「才能」について

 才能ってのは、『能力指向性』程度に捉えておいた方がいいと思います。才能があるから成功するというものでもないけど、才能が無い分野を頑張っても無駄になりがち、という感じの事だと。


 この才能、ひどく残酷で厳格で絶対です。


 カケラも才能がない分野は、どんなに頑張っても上層に行くことなど出来ないでしょう。反発もあるかと思いますが、才能に溢れ、努力もしている人々がひしめいているのが上層という場所なので、才能が欠けているくせにそこへ到達出来ると思うのは傲慢です。才能があっても到達出来ない場所と考えるべきで、才能がない者でも行けると思うのは、むしろその場に対する不遜です。


 また、才能のあるなしは自分はもちろんのこと、他人から見てもはっきりと判定が出来るということはなく、死後にその評価が変わるなんて事もザラですよね。そのくらい、絶対的でありながら不透明でもある要素です。だから、正直、気にするだけ無駄とも言えてしまいます。


 自分の望む才能があるとは限らないわけでもあり、プロ作家を目指すアマチュアだけど別の才覚の方を人には褒められる、なんてのはザラにあるわけです。

 そういう人が、プロを目指すのは間違いかといえば、決してそうとも言い切れませんが、安全パイとしては、人が認める才覚を伸ばすべきと誰もが思うでしょう。


 芽が出ないかも知れない鉢にせっせと水をやり、芽が出ている鉢をほったらかしにしているのだとしたら、周囲からすれば勿体無い限りではないですか。


 自分は何を求めているのかを見極めてみれば、案外、小説を書くという行為に囚われる必要もないのかも知れません。有名になりたい、成功したい、それは別に小説でなければ成し遂げられない事ではありませんから。


 絵が描けないから小説にした、という理由は、別に小説でなくても何でもよかったという心の裏返しですし、文の才能がなくても、別の方法で主張をすることも出来るはずなんです。

 才能を云々する意見にだけ嫌悪を示すのは、誤魔化されているからではないのか、と思ってしまう限りですね。


 成功や名声のためにプロを目指したっていいし、それと同等には、芽が出ている鉢を放り棄てていたっていいわけです。他人がとやかく言う問題ではありません。


 才能は人を裏切りませんが、人は才能を蔑ろにしますよ。


 私は、才能に関してこれを否定するが如き意見を見つけると嫌な気分になります。なぜ嘘をつくのかと思うからです。安っぽい希望ではないですか、逃げにすぎない意見です。それと見抜けない人だっているわけで、無責任だと嫌悪します。


 希望を棄てないことと、事実を蔑ろにすることとは、まるで別です。才能というものは確かにありますし、才能に左右もされてしまいます。けれど、才能が正しく評価されるという保証はありませんし、才能のあるなしは誰にも判定出来ないのです。


 有る無しで決まるけれど、気にしたって無駄なモノ、それが才能です。


 気休めを一つ言うならば、才能がカケラもない状態の人はまずその分野に興味を示すことさえないでしょう。絵の才がない人は絵に興味がないし、小説の才がない人は作文の書き方すらアンチョコ頼みでしょう。

 曲りなりにも文章が書ける、これは才能の片鱗です。才能のない人は、まず書こうという気が起きないはずですから。

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