腕喰い

ラブテスター

腕喰い(上)

 はじまりは、左手首から先のない絞殺体だった。

 

 通報を受けてうずまく熱風のなかを泳ぐようにして現場に向かい、身体のおもてに太陽光の圧を感じながら検証をしたのを覚えている。

 まだ梅雨が明けたばかりのころであったはずだが、じとつく長雨は記憶にはや遠く、アスファルトはもう地熱でゆらめき茹だっていた。

 その日も、ひどく夏だった。



***



「先輩、喫煙室で仕事するの本当やめてください」

 若い男がこぼしながら部屋に踏み込んでくる。

 四つ折の新聞で小ぜわしく顔を扇いでいるのはけむたい空気を払っているのか、冷えの足りない空調を補っているのか。


 けっ、と俺は喉を鳴らし、

「ヤニも食わずに書類仕事がやってられるか。灰皿のあるところが俺のデスクだ」

 くわえ煙草を上下に揺らしながら答える。

 

 俺を先輩と呼ぶ若僧はそんな答えなど聞くまでもないという風に、暑い! と言い捨てて向かいのソファーに尻を落とす。

 今年度、刑事課に配属された新人の指導を任されて以来おれは妙になつかれてしまい、こうしてやけに馴れ馴れしくされている。

 そんなを同期仲間に見つかると、ガキに舐められてんじゃねえよといさめる者がおり、はたまた随分と甘えられてんじゃねえかと揶揄からかう者がいる。いずれも煩わしく、最近は署内の目を忍びたくて喫煙室に通っているところもあった。

 人には言えぬ理由である。


「ここのエアコン、なんでこんな効き悪いんですかね。昭和の遺物だからかなあ?」

 新米の名は真島ましまという。

 真島はへらへらと笑いながら、畳んだ新聞紙をぱりぱり鳴らして顔を扇ぎつづける。見るからに効率が悪く、目に鬱陶しい。

「フィルターがヤニですぐに目詰まりしてしまうんだ。気がついたところでお前、掃除してみないか」

「いやあちょうどほら両手が塞がってて。残念だなあ」

 そう言ってもう片方の手を俺の方に突き出す。

 手の先には内容物に膨れたクリアファイルがあり、俺はそれを受け取る。

「手がいたな」

 ファイルから紙の束を引き出しながら俺は言う。

「いま仕事始まりましたよ。お巫山戯ふざけはやめましょう」

 真島がわざとらしい神妙さで返す。

 俺はふんと鼻を鳴らして厚い紙束を傾け、ばらばらっと捲ると目に入る情報のうち顔写真の数だけをざっくりと数えはじめる。

「被疑者、しぼれてんのかこれ」

「そりゃもう、浜の真砂まさごから、お徳用白ごまパックくらいには」

 ひらひらと手を振る真島は物言いこそ軽いが、その微笑みは苦い。

 

「まあ、すり潰していくしかあるまいよ」

 俺は資料を机に投げ出し、口元のちびた煙草をつまんで灰皿に押しつけた。

 応えるように、妙味ある笑みを浮かべたまま真島が長いため息を漏らす。

 俺も、身を引いてソファーに背をうずめ天井に向けて長い息を吐く。

 部屋の高いところ、横ならびの小さな窓から射す強い日ざしが、舞うほこりを貫いて空中に強い光の角柱を浮き立たせている。

 俺はソファーに首までもたせかけ、目を閉じる。

 今、ここで俺が身を起こして一声かければ、真島もしぶしぶ立ち上がり、今日も二人で殺人的な猛暑の下を巡る聞きこみがはじまるのだろう。

 求める真実がどの方向にあるのか、そもそもどんな形をしているのかすらわからない。

 だから早く始めれば早く終わるなどという性質でもなければ、量でもない。

 それでも、現実に一歩でも先んじるため気持ちに鞭を打って動かねばならない。


 ただ今はおれも、きっと真島も、あと少し、ほんの少しだけこのヤニ臭い部屋でぬるい空調の恩寵にひたっていたかった。

「ほんと、毎日クソ暑い」

 俺の気持ちを読んだように真島がまたこぼす。

 こぼして顔を上げ、窓をたしかめるような、すりガラスのはるか向こうを見遣るような遠い目を見せる。

「ご遺体も——よく腐ってんでしょうね」

 たるんだ不謹慎な発言をおれは半目をしかめてとがめて見せる。

 はっきりと言葉に出して叱らなかったのは、同じ憂鬱を自分の内にも抱えているからか。


 ——そう。

 この事件、死体がまだ眠っている、まだ出てくる可能性がある。

 この犯人は一人を殺して逃げ隠れするだけのただの殺人犯ではない。

 すでに四人を手にかけ、そして依然として人を殺す動機と意思を抱えていると目される——連続殺人鬼だ。



***



 被害者は、全員が女性だった。

 『いずれも死因は絞頚による脳血流の循環不全を主因とする』。『実行にはひも状の凶器が用いられたと見られる』。

 つまりは、全員がくびり殺された。


 絞殺というと一般に死因はただの呼吸不全、息が詰まって死んだと思われがちだ。

 しかし実際のところ、人間の腕力のみで頚部の中心にある気道を閉塞に至らしめることはむずかしい。

 大抵は、またこの事件においても、圧迫閉塞に至ったのは頚部の周縁にある頚動脈。そしてひき起こされた頭部の血流障害からの脳酸素欠乏症、すなわち《脳の》窒息死によって被害者は死を迎えている。


 加えて——全ての死体から左腕さわんの一部が切り取られ、持ち去られていた。

 

 [肩]、[上腕]、[前腕]。

 

 これが死体に部分。

 検死の結果によれば、最初の被害者が殺害され遺棄されたのは発見からおよそ三か月前の春頃。

 とある低山のふもとから掘り起こされた第一の死体には、この先にあるべき[]が欠けていた。

 そして後日、同じ山域の、峠を越えた別の麓から第二の死体が掘り出された。やはり左手首から先がなかった。そしてまたぞろ、手首から先のない第三の死体が同じ山域から出てきた。

 

 それぞれの犯行は半月ないしと月の間を空けて繰り返されたとの結果が出ている。

 遺体は腐敗いちじるしく、生前の顔貌等は不明瞭であったが、歯の治療痕より身元を同定。素性が調査されいずれの被害者間にも有意な関係はないと結論付けられた。

 また殺害時の索条凶器、腕部切断に用いられた鋭器は、遺体側にのこされた痕からすべて同形状の、おそらくは同一の道具が使われたと推定。

 あわせて、遺体にはいささかの姦淫の形跡もないことを含む、ほか諸々の要因から同一犯による犯行と断定、無差別連続殺人事件として所轄の警察署に捜査本部が設置された。



 ——だが、そうして体制を固めた警察をあざ笑うように次の死体がすぐに見つかった。

 いや、見つかっていた。


 それは三体の死体が見つかる山より下ったところ。町はずれのうら寂しい神社の敷地裏手に埋められており、週に一度通っている宮司からの通報があった。

 七月のあたまになる第一の死体の発見よりの、まだ雨の続く六月の出来事であった。

 この記録が本部にて行われた情報の統合により、はじめて関連性ありとして浮上した。

 発見は前後したが、死後数日を経過したのみであったこの死体が、連続殺人のうち死亡日時のもっとも新しいの被害者となることは疑いがなかった。

 それがここまで判明が遅れたことには、発見場所の相違以外にも一応の理由があった。


 被害者はやはり絞殺され左手が切り取られていたが、遺体に残留する部分が一致しなかった。

 

 [肩]、[上腕]。

 

 切断の位置が、手首から肘へと。拡大、進行——なんと言うべきか、ともあれ移動していた。


 捜査班は、この事件の猟奇性について今さら問い直す必要に迫られた。

 なぜ、腕を切り取るのか。

 なぜ、手首だったのか。なぜ、肘になったのか。

 様々な意見と憶測が投げ交わされた。しかし、確定的な高みにたどり着くものはなかった。

 ただ一つ、皆のあいだで一致する見方があった。

 犯人の胸中にある動機は、まだ解消されずにくすぶっている。次の獲物を狙うため、今もきっと動いている。

 警察が後手を踏めば、また人が死ぬ。



 ところで、この犯人には班内でのあだ名がある。

 激しく議論がぶつかり戦わされた際にも、幾度となく叫ばれたあだ名が。


 被害者の手首から先を切り取って持ち去る。

 初回の会議で、そう配布資料にあるのを見た真島が「吉良吉影みたいっすね」と呟き、それから誰とはなしにこの正体の見えない殺人者を《吉良》と呼ぶようになった。

 そして捜査本部が置かれ、切断部位が肘までへと移動したことが報告されたとき。

 さんざめく刑事たちのなか、真島が呆けた声で、おー、と漏らした後に「ガチ吉良っすね」と言い放ち、いつの間にか呼び名も《ガチ吉良》に変わっていた。


 後日、課内の者に訊かれた。

 執着が肘までだと、何が《ガチ》なのか。



 知るか。



***



 そしてある朝、所轄の署長じきじきの怒号とともに捜査本部に所属する全員が集められ、事態の急転が告げられた。

 

 [肩]。

 

 [肩]から先のない、左腕一本すべてが持ち去られた絞殺体が報告されたのだ。

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