第8話 正月

 元旦の今日だけは、吉原も全ての店が閉店し、正月を祝っている。

 がらんとした人っ子一人いない吉原は、少しもの悲しい風情だ。と、新吉は毎年思う。


 ふと、実家の軒先に誰かいるのに気付いて、新吉は目をこらした。

 誰かが、店の格子の中をじっと覗いている。腰をかがめ、それほど小さくはないだろう身体をぐっと折り曲げた、気味が悪い覗き方だったが、身なりと髷の結い方からお侍のようで、新吉は思わず声をかけた。

「もし、お客様?」

 お侍がビクッと肩をふるわせ、新吉を振り返る。

「今日は、吉原は全店舗閉店しておりますが? 明日以降にお越しいただけますか」

 師走に入ってから、全店舗でそういう案内はしていたので、まさか知らないわけではあるまいと、新吉はいぶかしげにお侍を見つめる。

「あ……さ、左様でしたな。いや、失礼致した」

 新吉にとがめられたお侍は、ささっと桃源楼から離れた。新吉は、そんなお侍の顔をじっと見つめる。見たことがあるようなないような……いや、ないだろう。侍になど、とんと縁がない。新吉は首をかしげて、それでもすぐにその侍のことは忘れて、実家に入っていった。


 大黒屋では、男の従業員も女中達も、みなちりぢりに実家に帰っていった。しかし、ここでは実家が彼女たちを歓迎しない。そんな女達が、うさをはらすように正月のふるまい酒を飲み漁っている。

「おや、新さん、おかえり」

 ふすまを取り払って作った大きな宴会場で、一糸まとわぬ遊女達が、新吉の帰りを出迎えた。おしろいと、香の匂いが暖かい空気に飲まれてむわっと顔にまとわりつくようで、新吉は思わず顔をしかめる。

「ただいま」

 毎年見慣れた光景だが、今年は何だか新吉のほうの受け止め方が変わった。

 ……年の頃は同じはずなのに。

 新吉はまるで嫌なものでも見たかのように、眉をひそめ、大きく溜息をついて、その場を立ち去る。


 父の部屋に入ると、部屋の真ん中で、色打ち掛けを着て、煙管を吸う花魁が座っていた。

「おや、花魁。明けましておめでとう」

「新さん。明けましておめでとうございんす」

 一人で酒を進めているのか。顔がほんのりと赤い。今日はいつもの花魁姿ではなく、髪も結わずに下の方でゆったりと一つに結び、赤い襦袢に橙色の派手な振袖を打ち掛けにしている。父の脇息にゆったりともたれかかり、杯を空けるその様はまるで旧世の公家の姫君か、もっと言えば地に舞い降りた天女のように美しい。上品、下品を通り越し、床の間に飾られた母が生けたのであろう正月の花飾り、番の鶴の掛け軸を背にした花魁は、まるで存在そのものが一つの芸術品と言っても良かった。

 新吉はなんだかほっとして、花魁の差し向かいに座り込んだ。

「向こうで飲まないのか」

「うるさいのは好みません」

 きよ菊はぽつりとそう答え、小さな杯で酒をあおる。向こうの部屋の酒はどぶろくだったが、この花魁の銚子の酒は清酒だ。

「親父のかい」

 新吉が杯を出すと、花魁が悪戯するような顔でにこりと笑って、新吉の杯に酒を注ぐ。

「良い酒だ」

 杯をぐっと空けて、新吉はにこりと笑った。

「あらまあ。随分と大人におなりですこと」

 花魁が、四つも年下の若旦那をからかうように笑う。

 元が桃源楼のおぼっちゃまなので、手代という身分からスタートさせてもらったが、新吉は本来ならまだ丁稚でもよい年齢。他の手代達はみな、二十代から三十代。家族を持って近くの長屋から通勤してくる者もいるが、大抵はまだ独身で、新吉と同じく大黒屋の母屋の中にある手代部屋で暮らしている。

 潮五郎や哲治郎は生活面では大変厳しい人で、まだ幼い丁稚や新吉には酒もタバコも勧めてはならんと年かさの手代達に厳しく申し伝えていたが、実際に大黒屋に住む従業員たちの生活を管理している龍之介はそういうことにはとんと無頓着。結局なんのかんのと年かさの同僚達や龍之介から、酒もタバコも教えてもらった。

「……でも。まだ」

 花魁がその酒で赤い顔を新吉に近づけて、耳の裏の匂いをすうっと嗅ぐ。

「お子様……でしょ?」

 花魁が新吉の耳元で囁くと、新吉が赤い顔をして耳を押さえ、ばっと花魁の傍から飛び退く。しばらく花魁を睨んでいたが、やがておもむろに杯を置いて立ち上がり、少し頬を膨らませて花魁の隣に座った。

 花魁がそっと新吉の頭を抱え、自分の胸元で抱きしめる。


 新吉が小さな頃から……きよ菊が、まだ禿だった頃から……。眠れない夜は、こうしてきよ菊に抱きしめてもらっていた。

 そんなに色気のある話ではない。

 三つの子どもが、七つのお姉さんに抱きしめて寝かせてもらう。それが、もう十四年も続いているだけだ。新吉が花魁の膝に頭を置くと、花魁はまるで我が子を撫でるように、新吉の背中を撫でた。


 しばらく経って、新吉がうとうとし始めた頃。

 小石川の療養所に就職したという弟の善吉が帰ってきたようだ。階下で善吉の声と、それを嬉しそうに迎える両親、末っ子の大吉の声がする。

 が、善吉もやはり、遊女達の裸の洗礼を受けたらしい。逃げるように新吉ときよ菊がいるこの部屋に入ってきた。

「ああ、兄ちゃん、花魁。明けましておめでとう」

 善吉は、花魁の膝枕で眠る兄を特に見とがめるわけでもなく、花魁の前に座って何か差し出した。

「あら、お年玉。うれしうありんす」

 花魁が、新吉の頭を膝の上に置いたまま、にこやかにそれを受け取る。

「ところで、気の早いお客さんがもう玄関でお待ちだよ。明日の夜まで待っているつもりかな」

 善吉も少々、自分の実家の家業を卑下しているところはある。

 だが新吉とは全く別の理由で、女の労働と犠牲の上に成り立っている家業に嫌気がさしているそうだ。この仕事で亡くなる遊女の数を少しでも減らしたい。善吉が医者を目指しているのはそういう理由で、立派な志を持つ弟を、新吉は尊敬している。そして、同じく家業は継がぬと言いながら、次男であるが為に自由にさせてもらえている弟を、少しだけ……羨ましくも思っていた。

「へえ。そういえば、さっき俺も気の早い客を見たが。同じ人かな」

「けっこうナリの大きな、見目の良いお侍さんだったよ?」

 善吉が両手を縦と横に広げるので、新吉はそこで初めて目を開けて、十六になった弟を見つめる。

「ああ、じゃあ同じ人だな。暇だなあ。俺が見たの、もう四半時近く前なんだが」

 新吉は笑ったが、そこできよ菊が首をかしげる。

「徳田様?」

「お客かい?」

 きよ菊の膝に頭を乗せたままで、新吉が聞く。

「……ええ」

 少しだけきよ菊が言いよどんだのを、新吉、善吉は聞き逃さない。

「確かに良い身なりのお客だったけど。ありゃあ見たとこどこかのお旗本の次男坊だか三男坊。確かに顔立ちは良かったけど、父親や長男に頼って生きる穀潰しだろうよ。おきよ。お前のお客は、多少見た目が悪くても、人柄も家柄も良い上客でなくちゃ」

 十六になったばかりの善吉だが、それでも郭の経営者。五つも年上の花魁をしっかりと見据えながら、小言を言う。

「へ、へえ、わかっていんす……」

 花魁が、がっくりとうなだれて頷くので、新吉が身を起こした。

「見に行くだけなら、良いんじゃないか。本当にお前の客なら、酒の一杯、タバコの一本でも喫ませて差し上げて、明日お越し下さいと帰してしまえ」

 新吉の言葉に、花魁の顔がぱっと華やぐ。

 だが、次の瞬間には打ち掛けを丁寧に羽織り直すと、花魁らしいしかめ面をつくって、しずしずと玄関の方に歩いて行った。新吉と善吉が、顔を見合わせて困ったように笑う。

「兄ちゃん、何日までいるの」

「五日の夜に帰る。明日から四日までは、ここで働くよ。おっかさんを休ませなきゃ」

「俺は三日だから、明日だけ」

 正月からよく働く兄弟だと、お互い顔を見合わせて笑う。

 花魁が残していった酒を勧めたが、善吉は酒やタバコは二十歳までは嗜まない方がいいと医学の師匠から聞いたと、新吉の酒を断った。

「あら。新さん。善ちゃん、お帰り」

 他の遊女達と違って素面のはる菜が、親父様の部屋を覗いて、息子達が帰ったのに驚きながらふたりに声をかけた。

「おう。明けましておめでとう」

 新吉と善吉が、はる菜を父の部屋に招き入れる。

「花魁がいらしたようだけど?」

「いま、徳田様とかいうお侍が、日を間違えてきてしまったらしくて。追い返してる」

 はる菜の問いに新吉が答えると、はる菜がびくっと身を震わせた。

「徳田様」

 きよ菊と似た反応に、新吉がいぶかしげに顔をしかめる。

「はる菜。お前、もしや花魁の客を取っちまったんじゃねえだろうな」

 思わず、新吉と善吉が青ざめて顔を見合わせたが、はる菜はとんでもないとでも言うように、大きく首を振る。

「徳田様は浜松町のお武家様。さる旧家の跡取り息子だって聞いたけど……確かにいつも花魁のお座敷にはいらっしゃるけど、おじいちゃまのお座敷で、お食事をお相伴して帰られているだけよ」

 それを聞いて、新吉も善吉も頷いた。少し笑って、そして心底安心したように、大きく溜息をついた。

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