名無しの権兵衛

文目みち


 私が育った小さな村には、名無しの権兵衛という老婆がいた。

 初めて見たのは小学生の頃。夕刻迫る道すがら友人と一緒に帰宅しているところ、正面からゆっくりと歩いてくる白髪の老婆がいた。老婆は杖をついて腰を曲げているわけではなく、すらっとした背筋にしっかりとした足取りで前を見据えている。片手をズボンのポケットに、もう片方の手にはレジ袋を提げていた。遠くから見たらどこかのモデルさんのようにも見えた。

 見た目はただの近所に住む老婆。しかし悪戯好きの友人の「あ、あれ名無しの権兵衛だ」という言葉が、私の認識を狂わせた。


「名無しの権兵衛?」

「うん、あれ絶対そうだよ」


 どうしてその老婆が名無しの権兵衛というのかは、友人も人伝ひとづてに聞いたので正確なことはわからないらしい。しかし噂によると、本人がそう名乗ったのだという。ならば確かめてみるしかない。幼心おさなごころに友人は好奇心に駆られ、すれ違いざまに声かけたのだ。


「おい、名無しの権兵衛!」


 すると老婆は立ち止まり、私たちのほうに振り向いた。

 傍で見ると、それは妖怪や幽霊の類いとは違い、どこにでもいる老婆と何も変わりはなかった。髪の毛は白く短く切られ、肌は少し焼けその年相応の皺が見て取れた。

 声をかけてから、私たちと老婆の睨み合いは数秒続いた。そして老婆がゆっくりと口を開いた。


「あんだ?」


 その声は、歯の抜けた少し聞き取りづらいものだったが、相手のただならぬ威圧感に気圧された。まさか声を返されると思っていなかった私たちは、慌ててその場から走って逃げたのだ。

 その日の夜、私はあの老婆の顔が頭から離れなかった。

 能面を被った鬼。般若とは少し違う。初めは私たちに全く興味のないような表情だったのに、面を取った途端に変わった表情……それはまさしく地獄の鬼の叫びのようだった。

 目を閉じれば現れる。その日は眠れなかった。

 朝になり、私の顔を見た母がとても心配そうにしていたのを覚えている。私はまるで生気を吸い取られてしまったかのようにゲッソリとしていたそうだ。

 その後、一緒にいた友人と会う機会はあったが、あの名無しの権兵衛についてはお互い触れることはなかった。二人とも会話すら気まずい関係になってしまった。友人も私と同じような思いだったのかもしれない。

 偶然か必然か、あの日以来名無しの権兵衛に再び出会うことはなかった。


 それから数年が経ち、私も大人になった。地元の田舎を離れ都会に住むようになってからは、名無しの権兵衛の存在は薄れていた。

 そもそも「名無しの権兵衛」というのは、名前のわからない人に対してあざけったりして言う名称らしい。だから、あの老婆も本当は名前があり、それを知らない村人たちが勝手に名付けたのだろう。幼心とはいえ、当時の私もその一部となり面白がってしまった。反省しなければいけない。

 そんな思い出話を盆休みに帰省した時、田舎の両親に話した。両親ともにそんな人がいたことすら知らなかったようだが、定年を過ぎた叔父だけが名無しの権兵衛の存在を知ってくれていた。


「お前もあったんか」

「うん。小学生の頃だったかな」

「そんで、なんかやらかしたんじゃないだろうな」


 やらかした?

 どうしてそんなことを聞くのだろうと不思議に思いながらも答えた。


「いや、別に」

「……そうか、ならいいんだが」


 叔父の曖昧な態度をいぶかしんだ私は、名無しの権兵衛について詳しく聞いてみることにした。


「オレもな、小さい時にあったことがあるだ。片手にレジ袋提げて、真っ直ぐ歩いてくる。白髪の老婆だった」


 私が出会った老婆と全く同じだった。


「だけんな、そいつには、声かけちゃいけないって当時は言われてたんだ」

「どうして?」

「そりゃな、声かけたら自分の名前を取られちまうんだ。オレの親友だった子がそうだったからな」

「名前を取られちゃうって、どういうこと?」

「そりゃそいつの名前を、みんなが忘れちまうってことさ」


 そういえば、その時一緒にいた友人の名前は何だったけ。


「そういえば……名前なんだっけか。お前」

「え」

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名無しの権兵衛 文目みち @jumonji

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