第8話 エレベータの鴉

 美蘭みらんが出かけてゆく。

 昨夜のことなんてまるでなかったみたいに、いつも通りシリアルに牛乳をぶっかけて平らげ、オレンジジュースを飲んでから制服に着替え、ろくに教科書も入ってなさそうな鞄を肩にかけて。

「あのさ」と、まだ顔も洗ってない僕は、彼女が消える前に話だけはしようと呼びとめた。

「何?休むんだったら自分で電話してね」

「行くよ。たぶん二限目から」

「そりゃ結構」

「あのさ、昨日なんだけど、学校出たとこで、あの子が待ってたんだ。閉じ込められてた女の子」

 僕に背中を向けていた美蘭は、一瞬動きを止め、それから振り返った。

「ちゃんと追っ払った?」

「ていうか、直接ブラウス返したいらしくて。あと、サンドとウツボにも会いたいって」

「無理。私は車にぶつかって死んだことにしといて。サンドとウツボは三味線にされた。あの子、誰かにしゃべったんでしょ?」

「誰にも言ってないって。学校をみつけたのは、襟の刺繍で校章を調べたらしいよ」

「ガキが一人でそんな事できるわけないじゃない。とにかく、私もう死んでるから」

「でも、美蘭に会いたいみたい」

「だったらあんたが髪切ってスカート履けば?どうせ子供なんだから判んないわよ。ちょっと風邪ひいて声かれちゃった、なんてね。クリーニングに出してくれるなら、これ貸してあげる」

 美蘭はスカートの裾をつまんでぴらぴらさせてから、身体を反転させると玄関に向かい、ドアを開けて廊下へ出た。僕は裸足のまま後を追って「髪切るの、嫌なんだけど」と食い下がった。美蘭は全く無視してエレベータのボタンを押し、鞄からスマホを取り出すと別世界に逃げる。

「ねえ、聞いてる?」と、僕が無駄な試みをしたところで、エレベータのドアが開いた。急いで乗り込もうとする美蘭を跳ね返すように、中から飛び出してきたのは鴉だった。

「うっわ!」と叫んで、美蘭は思い切り背を反らせて避けたけれど、逃げ遅れた僕はその黒い翼でしたたかに頬を打たれた。鴉はそのまま玄関から部屋へと飛び込み、僕と美蘭は一瞬顔を見合わせてから、後に続いた。

「あんた達、またこそこそと下らない事に関わってるね」

 リビングまで飛んで、ソファの背にとまった鴉は、脅すように胸をはったままで嘴を開いた。美蘭は「この馬鹿がね」と僕を小突いたけれど、鴉はそれを無視して「ちょっと顔をお出し」と言った。

「私、これから学校なんだけど」

「ろくすっぽ通いもせずに、よくお言いだ。とにかく、今日のうちに来ること」

 それだけ言って鴉が翼を広げたので、僕は急いでベランダの窓を開けた。鴉はソファの背からベランダへ、更にその手摺へと飛び移ると、羽ばたきもせず、黒いグライダーのように秋の空を滑っていった。


「何もかもあんたのせいだ」と不機嫌な美蘭を助手席に乗せ、僕は黙って車を運転した。朝も結局、「あんたのせいで遅刻する」とか言って送らされたし、放課後になればなったで、「白梅庵で期間限定の和栗パフェ食べてから」とか何とかで待たされたし。行きたくないのはこっちも同じだけれど、逃げられる相手じゃないんだから仕方ない。

 坂と曲がり角がやたらと多くて、同じ場所を何度も回っているような気さえする細い道。何の商売をやってるのか判然としない古いビルだとか、蔦が絡まり過ぎて謎の生き物に見えるお屋敷だとか。空襲で焼けずにすんだおかげで、そんな建物ばかり残っている一角に「四番館」はある。

 長方形の中庭をぐるりと囲んだ二階建ての洋館で、八世帯が入れるアパートメント。西北の角だけが三階建てに屋根裏のある、少し広いつくりになっていて、鴉を使って僕らを呼び出したのは、そこの住人だった。

 前庭にある訪問者用の駐車場に車を停め、僕と美蘭は重い木のドアを押して建物に入った。薄暗いホールの正面にある階段を上り、中庭に面した回廊を歩く。睡蓮の枯れた茎がのぞく細長い池は、空の色を映して青く静まり、金色の実をたわわにつけた夏蜜柑は午後の風に揺れている。その穏やかな光景とは無縁に、僕の気持ちはざわついていた。

 僕は廊下の一番奥にある部屋の前に立つと、ドアをノックした。「呼び出し」のある時には鍵はかかっていないので、返事は待たずに中へと入る。後には美蘭が続き、ドアが閉まると同時に外の明るい世界は異次元へと遠ざかる。いつもブラインドの降りている薄暗い部屋には、天井から色んな薬草の束がぶら下げられていて、僕らは頭を低くしてそれを避けながら次の間に入る。そこもやっぱり薄暗くて、窓を背にしたソファに座っているこの部屋の主の表情はよく見えなかった。まあどうせ仏頂面に違いない。いつだってそうなんだから。

「遅かったね」

 大声というわけでもないのに、やたらとよく通る声。何も言えずにいる僕の代わりに、美蘭が「勉強大好きだから、ついつい頑張っちゃって」と答えた。

「そういうご挨拶はいらないよ」という返事を頂戴して、僕らはいつもの席に腰を下ろす。美蘭が布張りの椅子で、僕が三脚のスツール。「元気そうじゃん」と美蘭が声をかけると、「とんでもない。あんたらのおかげで、寿命が縮みっぱなしだ」と即座に反撃される。

 この部屋の主、玄蘭げんらんさんは僕らの親戚だ。といっても血縁が入り乱れているので、どういう関係にあたるのかは知らない。この人は若い頃に貧乏くじをひいたせいで、自堕落なこと極まりない夜久野やくの一族の世話役を引き受けている。性別はたぶん男だけど、男と女のひねくれて意地悪いところだけ抽出したような性分で、おばさんめいたおじさんと、男っぽいの女の人を足して割ったような顔立ちをしている。年は六十前後だと思うけど、「あんたらのせいで老けた」が口癖だから、もう少し若いのかもしれない。その年齢の割に黒々とした長い髪を後ろで束ねていて、いつも黒ずくめの格好をしている。

 ソファの前のコーヒーテーブルには、「はばたけ!紅ピルエット!」というアイドル研究本が置いてあるけど、この人はいい年してミーハーのアイドル狂いであることを隠そうともしない。全国各地、どんなレベルのアイドルでも、ほぼ百パーセント顔と名前を一致させられるんだから、本当にどうかしてると思う。

 玄蘭さんは大義そうに、テーブルに転がっている煙草のパッケージから一本取り出し、ライターで火をつけた。傍にある年季の入った灰皿は、パリの有名なカフェでくすねたらしいけど、吸殻が十本ほど溜まっている。

闇ルートで調達している、オーダーメイドのブレンドだという煙草は、ほんの少し甘ったるいシナモンのような香りを漂わせ、それに誘われたかのように銀のトレーを捧げ持った宗市そういちさんが部屋に入ってきた。

「美蘭、亜蘭あらん、ようこそいらっしゃい」

 彼はいつも通り丁寧な物腰でテーブルに食器を並べ、ポットからお茶を注ぐ。僕らが小さい頃、初めてここに来た時から、彼はまるで変ってない感じで、少しお人好しの度が過ぎる三十代のホテルマン、という印象だ。玄蘭さんによると「住み込みの使用人」らしいけど、僕らもこの年になると、その説明を丸呑みするほど素直じゃない。

「花梨のジャム持って帰る?」と彼に聞かれて、美蘭は「もちろん。今年も作ったんだ」と、今日初めての笑顔を浮かべた。

「毎年のことだから、やらないと落ち着かないんだよね。こんど柚子でママレードを作るよ」

「でも、そう何度もここに来たくはないのよね」と美蘭が返すと、玄蘭さんは「こっちもお断りだよ」と噛みついた。宗市さんは僕らにだけ見えるようにウインクすると部屋を出て行って、後にはまた重苦しい空気がたちこめる。

「まず亜蘭」と言って、玄蘭さんは煙草の灰を落とした。

「小学生のガキを相手に何を手間取ってる。尻尾までつかまれて」

「でも、学校を知られたのは、美蘭がブラウスを貸したからだ」と、僕が釈明した途端、美蘭が「責任転嫁かよ」とこちらを睨む。

「あんたが美蘭をそそのかしたんだろう?自分の言う事なら聞いてもらえるって、相変わらずの甘えた小僧が」

「私はこいつの言う事なんかきかないわよ」

「よくお言いだ。とにかく、あの子は切ること。美蘭、あんたもうとっくに調べたんだろう?」

 言われて美蘭は腕を組み、椅子に深くもたれた。

「名前は安西あんざい莉夢りむ。十歳。生まれたのは千葉。三歳の時に両親は離婚。父親は再婚してて、莉夢たちとは没交渉。母親の安西早苗さなえは東京に移って再婚したけど、五年ほどでまた別れた。今は前田まえだ俊明としあきって男と住んでるけど、彼の離婚が成立してないので、籍は入ってない。でも半年前に大輝だいきって名前の男の子が生まれてる。

 この赤ん坊に手がかかるって理由で、母親は三か月ほど前、友達に莉夢を預けた。仲間内じゃ「ルネさん」って呼ばれてる、今宮いまみや知子ともこという女。彼女は親が残した一戸建てに住んでて、内装関連の会社で事務をしてる。給料はイマイチらしくて、莉夢の動画をネットで配信したり、彼女に着せた水着を売ったりして小遣いを稼いでた。まあそれなりにうまく回ってたのよ。大人の都合だけで言えば」

「つまり、あんたらは余計な事に首を突っ込んだってわけだ」

「亜蘭はそう思わなかったみたいだけど」

 美蘭の視線が僕を刺す。

「莉夢はたしかに警察に保護されたけど、母親がルネさんを庇ったから、事件として扱われなかった。動画サイトの事はばれなかったし、彼女が水着を着てたのも、子供が勝手にやった事、で済んだみたいね。判りたくない事は、受け入れやすい解釈で片づけるっていうのが、一番楽な方法だもの。

 でもまあ、莉夢がお荷物だって事に変わりはなくて、母親は彼女を二人目の元旦那の家族に預けた。旦那とはうまくいかなかったけど、こっちとの関係は悪くなかったみたい。莉夢から見れば、元義理の祖母と伯母ね。でもお祖母さんはパートで収入が不安定だし、その娘、かっちゃんと呼ばれてる女の人は病気やなんかで働けずにいるから、生活はぎりぎり。このままいくと莉夢はまた母親に返されて、ルネさんに預けられる。ふりだしに戻るって奴よ」

「なるほど」

軽く頷いてから、玄蘭さんは僕の方を向いた。

「判ったかい?あんたが何を思ったのか知らないけど、あの子を助け出そうなんて、とんだ無駄骨だったって事さ。あの子もあと何年か、ネットできわどい格好を晒し続けて食いつなげば、自分で稼げるぐらいにはなれるさ。勿論、ロクな仕事はないだろうけど、そんなのは知ったこっちゃない」

 僕は何も言い返せずに座っていた。自分がすごく間抜けで、とんだ独り相撲をとってたような気分にさせられて。

「あんたもいい加減、弟の言うことを何でもきいてやる癖をどうにかするんだね。そのためにわざわざ、カムチャツカくんだりまで行ったんじゃないのかい」

 こんどは美蘭を睨むと、玄蘭さんは深々と煙草を吸い込んだ。僕がこの人の精神状態を疑うのはこういう時だ。美蘭が僕の言うことを何でもきくだなんて、どこの世界の話だ。美蘭も憮然とした顔つきで「だから、こいつの言うことなんかきいてないし」と言い返した。

「カムチャツカに行ったのは単なる遊び。趣味で高山植物の写真撮ってるから」

「全くこのヘソ曲がりが。あんた達を育てるのにどれだけ無駄金使ったか判ってるのかい?あれやこれやの面倒を起こして、そのたびに尻拭い。ただでさえ子供なんか大嫌いだってのにもう」

 言いながらも、かつて僕と美蘭がやらかした色んな事の記憶がよみがえってきたのか、玄蘭さんは段々とヒートアップしてきた。美蘭は感情のこもらない声で「ごめんなさーい」と謝り、「けど、文句は産んだ人に言ってくれる?」と突っぱねた。

火積ほづみがそれを理解するような女なら、こっちも苦労なんかしないんだよ。けどまあ、あんたもそろそろ用心した方がいいね。あの子がうっかり孕んじゃったのは十八の時だし。うちの連中はさかりがつくと手におえないからねえ」

「私をあのイカれた女と同じにしないでくれる?」

 元はといえば自分で誘発した話題だけれど、美蘭は母親と少しでも重ねられると本気で怒り狂う。今だってきっと、全身総毛立ってるはずだ。玄蘭さんはわざとらしく口角を上げ、「これは失礼いたしましたこと」と笑ってみせた。

「とにかく、あのガキが誰かに何か言いふらす前に、さっさと片をつけること。いいね」

 玄蘭さんは灰皿に煙草を押しつけて火を消すと、もう一本取り出して「あと、美蘭」と呼びかけた。

「あの誰だっけ、同級生の、桃太郎?」と言いながら、煙草を咥えて火をつける。美蘭はぶっきらぼうに「桜丸さくらまる」と訂正して、足を組んだ。

「そう、その桜丸の父親がどこにいるのか探ってるみたいだけど、あんた本当に暇人だね」

「別に暇ってわけじゃないわ」

「じゃあ何。感動のご対面を演出して、感謝されたいわけ?」

「違う。ただちょっと、金になりそうだったから」

「へーえ、誰が払ってくれるんだい?」

 玄蘭さんは面白そうに身を乗り出した。僕もつい、この奇妙な話に耳を傾ける。

「桜丸の母親と再婚した弁護士に払わせる。まあ要するに、再婚話じたいがこの弁護士先生の計画みたいなの。まずは桜丸の父親の会社を潰して、債務逃れのために離婚させて、偶然よろしく母親を口説いて、息子は放り出してはいご結婚」

「証拠は?」

「集めてる途中」

「そこまでして手に入れるほど、いい女なの?」

「まあね。二人は元々、学生時代に接点があったらしいわ。それが、ボランティアがらみのパーティーで再会したみたい。そこで弁護士先生が一念発起したのね」

「母親もグルだった可能性は?」

「彼女は、そういう人じゃない」

 美蘭が否定した途端、玄蘭さんはあからさまに哄笑した。

「あんた、世間じゃどれだけの犯罪者が後になって、まさかあの人が、って言われてるか知ってるだろう?平和ボケは命取りだよ」

 ほんの一瞬、当惑した表情を浮かべてから、美蘭は「まあ、グルだったとしてもさ、実行したのは弁護士先生だし、息子と父親サイドから強請ればけっこう搾り取れるはずよ」と反論した。

 玄蘭さんはしばらく黙っていたけれど、一度大きく煙草を吸い込むと「止めた方がいいね」と言った。

「何かしくじったら、尻拭いをするのは私だ。面倒くさいったらない。そんな道楽をするつもりなら、まず本業を継いでからにするんだね」

 本業、というのは、玄蘭さんがやっている、一族の世話人という役目だ。僕のせいで美蘭は彼の後継者に決められて、二十歳になったら正式に後を継ぐことになっている。彼女は何か言いたそうだったけれど、「本当は十八のところを、二十まで待ってやってるんだ。有難く思ってもらわなきゃ」という玄蘭さんの言葉に、小さな溜息で返した。

「全く、子供なんて死ぬほどうんざりさ。図体ばっかり筍みたいに大きくなって、頭の中は相変わらずの遊園地。下らない事を次から次へと思いついては、遊び回ってる」

 美蘭はまたしても「すいませーん」と、抑揚のない謝罪を繰り返してから「もういいかな」と尋ねた。玄蘭さんの「判ったなら、さっさと消え失せな」という返事が終わらない内に、彼女は立ち上がってキッチンへと逃げ出し、僕もその後に続いた。


「宗市さん、何か食べるものない?」

 いつだってこの古いアパートに呼び出しを食らえば、僕らは最後にこう言いながらキッチンを訪れることになる。夕食に使うらしい野菜の下ごしらえをしていた宗市さんは手を休めると、「黒豆入りのパン焼いたの、温めてあげようか?」と尋ねた。美蘭は早くも作業台代わりの小さなテーブルに陣取って、「チーズのせてほしいな。コンテの、薄く切ったの」とリクエストしている。

「亜蘭はどうするの?」と、宗市さんは僕のことも忘れない。

「蜂蜜塗って食べたい」

「了解」と返事があって、彼は戸棚からパンを取り出し、長いナイフで切ってくれる。

「本当はアップルパイ焼いてあげようと思ったんだけど、玄蘭さんに怒られてさ」

「金食い虫にやる餌なんかないよ、って?」

「まあそんなとこ。でも、夕飯食べていかない?」

「いらない。玄蘭さんがいると食事がまずくなる。あっちもそう思ってるだろうし」

 美蘭がそう答えると、宗市さんは困ったような笑顔を浮かべた。この人はいつまでたっても、玄蘭さんの哲学に染まるという事ができなくて、僕らを普通の子供みたいに扱おうとしては、「とんでもない悪ガキなんだから、構うんじゃないよ」と怒られている。

 宗市さんは温めた黒豆のパンに添えて、豆皿に入れた栗の蜜を出してくれた。僕が食べ始める前に、美蘭はもう人差し指を蜜に突っ込んで舐めている。宗市さんは「美蘭」とたしなめるけれど、もちろん気にするそぶりもない。新しく淹れてもらった紅茶を飲みながら、彼女は「玄蘭さん、松江なんか行ってたんだ」と、テーブルに置かれていた、和菓子屋の紙バッグを手に取った。

「ああ、先週ね。不動産の仕事とかあったらしいよ」

「そういう時こそ連絡してよ。ごはん食べに来るから」

「わかった。でもあの人、本当に突然出かけるからね。どこ行くかも言わないし、いつ帰るかも秘密で、全部事後連絡」と、宗市さんは困ったように笑った。

「私たちのこと、いまだに相当警戒してるのね」と、美蘭は愉快そうに笑い、手にしていたパンでまた僕の蜂蜜をさらった。

 そう、小学校時代の僕らは、玄蘭さんがいない隙を狙ってはここに上がり込んでいた。それはつまり、宗市さんのガードが甘すぎたわけで、僕らは玄蘭さんがあちこちから取り寄せた美食の数々を大胆にむさぼり食い、宗市さんのベッドを占領して寝た。僕に至ってはそこでおねしょまでしたんだけど、一緒に寝ていた美蘭は本気でブチ切れて、僕の髪を一束まとめて引き抜いたのに、本来の被害者である宗市さんは何故か「やっちゃったねえ」と笑っていた。

 もちろん玄蘭さんが僕らの襲来に気づかない筈はなく、でも宗市さんがそれを拒絶できないのも事実で、結局のところ宗市さんに情報遮断をして、僕らを締め出すのに成功したのだ。


 宗市さんがつくった花梨のジャムと、アップルパイになり損ねた紅玉を貰って、僕らがアパートを出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。とりあえず車を走らせ、迷路のような街並みを抜け出したところで、僕は気になっていた事を尋ねた。

「あの、桜丸の話だけど」

「何よ」と、助手席の美蘭はスマホを触っている。

「あれ本当なの?お母さんの再婚相手の話」

「まあね。ほぼ間違いないよ」

 玄蘭さんの仕事を継ぐ予定だから、美蘭は彼の情報源と顔なじみだし、それ以外にも何人か、私立探偵めいた人間とやりとりがある。莉夢の情報もその辺りから仕入れてもきたんだろう。

「桜丸もそう言ってる?」

「まさか。あいつ単純だから、騙されたに決まってる。他人から見たら変な話だもの」

「でも僕も、変だと思わなかった」

「あんた馬鹿だもん」

 明快な答えが返ってきて、僕はとりあえず納得する。

「お父さん…亮輔りょうすけさん、どこにいるか判ったの?」

「それらしき人がいる、ってところまではね。しばらく泳がせとくかな」

「桜丸に教えてあげたら?」

「それでどうするの?一円の金にもならないわよ。あいつ、ただでさえ貧乏学生なのに、お父さま探しに行く、なんて言い出したらどうすんの」

 美蘭はそれだけ言うと、スマホを鞄に放り込んだ。

「あんたってすぐそういう、考えなしの方向に流れるよね。おかげで今日も呼び出し食らったし。お詫びに寿司でもおごってもらおうか。ちゃんとしたカウンターの奴」

「なんでそうなるんだよ。僕一人のせいじゃないし、桜丸の事は関係ないし」

「問題なのはあの莉夢ってガキだけよ。桜丸の事はまだ何も動いてない」

「でも、あの子に見つけられた原因は美蘭のブラウスじゃないか」

「だからそれが責任転嫁だって言うのよ。そもそもあんたが猫だけ回収すればよかったものを、腰砕けになったくせに。自分がしくじったのを、よくそれだけ人のせいにできるね」

 たたみかけるように美蘭に言いつのられると腹が立ってきて、僕の運転はそれに比例して荒くなった。

「ちょっと!警察のお世話になりたいわけ?」

「うるさいな」

「さっさと自分の負けを認めて寿司屋に行きな。いい店検索してあげようか?」

「うるさい!寿司が食べたいなら、江藤さんに奢ってもらえばいいだろ!」

「はあ?」

「でも、やっぱり無理かな。昨日のあれ、フラれて帰ってきたんだろ?それとも奥さんから電話があって、車から降ろされちゃった?どっちにしろ、ご愁傷様。本当にみじめでお気の毒。でも、だからってあんな風に、僕が寝てるとこ邪魔しないでほしいんだよね。もういい加減、小学生みたいな真似するのやめて、大人になってくれない?」

 自分を誉めたくなるほど、すらすらと気持ちよく反撃できてしまった。美蘭はほんの一瞬押し黙って、それから低い声で「ここで降りる」と言った。

「え?」

「ここで降りるってんだよ馬鹿!早く停めろ!」

 言うが早いか彼女は腕を伸ばしてきて、クラクションを押しまくった。僕は慌ててそれを払いのけると、車を脇に寄せた。サイドブレーキも引かない内にドアを開けて外に出ると、彼女はあっという間に夜の街へ姿を消してしまった。

 行き交う人の「何やってんだ」という視線をやり過ごして、僕は静かに車を発進させた。別に何も心配するほどの事はない。もしここが人里離れた山奥の峠道でも、美蘭は平然と生還してくるんだから。

 何気なく目をやった後部座席には、宗市さんにもらった花梨のジャムと紅玉の入ったペーパーバッグが置かれている。いつも僕らが派手な喧嘩をすると、宗市さんは「きみたち、仲良しだから一緒に生まれてきたんだろ?」と宥めたけど、決してそういうわけじゃないのだ。でも、どういうわけなのか、それは僕にもよくわからない。

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