第19話 好きなことすればいい

 美蘭みらんが微笑んだ。

 今日はベビーピンクのモヘアのセーターにチャコールグレーのプリーツスカート。良家の子女はスカートしかはかないと思いこんでるせいか、「猫舌」の代理人を演じる時の彼女はこういうファッションで、物腰も驚くほど優雅になる。僕はアビシニアンのロブの身体を借りて、このスタジオにいる美蘭以外の人間を観察した。

 まずは今日の撮影の監督を努める、小牧こまきさんという男性。四十前後で少し髪が薄くて、助手を二人も連れてるのに、何故かずっと申し訳なさそうな態度。美蘭の笑顔にあっさり腰砕けで、台本の打ち合わせがろくに進まない。傍でモニターをチェックしているのは撮影のほりさんで、こちらは二十代の女性。動物が専門らしくて、学生バイトみたいな男がサブでついている。彼らの傍には、音声担当を兼ねた制作会社のスタッフが二人いた。

 莉夢りむは少し離れたところで椅子に座っている。猫少女ニャーニャの衣装に身を包み、いつになく緊張した様子だ。良家の子女だから顔出しは不可って事で、動画サイトを更にバージョンアップした、仮面のようなアイメイク。やっぱりプロがやると違いは歴然で、莉夢はまるで妖精のように見えた。

 彼女の横に立ち、時々何か話しかけているメイク担当はしばさんという男性。彼は一目でそれと判るゲイだ。仕事熱心だけど、やたらと宗市そういちさんの方に視線を投げかける。でも宗市さんは一貫して、素行の正しい芸能プロ社員という姿勢を崩さない。

 もう一人、宗市さんを意識しまくってるのは出版社の木原きはらさんで、彼女は事あるごとに「問題ないですか?」と声をかけている。そして猫たちのキャリーケースの傍には、風香ふうかが所在なさげに立っている。彼女の役目は莉夢の付き人だけど、場違いなところにいるという困惑を隠さず、美蘭の方を見ている。

 そう言う僕は一体どこかというと、スタジオの入っているビルの最上階、非常階段の踊り場に座っている。猫を操るにはやっぱり、距離的に近いのが楽だから。隣にいるのは桜丸さくらまるで、彼はずっとペーパーバックを読んでいる。

「別に寝てるわけじゃないけど、放っておいてくれればいいから。もし人が通ったりしたら、適当に取り繕ってほしいんだ。それが無理なら、僕を起こして」というのが彼に頼んだ仕事で、これにはちゃんと日当が出る。でも彼は撮影について何も知らない。そして人を疑う性格でもないから、「そんなに楽してお金もらっていいの?」なんて喜んだ。

 こうして二人並んで座っていると、嫌でも子供の頃を思い出す。

僕らの小学校は人数が少なかったから、たいていのイベントは全学年まとめて行われた。遠足のバスでも映画鑑賞でも、僕と美蘭はとにかく桜丸と並んだ席を狙っていて、彼を挟んで両脇に座るというのが平和的解決。しかし運悪く空きが一つしかない時には武力衝突。そして必ず僕が負けた。体力差もあるけど、そこに座ろうという気迫が桁違いに強かったのが美蘭の勝因だ。

 隣に座ったからといって、別にあれこれ喋るってわけでもない。ただ時折ほんの短いやり取りをして、彼が「そうだね」と頷いたり、楽しいと感じた時に彼も笑顔になってるのを確かめたり、そういった事が僕にはとても心地よかったし、きっと美蘭も同じだったと思う。

 もちろん桜丸は他の子たちからも好かれていたし、彼もみんなに分け隔てなく接していた。それでも美蘭は彼と同級の女子には目障りだったらしくて、高学年になると「桜丸に色仕掛けで迫ってる」と噂された。「色仕掛け」という言葉の響きは、精巧に作られた鳩時計を思わせて、僕には好ましかったけれど、美蘭はそうでもなかったみたいだ。だからだろうか、その噂がたち始めてすぐ、リーダー格の女の子の部屋に毛虫が大量発生するという事件が起こった。

 それは生徒全員が食堂で夕食をとっていた間のことで、部屋に戻り、ベッドを這い回る毛虫の群れを発見した女の子はパニックに陥って絶叫した。それは瞬時に他の子にも伝染して、寮は混乱状態、警察と救急車が出動するほどの騒ぎになった。もちろん美蘭には完全なアリバイがあったけれど、女子の間では誰が犯人で、今後どう対処すべきかの答えは出たみたいだった。

 生き物は体内で作れないビタミンや何かを補うために食物を摂取するけれど、僕と美蘭も自分に欠落したものを桜丸から貪っていたのかもしれない。いや、結局のところ今もまだ、僕には彼が必要みたいだ。


「はい、それじゃ猫ちゃんお願いします」

 小牧さんの声が響き、僕とロブは美蘭の手でキャリーケースから外に出された。床に降りてから軽く身震いをし、「魔法の杖」を持ってスタンバイしている莉夢の方へ駆けてゆく。

 撮影の内容は動画と大体同じで、縄跳び、輪くぐり、足し算引き算、撃たれて死んだふり、サッカーなどなど。そして新しい芸として、アルファベットの積み木を拾って単語を作り、猫パンチでボクシングをし、タンバリンに合わせて踊った。それからイメージショットとして、莉夢に頬ずりされたり、こちらからもお返ししたり、テーブルに座って紅茶を飲む彼女を覗き込んだり、前足で角砂糖を挟んでカップに落としたり。これをアビシニアンのロブとロシアンブルーのソフィアの二匹で交互にやるのだ。

 少しでも猫が疲れてきたと感じると、僕は合図として三回短く啼く。すると美蘭が「そろそろ交代しましょうか」と声をかける。僕はとにかく撮影なんかさっさと終わらせたかったので、ほとんど撮り直しなしの一発勝負で決めた。むしろ莉夢の方が長丁場の撮影に疲れたみたいで、後半はまとまった休憩を何度かとった。そうなると僕は猫を離れ、桜丸の傍に戻る。彼はずっと読書中で、僕がいきなり立ち上がってトイレに行ったり、近所のコンビニでコーヒーとドーナツを買って戻ってきたりしても、驚く素振りも見せなかった。

 

 結局、撮影が終わったのは夕方だった。誰かが叫んだ「お疲れさま」の声を合図に、僕は猫たちから離れたから、どんな感じで現場が終了したかは知らない。猫が参加しての撮影は今日だけだけれど、莉夢にはまだ日を改めてロケの予定がある。子供向けのDVDということで、房総にあるフラワーパークの温室で花に囲まれた映像を撮り、あとは木原さんと懇意にしている猫カフェ。こちらは店とのタイアップだ。

 僕が「帰ろうか」と声をかけると、桜丸は「もういいの?」とペーパーバックを閉じた。

「うん、お疲れさま」と立ち上がり、階段を降りようとすると、誰かに頭を掴んでぐるりと回されたような気がした。桜丸は慌てた様子で、僕の肘を支える。

亜蘭あらん?すごくふらついてるよ。気分悪いの?」

「悪くはないけど、ちょっと変な感じ」

 しばらく壁にもたれていると、これは自分の身体だという感覚が徐々に戻ってくる。要するに、猫と一緒にいすぎたという事だ。しかし壁を離れると、こんどは足がもつれてしまう。桜丸は「少し休めば」と、まだ僕を支えていたけれど、僕は彼以上に自分の疲れ具合に当惑していた。

「悪いけど、一緒に下まで降りてタクシー拾ってくれないかな」

「もちろんそのつもり、っていうか、家まで送るよ」


 気がつくと、僕の顔には何か暖かいものが覆いかぶさっていた。それが猫のお腹だと判るまでにしばらくかかって、ようやく手で払いのけると、「ほらね、簡単に起きたでしょ」という声が降ってきた。

 眩しくてうっすら目を開けると、美蘭が片手にサビ猫ウツボをぶら下げている。その横で桜丸が目を丸くしていた。

「いくら声かけても全然起きなかったのに。本当にどこか悪いのかと思ったよ」

「悪いとこはあるわよね、頭とか性格とか」と言いながら、美蘭は僕が寝ているマットレスに腰を下ろした。膝にのせられたウツボは喉を撫でてもらってご機嫌だ。僕は一瞬、この猫を使って美蘭の鼻でも引っ掻いてやろうかと思ったけれど、今の体勢では即座に反撃されるだけなので我慢した。そしてようやく起き上がると、まだ馴染みのないワンルームマンションを見回す。

 家具や電化製品は何もなくて、ただ寝場所としてマットレスを置き、あとは段ボールが四つとスーツケースが一つ。それから猫のサンドとウツボのケージにトイレ。天井から照らす蛍光灯はやけに青白く、前のマンションからとりあえず持ってきたカーテンは少し丈が長いけれど、これがなければこの部屋はまさに物置だった。

「二人とも、ここで何してるの?」

 僕は一人で寝ていた筈なのだ。桜丸は床に腰をおろすと、「亜蘭ったら、ここに着くなり、じゃあおやすみって寝るんだもの。猫はニャーニャー騒いでて、お腹が空いてるみたいだったから、水と餌をあげたんだ」と説明した。

「それでさ、もう帰ろうかなと思ったんだけど、亜蘭の食べ物もなさそうだし、コンビニで何か買ってこようと出かけたところで美蘭とはちあわせだ。ねえ、こんなとこで猫四匹も飼って、大丈夫なの?」

「猫は二匹だよ。じき飼い主に返す」

「でも美蘭がまた二匹連れてきたよ」

 そこで僕はようやく、美蘭が現れたわけを理解した。

「あいつら、連れてきたんだ」

 姿は見えないけど、キャリーケースは玄関にでも置いてあるんだろう。

「当たり前じゃない。宗市さんに預けたら、玄蘭さんがカラスの餌にしちゃうし。でもあの子たちは、明日すぐ返せばいいから」

「誰が返すの」

「あんたに決まってるじゃん。高い駐車場代払って車おいてるんだから、当然よ」

 僕は思わず怒りにまかせ、ウツボの前足を借りて美蘭の顎に猫パンチをくらわせた。彼女は顔色ひとつ変えず、僕の胸元にエルボーを炸裂させる。桜丸が慌てて「美蘭!」と制止した。

「猫がじゃれただけだろ?どうして亜蘭にそんな事するんだよ」

「あんたには関係ない」

「でも暴力はだめだよ。それよりさ、亜蘭にごはん持ってきたの、食べさせてあげなよ」

「そんなの持ってきてないし」

「だってさっき、あれはカツサンドとサラダだって言ったじゃないか」と、彼は床に置いてある紙バッグを指さした。

「あれは猫の餌」

「猫はサラダなんか食べないだろ?カツサンドは食べる、のかな?でも味が濃いよね」

「猫はそんなの気にしない。でも食べたけりゃあんたが食べれば?」

 美蘭は意味不明な方向にぶち切れ、立ち上がるとウツボを桜丸に向かって放り投げた。

「こんな場所にいたら、馬鹿にあたって気が変になる。じゃあね」

 それだけ言うと、床に丸めてあったコートとバッグを腕にかける。僕は彼女がさっさと出て行くことだけを祈っていたけれど、桜丸は「美蘭」と呼び止めた。

「ずっと言いそびれてたけど、そのセーターよく似合ってる。ピンクの服着たの、初めて見たよ」

 美蘭は一瞬フリーズして、それから何も言わずに大股で廊下へ出ていった。玄関の辺りでガシャガシャと妙な音がしたかと思うと、まずアビシニアンのロブが投げ込まれ、次にロシアンブルーのソフィア、それからややあって、美蘭が着ていたセーターが放り込まれた。そして廊下に続くドアが派手に閉められ、玄関のドアも閉まった。

 投げ込まれた猫たちは難なく着地すると、新しい環境を見回している。サンドとウツボは大急ぎで新入りにごあいさつだ。桜丸は慌てた様子でセーターを拾い、後を追いかけようとドアノブに手をかけたけれど、そこで固まってしまった。

「ほっとけばいいよ。どうせコート着てるんだから」と僕が声をかけると、「そうか、じゃあ大丈夫」と自分に言い聞かせるみたいにして、彼は飛び出して行った。

 でもまあ、美蘭を尾行するなんて玄蘭さんにも簡単じゃない。しばらくすると桜丸はセーターを片手に引き返してきた。

「そんなに遠くに行ってないはずなのに、どこに消えたんだろう」

「マンホールかもね。あるいは塀に上ったか。でもどうせ、美蘭はもう二度とそのセーターは着ないよ」

「まあそんな気はするけど。本当に変わらないなあ」と桜丸は溜息をついた。彼だって判ってるのだ、美蘭は見た目を真剣にほめられるとブチ切れるって事。

 僕らは小さかった頃、誰かに可愛いだとか何とか言われる度に、それを否定する百倍ほどの嫌味と暴力を母親から頂戴したけれど、美蘭のねじれた反応はこの後遺症らしい。ほめられた途端に、次の展開を予想して暴れるというわけ。それを無理に我慢してると具合が悪くなるみたいだ。でも、僕は誰かにほめられるなんて事もないし、あったとしても嘘に決まってるから、彼女のように傍迷惑な真似はせずにすんでいる。

「そのセーター、持って帰れば?それで、好きなこと想像して好きなことすればいいよ」

 僕がそう勧めると、桜丸は外国語を聞いたような顔つきになって、それから目を伏せた。

「亜蘭ってさ、けっこう過激なこと言うね」

「そうかな。男なら皆そんな事考えてるんじゃない?」

「まあ、それは敢えて否定しない」と言いながら、桜丸は美蘭のセーターをたたんで僕の傍に置いた。

「だからって、これを持って帰るわけにはいかないな」

 僕はマットレスに座ったまま桜丸を見上げて、「美蘭のこと、好き?」ときいてみた。彼は少しだけ笑みを浮かべ、「好きだよ」と素直に答えた。

「あんなに狂暴で自分勝手で偏屈なのに?美蘭より優しくて可愛い女の子なら大勢いるだろ?」

「でもそれは美蘭じゃない。僕は全部ひっくるめて美蘭がいいんだ」

「不倫してる彼氏もいるのに?」

「うん。でも時々、彼女も僕のこと好きなんじゃないかって思うことはあるよ」

「え?どんな時?」と、僕はにわかに不安になる。でも彼は「それは言えないな。単なる自己満足だから」と笑うだけで、「僕もう行くよ。明日の予習しなきゃ」と帰ってしまった。

 一人残された僕は、美蘭が置いていった極端に安いギャラ、カツサンドとサラダを食べ、それから明かりを落とすとまた横になった。この調子なら明日の昼前まで眠ってしまいそうだ。

 腕を伸ばすと、さっき桜丸が置いた美蘭のセーターに触れる。何かのってると思ったら、ウツボが寝床にするべく、せっせと前足でならしている。僕はこの猫の嗅覚を借りて、セーターの匂いを確かめてみた。

 見たことないけど確かに存在する花のような、美蘭の匂い。彼女が上品ぶる時に使うスズランのコロン。スタジオは暑かったみたいで、彼女は汗を少しかいた。休憩時間に飲んだコーヒーと、木原さん差し入れのフルーツサンド。メイクした莉夢と、風香と、宗市さんの匂い。そしてさっきこのセーターを腕にかけていた、桜丸の匂い。

 彼だってきっと、僕の見てないところでセーターに顔を埋めてみたに違いない。そして何を想っただろう。僕はあんな風に、自分の気持ちをためらわずに話す彼のことを、何だか恐ろしく感じた。

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