腕喰い(中)

 回数を重ねるごとに死体の処分がぞんざいになりゆくのは連続殺人の特性であり、第四の死体で多分にその兆候はあった。

 が、この第五の死体に至っては完全に町なかと言ってよい橋の下、ゴミ袋を上下からかぶせて不法投棄の粗大ゴミの山の奥へ投げ込んであるのみであった。

 遺体はこの暑熱のためにほとんど蒸し焼き状態にあって、数日でめちゃくちゃに腐敗しており、発見者となったのは一般市民でも警官でもなく、異臭の苦情がたらい回しにされたあげく行き着いて駆り出された行政の職員であった。

 そんな警察の沽券こけんにかかわる経緯よりも、皆が色めき立ったことがある。

 ——今回の聞き込みで、遺棄の際の犯人の目撃証言が初めて上がったのだ。



 背の低い太った男。歳のころは三、四十代。

 被疑者リストが一気に整理され、勇み立った捜査本部はこれまでに倍する動員に踏み切った。

 ただ俺は、ばたばたし始めた署内を尻目に、半日の猶予と真島の同行許可、そして絞られたリストからは外された、ある被疑者の資料をもらって個別に動いていた。


 その被疑者は昨年末、勤務している工場の工作機械に巻き込まれて身体の一部を失っていた。

 さらに、その怪我がひどく悪化したという理由で今年の春から半年の休職に入っており、以降、誰も連絡を取る者はなく現況不明の状態にあった。

 第一の犯行と同時期に人前から姿を消す結果となっていたために一時は重要参考人にまで上がりかけ、開示手続きを経て受診時のカルテのコピーまでもが得られていた。

 それが逆にそのカルテの記述により、医師による休職の判断に特別の不審点がなく、むしろ生活に難をきたすほどの容態にあったことが明らかとなり、結局はこの事件の実行犯となるには肉体的な障害が大きいとして現在は一次リストからも外されていた。


 ただ俺は、その資料にどうしても目で確かめねばおさまらぬ虫食い穴のような一点を見出していた。

 この被疑者が事故で失ったのは、

 

 左手の——[小指]であった。



***



 俺は真島を引き連れ、被疑者のアパートの部屋の前に立って、小手先の手管てくだなどなしに真っ直ぐにドアベルを押した。しかし、部屋の中から反応はなかった。


 この被疑者が重要視されていたころの身辺記録によれば、こもり切りの生活とあった。想定される怪我の経過からもそのはずだ。

 居留守か、買い出しか。何にせよ、犯人かもしれぬ人間を自宅の前で待つわけにもいくまい。だがこう日差しが強いと車の中で張り込むこともできない。

 

 俺と真島は、うんざりする気温の中をそれぞれ付近の日陰にもぐり込んで被疑者のアパートを監視することにした。

 真島は付近のマンション上階から被疑者の住む二階の窓を、俺は正面に回りこみ建物の隙間を縫って見通せる玄関を見張る。

 平日午前中の半端な時刻であるためか、建物全体に人の気配がない。

 そして一時間ほどが経ち、早々にペットボトルの茶を飲み干しかけたころ。二階への階段を上る低い位置の頭が見えた。


 はじめは老人かと見誤った。一段ごと息をつくように階段を歩んでいたからだ。しかし、時間をかけ階段を上りきって向きを変えた横顔が、手元の写真と合致した。

 被疑者の男だった。


 男は服の左袖をまくり上げ、腕全体を包帯でぐるぐる巻きにして首から吊っていた。

 携帯で真島にメッセージを飛ばし、男が先ほどの部屋に入るまでを確かめてから、自分も動き出す。アパート前で真島と合流し、視線を交わすのみで二階へ上がるために階段に足をかけたとき。ふと鼻腔をかすめたにおいがあった。

 腐臭だ。それも野菜が腐るような甘さのない、つんと尖って粘膜を焼くような刺激臭。それが階段を上がるごとに二度、三度と鼻をかすめる。俺は振り返って真島を見る。真島も気づいた様子を見せる。



 このアパートの二階には、玄関の軒先に屋根がない。

 俺はドアの前に立ったが、頭上を遮るものがないために、沈思する時間だけじりじりと日光に頭と背中を灼かれる。真島の影がわずかかぶるところだけが、見ずとも範囲がわかるくらい庇護されたように穏やかであるのを感じる。

 何かに背中を押されるように、俺は今日二度目のドアベルを鳴らす。

 しばらくの間をおき、無言のまま施錠が内から外される金属音がして、俺は半歩うしろへ下がる。


 引きれるような音ともにゆっくりとドアが開いてゆき——

 はじめはドアのすぐ中に何か、大きなものが置いてあるのだと思った。

 人だと気づくのに数拍を要した。

 そのくらい、には生気がなかった。


 そこには、どろりと澱んだ目をした、矮躯わいくの肉塊のような男が立っていた。


 こちらを向いていながら、こちらを見ていない目。

 その眼球は腐った水がたたえられた金魚鉢のようで、底には死んでなかば溶けかけた金魚のような黒目がたゆたい澱む。その瞳孔は、俺の背後に射す日ざしを見てなお真っ黒に開ききっている。


 唐突に、ぱさりと何かが床に落ちた。

 包帯の束だった。

 黄色く、暗く、赤く。なにかがじっとりと染みている、数日泥に埋められていたかのような包帯の束。

 包帯は全体が床に落ちきっておらず、まだ男の体から垂れさがる部分があり——目でたどっていくと、長くのびた端が男のくちびるに、何かの乾きかけた汁で貼りついていた。

 ふと男の左腕を見やり、包帯で覆われていた腕が、今はむき出しになっていることに気づく。

 しかし、それだけではないと感じた。

 何かがおかしい。何かのバランスが狂っている。男のいる室内がうす暗くて、よくわからない。


 そこで俺は初めて、男がだらりと下げた右手に何か握っていることに気づいた。ぬめって光る何か。

 


 あっと我に返ったと同時に、目の前の男の喉から鉄の引き裂けるような甲高い絶叫が響き渡り、ついで俺の感覚をとんでもない悪臭のかたまりが襲う。

 えたタンパク質のにおい。生き物の腐るにおい。

 嗅ぎ慣れた、死体のにおい。


 男が部屋からまとい出てきた屍臭が、吹き上がって俺の頭より高い高いところでうず巻く。俺の視界を、筋肉のだるまのような男の包丁を振り上げる絵が黒く埋める。


「先輩!!」


 真島の声が耳のすぐ後ろで聞こえたが、情けないことに不意をつかれたあまり俺は一瞬目を伏せてしまい、ただ痛みに身構えた。

 しかし覚悟した痛みが来ず、萎縮した意識が緩んだことで俺の目は開き、自分の頭上を覆うようにさえぎる影を見る。


 真島は愚かにも、俺の肩を越えて手を伸ばし素手で包丁の刃を受けとめ掴んでいた。

 包丁を掴まれたまま男は搔き回すように腕を振り回し、真島が長い苦痛の声を上げる。

 最後に男は真下へと包丁を振り抜き、刃が真島の手から放れた。また、その単純な軌道は俺の目測どおりにくうを切った。

 目がけて咄嗟に繰り出した俺のひざ蹴りが、男の右手を包丁の柄もろともドアの外枠に打ちつける。膝の先で、固柔らかい骨肉の束がごりっと歪む音を覚える。

 咆哮する怪獣のような声がまた男の口からほとばしり、取り落とされた包丁が地面で細かく跳ねる。俺は足で払って遠くへ蹴りとばし、同じ体の回転で男の左手を捕らえて逆手にひねり、

 

 のような感触に戦慄した。


 俺は強烈な違和感を勢いで押し切って男の腕を脇に引き込み、さらに手首を、肘をひねり上げる。しかし男は化け物のように一瞬も怯まず、俺の喉に右手をかけ恐ろしい力で指をめり込ませ、揺さぶってくる。

 俺はオオと叫んで腰を大きくなげうつように回転させ、関節をめた腕を勢いこめて体の下に巻き込み、男を地面に引き倒そうとして——


 


 あっと思う間もなく、ひとり硬いコンクリートに身を投げ出した俺は、背を強く打ちつけて息を詰まらせる。

 さらに逆光で男が振り上げた足の裏が見えたと思った次の瞬間、鼻っ柱に、続けて後頭部に衝撃が炸裂して意識が火花であふれる。

 無闇に足をばたつかせて身を起こし、眩暈をこらえて顔を上げる。まず見えたのは、気丈にも片手で手錠を取り出し構える真島の姿。

 

 そして、その足元で膝から地面に崩れ落ち、もはや震えるだけで動かない男の姿だった。



***



 よろめき立ち上がると、今ごろ全身にどっと汗のすじが流れはじめる。周囲に蝉の声が、燃え上がるように鳴り響いていることに気づく。

 見下ろせば、うずくまった男は落ちた左腕を片手で深くいだき込み、獣のような声でおうおうと嗚咽している。


 男の抱える抜け落ちた腕は、その小さくも屈強な体躯に似合わずまるで女のように細くたおやかで——

 

 そして、ぬめついて青黒く、腐っていた。

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