金魚鉢15 暗転~漆黒夜空

 すずやかな風が、アーケードの屋根を通り抜けていく。金魚たちが優美に泳いでいる硝子天井がらすてんじょうの上をフクスとミーオは歩いていた。

 手をつなぎ合い、2人は墓場の谷を目指して進む。ミーオの生まれ故郷である村から一番近い場所。ミーオの父親が上げる花火が、もっとも美しく見える場所へと。

 ――お父さんが今日、花火をあげてくれるの。

 今朝、嬉しそうに微笑んでいたミーオの姿をフクスは思い出していた。

 どうして父が自分に会ってくれないのか分からないと彼女は言う。

 フクスにはその理由がはっきりとわかっていた。

 復讐のために娘を売った悔恨かいこんの念が、彼をミーオに会わせないのだ。だから彼はフクスにミーオを託すような真似をした。

 そんなことをするぐらいなら、会いに来てあげればいいのに。

 ぎりっと奥歯を噛み、フクスはミーオの手を強く握り締める。

「フクス?」

 不安げなミーオの声が、フクスにかけられた。我に返って、フクスはミーオに顔を向ける。瑠璃色の眼が切なげに震えている。フクスは、そっとミーオの首に両手を巻きつけていた。

「大丈夫よ、ミーオ」

 ミーオの顔をのぞき込み、微笑みを浮かべる。ミーオは安心したように眼を細め、フクスに抱きついた。

 ミーオの体が温かい。彼女の心臓は、安らかな音をたてていた。

「お父さんの花火、楽しみだね」

「うん……。今日は、どんな色なのかな」

 瑠璃色の眼が月光に煌く、ミーオはすっと硝子天井の先へと視線をやった。瞬間、彼女は猫耳の毛を逆立てフクスを抱き寄せていた。

「ミーオ……?」

「フクス、こっち」

 ミーオがフクスの手を引き、建ち並ぶ屋根の隙間すきまへと身を滑り込ませる。フクスをかばうように後方に押しやり、ミーオは隙間の入口から顔を覗かせた。

「ミーオ?」

「変な奴らがいる……」

 ミーオの肩ごしに、フクスは周囲の様子を伺う。硝子の天井が途切れ、谷が現れるその場所に数人の男たちがいた。月光に男たちの体の輪郭がぼんやりと照らされている。男たちは数人がかりで大きなものを2つ抱えているらしかった。

 フクスは眼をらす。抱えられているのは人間のようだった。

 抱えられた人間たちは手足をだらしなくたらしている。フクスはその1人へと眼をやった。どうもその人物は男性らしい。彼の双眼が月光を浴びて蒼く煌く。照らされた翠色の眼を見て、フクスは眼をいていた。

「兄さん……」

 唖然あぜんとフクスは呟く。レーゲングスは茫洋ぼうようとした眼を虚空こくうに向けたまま、身動き一つしない。もう1人の人物へと、フクスは顔を向けていた。その人がかぶかさの奥から、見慣れた瑠璃色るりいろの眼が覗いている。

 ミーオの父親である船頭せんどうだ。

「お父さん……」

 震えた声が、ミーオの口かられる。

「お父さんっ!」

 ミーオは叫び、弾かれるように体を踊りだそうとしていた。フクスは、とっさにミーオの手を掴み彼女を引き寄せる。暴れるミーオの口をさえ、男たちの様子を窺う。

 ミーオの叫び声がとどいたのか、男たちはいぶかしげにこちらへと顔を向けていた。フクスの背筋が冷たくなる。

 ――もし、男たちに見つかったら……。

 フクスの心臓が激しく高鳴っていた。

 息が浅くなり、緊張きんちょうのどかわく。

 フクスは腕の中のミーオを抱き寄せ、唇を固くつぐんだ。男たちは何事もなかったかのように、フクスたちがいる屋根の影から顔を逸らす。

 レーゲングスと船頭を抱え直し、男たちは2人を谷へと落とした。

 悲鳴をあげそうになる。フクスは、上唇をんでそれにえた。唇に鈍い痛みが走り、生暖かな血が滴る。大瀑布だいばくふの音がうるさく狐耳に木霊する。

 男たちはきびすを返し谷に背を向けた。濃い影を落としながら、彼らは硝子天井を黙々と歩いていく。

 男たちが、フクスたちの隠れる屋根の前を通り過ぎていく。

 フクスの体が震える。いっそう強くミーオを抱き寄せ、フクスは男たちを凝視ぎょうしした。

 男たちはフクスたちのいる屋根の隙間をかえりみることなく、過ぎ去っていく。

 男たちの足音が小さくなっていく。その足音が完全に途切とぎれたのを見計らい、フクスはミーオの体を放した。

「お父さんっ!!」

「ミーオ!!」

 ミーオが屋根の隙間から躍り出る。フクスは急いでミーオを追った。ミーオの駆ける音が遠ざかっていく。

 硝子の屋根が途切れ、谷が始まる場所でミーオは立ち止まる。フクスは、ミーオのもとへと急いで駆けつけた。

 眼を見開き、じっとミーオは谷を見つめている。

 フクスはミーオの横に並び谷を覗き込んだ。暗い水が、轟音をたてながら谷底へと落ちていく。暗いた谷底を窺うことはできない。

「兄さん……」

 レーゲングスの姿はどこにもない。フクスは、力なく膝をつく。

「ははっ。ははははっ!!」

 ミーオの笑い声が狐耳に響き渡る。フクスは驚いて、ミーオを見上げた。ミーオの眼が、涙にゆらめいている。その眼を歪め、ミーオは嗤っていた。

「はははははっ! 殺してやる……。殺してやる。あいつら全員殺してやる! 全部! 全部!! ぶち壊してやる!!」

 ミーオが叫ぶ。

 大粒の涙を流しながら、ミーオは両手で顔を覆った。嗚咽おえつに彼女は体を震わせる。やがて嗚咽は小さくなり、彼女はそっと顔から両手を放した。

 ミーオの顔には色がなかった。濡れた瑠璃色の眼は無感動むかんどうで、彼女はじっとミーオを見つめるばかりだ。

「ミーオ……」

「フクス、金魚鉢を壊そう……」

 ミーオが笑う。細められた瑠璃色の眼は、月光に美しく煌めいていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る