない。ルネさんは両手で口元を覆い、もう一度「どうしよう」と呻いた。

「それにさ、病院なんか連れていったら、この子が何も食べてないって判っちゃうよ。そしたら厄介な事になる。警察が動くだろうし、下手したら逮捕されるかもね。前にこの子が逃げた時の記録があるはずだから、今回はただじゃすまないと思うよ。動画の事もさすがにばれるだろうね。あれで稼いだお金、申告とかしてないのもマズいんじゃない?」

 ルネさんは床にぺたりと座り込んでしまった。

「私、なにも悪いことなんてしてないわよ。警察とか、そんな面倒に巻き込まれるのは絶対に嫌!」

 叫ぶようにそう言うと、彼女は身を乗り出し、もう一度確かめるように莉夢の白い身体に触れた。その細い手首を握ったり、お腹を撫でてみたり、そんな事を何度か繰り返す。

「バラバラにするのは無理。だいたい私、気持ち悪いから魚だってさばいたことないのに。でも、どこかに埋めるにしても、そんなに大きくて深い穴なんて掘れない。無理よ」

 ルネさんって、苦手な事はあれこれ理由をつけて逃げ回るタイプみたいだ。僕は今更のように親近感を覚え始めていたけれど、ここでそんなもの表明してる場合じゃない。

「大丈夫だよ。そのまま捨てればいい」

「捨てる?」

「そう。ちょっと山奥まで車で運んで、適当なところから投げ捨てればいいんだ。あとは野犬やカラスがきれいに片づけてくれるよ。ただし、服は脱がせておかないと、変な具合に食べ残しが出るかもしれない。それに、万が一見つかった時に、警察が証拠として押さえるだろうからね」

「わ、わかった。でも山奥って、どこに捨てればいいのかしら」

「ちゃんと案内してあげるよ。けど先に、これ食べてもいいかな」

 僕が床に置かれたケーキ皿を手にとると、ルネさんは「勿論。よければ私の分も食べて」と立ち上がったけれど、足に力が入らず、へたり込んでしまった。

「お構いなく」と言い残して、僕はリビングに戻り、ルネさんが買い足してくれたコーヒーを飲みながら、まずはマンゴーのムースを食べ、それからチョコレートケーキをゆっくりと味わった。

 そうやって僕が寛いでいる間、ルネさんはあちこち行ったり来たりして、たまに「ああもう!」とか、「本当ついてない!」なんて叫んでいた。僕は二杯めのコーヒーを飲み干してから、寝室のクローゼットに潜り込んでいる彼女に「じゃあ行こうか」と声をかけた。

 ルネさんは返事の代わりに大きなスーツケースを引っ張り出してきて、額に滲んだ汗をぬぐいながら「これ使えるかしら」ときいた。

「そうだね。うまく身体を丸めさせれば入るよ」

「わかった。これもあとで捨てればいいわよね」

 彼女はそれを莉夢の部屋に運んでいくと、ベッドの脇に置いて開いた。それからもう裸にされている莉夢をシーツで包んで抱え上げようとしたけれど、予想より随分重かったみたいで、前につんのめってしまった。仕方なくシーツごと引きずり下ろすようにして、ようやくスーツケースの中に落とし込んだ。そして莉夢の手足を折り曲げ、胎児のように首と背中を丸めると、はみ出していたシーツの端をかき集めてその身体を覆い、勢いよく蓋を下ろした。

 莉夢の姿が隠されてしまうと、ルネさんは少し落ち着きを取り戻したように見えた。キッチンに行って冷蔵庫を開け、コラーゲン入りのビタミンドリンクを一気飲みし、ミネラルウォーターのボトルをバッグに放り込んだ。そして「よし、行こう」と自分に言い聞かせるように宣言すると、明かりをつけたままのリビングを後にした。

「電気、消さないの?」

「留守って思われたくないもの。それに今日は、帰った時に真っ暗なんて嫌だわ」

 ルネさんは再び莉夢の部屋に入り、バッグを肩にかけると、「よいしょ」と声をかけてスーツケースを起こそうとした。でもやっぱり普通の荷物とは勝手が違い、そう簡単には動かない。格闘するうちに息が上がってきて、彼女は僕の方を振り返ると「ちょっと、手伝ってくれてもいいんじゃないの」と、苛立った声で呼びかけた。

「猫はそんな事、やらないから」

 僕はあくまで傍観者だ。彼女は「ほんと、猫なんて何の役にも立たない」とぶつくさ言いながらようやくスーツケースを起こし、よたよたと引っ張って玄関を出ると、エレベータに乗った。

 それから駐車場までは、またしても苦難の道のりだったけど、うまい具合に誰ともすれ違わず、何とか移動はできた。でも最大の難関は莉夢の入ったスーツケースをどうやって車に積むか、だった。後部座席に乗せようにも、ルネさんの力では地面から持ち上げる事ができないのだ。それでも火事場の馬鹿力って言うのか、アドレナリンが出まくってるというのか、彼女はまず自分が車に乗り込むと、中からスーツケースを引きずり込むことに成功した。

 運転席についてからも、ルネさんはしばらく肩を上下させて息をしていた。手が震えているのは、重いものを持ち過ぎたせいか、気が高ぶっているせいか判らない。持ってきたミネラルウォーターを半分以上飲み干してから、彼女はようやくエンジンをかけた。

「ねえ、どこに行けばいいのよ」

「ご心配なく、それはちゃんと教えてあげるよ」

 ルネさんは助手席にいる僕の指示通り車を走らせた。時々スピードを出し過ぎたり、ぼんやりして前の車に追突しそうになったりもしたけど、どうにかしてこの場所、夜は滅多に車の通らない、山あいの間道までたどり着いた。

 車を停め、ヘッドライトは消さないままで、彼女はスーツケースを引っ張り出した。何度もやるうちに、少しはこつを掴んだらしくて、今までで一番スムースに下ろす事ができた。

 すっかり日も暮れて、街中よりずっと冷えるというのに、ルネさんは額に汗を浮かべ、地面に膝をつくとスーツケースを開き、丸めたシーツをかきわけた。中では莉夢が、まるで人形のように折りたたまれている。

「さあ、あと一息だよ。ここから投げ落とすだけでいいんだ」

 僕はルネさんにエールを送ったけれど、彼女はそれを無視して、荒い息を吐きながら、どうにかこうにか莉夢の身体を抱きかかえた。そして車で背中を支えながらゆっくり立ち上がると、つんのめるようにしてガードレールまで数歩の距離を移動し、投げるというよりは取り落とす、という感じで莉夢を手放した。

 崖と呼びたいような斜面には枯葉が厚く積もっていて、莉夢が落ちたのをきっかけに、雪崩を起こしたように勢いよく下へと流れ始め、白い裸身を呑み込んでいった。ルネさんは身を乗り出してその様を眺めていたけれど、やがて枯葉のたてる乾いた音が止むと、呼吸するのを思い出したように大きな溜息をつき、ガードレールを離れた。そして、まだ震えている手でシーツを丸め込んでスーツケースを閉め、後部座席に押し込むと、すぐに車を出した。

 彼女は来た道を大体は憶えていたので、帰りは僕もあまり口を出す必要はなかった。かなり街中に戻ってきたところで、僕はようやく「ねえ、ちょっと停まってくれる?」と声をかけた。

「何?寄り道なんかしてる暇ないでしょ?」と言いながらも、彼女は車を路肩に寄せた。

「そうだね。この後もやる事はいっぱいあるよ。まずは荷物をまとめて引っ越すことだね」

「引っ越す?」

「だって、莉夢の家族から連絡があったらどう答えるの?一度や二度はごまかせても、ずっとは無理だよ。いずれ、いなくなったのがばれる。それだけじゃない、引っ越しても職場に連絡してくるかもしれないから、仕事も辞めないとね。それに、友達から居場所がばれるとまずいから、誰にも連絡とっちゃ駄目だよ。っていうか、名前も変えた方がいいね。引っ越し先もずっと遠くの、知り合いのいない場所にしなきゃ」

 ルネさんはようやくその辺りに考えが及んだらしくて、「そう、そうね」とぼんやりした表情で何度かうなずいた。

「でもまあ、僕にはもうこれ以上手伝える事はないから、ここで降りる。幸運を祈るよ」

 そして僕はルネさんの鼻先で、ぱちんと手をたたいた。彼女は軽く目をしばたき、それから僕をまじまじと見て「あなた、誰?」と訝しげに尋ねた。

「僕は、黒猫の亜蘭あらん

 まあ、短い間だったけど住ませてもらったし、食べ物もそれなりにいただいたので、僕は精一杯の笑顔を浮かべた。でも、ルネさんは何か悪い知らせを耳打ちされた時みたいに、ひきつった表情で固まってしまったので、僕はそれ以上無駄な真似はせずに車を降りた。ドアを閉めた瞬間に車は発進しようとしたけれど、サイドブレーキがひかれたままだったらしく、痙攣したように大きく揺れて、それからようやく猛スピードで走り去った。


 あの後すぐ美蘭に連絡して、彼女が車で拾ってくれるまで、近くのファミレスで過ごした。そしてまたこの山道に戻ったんだけど、夜明けにはまだしばらくある。気温は更に下がっていて、じっとしていると足元から冷気が這い登ってくる。僕は美蘭が早く仕事を終えないかと待ちわびながら、ぴんと張ったロープに触れていた。

 ようやく、闇の底で枯葉をかき分けるような音がして、ロープに何度か力が伝わった。枯葉の音は少しずつ大きくなり、やがて僕の目にもぼんやりと、斜面を登る美蘭の姿が見えてきた。肩に担いでいる毛布の中には、莉夢が包み込まれている筈だ。彼女はこちらを見上げると、「高みの見物とは、いいご身分ね」と言った。これは美蘭語で、ぼんやりしてないでさっさと手伝えという意味だ。

 僕は仕方なくロープに手をかけて、美蘭が上ってくるタイミングに合わせて少しずつ引き上げた。手元に余った部分はガードレールの反射鏡に巻きつけてゆくけれど、大した強度はなさそうなので心もとない。まあ、いきなりぶっ壊れて投げ出されたところで、美蘭は平気な顔して谷底から戻ってくるだろうけど。

 そして彼女の顔がはっきりと見える距離まで上ってきたその時、前触れもなく一陣の風が吹いた。美蘭が「うわ!なんで?」と叫ぶのとほぼ同時に「あんた達、誰の許しがあってこんな真似をしてるんだ」という、最も聞きたくない声が耳に入った。

 見ると、大きな梟が美蘭めがけて舞い降りている。彼女は右腕にロープを巻きつけ、左腕で何とか防戦しているものの、左肩には莉夢を担いでいるからほとんど思うように動けず、梟の爪と嘴に一方的にいたぶられていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る