第3話 哲治郎

 雪が舞い散る冬の夜……。

「ここ、どこだっけ」

 ちいさな陸馬が、ふと、立ち止まる。見上げると、朝日が差すはずの空が、ただただ、どんよりとした灰色の雲に覆われ、大きな雪の塊が、陸馬の小さな肩に降りかかる。陸馬はもう一度、「ここ、どこだっけ?」と、繰り返すと、きょろきょろと周りを見渡した。

「先生……」

 いつもは、困ったときに呼べばあらわれる川男先生が、今はいない。

「おっかちゃん」

 母を呼んでも、お伝を呼んでも、誰も来ない。ただ、道路に面した様々な店の二階から、三味線と太鼓が音を奏で、男の笑い声が聞こえ……女が楽しそうな、甲高い叫び声をあげているのが聞こえる。

「寒い」

 そういえば、お伝が作ってくれたどてらはうたに着せたままだった。 寒い冬空の下、薄い麻の着物一枚着付けただけの陸馬が、番太郎からもらった銭を握りしめ、その場に座り込む。

 陸馬のちいさな身体に、雪が降り積もる……。三味線と太鼓の音が、陸馬の耳にこだまする。大通りを通り過ぎる男たちの笑い声が、陸馬の耳に響いた。


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「こどもが死んでいる」

 明けの六つ午前6時になって、大工の権六からそのような通報を受けて、現場に駆けつけたのは、ちょうど、朝の見回りのために出勤したばかりの南町奉行所同心、岡部哲治郎おかべてつじろう


 発見者の大工の権六ごんろくが指し示すこどもの死体の肩に手をかけて、死体の口元に耳を傾ける。かすかだが、こどもがひゅうひゅうと冷たい息を漏らしている。

「勝手に殺すな。死んでねえじゃねえか」

 二十歳の時に亡くなった父親の跡を継いで、南町奉行所の同心になってもう三年。仕事柄、この時期の凍死体は見慣れたもの。酔っ払いやゴロツキの凍死体なら仕方がないと片付けるが、朝も早くからこどもの凍死体は気分の良いものではない。

 気乗りしないままに現場に駆けつけたのだが、まだひゅうひゅうと息を漏らすこどもの姿を見てほっとして、冷たい地面に横たわるこどもを抱き上げた。

「……陸馬」

 抱き上げたこどもの顔を見て、哲治郎が思わず、その名を呼ぶ。

「ダンナ、その子をご存知で?」

 大工の権六がこどもの死体の顔を見て驚く哲治郎に驚いて、その顔を覗き込んだ。哲治郎は「いや、知り合いの子にそっくりだったから」と呟きながら、凍死寸前のこどもを抱き上げ、その大きな腕で包み込む。

「陸馬」

 今度は、権六に聞こえないように、こどもの耳元で、そっとその名を呼びかけた。

「……先生?」

 かすかに、ためいきほどの声で……陸馬が、哲治郎を呼ぶ。哲治郎がもう一度、陸馬の名前を呼びかけた。

「その声、先生だ」

 なにを言ってるのかは聞こえなかったが、陸馬が声を発したことに、人のい権六は「生きてた、生きてた」と喜ぶ。


 陸馬は手を伸ばし、哲治郎の頬に手を触れた。その汚れた手で無遠慮に、哲治郎の顔を触る。哲治郎の方も、されるがまま、なすがままに、その小さな泥と雪で汚れた冷たい、凍傷だらけの手を受け入れた。

「布、ない」

 初めて見る川男先生の顔に、陸馬は少しだけ微笑んで、「先生、あのね……」と声にもならない声でそう呟く。そして、哲治郎の手に、番太郎からもらった三枚の銭を握らせた。

「おっかちゃんと、わかと、うたに。これで、わかとうた、お金持ちにもらわれなくてすむから。ずっと、ずっとおっかちゃんといっしょだから」

「……陸馬、お前……」

 小さい陸馬は、知らない。里で生まれた女の子の行く末を……。

 お伝に、件の里親になる番頭夫婦を紹介したのは哲治郎テツジだった。八つ九つで禿として吉原に連れて行かれるよりは、番頭夫婦の養女分として育ち、十七、八の年頃になれば好いた男のところに嫁いでいくのが、わかとうたの幸せだろう。陸馬だって、あと三年もすればどこぞの御店に奉公に上がる。忙しすぎて里のことを思い出す暇すらなくなるだろうし、うまくすれば、番頭夫婦の養女と丁稚でっちとして、同じ御店で暮らすというようなことも、してやれるかもしれない。お伝も梢も、そう思ったからこそ、わかとうたを手放す気にもなった。


 だが、小さい陸馬の家族を想う気持ちを、妹達と生き別れなければならない寂しさを、大人の誰もが察してやれなかったのだと……哲治郎はその時、やっと理解した。

「陸馬……ごめん、ごめんなあ」

 哲治郎が、陸馬の冷たい身体を温めるように、抱きしめ直す。

 こどもの凍死体だと聞きつけて野次馬達が集まってきたが、権六が気を利かせてそれを追い払ってくれた。


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 だが、権六に追い払われる野次馬の波に逆行する形で、後ろのたばを大きく膨らませ、髷を粋に結い上げた四十がらみの男が、人垣からひょいと顔をのぞかせる。

「おや、やけに大きいお人が見えると思ったら、岡部様ではございませぬか」

 男が、同心姿の哲治郎に親しげに声をかけた。

「越後屋」

「なんです、その汚い子……ああ、こんなに汚れて。まあ、まあ」

 越後屋は困った顔で陸馬を覗き込み、懐から美しい搾りの風呂敷を取り出して、陸馬の身体を包み込む。

「越後屋、凍傷に効く薬はないか」

 哲治郎はそう訊ねたが、越後屋は敢えてそれには答えない。ただ、「おやおやまあまあ」と言いながら、陸馬の顔を拭いてやるのみ。「自分の店の薬を与えたあとで死なれては厄介だ」とでも言いたげな越後屋の表情に、哲治郎は陸馬がもう助からないことを悟った。

「……ここは、お大尽がたが飲み明かす場所……こんな小さな子がなんでこんなところに」

 越後屋はどこかの料亭の二階を見つめ、陸馬の顔を覗き込んだ。

「妹達を里子に出すので……銭があれば、出さなくても良かろうと……」

「ああ、それで、こんなところまで物乞いに」

 越後屋は冷たく言い放ち、自分の懐の財布から、銀三匁を取り出す。

「あたしの気持ちです。この子のおっかさんに差し上げておくんなさい」

 香典のつもりなのか、しんみりとした表情で銀を哲治郎に握らせて、越後屋はふんと鼻を鳴らす。

「こんな料亭で、お大尽だいじん様方は毎夜毎夜のどんちゃん騒ぎ。一方で、こうして明日の飯にも困る子もいる……」

「お前だって、そのお大尽方の仲間だろう」

 哲治郎の問いかけに、越後屋が「いやいや」と首を振った。

「あたしの店は、曾祖父の代から続いた……ただ古いだけの小さな薬問屋でございますよ……。ねえ、ダンナ。お大尽様方はあんな良い料亭で、毎夜毎夜飲み明かす金があるんだ……ちったあそのお金、こんな子ども達に分けたって……罰は当たんねえんじゃねえんですかねえ……」

 袖の中で腕を組み、神妙な面持ちで、越後屋が首をかしげる。

「……なんと?」

「いえ、いえ。忘れてくださいませ」

 越後屋は慌てて取り繕いながら、丁寧に頭を下げ、哲治郎に自分の財布を押しつけた。

「おい、越後屋! 財布!!」

 だが、もう野次馬達を押しのけて雑踏の向こうに消えてしまった越後屋に、哲治郎の声は届かない。哲治郎の代わりに、権六が遠慮無くその財布を開けた。

「うは、こりゃあ、お金持ちだ!」

 権六は、財布の中に一枚だけ入っていた小判を取り出し、じいっと眺める。

「こんだけの金がありゃあ、この子だって……」

 権六は寂しそうに呟くが、哲治郎にはもう、その言葉は聞こえていない。越後屋の押しつけた財布など興味がなく、ただ、ただ、陸馬の名を呼び続けた。


「先生……」

 陸馬が、哲治郎の頬に凍傷だらけの小さな手を添える。

「先生の顔、赤くて……大きくて……でんでらみてえだ」

「でんでら……?」

「そうか、先生、ほんとは川男かわおとこじゃなくて、でんでらなんだろ」

 陸馬は、力なく笑うと……「おっかちゃんと、妹達を頼む」と言い置いて、息を引き取った。

「……りくま?」

 陸馬の身体を、哲治郎は揺する。権六が、「もうおよしなさい」というまで、哲治郎は陸馬の小さな小さな身体を、揺すり続けた。




――お大尽様方はあんな良い料亭で、毎夜毎夜飲み明かす金があるんだ……ちったあそのお金、こんな子ども達に分けたって……罰は当たんねえんじゃねえんですかねえ……


 越後屋の、囁くような声が、哲治郎の耳の中でこだまする。

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