偽天使のバラッド ~獣の梯子~

南枯添一

第1話

 梯子はしごは空に向かって真っ直ぐに伸びていた。雑草が疎らに茂る、何もない空き地に、ただ一本の梯子だけが突っ立っていた。梯子の先端は宙に向かって消え、その先には虚空しかなかった。折からの強い風が草むらをそよがせ、錆に覆われた鉄の構造体を揺るがせた。それでも、梯子は意味ありげに空を指し示すことを止めなかった。

 もしも、そのまま登り続けることができるならば、こことは違う世界で出てしまうかも知れない――。

 そんなことを思っていたわたしは、ふと雪乃ゆきのの横顔を窺った。雪乃も梯子の先を見ていた。彼女もわたしと同じようなことを考えているのだろうか。そんなはずはなかった。雪乃ははりつけにされたような真白ましろの姿を想い出しているに違いない。わたしの胸は刺すように痛んだ。

「普通は溶けてしまうそうです」偽天使がそう言った。

 本当の名前を冬瀬滴ふゆせしずくと言う偽天使は梯子の脇に立っていた。彼女は黒いロングのステンカラーコートにリネンの白シャツを着込み、スキニーのジーンズの下は頑丈そうなマウンテンブーツで固めていた。両手はコートのポケットに突っ込んだままだ。背筋をピンと伸ばしているのと、顔が小さく、手脚が長いのでかなりの長身に見えるが、実際はそうでもなかった。

「この手の、鉄製のものは案外と熱には弱くて」と偽天使は続けた。

「多分何かの点検用に、元は工場の外壁にあったもののようです。火事の残骸を片付けたとき、どうして一緒に撤去しなかったのかは分かりません。放って置けば、色々とトラブルの素になるのは見えているんですが」

「登った先に何があると言うんでしょうね」雪乃が言った。「バカな人たち」

「まあ、その手のバカさを全く欠落させた男子なんかに、わたしは存在価値を認めませんけど」偽天使は真面目に言っているのか、よく分からない口調でそう言い、「そのうち、権利関係がややこしくなって、この敷地内にあるもの、何人も触れることあたわずみたいなことになって、放って置くしかなくなった」

「でも」と雪乃が引き継いだ。「案外と事故は起きなかった。この壁のおかげですね」

 雪乃が言う壁とはブロック塀のことだった。2メートルを超す高さがあり、ほぼ正方形をした工場の跡地を取り囲んでいた。出入り口は南側の正門と北側の隅にある裏口しかなく、どちらも鍵が掛かっていた。偽天使はどうやってか、正門の鍵を手に入れていた。

「単なる街工場にしては難攻不落感がありすぎて、焼け落ちる前から、偽札でも刷ってんじゃねーか、とか言われてたそうです」

 その高い壁は今は梯子しかない空き地を守っていた。雑草の茂みも点在しているだけで、その隙間では誰が持ち込んだ、雑多なゴミが土にまみれていた。

 正門の方に進みかけて、偽天使は足下を見た。わたしが、ずっと踏み付けてしまえばいいのにと思っていた犬の糞に気付いたらしい。彼女はそのまま視線をわたしに移した。その目付きがわたしを切れさせた。

「一体、あなたは何の話をしているの?」

「アリサ」

 雪乃のたしなめるような呼びかけに、わたしは目を伏せた。腹立たしいことに、偽天使は既に雪乃に向けた視線をわたしへ戻そうともしなかった。

「冬瀬さん」雪乃がため息を吐くようにして言った。「興味深いお話しですけど、それが一体わたしに何の関係があるんでしょうか?」

鈴村すずむら真白さんが」

 偽天使がその名を口にした瞬間、雪乃の瞳が苦悶に曇った。わたしの胸も張り裂けそうになった。

「自殺する一週間前にわたしの元へ現れて、仕事の依頼をされたんです。断りましたけど」

 雪乃には偽天使の話など聞こえていなかったかも知れない。雪乃の目は梯子の頂上を見ていた。雪乃の目にはまたあの日の真白が見えているに違いなかった。

 不思議な偶然で梯子の段に引っかかってしまい、まるで磔刑の殉教者のように宙吊りになっていた真白。毒物のために吐いた血の赤が、その名の通りに白い肌と胸元をわずかに汚しているだけで、苦悶の後をほとんど止めていないことだけが救いだった。

 真白の磔刑図を前にした雪乃は地獄の火に焼かれる人のように泣き叫んだ。わたしはあのときほど、自分の無力を呪ったことはない。

「冬瀬さんは」無理に陽気さを装った口調で、不意に雪乃は尋ねた「〝私立探偵〟なんですってね」

「退学になったりとか、色々ありましたから、ハードボイルドに生きようと決めたんです」

「ハードボイルド?」

「だから、勘違いなんです。真白さんが入り用だったのは鹿打帽ディアストーカーとインバネスの探偵なのに、わたしは中折れ帽にトレンチコートなんでね。だからお断りしたんです。有り体に言えば私立探偵自体もとから冗談ですから。真白さんは納得してくれたんですが、ひとつ、妙な質問を残していかれた」

「妙な質問……」

栗原俊くりはらしゅんくんは何故、何処にも通じていない梯子を登らなければならなかったのか?あるいは、梯子の上には何があったというのか?」

 雪乃の視線は今度は梯子の根元に向いた。雪乃は今度も幻視しているに違いなかった。あそこでボロクズのように丸まっていた、あのみっともない男の死骸を。

「真白さんは事件のディテールを教えてくれました。あるいは、事件のディテールしか教えてくれませんでした」

 そう偽天使は続けた。

 事件は真白の自殺から更に2週間前の夜のこと。栗原は「この梯子に登って、落ちて、死んだ。端的に言えばそれだけの事件です」。警察は事故と頭決めして、事件当夜、栗原が家人に「これから会う」と言い置いた〝友人〟の正体や、入り口の鍵を壊すのに使った鈍器の類いが見つかっていないことを気にもしていない。とは言え、あながち非難もできない。「死んだことを除けば、栗原くんはオリジナリティを主張するわけにはいきませんからね」。

 おまけに梯子の一番上の段が壊れていた。おそらく、これが転落の直接の原因だった。

 けれど、真白は不満だった。

 なぜなら、これまでの1ダースを越える怪我人たちはほぼ例外なく酔っていた。更にほとんどが集団で仲間にはやし立てられての醜態だ。彼はそのどちらでもなかった。その上、栗原は脚立に登れないほどの、

「高所恐怖症でした」

「亡くなった人を悪く言うのは気が進みませんが。彼は臆病者でした」

「少なくとも、恐いものリストの長い人でした。高いところだけでなく、広いところ。地震や雷の天災系は分かりますが、水が恐くて洗面器に顔も付けられないと言うとさすがにアレです。更に、生き物全般。ゴキブリ、ナメクジ、ミミズに蝶々。蟻に雀にカラスにバッタ。なにより犬。これじゃあ、散歩もできやしない」

「フフッ」

 わたしは笑い出してしまい、雪乃も目を合わせて微笑んでくれた。

「そんな栗原くんが梯子に登った以上、何かの理由があったはずだ。それは何?梯子の上には何があったのか?真白さんはそうわたしに問いかけたんです。で、わたしは答えたんだ。前提が間違っていませんか」

 雪乃は不意に大きなため息を吐いた。そして、梯子の更に上の、雲の多い空を見上げた。そのまま、

「冬瀬さん、羽根は忘れてきたんですか?」

「はい?」

 実際、冬瀬滴は白い羽根を隠していないか、背中を調べたくなるほどの美少女だった。

 もう亡くなったけれど、と昨日の夜、雪乃は言った。かっては左翼学生の間でかなりな影響力を持った、高名な思想家の私生児として彼女は生まれたの。その血を受け継いだのか、頭はいいけど、単に頭がいいに収まらない、賢い人。それに、見た目と違って、抜群の運動神経の持ち主なの。

 それなのに、と最後に雪乃は言った。

「それなのに、どうして〝偽天使〟なのか、分かる?」

 二人して寝そべったベッドの上で、それまで冬瀬滴のことを話してくれていた雪乃は、不意にわたしの顔を自分の胸に押し付けて、言った。

「心がねじ曲がった人殺しだから」

 雪乃はいつの間にか、視線をまた梯子の上に向けていた。そこにはもういない誰かに向かって雪乃は微笑むと、

「真白は、まだ学校を追い出される前だったあなたのことを知って、あなたを崇拝の対象にしていた、若いコたちの仲間になった。わたしはそんなこと、少しも知らなかったけれど。そのコたちのネットワークがあなたの冗談だった〝私立探偵〟を増幅して、真白に伝え、あのコはあなたのところへその質問を持っていったんです」

「でも、それはあまりいいアイデアじゃなかった」偽天使は言った。

「どうして?」

「言ったように彼女は事件のディテールを除いては、何も話してくれなかった。わたしは事件の背景を何も知らなかった。今なら言える。そんな状況でいい加減な回答など口にすべきじゃない。けれど、そのときのわたしはそうは考えなかった。思いつきで適当な答を口にした。多分それが彼女を殺した」

 首だけを傾けて、偽天使も梯子の上を見つめた。

「真白さんはあそこで服毒自殺をした。状況から、栗原くんの後追いと見なされるのは仕方がない。しかし違う。確かに彼女は彼のことは好きだった。けれど後を追う程の思い入れがあったとは思えない。彼女に死を選ばせたのは自責の念だ。わたしの余計なサジェスチョンのせいで彼女は悟ってしまったんです。もし自分が好きにならなかったら、栗原くんは死なずに済んだ。もし自分と付き合ったりしなければ――」

 偽天使の口調はさりげなかった。トーンも変わらなかったし、視線も梯子に向けたままだった。

「あなたに殺されずに済んだ」

「ふふ」一拍おいて雪乃は笑い、それから、まるで夢から覚めたような表情で辺りを見回した。

「わたしの家は真白の家の真向かいにありました。わたしの生まれて最初の友達が真白で、真白の生まれて最初の友達がわたし。真白は、内気な恥ずかしがり屋で、それに人見知りで引っ込み思案で。わたしは始めた会ったときから、このコはわたしが守ってあげなきゃいけないとそう思った。どんなときでも、どんなものからも。真白の方でも、直ぐに何でもわたしを頼るようになりました。けれど、真白はいつか、そんな関係に息苦しさを覚えるようになっていたんでしょう。そうでなければあんな男に真白が惹かれるはずはありません」

「雪乃」わたしは声を掛けた。けれど、雪乃は振り向いてもくれなかった。

「ええ、悪人ではありませんでしたよ、彼は。けれど、それも少しもいい意味では無くて、単に悪人に必要な何か強さのようなものが欠けているだけのように見えました。そんな風に、何か長所のように見えるところがあっても、それは結局、何かの欠如や短所が、たまたま長所を擬態してるだけのような男でした」

「コテンパンな言いようですね」

「事実ですから。だから、あいつでさえ、栗原のようなクズでさえなかったらと今も思います。もし、それが相応しい相手だったなら、わたしは真白の自立をむしろ喜んだはずです」

「申訳ないけど、たとえカーティス・ニュートンでもあなたのお眼鏡には適わなかったと思います」

「あなたならよかったわ、冬瀬さん」雪乃は薄く笑った。「あのコがわたしに内緒で、あなたのファンクラブみたいなものに入っていた話はしたでしょう。あなただったら」

「あの女は冷血な人殺しだって言ってましたよ」

 雪乃は甲高い笑い声を発て、不意にそれを収めると、

「殺す気なんてありませんでしたよ」と言った。「そんな気はなかった。それなのに」

「結局、彼は真白さんを道連れに――」

「違う!」雪乃は叫んだ。「道連れなんかじゃない」いきなりの逆上だった。

「あいつは泥の上に落ちて死に」雪乃は地面を指さし、身を翻して梯子の上を指さした。

「真白は空で死んだ。あいつは真白を道連れにする気だったかも知れない。でも、そうはならなかった。普通なら落ちる。でも、真白は落ちなかった。常識では必ず落ちる。でも、真白は落ちなかった。分かる?これは奇跡よ。神が。常識を越えた何かが。真白を憐れんで、あいつと同じ泥の上に落とさなかったのよ。これは事実よ!これは!」

 そこで、雪乃の憑き物は落ちた。何度か荒い息を吐き、その後でもう一度話し出したとき、既に雪乃は落ち着きを取り戻していた。

「わたしはそう信じています。バカバカしいと思いますか」

不合理ゆえにわれ信ずクレド・クイア・アブスルドゥム。バカバカしくないものを信仰とは言いません。むしろ、合理や日常の範疇に収まる判断を〝信じる〟などという言葉で表わすことの方が単なる誤用です。その上で言います」

 偽天使は、真正面から雪乃を見た。

「寝言は寝てほざけ」

「ふふふ」

 雪乃の少しもおかしく無さそうな笑い声は、風の音の紛れて、いつの間にか消えた。それから、彼女は想い出したようにわたしを見た。それを、それだけをわたしは待っていた。偽天使を八つ裂きにする用意はできていた。けれど。

「ダメ」

「どうして?どうしてなの」

 わたしは泣いた。けれど雪乃はわたしの前に膝を突くと、わたしを抱きしめて、そして、囁いた。

「もういいの。アリサ、ごめんね。本当にごめんね」

 偽天使はふうと息を吐くと、ポケットの中で握っていた何かを放して手を抜きだした。

「そろそろお別れのようです。その前に真白さんの質問に答えておきましょう。栗原くんはなぜ、梯子に昇ったか?梯子の上には何があったのか?前提が違っているとわたしは言った。答は上じゃない。下だ。では梯子の下には何があった?」

 偽天使はわたしことを見つめた。

「アリサがいたんだ」彼女はぼそりとつぶやくと、羽根を隠しているのかも知れない背中を見せて、歩き始めた。

「ちなみに、わたしが真白さんに言った言葉はこうです。高い塀の中だし、犬でもけしかけられたんじゃありませんかって」

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