20 “聖女の寵愛”(2)
「んふ……んふふ……まぜてよ……あたしもまぜてよ……一緒にイかせてよ」
三人の前に姿を見せた虐殺者ユキは、頬に朱を差し、恍惚な表情でリーゼ本体を見つめながら、鼻をスンスンと鳴らしフラフラとリーゼ本体に近づいていた。
「「ああ……あなた、ウィルに執着してた……」」
「んふふふふふふ……」
「「頭がおかしい人でしたっけ……」」
足元にうずくまったエミリオを足蹴にしてその場から動かしたリーゼ本体は、そのままトコトコとユキの方へと歩いて行く。一方ユキも歩くスピードを変えることなく、おぼつかない足取りでフラフラとリーゼ本体との距離を詰めた。
互いに至近距離まで接近した2人。リーゼ本体はまっすぐとユキを見据え、一方のユキは潤んだ両目でユキを見つめた後……
「スンスン……」
「「……」」
「スン……スン……」
鼻をリーゼ本体の耳元に近づけると、興味深そうにリーゼ本体の匂いをかぎ始めた。しばらくの間そうしてリーゼの匂いを嗅ぎ続けたユキは、リーゼ本体の耳元で、ポソッと……しかしリーゼに聞こえるようにシッカリとこう言った。
「あなた……四人?」
「「!?」」
ユキのその言葉を聞いた瞬間、リーゼ本体が目を見開いた。自身の正体が見破られたことによる焦りだろうか……リーゼ本体は素早く右腕を振り上げ、その手の平をユキの顔に向けて勢い良く振りぬいた。
階層に響き渡る、『パン』という乾いた音。だが、その時自身の頭の痛みでうずくまるエミリオと身動きの取れないウィルは、信じられない光景を目にした。
「……」
「「……!?」」
エミリオの頭を挟み潰すことが出来るほどの力を持つリーゼの平手打ちは、ユキの頬には届かなかった。逆にユキは自身の右手に持ったサーベルで、リーゼの右腕の肘から下を斬り飛ばしていた。切断された右腕は、ユキとリーゼ本体から少し離れたところへと飛ばされ、落下した。
「触るな」
「「……」」
今までになく冷酷な声でユキがリーゼ本体に対しそう言い放った。一方のリーゼ本体は……
「「……」」
「……」
「「……」」
「……?」
呆けた表情で立ち尽くしている。焦点の合わない目でユキの足元の床あたりをぼんやりと見つめ、立ったままバランスを失ったようにグラグラと揺れている
「? どうしたの?」
不思議そうな眼差しでユキがリーゼ本体をジッと見つめる。次の瞬間、切り飛ばされたリーゼ本体の右腕が宙に浮き、凄まじいスピードでリーゼ本体の切り口に接続され繋がった。
「「くッ……!」」
「……?」
「「あなた……」」
「……斬れてない?」
リーゼ本体が左半身を前に出すようにユキに対して半身に構えた。
「「……」」
「フッ……!」
ユキの凶刃が再びリーゼの左腕を捉えた。刃は確実にリーゼ本体の左腕に食い込みバッサリとその左腕を切断したはずだった。
「……なぜ?」
「「……」」
再度左のサーベルでリーゼ本体の左足、続けざまに右のサーベルでリーゼ本体の左腕を切断する。ウィルから見てもエミリオから見ても、ユキの刃は確実にリーゼ本体を捉えているが、左足も左腕も切断されてない。
「? どうして?」
「「……」」
もう一度、右のサーベルでユキはリーゼの腹部を斬りつけた。これが普通の人間であれば、この斬撃を腹部に受けた人間は、身体が腹部から真っ二つにされていたであろう程の斬撃である。
「……なぜ斬れない?」
「「聖女ですから」」
「斬りたいのに……イヤだ……斬らせて……斬らせてッ!!!」
「「ご自由に」」
大好きな玩具を取り上げられた幼女のような泣き顔になったユキはその後、信じられないスピードで左右のサーベルから斬撃を繰り返し、いくども幾度もリーゼ本体の身体を斬りつけ、切断しにかかった。
「イヤァァァアアアアア!!!」
「「……」」
「斬らせてッ! すりおろさせてよぉぉおおオオオオ!!?」
しかしユキの刃はリーゼ本体を斬ることが出来ない。ウィルは見た。ユキの刃がリーゼ本体の身体を切断したその瞬間からリーゼの身体は癒着が始まり、刃がリーゼ本体を斬り終えた時には、すでにその傷は完治しているようだった。
ユキは叫び声を上げ、何度も何度も斬りかかった。歯を食いしばり涙をボロボロと流しながら、リーゼ本体の左腕、左足、腹部、首、肩口、胸……あらゆるところを切断し、切断し、切断し続けた。そしてそれらの傷は、次の瞬間何事もなかったかのように癒着している。次第にユキは叫び声を上げなくなった。
ユキが一度斬撃を止めた。そして肩で大きく息をし、顔に疲労の色を見せた。恐るべき威力を誇る正確無比の斬撃を猛スピードで何度も何度も叩き込んだユキの体力に限界がきたようだ。
「フーッ……フーッ……」
「「無駄なことを……」」
「……私は斬っているはず……?」
「「はずでしかない。現にあなたの努力はすべて徒労に終わってます」」
「手応えはある……斬れている……」
「「えらく冷静ですね……幼い子どものような先程とは別人のようだ」」
「フッ……!!」
ユキが再び猛烈なスピードでリーゼ本体をザクザクと斬りつけていった。周囲には刃物が肉と骨を斬りつける音と、斬撃の瞬間にユキの口から発せられる裂帛の呼気の音のみが鳴り響いている。
「フッ……!!」
「「……」」
リーゼ本体に静かに斬撃を繰り出し、何度も何度もリーゼ本体を斬りつけていくユキ。斬撃がダメなら刺突し、左腕表面の肉を削り、刃が肉に食い込んだ瞬間、刃をねじって傷を広げた。
そしてすべての斬撃や刺突に意味がなかった。すべてが刃が通り抜ける度に即座に治癒していく。
「フーッ……フーッ……化物か貴様」
「「あなたこそ、化けの皮が剥がれましたか?」」
「……」
「「それとも、狂人のあなたが本当のあなたなんですか?」」
2人の間にキリのない攻防が続く。斬っては癒着し、また切断し……その繰り返しは終わることなく続いた。
この2人の際限のない攻防を、ウィルは全身の痛みをこらえながらジッと見ていた。
「エミリオ……ッ」
「……? ああ……ッ!」
ウィルが未だうずくまるエミリオに呼びかけ、エミリオもそれに気付いた。エミリオはズキズキと痛む頭を抱え、フラフラになりながら倒れ伏しているウィルに近づき、そしてそばに倒れこんだ。
「エミリオ……どう思う……?」
「何が……だッ……クソッ……」
「リーゼのあの……態度だ……ッ」
「?」
「なぜアイツは、あんなにユキに斬られる?」
「斬られても……意味が無いってことを見せつけてるんだろうッ……鼻につくヤツだッ……いつつ……」
エミリオが頭を抱えながらそう悪態をついた。そしてその真意を考える。
「それは分かる。ではなぜそれを、こんなに長い時間いちいち見せつける必要があるんだヤツは……」
「鼻につく性格をしてるからじゃないのか……あなたのリーゼが……ッ!」
「概ね同意だが……経験則から言うと、彼女の行動には必ず理由がある……斬撃が無駄な行為だと見せつける理由は何だ……?」
ウィルは考えた。なぜリーゼ本体はわざわざ斬撃が無駄だとこちらに見せつける必要があるのか……本当に斬撃に意味が無いのであれば、相手が自分を斬ったその隙に、即座に相手を殺せば済むだけの話だ。いちいち『あなたの攻撃は無駄だ』という意思表示をする必要がない。
戦闘経験がない故の余裕と無知と高慢からくる行動と見ることも出来る。……だがそうではないはずだ。自分に憑依していたリーゼの行動は、必ず理由があった。冷静に物事を組み立て、自身が考えた通りに物事をすすめる人物……それが、ウィルに憑依していたリーゼだった。あの女は、決してそんな愚かな理由では行動しない。あのリーゼは、もっと狡猾だ。
エミリオもまた、リーゼ本体の行動の意図を考える。確かに自分の行動がすべて徒労に終わることほど、人の心が疲弊する原因はない。
だがそれを狙っての行動だとしても、あまりにも執拗すぎる。もしそれが理由なら、一度ユキが斬り疲れてその刃を止めた時に始末していたはずだ。いちいち自分たちに見せつけるように、ユキの斬撃をその身に受け続ける理由がない。
2人はもう一度、ユキとリーゼ本体の戦闘を最初から思い出す。ほぼすべてが徒労に終わったユキの斬撃ではあるが……たった一度だけ、リーゼ本体の様子がおかしい時があった。
『触るな』
『『……』』
2人が接触してはじめての一瞬の攻防。ユキがリーゼ本体の右腕を切り飛ばしたその瞬間、リーゼ本体は突然ぼんやりと立ち尽くしていた。そしてその右腕は、他の斬撃の時とは異なり、一度斬り飛ばされた後元の本体に戻って接続され癒着した。
「あの一度だけがおかしい」
「?」
「エミリオ覚えてるか? 一番最初の2人の攻防」
「ああ。右腕をユキが切り飛ばして……」
「あの時だけリーゼの様子がおかしかった。ぼんやりとユキの足元を眺めながらふらついて……」
「……右腕?」
――あの騎士の人に憑依していた人格は右腕です
エミリオが不意に思い出したリーゼの言葉。ウィルに憑依していたリーゼのことを、エミリオのリーゼは“右腕”だと言っていた。
「ウィル、あなたに憑依していたリーゼが司る部位は“右腕”だった」
「? どういう意味だ?」
「俺のリーゼが言ってた。あなたに憑依していたリーゼは“右腕”を司る人格だそうだ」
「……」
「ひょっとしたらヤツは……右腕を切断されたくないのかもしれない」
確信はまったくない。だが、それを肯定する材料がもう一つあることにエミリオとウィルは気付いている。リーゼ本体は一度右腕を飛ばされた後、ユキに向かって左半身を向けている。……言い方を変えれば、右腕を斬られまいとしているようにも見える。
ウィル曰く、リーゼ本体の行動には必ず理由がある。右腕を切断された時だけ、明らかに様子がおかしかった……右半身をユキの斬撃から遠ざけている……斬撃が無意味であることを必要以上に見せつけている。つまり。
「……やはり右腕だけは斬られたくないのかヤツは……」
「かもしれない。間違ってるかもしれないけれど……」
「やる価値はある。そうだな?」
「なにもやらないよりは……」
エミリオとウィルはユキを見る。ユキは変わらず静かに裂帛の気合のみを込めて、リーゼへの無駄な斬撃を繰り返していた。
「聞こえるか! 虐殺者!!」
「……ッ!」
「右腕だ! 右腕を斬れ!!」
リーゼ本体の顔色が変わった。余裕が感じられていた表情に緊張が篭ったのが、エミリオとウィルにも見て取れた。そしてその変化を、ユキが見逃すはずがない。
「……?」
「「……」」
「本当か?」
「「クッ……!!」」
ユキの口角がニヤリと釣り上がった。今のユキからは、ウィルと対峙した時の……この鐘塔の敷地内で『人の使徒』残党と相対した時のような狂気は感じられない。しかし、ある意味ではそれ以上に硬質で低温な殺気を込めた眼差しを見せたユキは、素早くリーゼ本体の背後に周り、右腕を切断せんと左右のサーベルを交差させた。
「……ッ!!」
「「んあッ」」
寸前で身体を翻し、再び左半身をユキに向けたリーゼ本体を、背後から別の影が襲う。
「「……ッ!!!」」
エミリオが“魔女の憤慨”の切っ先をリーゼ本体に向け突進していた。
「「まだ……動け……ッ!?」」
突進するエミリオの身体に、突然の抵抗が立ちはだかった。これは恐らく、先程ウィルが渾身の力で破壊した空気の壁のようなもの。ウィルが破壊してから時間がかなり経過しているため、いつの間にか修復されていたようだ。それが突進するエミリオに壁として立ちはだかり、エミリオの突進はリーゼ本体の右腕に直撃する寸前に静止した。
だがその空気の壁は、眼前のユキの前で一切の無力だった。
「フッ……!!」
再び鳴り響いた『パン』という音とともに、エミリオをせき止めていた壁がなくなった。困惑するリーゼ本体。ユキを見ると、ユキは右手のサーベルを振りぬいていた。
「「あなた……なぜ……?」」
「……」
リーゼが予想外のアクシデントに気を取られている間にエミリオがリーゼ本体の右腕に“魔女の憤慨”を突き刺し、全身でリーゼ本体にぶつかっていく。そのままリーゼ本体の身体を担ぎ上げ、勢いを殺さないまま壁まで突進していった。
――私の名はリーゼ。この村に封印されているリーゼです!
「「!? このままでは……!?」」
「とらえたッ!!!」
壁に衝突し、そのまま深くめり込むリーゼ本体を押し付けたエミリオ。リーゼの右腕を突き抜けて腹部に“魔女の憤慨”が突き刺さったまま、エミリオはその柄から伸びたレバーに手をかける。“魔女の憤慨”の輝きが増し、法術“聖女の寵愛”の発射準備が整った。
――それじゃあ信頼の印に握手しましょう握手!
「撃てエミリオぉおおおお!! 」
――助けたかったよぉ……痛いよぉエミリオさん……ごめんなさい……
「……ッ!」
――殺……して……下さい……
「……出来るかちくしょうがぁあああ!!!」
レバーを引き絞るまさにその寸前、エミリオは“魔女の憤慨”をそのまま右に振りぬいた。そのままそれが斬撃となりリーゼ本体の右腕と腹部に切断寸前の切り傷をつけたが……
「バカなエミリオッ!!!」
その切り傷はまたたく間に癒着した。リーゼ殺害は失敗に終わった。
「エミリオッ!! なぜ撃たんのだッ!!!」
「こいつはリーゼなんだ! 俺が『助ける』と言ったリーゼなんだッ!!」
最後の土壇場でエミリオが“聖女の寵愛”を撃てなかった理由。それは、エミリオにとってのリーゼだった。リーゼ本体は、エミリオのリーゼをも取り込んでいる。あの状態で“聖女の寵愛”を射出することは、このリーゼ本体はもちろん、この事件が起こってから共に助けあい、そしてエミリオが『助けたい』と思った、あの不幸な少女をも殺すことになる。
――……エミリオさん、ズルいですよそれは……
エミリオのリーゼは先程、『殺してくれ』とエミリオに懇願した。確かにこれはリーゼ本人も望んでいることなのかもしれないが……それだけは出来ない。自身が助けたいと思った少女を自分の手で殺すことは、どうしても受け入れることが出来なかった。
「「エミリオさん……あなた本当に愚かですね」」
「……ッ」
「「せっかくの好機をフイにするんですから……」」
「ならば斬るまでッ」
誰かが背後から突進し、そのまま肩に飛び乗ったことをエミリオは感じた。木の葉のように軽いその足取りの正体はユキ。今までとは様子が違っているユキだったが、そのことに気を取られる余裕は今のエミリオにはない。
「「あなたもしつこいッ!!」」
「んぁあッ!!!」
ユキはそのままエミリオを踏み台にしてリーゼに向けて跳躍するが、すでにリーゼは落ち着きを取り戻していた。冷静に左手でユキの顔面を掴み、そのままの勢いで自身がめり込んだ壁にユキを叩きつけた。
「ごふぉッ!?」
「「あなたもいい加減……うざったいです」」
壁にユキの顔面を押し付けていく。やがて壁にはヒビが入り、ゼリーのようにグズグズに崩れ、その瓦礫の中にユキを押し込んでいった。
「ぅぅぅううあああッ!!!」
はじめは体中を必死にバタつかせて抵抗しつづけていたユキだったが、やがて壁が崩壊して瓦礫の中に押し込まれる頃には、すでに体中がぐったりとし、抵抗を見せなくなっていた。
「……」
「「ふー……さて……」」
ユキが動かなくなったのを確認したリーゼ本体は、視線をエミリオに向けた。
「「じゃあエミリオさん。そろそろ……」」
「クッ……」
「「終わりにしましょっか」」
エミリオの胸を不快感が襲う。先程まではそう感じなかったのだが……時間が経過すればするほど、このリーゼ本体の話し方が……声色や声の出し方、抑揚やアクセントの付け方がエミリオのリーゼにそっくりになってきている気がする。自分のリーゼではないものが、リーゼの声で、リーゼの話し方でエミリオに話しかけてくることが、エミリオにとっては不快な事実でしかなかった。
再度エミリオは“魔女の憤慨”をリーゼ本体に向けたが、リーゼ本体はほくそ笑むだけで狼狽えることはない。リーゼ本体は、エミリオが自分を撃たないということが分かっている。“聖女の寵愛”を撃たない“魔女の憤慨”は、普通のサーベルと何ら変わらない武器だ。今のリーゼ本体にとっては恐ろしくも何ともない。
「「エミリオさん、無理しなくていいですよ?」」
「……」
「「あなたが私を撃てないのは分かってますから」」
「……クソッ!!」
リーゼ本体が近づき、エミリオの首に手を伸ばした。エミリオは“魔女の憤慨”を振り回したが、先ほどの突進に全霊を込めたエミリオの身体は疲労の限界に来ている。“魔女の憤慨”を振り回すその両手にも力がこもってない。リーゼは右腕で安々とエミリオの首を掴むと、そのまま渾身の力を込めてエミリオの首を締め始めた。
「ぐあッ……!!」
「「すりつぶしてもいいですが……私の手に直接の感触を残しておきましょう。“目”への見せしめのためにも」」
「あッ……カ……ハッ……!!」
窒息を狙った首絞めではない。リーゼ本体が握りしめるエミリオの首から“ブチブチ”という音が聞こえる。気管だけでなく血管や食道といった、首を走る重要器官のすべてを潰すつもりで、リーゼ本体は首を絞めているのがエミリオには理解できた。
そしてそれを見るウィルは、リーゼ本体の抹殺がもはや絶望的であることを理解した。唯一可能性があるとしたら、エミリオが持つあのサーベルだった。一撃でゴーレムを粉砕し、どのような生物でも命を奪いチリに返す一撃必殺のサーベル。
だがその利用をエミリオは土壇場で拒否した。ならばもう勝てる見込みはない。ウィルは首を締められるエミリオを眺め、瓦礫の中でもぞもぞと動くユキを見て、自身の命運はここで潰えるであろうことを理解した。
『エミリオ……聞こえますかエミリオ……』
薄れゆく意識の中、エミリオの頭の中に懐かしい声が響いた。
「……誰、だ……?」
かろうじて意識を保ち、なんとか出てくる声を振り絞って、その声に返事をするエミリオ。この体験は“始業の教会”の地下礼拝堂でリーゼに声をかけられた時に似ている。あの時のように元気で明るい声ではないが……あの時のリーゼのようにくだけた声ではなかったが……
『リーゼです』
もう一度、今度はハッキリと声が聞こえた。“始業の教会”でのリーゼとの会話とほぼ同じセリフに、エミリオはついに走馬灯が見え始めたと錯覚したが……どうやらそうではないらしい。
『エミリオ、最後まで戦いなさい』
「……俺には……キミは殺せ……ない……ッ」
「「? ひとりごとですか?」」
『“目”はあなたを助けるために、必死に“右腕”に抵抗しています。あなたが抵抗せずしてどうするのですか』
「なら……何か手はあるのか……リーゼを殺さず……救う……方法がッ!!」
「「誰と何を話しているんですかッ!!」」
『あなたたちの方法は間違ってなかったんです。要は私たちから“右腕”の意識を切り離せばよいのです。切断した右腕を撃ちなさい』
「ウィルは……聞いてるか……?」
『聞いています。この会話がそのまま聞こえているはずです』
酸欠で白いもやが視界を覆い始めていた両目をウィルに向けた。ウィルはこちらを見ている。『聞いている』。その目は、エミリオに対し、そう伝えていた。
『私ももうもちません……エミリオ、どうか……どうか私達を止めて下さい……』
「あんたは……誰だッ……」
『後ほど“目”に聞き……』
声が唐突に聞こえなくなった。今のは本当のことか? 死ぬ寸前の自分が自分自身に見せている幻では……そう疑い、ウィルを再度見た。
「ぐぐ……エミリオ……ッ!!」
ウィルはなんとか右足だけで立ち上がっていた。苦痛で顔を歪ませながら、それでも右足だけで力強く立ち上がる。
「「ウィル……そこまでされてまだ動くのですか?」」
「……もちろんだッ!!!」
「「まだ足りないのですか? 慌てずともエミリオさんの後で」」
――パン
エミリオとその首を締めるリーゼ本体の間に風が吹いた。エミリオの前髪を揺らす程度の風が吹いた直後、エミリオの首にかかっていた圧力がなくなり、エミリオの喉に空気の通り道が開いた。
「ウッ……ゲホッ……グホッ……ゲフッ!?」
「「……」」
その場にうずくまり、咳き込みながら自身の肺に空気を取り込むエミリオ。リーゼ本体の足元を見る。肩から切断されたリーゼの右腕が転がっている。あの風を起こしたものが、リーゼ本体の右腕を切断したようだ。
「ゲフッ……ゴフッ……誰だ……ゲフッ!!」
エミリオは、先程自分がリーゼ本体を押し付けた壁を見た。たくさんの瓦礫の中に埋もれていたユキが、こちらを静かに見据えていた。
「……斬ると言った」
ユキが自身のサーベルの一本をこちらに向かって投擲したことをエミリオは理解した。投擲されたサーベルは回転しながら正確にリーゼ本体とエミリオの間を通りぬけ、2人をつなぐリーゼ本体の右腕を切断したのだ。エミリオはユキとは反対の方角の壁を見る。ユキのサーベルが突き刺さっていた。
「「……」」
切断されたリーゼの右腕が再び動き出す。右腕はピクピクと痙攣し、リーゼ本体の右肩に出来た傷口に接続するためなのかふわりと浮いた。
「フッ……!」
ユキがもう一本のサーベルを投擲した。そのサーベルは今度は回転せず切っ先を前方に向けたまままっすぐ右腕に向かって飛来した。
「……!?」
だが狙いが少し外れた。切っ先が右腕に刺さることはなく、右腕もその衝撃で若干飛ばされたものの、サーベルが刺さることはなかった。無傷の右腕は大きく弧を描いてエミリオの後方に飛ぶが、しばらく飛んだところでキラリと輝き、再び軌道修正してリーゼ本体に向かってスピードを上げて飛翔した。
「させんッ!!」
その右腕の飛翔を邪魔したのはウィルだった。ウィルは自身の身体を使って右腕の進行ルートを塞ぐと、そのまま骨が砕けたボロボロの両手でリーゼの右腕を掴み、そのまま前のめりに倒れてリーゼの右腕を押さえつけた。ウィルの全身を再び激痛が襲うが、ウィルは構わずリーゼの右腕を押さえつける。
「ぐぅぁぁああッ!? え……エミリ……オッ!!!」
未だ呼吸が整わないエミリオが、再び“魔女の憤慨”に手をかけ、咳き込みながら立ち上がる。リーゼ本体の身体は、糸が切れた操り人形のようにグシャリとその場に崩れ落ちた。
「早くしろッ!! 力が入らんッ……抑えきれんッ!!!」
バタバタと動き続ける右腕を抑えきれないと判断したウィルは、そのまま右腕の手の平に噛み付いた。両腕に力が入らず、これ以上は拘束出来ないのであれば、唯一力が入る口で抑えつけるしか手はない。自身の歯が人間の皮膚に食い込み、肉をかじり取りそうな感覚に不快感を覚えながらも、ウィルは手の平に噛みつき、右腕の動きをなんとか封じていた。
まだ酸欠が収まらずグラグラと揺れる頭を押さえながら、エミリオは“魔女の憤慨”を右手に持ってウィルのそばまで近づいた。そしてウィルの拘束を逃れようとバタバタと動き続ける右腕に“魔女の憤慨”を突き刺した。
右腕を突き刺したまま“魔女の憤慨”を頭上に振り上げ、柄のレバーに指をかける。
――ありがとうございます! ホントにありがとうございますエミリオさん!
「……くたばれ偽物ッ!!!」
“魔女の憤慨”のレバーをエミリオは引き絞った。射出される“聖女の寵愛”。カタパルトが射出した岩石の直撃音のような轟音が鳴り響き、そして右肩が脱臼しかねないほどの衝撃を感じたその次の瞬間、エミリオとウィルの耳に届く声があった。
――お父さん……お母さん……オズさん……
ごめんなさい……みんなの恨みを晴らせませんでした……
ごめんなさい……
「リーゼ……」
ウィルはその声を聞き、複雑な感情を抱いて空を見上げた。今回の事件が起こってから、あのリーゼは常にウィルと共にあった。
確かに彼女の目的は復讐にあった。大切な人たちを殺されたという恨みを、法王庁や弱き人々に向けて発散するという、もはや狂っているとしか言えない目的だった。それは聖騎士として許さない。彼女の命を奪ったことは、聖騎士として一切の迷いや後悔はない。
だが、そのようにリーゼが狂ってしまったのも……彼女が憤怒と憎悪を増幅させ、弱くとも懸命に生きる人々たちをも虐殺しようとしてしまったのも、すべては当時の教会の非道な行いのせいだ。
ウィルは思う。もし自分がリーゼと同じ境遇に置かれたら……大切な肉親を非道に殺された後、自身は法王庁に封印され、何百年も真っ赤な空間に封印され続けたとしたら……あのリーゼと同じ行動に走らないといえるだろうか。
その意味では、ウィルは自身に憑依していたリーゼを責める気にはなれなかった。戦闘中は、確かにリーゼは殲滅しなければならない敵だった。だが今、ウィルはリーゼに対する認識を改めていた。リーゼは皆が思うような完璧な聖女ではなかった。皆と同じく、悲しいことがあれば泣き、理不尽なことがあれば怒り、騙されれば人を憎む……ごく普通の、弱い少女だったのだ。そんな普通の少女リーゼを誰が責められるだろうか。
長い戦いの末に夜が明け、空は次第に明るくなりつつある。漆黒だった空に次第に青色が戻るその光景は、本当に純粋で美しい。
「リーゼ……あなたの心も、夜が明けてくれればよかったのに……」
そうすれば……私とあなたは、あの2人のように良い友になれたのかもしれなかったに……リーゼに駆け寄ったエミリオと、そのエミリオに抱きかかえられたリーゼを眺めながら、そう思わずにはいられないウィルだった。
一方、エミリオは“魔女の憤慨”を腰に戻し、未だうずくまるリーゼ本体の方に駆け寄り、その肩を抱き寄せた。
「リーゼッ!!」
リーゼの顔を覗き込み、エミリオは必死にリーゼに呼びかける。戦闘中、正体不明の声を信じて右腕を切断し、“聖女の寵愛”で撃ちぬいたエミリオ。あの時はそうすることが最善だと思ったが……今になって意識を取り戻さないリーゼを前にし、その決断に自信が持てなくなった。
確かに“聖女の寵愛”で撃ちぬいたその瞬間、“右腕”のリーゼと思しき声が聞こえた。だが、それがもし違ったら……もし、まだ“右腕”を始末出来てなかったとしたら……もし、“聖女の寵愛”を射出した時に聞こえたあの声が、“右腕”ではなく“目”だったら……ネガティブな発想が止まらない。エミリオの心臓は開戦前のスネアドラムのような鼓動を余儀なくされ、緊張でリーゼの肩を抱き寄せるその右腕に力が入りきらない。
「リーゼ……起きろリーゼッ!!」
もう一度、あらん限りの希望を込めてリーゼの名を呼ぶ。
「……んんっ」
リーゼの眉間にシワが寄り、顔が少し動いた。どうやら命そのものは助かっているみたいだ。
「リーゼ……起きろ」
「んん……んー……」
リーゼがゆっくりと目を開ける。戦闘中に見た、美しく輝くグリーンの両目だった。そしてその両目はキョロキョロと周囲を見回した後、エミリオに視線を合わせた。
「エミリオさん」
「……起きたか……よかった……」
胸をなでおろすエミリオ。エミリオの心臓がやっとマーチのテンポを止め、鼓動が落ち着いた。ふぅとため息をついた後、エミリオはリーゼの頭をなでてあげた。
「エミリオさん」
「ん?」
頭を優しく撫でられているリーゼはエミリオに向かって微笑んだ。その微笑みは、エミリオが初めて見るはずで……それでいて今日一日のうちに、もう何度も見たような……自分とリーゼとの会話の中で何度も頭に思い浮かべた通りの、明るい笑顔だった。
「はじめまして。リーゼです」
「……? なんで今さらはじめまして?」
「ぇー……いやぁだって、こうやって面と向かって話すのは初めてじゃないですか」
「ぁあ、確かに。はじめまして」
言われてみて初めて気付く事実。ずっと一緒にいたからまったくそんな気はしなかったのだが……確かに自分とリーゼが面と向かって話をするのは、これがはじめてだとエミリオもやっと理解した。ほんの少しの気恥ずかしさと共に。
「それよりも右腕」
「へ?」
「出血だけでもなんとかしないと……」
「ぁあ、平気です」
リーゼは自身の右肩を見ると、何かをポソポソと口ずさみ始めた。右肩の傷口から流れ続けていた血が止まり、その傷口からほんのりと輝きを帯びた新しい右腕が姿を見せた。そのような光景をエミリオは初めて見るが、不思議と戸惑いや驚きはなかった。
「ほら。これでも元聖女ですから」
「さすが元聖女様」
「ニヘラぁ……」
そうしてしばらく見つめ合った後、リーゼが両腕をエミリオの肩に回した。そしてエミリオの顔を抱き寄せ、頭をギュッと抱きしめた。
「いだだだだだ」
「まだ痛みます?」
「んー」
「ちょっとガマンしてくださいね。男の子なんですから」
そんなことは関係ないと思いつつ、エミリオは言われるままにエミリオに頭を抱きしめられた。確かにさっきの戦いで、エミリオは頭をひどく締め上げられた。今も少しでも頭に刺激を与えると瞬時に痛みが走る。……だがエミリオは、黙って静かに文句を言わず、リーゼに自身の頭を委ねた。リーゼは何かを伝えようとしている。故にエミリオは、痛みよりもその気持ちを受け止めることを優先した。
「エミリオさん、ありがとう。約束は守ってくれなかったけど……私たちを……私を助けてくれて」
「いいよ。オズさんの日記を読んだ時に……ユリウスと話をした時にハッキリと分かった。この街を守ることも大切だったしキミとの約束も守りたかったけど、キミを助けたい……助けなきゃいけないって思ったんだよ」
「ありがとう。本当にありがとうエミリオさん」
エミリオは頭にポタポタとしずくが落ちているのを感じた。リーゼがエミリオの頭を抱き寄せながら涙を流しているようだ。そんなに喜んでくれたのなら……死ぬ思いでここまで頑張った甲斐があった。エミリオは頭の痛みに耐えながら、一人の少女を過酷な運命から救い出せたことに満足し、ある種の達成感を感じていた。
……そしてもう一つ。エミリオには分かったことがあった。それは、やはりリーゼはずっとウソをついていたわけではなかったということだ。それは彼女の素性のことではない。今まではうっすらと見えた蜃気楼のような幻でしか確認することが出来なかった、彼女の姿に関することだ。エミリオは、この子は本当に素直でウソを言わない子なのだということを身を持って実感した。
「ああ……本当だったんだ。安心した」
「? 何がですか?」
「胸」
「だから過剰な期待は謹んでくださいと出会った時からあれほど……まぁいいです」
その言葉を聞いても、リーゼの涙は乾くことはなかった。
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