第10話 面白いほど隙がある

「坊主になりやがれ!」

 たしかそんな事を叫びながら、美蘭みらんは守り刀を手に飛びかかってきた。

 完全に不意をつかれた僕をソファに押し倒すと、髪をわしづかみにして刃をあてようとする。かろうじて逃れられたのは、ちょうどキッチンから出てきた桜丸さくらまるのおかげだった。

「美蘭!危ないよ」

 彼は背後から彼女の手首をつかんで動きを封じた。その時初めて彼の存在に気付いた美蘭は、「邪魔するな!」と身体をひねり、一瞬で逃れてしまった。僕はその隙に体勢を立て直して距離をとったけれど、向こうは守り刀をかざしたまま、どう間合いを詰めようかと探っている。桜丸はそんな僕たちを呆れたように見ていたけれど、やはり一番の問題は刃物だと判断したらしくて、また美蘭に近づいた。

「やめなよ。怪我でもしたら大変だ」

「平気よ。髪切るだけだから」

「だったら鋏の方が安全だし、使いやすいと思うよ」

「こっちの方が上等」

 桜丸の言葉に答えながらも、美蘭は右目を閉じ、少しずつ間合いを狭めてくる。冷静にみて、僕は劣勢。向こうは刃物を持っていて、しかも片目だけとはいえ、人間離れした動体視力がある。こういう事のために貸し与えられた眼じゃないはずなのに。

「ねえ美蘭、いまココアいれたところなんだ。冷めないうちに飲んで、それからじゃ駄目かな」

「はあ?」

 根気よく続く桜丸の言葉に、美蘭は閉じていた右目をうっすら開いた。

「二人分あるから、君と亜蘭で飲むといいよ。僕のは今から作るから」

「あんたは先に飲めばいい。亜蘭の分を私がいただく」

 それだけ言うと、美蘭は尚も僕を睨んだまま、守り刀を握っている腕をゆっくりと下ろした。桜丸は大きな溜息をつくと、すぐキッチンに引き返し、湯気をたてているマグカップを二つ運んできた。僕はそれと入れ替わりにキッチンへと逃れる。

「男二人で夜中にココアだなんて、あんたたち変態だね」

「僕たち甘いもの好きだから。ホットチョコレートなら、もっとよかったんだけど」

百合奈ゆりなさんがよく作ってくれたやつ」

「そうそう、ちゃんと憶えててくれたんだ」

 僕はミルクパンにココアパウダーを入れながら、二人の会話に耳を傾けていた。小学生の頃、桜丸の家に「お泊り」で押しかけると、母親の百合奈さんは色んなものをご馳走してくれた。真夏の昼下がりに飲む、きんと冷えたジンジャーエールだとか、秋の庭で食べる焼きたてのマロンパイも素敵だったけど、冬の夜に出されるホットチョコレートは格別だった。僕が今作ってるココアとは違って、とても薄くて細かいスイスチョコレートを温めたミルクで溶かし、更に生クリームを入れたもので、コクがあるのにどこか上品な甘さの飲み物。ほんの少しシナモンを入れるのが百合奈さん流で、僕も美蘭も天を仰ぐようにして、カップに残る最後の一滴まで飲み尽くした。

「それにしても、あんたどうしてここにいるのよ」

 やっぱり甘いものには鎮静作用があるらしくて、美蘭は多少穏やかな声になっていた。

亜蘭あらんが、髪型おかしくないか見てくれって言うからさ」

 桜丸がそう説明しても、美蘭の返事はない。もう十分に判ってることだけど、彼女は怒ってる。僕が彼女の行きつけのサロンで、同じ髪型にカットしてもらったから。スタイリストのコウジさんは「本当にやっちゃっていいのかな」なんて困惑してたけど、いいはずなかったのだ。

「なんだか感動しちゃったよ。あんまり似てるから。でも正直言って、子供の頃ほどじゃないね。顎から首のあたりがやっぱり違うな」

「当たり前でしょ」と、美蘭はようやく口を開いた。

「もしかして、それで怒ってるの?髪型を真似されたから?」

「あいつのムカつくとこは山ほどあるけど、今はそれ」

「でもやっぱり刃物は駄目だよ。ねえ、さっきの刀、見せてくれる?」

 僕はキッチンからそろそろと首を伸ばして、ソファに並んでいる二人の様子を伺った。美蘭は守り刀をもう一度鞘から抜き、無言でテーブルに置く。桜丸は「触ってもいい?」と断りを入れてから、彼には似つかわしくない、どこか恐れを帯びた様子で手に取った。

 冷たい刃に反射した光が僕の目を刺すと、それがどういうものかを思い出さないわけにいかない。美蘭が十八になった日に贈られた、彼女にしか鞘を払えない守り刀。彼女がその役目を引き受けた証となるもの。

「美蘭って変わらないね。小さい頃、いつもポケットにカッターナイフ入れてたのを思い出したよ。外に遊びに行ったりして、知らない男の人なんか傍に来ると、僕の後ろに隠れてカチカチって、ナイフの刃を出してたよね。怖くないぞって言うみたいに」

「そんなこと、したかな」と、美蘭は興味なさそうに言う。

「うん、はっきり憶えてる。ねえ、なんであんなもの持ち歩いてたの?まるで…」

 そこまで言って、桜丸はふいに口をつぐんだ。そしてもう一度守り刀をよく見てから「これは本当にいいものだね」と、鞘に納めて美蘭に返した。

 どうやら美蘭も大人しくなったので、僕はココアの入ったマグカップを片手にキッチンを出て、二人から離れた場所に座ろうとした。それに気づいた美蘭は冷たい声で「廊下の荷物、取ってきな」と言い放つ。

 荷物、ってことは、家出終了か。僕は鬱陶しさと同時に、何だかわからない安堵を抱えて部屋を出た。けれど、そこに置かれていたのは、猫のキャリーケースだった。しかも二つ。中にいたのは駒野こまのさんちの猫、ベージュのサンドとサビ猫ウツボだ。


「亜蘭が猫好きだから、連れて来てあげたんだ。美蘭って優しいね」

 桜丸はそう言って、まさに借りてきた猫状態のサンドを膝にのせた。美蘭は「あんた時々、理解できないこと口走るわね」と言いながら、足元をすり抜けようとしたウツボを抱き上げる。喧嘩してるとはいえ、彼女の意見には僕も同感だった。

 僕は猫なんて別に好きじゃない。単に波長を合わせられるというだけの話。それを言うなら猫好きはむしろ美蘭の方で、げんにウツボをずっと撫でまわしている。

「この子たち借りてくるの、嘘を重ねて大変だったんだから。映画に出すブサカワ猫のオーディションがあるから、このサビ猫を是非、なんてさ。まずは書類審査の写真をスタジオで撮るけど、一匹じゃ心細いだろうからって、二匹お持ち帰り。でも後でアリバイ写真とらなきゃならないし、超面倒くさい」

 文句を言いながらも、美蘭はウツボの肉球をぷにぷにと触り続けている。

「でも、そうやって猫を借りてきたのは、亜蘭のためじゃないの?」

「違うってば。ハロウィンパーティーの仮装に使うのよ。生きてる迷彩マフラー」

 美蘭はそう言うと、ウツボを首に巻きつけてみせた。全く、何をされても猫パンチ一つお見舞いしないぐうたら。でも、喉が渇いてるみたいだから、僕はキッチンに行くと、スープ皿に水を入れてきて床に置いた。これで元気が出て、美蘭に反撃してくれるかもしれない。

 先に、桜丸の脇でだらりと伸びていたサンドが寄ってきて、美蘭の腕を抜け出したウツボもその後に続く。ピンクの舌をせわしなく動かし、涼しげな音をたてながら水を飲んでいる猫たちを見て、桜丸は「亜蘭って、猫の考えてることがちゃんと判るんだよね」と笑顔を浮かべた。

「猫って別に、何も考えてないよ」

 僕はしゃがんで、猫たちの小さくて丸い頭を眺めながら、彼の誤解を訂正した。すると「あんたと同じだね」という声がして、何かが僕の頭に軽く触れたかと思うと、黒っぽいものがふわりと目の前を落ちた。猫たちは即座に反応して前足で押さえようとしたけれど、一瞬で散り散りになる。それは僕の髪の毛だった。

 なんだかその光景が信じられなくて、後頭部に手を伸ばすと、いきなり指が地肌に触れた。慌てて振り向いた僕の目に入ったのは、守り刀を手にした美蘭だ。

「面白いほど隙がある」と、彼女は残忍な笑みを浮かべて目を細め、更にもう一撃加えようと腕を伸ばしてきた。慌てて飛び退いたけれど、ほんの少し遅れてしまい、またしても僕の髪は宙に散った。そこでようやく彼女は目的達成と判断したらしくて、守り刀を鞘に納めると、目を丸くしている桜丸に「眠くなってきたし、帰るわ」と言った。

「帰るって、美蘭、ここは君の家じゃないか。それに猫はどうするの」

「今は住んでない。猫はまた取りに来るから」

 美蘭はバッグを肩にかけると、ほんの一瞬だけ僕の方を見た。

「あのガキといつ、どこで会うつもり?」

「明日、一時にここで」

「もうちょっとマシな場所選べなかったの?」

「女装して外に出たくない」

「あんたさ、本気で私のふりできると思ってるわけ?」

「風邪ひいたってマスクして、首にマフラーでも巻いとけば、たぶん」

 美蘭は能面のような顔つきでしばらく黙っていた。それから「あんたが全くシャレの通じない人間だって事、忘れてた」とだけ言うと、部屋を出ていった。桜丸は慌てて後を追いかけたけど、美蘭は「ついて来ないで」と突っぱねる。

「でも僕、今からコンビニに行かなきゃ。電気代、今日中に払わないと止められる」

「あっそ。貧乏って大変ね」

 そんな会話の後に玄関のドアを閉める音が続いて、辺りは急に静まり返った。


 さすがの僕でも、桜丸がコンビニに行くのにかこつけて、美蘭を送っていったというのは判るけど、あれから一時間近くなるのに、彼はまだ帰ってこない。

 うちのマンションから一番近いコンビニは、歩いて五分ほどの場所にある。その辺りで美蘭がタクシーに乗るのを見送って、それから電気代を払ったとして、どれだけ時間がかかるんだろう。僕は生まれてこの方、自分で電気代やガス代を払ったことがないので、こういう問題は全く見当がつかない。

 もしかすると美蘭がまた気まぐれを起こして、歩いて帰るとか言ってるのかもしれない。それとも、二人でコンビニの中華まんとか食べてるんだろうか。

 僕はソファに深くもたれて、傍のサンドとウツボを見下ろし、どちらかを偵察に出そうかと考え、やっぱり却下する。美蘭に気づかれたら、後で何をされるか判らない。

 まあいいか。美蘭がああやって、莉夢りむに会う時間と場所を確かめたって事は、たぶん来てくれるんだ。僕だって女装せずに済むならすごく助かるし、莉夢も本物の美蘭と猫たちに会えば、きっと納得してくれるだろう。

 安心すると何だか眠くなってきて、僕はそのまま横になると目を閉じた。床に散らばった髪の毛を掃除するのも面倒で、明日どうにかすればいいやと思ってしまう。美蘭が出て行ってからずっとこんな感じで、一度もベッドで寝ていない。それはつまり、僕の縄張りが広くなって、美蘭を警戒する必要がなくなったって事。でも何故だかそんなに深く眠れなくて、ちょっとした物音で簡単に目が覚めてしまう。

 だから僕は桜丸が戻ってきた気配にすぐ気づいて起き上がった。時計を確かめると、出て行ってから一時間と十五分が経過していた。

「やっぱり夜は冷えるね」と、彼は少し肩をすくめて部屋に入ってきた。

「電気代払うのって、けっこう時間かかるんだね」

「ん?ああ、電気代はすぐだけど、タクシーがなかなか来なくてさ」

「美蘭、怒っただろ?待つの大嫌いだから」

「まあ、なんで今日に限って、なんてぶつぶつ言ってたけど。おかげで少し話ができたよ」

「話?」

「彼女が本当に彼氏と別れたのかどうか、確かめた」

 途端に、僕の背筋を冷たいものが走った。

 桜丸がここに来た時、「美蘭は出かけてるの?」なんて言うから、彼女がいきなりブチ切れて家出した事を伝え、その原因は江藤さんにフラれて情緒不安定になったせいだと説明していたのだ。まさか本人に直接確認するなんて、予想もしてなかった。

 このままだと本気で半殺しかもしれない。いや、それより問題なのは、これをきっかけに桜丸と美蘭の距離が近づくことだ。どうしてその可能性を忘れてたんだろう。今更のように、美蘭に言われた「面白いほど隙がある」という言葉がよみがえってくる。

「亜蘭、なんて顔してるんだよ。冗談に決まってるだろ?」

 それまで真顔だった桜丸は、こらえきれないように笑いだすと、僕の肩を軽くたたいた。

「ああ、今の冗談なんだ」

「君って素直だからね。時々からかいたくなる。女の子に面と向かってそんなこと聞けるわけないよ。美蘭とは別に大した話はしてない。猫のこととかね。それにしても、今夜は星が怖いくらいよく見えた。長野にいた時を思い出したよ」

 桜丸はパーカーのポケットから猫缶を次々に取り出すと、コーヒーテーブルに置いた。全部で四つある。

「これ、美蘭から。渡すの忘れてたって。君たち、こんなに猫が好きなら、飼えばいいのに。そしたら喧嘩もしなくなるよ」

「嫌だよ。生き物の世話なんか面倒くさい」

 僕がそう答えると、桜丸は「美蘭と同じこと言ってる」と、声をあげて笑った。それから僕の顔をじっと見て、「その髪、どうするつもり?」と尋ねた。

「そんなにまずいかな」

 僕はようやく、洗面所に行って鏡をのぞいてみた。右耳の少し後ろあたりの一角が、地肌が見えるほど大胆に刈り取られていて、アシンメトリーなんて表現ではごまかせない違和感を出している。一緒についてきた桜丸は鏡の向こうから「多分、だけど、それを自分で何とかしようとすればするほど、選択肢はなくなっていくだろうね」と、あきらめ顔で言った。

「つまり?」

「最終的には坊主ってこと。美蘭が言ってたみたいに」

「ありえない」

「だからさ、早いとこプロに任せた方がいいよ。髪なんてすぐ伸びる」

 桜丸は慰めたつもりらしかったけど、僕はなんだか気が滅入ってしまった。小さい頃は当然のように美蘭と同じ髪型だったし、中学に上がっても何となくそのままだったのが、ある日突然「髪型マネするのやめろ」と言われたのだ。でも彼女自身に髪を伸ばすという意思はなくて、仕方ないから僕が伸ばすことになった。

 校則で髪型をどうこう言うような学校じゃないから、そこは問題なかったけど、授業中に居眠りなんかしてると、三つ編みにされてリボンまで結ばれた。おまけにそれが美蘭の指図だったりするから腹が立つ。そんな悪戯にも美蘭が飽きた頃、僕もようやく襟元まで伸ばした髪に慣れたのに。

 よく考えたら、僕らの緩く波打った、色の浅い髪は母親譲りだ。彼女はいつも取り巻き連中に「火積ほづみさんの髪って、ゴージャスでお姫様みたいね」なんておだてられていたけれど、背中まである髪を束ねもせずに垂らすのがお決まりのスタイルだった。仲間うちでパーティーなんかある時には、丁寧に編み込んでティアラやなんかをつけたりしていたけれど、作業はもちろん人任せだった。彼女は自分の手で髪にブラシひとつあてた事がないし、シャンプーもブローも「腕が疲れちゃう」と、拒否していた。

 そこまで投げやりなのに、彼女は髪の美しさを自慢にしていたみたいで、周囲の気を引こうとする時には、必ず髪を一束手にとって、指で繰り返し梳きながら「ねえねえ、カズトくんたら私のこと、男の運命を狂わせそうなタイプって言うのよ」などと声を張り上げていた。それは僕と美蘭に「あんたたちなんか大嫌い」と繰り返す時の低く鋭い声とは違う、甘ったるく甲高いものだった。

 もうずいぶん長いこと彼女に会ってないけど、今もあんな風に髪を伸ばしてるんだろうか。彼女は自分が最高に美しかった瞬間は、僕らを孕んでしまう直前で、望まない妊娠と出産が全てを台無しにしたと固く信じていた。だからだろうか、彼女の髪型もファッションも、僕の記憶にある限り常に同じパターンで、それはつまり、十八歳の自分を永久保存したものだった。

 いくら面倒くさがりとはいえ、僕らの母親も年齢だけは律儀に積み重ねている筈だから、今は三十代後半ということになる。同級生の母親なんかで、娘と同じファッションをきめてる人もいるけど、まあ何をどうしたって十代と三十代は同じじゃない。そして、こんな風にうっかり母親のことを思い出してしまうと、頭をよぎる疑問がある。あの人、いまだにあんな感じだろうか。

 もちろん僕には確信がある。今から十年たっても二十年たっても、彼女はあのテンプレートに納まったまま、年齢だけを重ねていくだろう。僕はその事について何も思わない。だってもう、二度と会うことはないだろうから。

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