1章 “チカラ”

回想 - ヒント - 1 やさしいということ


「あーあ、ほんと嫌になっちゃう」


 そう言って、佳代子さんは池にぽちゃりと石を投げ込んだ。

 僕はそれを横目に、佳代子さんに聞こえるか聞こえないかくらいの声でつぶやく。


「危ないよ」


 耳ざとくそのつぶやきを聞き取って、佳代子さんは僕の方に視線をやった。


「危ないって?」


 心底不思議そうに、佳代子さんは僕に尋ねた。


「石を投げるのが危ないってこと?」

「そう」

「でも誰もいないし」


 佳代子さんは大げさに辺りを見回して、肩をすくめてみせる。

 そんなことをしなくても、夕暮れ近くの川岸にそうそう人も通りかからないだろう。


「そうじゃなくて」


 僕は足元に転がる小さな石を拾い上げて、佳代子さんの方に放り投げる素振りを見せた。

 佳代子さんは反射的に顔を伏せて、びっくりとしたように肩を震わせる。

 僕はその反応に大変満足して、少し意地悪い笑みを浮かべながら投げずに手の中にあった石をぱっと手放した。


「びっ……くりしたぁ。なんだよ」

「石、投げられたら怖いでしょ」


 僕の言葉に訝しげな表情をしながらも、佳代子さんはゆっくりと頷いた。


「そりゃ、急に投げられたらね」

「当たったら痛いでしょ」

「そりゃ、石が当たったらね」


 なんの問答だこれは、と佳代子さんが眉根にしわを寄せ始めたころに、僕は話の核心を言葉にした。


「水の中の生き物に当たったら、危ないと思って」


 僕が言うと、佳代子さんは一瞬きょとんとした後に、小さく失笑した。


「こんな汚い川に生き物なんている?」

「いるかもしれないよ。こんな排気ガスまみれの街に人間が住んでいるくらいだし」

「あ、それ言えてる」


 佳代子さんはけらけらと笑って、その笑いを落ち着けるように溜め息をつく。


「結弦くんさぁ、ほんと優しいよね」

「え、なんで」


 佳代子さんの言葉に、僕は頭の上にクエスチョンマークを浮かべた。

 何か佳代子さんに対して優しい言葉をかけてやった覚えはない。


「だって水の中の生き物に石が当たったとして、痛いのは結弦くんじゃないでしょ?」

「それはそうだね」

「なのにわざわざ注意するってことはさ、その生き物が感じる痛みを想像したってことだと思うんだよね」

「そんな大げさな」


 なんとなく言っただけだ、と僕は首を横に振った。

 水の中の生き物の気持ちなど考えたこともない。

 僕を横目で見て、佳代子さんは何かを含むような笑みを浮かべた。


「大げさじゃないよ。私は今、この川の中に生き物がいるなんて発想は一切持ってなかったわけ。でも結弦くんはこの川の中の生き物を想像して、私の行動に注意した」


 佳代子さんは小石を拾い上げて、ぽんぽんと掌の上で弄んだ。

 僕は佳代子さんの少し楽しそうな横顔を見て、かがんだままくの字に曲げた膝の上に頬杖をついた。


「それと、僕が優しいっていうのに何の関係が?」


 尋ねると、佳代子はいじくっていた石をぐっと握って、静かに言った。


「優しい人、っていうのはね。想像力のある人のことだと思うんだ」


 胸がズキリと痛む。

 佳代子さんの目に、ひとしずくの哀愁が映ったのに気が付いてしまったからだ。

 でも僕は、何も言うことはできない。

 ただ、困ったように、彼女の横顔から目を逸らす。

 佳代子さんはいつも楽しそうに振舞って、そのくせ、時折その胸に秘めた悲しみをちらつかせていた。

 僕はそれに気付きながらも、彼女に何も訊けずにいた。

 それを訊ねることが彼女のためになることなのか、分からなかったのだ。


「ほら、そうやって」


 佳代子さんの言葉で、僕はハッと思考の渦から引き戻される。


「また、他人のことを考えてる」


 思考を覗き込むような佳代子さんの言葉と視線に、僕はむず痒い気分になり、佳代子さんから顔を逸らした。


「考えてないよ、別に」

「ふうん、そ~お?」


 可笑しそうに佳代子さんは笑って、手に持っていた石をその辺に放った。

 そして、川の水をまじまじと見つめて、つぶやく。


「でもさ、絶対川の中の生き物は結弦くんの気持ちなんて考えてないよね」

「なんだそりゃ」

「結弦くんの気持ちを考えてない生き物のことを、結弦くんは気遣ってあげてるわけだ」

「別に生き物に対して見返りなんて求めてないよ。みみっちい」


 呆れて言うと、佳代子さんは噴き出して、可笑しそうに手を叩いた。


「やっぱり優しいんだ!」

「だからどこが……」


 けらけらと笑う彼女を見ながら、僕はどこか冷めた気持ちで川の中を思った。

 そこに住む生き物は、佳代子さんの投げた小石に驚いただろうか。

 考えて、馬鹿馬鹿しくなった。

 実際に驚いたかどうかなど誰にも分からない。

 僕は漠然と、「危ないかもなぁ」と思っただけだった。

 そこに、その生き物に対する優しさなど一切介在していない。

 佳代子さんが僕を優しいという理由も、彼女がけらけらと笑っている理由も、僕には理解できなかった。


「じゃあさ、投げられた小石はどんな気持ちなのか、分かる」

「分かんないよそんなの」

「あはは、小石には厳しいんだ」


 佳代子さんは本当に可笑しそうに、楽しそうに、声を出して笑っていた。

 彼女の楽しそうな声を聞きながら、僕はぼんやりと考える。

 小石はきっと嬉しがっているのではないだろうか。

 美しい佳代子さんに弄ばれて、投げられて。

 少し考えて、僕は一人で頬を熱くした。

 僕の目には、どんなことをしている佳代子さんも美しく映った。

 この世で最も美しい存在が、今そこにいる佳代子さんだと本気で思えるのだ。

 佳代子さんに投げられるのならば、小石になるのも悪くない、と思った。


「考え事?」

「うわ!」


 気付くと、目の前に佳代子さんの顔があって、僕は飛び跳ねるようにして尻餅をついてしまう。


「あはは、なにしてんの」


 佳代子さんはくすっと笑って、間抜けに尻をついている僕に手を伸ばした。

 僕は少し照れ気味にその手を握って、立ち上がる。


「何考えてたの」

「別に」


 あのような変態に片足を突っ込んだような妄想をしていたとは死んでも言えまい。

 僕が佳代子さんから目を逸らすと、彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「当てよっか」


 佳代子さんがじっと僕の目を見る。

 彼女の瞳に映る、自分が見えた。


「私のことでしょ」


 心臓が、ドキリと跳ねた。










結弦は妙な胸の高鳴りを覚えながら起床した。

何か、夢を見ていたような気がする。

胸に手を当てると、明らかに心拍数が上がっている。

悪夢でも見たか。

しかし、冷や汗をかいてはいない。

むしろ何か淫夢を見た後のようなむず痒さが胸中にあった。


「……起きるか」


布団から出て、洗面所で顔を洗う。

その動作の過程で、じわじわと自分の意識が覚醒していくのを結弦は感じた。

夢を見ていた、という感覚も徐々に薄れてきて、意識が自分の生活へと向いてくる。

朝食を作ろう。

そう考えて、台所にもたもたと歩いてゆく。

フライパンをコンロの上に起き、油を垂らす。コンロに火をかけ、フライパンを熱した。

卵を取り出し、小さな容器に割って入れる。

箸を突き立てて、卵をかき混ぜると、白身と黄身が混ざり、どんどんと黄色い液体へと変わってゆく。

その様子を見ながら、結弦はぼんやりと思考を巡らせた。

卵の白身と黄身に独立した思考があったなら、今この二つをかき混ぜている間は、どんな状況なのだろうか。

二つの意識がごちゃまぜになって、一つの意識に融合してゆくのだろうか。

もしくは、白身と黄身のどちらかの意識が、もう片方を包み込むように支配してしまうのだろうか。

どちらにしても、何か申し訳ないことをしているような気分になってきた。

結弦はいつもよりも丁寧に卵をかき混ぜ、フライパンにジュワと垂らしていく。

すぐに箸でフライパンの上の卵をかき混ぜて、固まり切らないうちに火を止める。

スクランブルエッグの出来上がりだ。


「さっきまでただの球体だったものがこんな美味そうな朝飯に変わるんだもんなぁ」


結弦は呟いて、フライパンの上のスクランブルエッグを平たい皿に盛りつけた。


「……待てよ」


スクランブルエッグを盛りつけたその時、結弦の頭にふと浮かんだのは、先日の『財布ワープ事件』のことだった。


「卵を割り、かき混ぜ、フライパンで焼いた。そうしたらスクランブルエッグになった」


結弦は確認するように、呟いた。


「目玉焼きでもなくて、卵焼きでもなくて、スクランブルエッグになった」


それは、事前に卵をかき混ぜて、フライパンの上でも休ませることなくかき混ぜたからだ。

事前にかき混ぜなければ目玉焼きになることもできたし、フライパンの上でかき混ぜなければ卵焼きになったかもしれない。


「結果じゃない。過程だ」


結弦の思考は先日の財布の大移動に向かう。

結果から見れば、財布は自分たちの教室から食堂へ『ワープした』と言える。

しかし、本当はそうではなかったのかもしれない。

運ばれたのかもしれないし、自立して移動したのかもしれない。

結果だけに集中して、大切なことを見逃していた。


「財布は、どう、移動したんだ?」


それを突き止めるのが先決だと、結弦の中で結論付けられる。

と、そこで皿の上のスクランブルエッグから湯気が上がらなくなっていることに気が付いた。


「あ、せっかく出来立てなのに!」


結弦は慌てて炊飯器から白米を茶碗に盛り付けて、食卓へ向かう。

手を合わせて、スクランブルエッグを口に含んだ。

少し冷めてしまったが、卵の火の通り加減はいい具合だった。

ゆっくりと咀嚼して、飲み込む。

今、飲み込まれたスクランブルエッグはどんな心境だろうか。

そんなことをぼんやりと考えて、すぐに『考えるのはよそう』と思いなおした。


「勘弁してくれ、って思ってるよな絶対」


呟いて、結弦は一人で失笑した。






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