おにいちゃん

 あたしのおにいちゃん、かぜさかかいは、あたしより八つ年上の二十五歳だ。


 おにいちゃんは大学時代からこの響告市に住んでいる。偏差値七十五の響告大学に一発合格して、そのままストレートで卒業したから、一般的にいって、頭がいいほうに入る。


 あたしは高校入学と同時に、おにいちゃんと一緒に住み始めた。「一緒に住もうか」って言い出したのはおにいちゃんのほうだ。あたしが両親と仲が悪いのを知ってて、助けてくれた。


 ちょっとうっとうしいとこもあるけど、あたしはおにいちゃんのこと信用してる。


「お、麗、お帰り」


 おにいちゃんは、キッチンから顔をのぞかせて、にこりとした。ひょろっとして、背が高い。妹のあたしの目から見ても、まあまあ美形。ただ、本人にはその自覚なし。


 いつもテキトーなメガネとTシャツとジーンズで、時代遅れのリュックサックに、癖のある髪はほったらかしの伸ばしっぱなし。先週から襟足で結ぶようになった。


 そのコーディネート、シミュレーションゲームでは点数低いと思う。もうちょっとカッコよくしたらいいのに。


「ただいま」


 ひとまず、帰宅の挨拶。


 おにいちゃんは怒ったり叱ったりしない。でも、説教を始めると長い。玄関の靴を揃えること、とか。人と顔を合わせたら挨拶をすること、とか。家でも最低限のテーブルマナーを守ること、とか。


 あれこれ気を付けなきゃいけないのは面倒なんだけど、一度教わったことを忘れたと思われたくない。だから、おにいちゃんの言いつけは守ることにしてる。


「今日も夜勤が入ったんだ。夕食は作って置いとくから、都合のいいときに食べて」

「はいはい」


 おにいちゃんの仕事は、ヘルパー。正式に言えば、肢体不自由者生活介助士。つまり、体が不自由な人の生活の手助けをする仕事だ。


「冷蔵庫にガトーショコラを入れてるよ。利用者さんからのリクエストで焼いたんだ。もちろん、麗のぶんも一緒にね。けっこう自信作だよ」


 おにいちゃんが所属する派遣事務所では、顧客である肢体不自由者を「利用者さん」と呼んでる。


 代行サービス業なんだって。福祉事業じゃないんだって。車を運転できない人がタクシーを利用する、みたいなサービス業。


 おにいちゃんは、ある一人の利用者さんに雇われてる。利用者さんは、若い男の人みたい。


 アサキっていう名前だってことだけは知ってる。どんな人なのか、詳しくはわからない。遺伝子系の病気で体が不自由ってことは聞いたことがある。相手とおにいちゃんは友達どうしでもあるみたいだった。


 あたしは部屋にカバンを投げ出して、制服を脱ぎ捨てた。Tシャツとショートパンツに着替える。あたしの自慢は、すらっとした手足。胸とお尻のボリュームはあんまりないけど。


 鏡をのぞけば、おにいちゃんと似た顔がこっちを見返してくる。でも、おにいちゃんとは正反対の、不機嫌な表情。


 広めの額。すんなりした鼻筋。小造りな口とあご。


 目元は、あたしとおにいちゃんで印象が違う。あたしは母親似の華やか系。おにいちゃんは父親譲りの涼しげ系。


 おにいちゃんは、顔立ちはクールだ。でも、笑い方が優しい。向かい合った人が思わず肩の力を抜いてしまうような、お人好しの温かい笑顔。


 昔からおにいちゃんは穏やかだった。でも、ここまで優しくなったのは、ヘルパーになってからだ。


「今、五時ね。ラフやニコルとの約束までには、あと三時間もある。先にシャワー浴びて、ごはんも食べちゃうかな」


 キッチンでは、おにいちゃんが慌ててた。


「夜勤、六時からなんだ。これじゃギリギリだよ。麗、頼みがある。洗濯物、取り込んどいてもらえる?」

「わかった」

「助かるよ。ぼくのぶんは畳まなくてもいいから」

「うん」


 おにいちゃんは洗濯物にこだわる。ほんとは別々に洗濯するほうがいいって言う。おにいちゃんはあたしの下着を洗ったり干したりしたくないって。あたしは気にしないのに。


 家事はおにいちゃんにやってもらいたい。できないわけじゃないけど、どんなタイミングで何をすればいいか、あたしはうまく見極められないから。その結果、家じゅうが散らかり放題になるから。


 洗濯物に関しては、議論が平行線。あたしは、おにいちゃんの下着も平気。所詮はモノでしょ。裸を見ることや見られることはタブーだと思うけど、ただのモノにまでタブーがあるって理解できない。


 こういうこと、ときどきある。あたしが理解できないこと。あたしの、普通じゃない部分。


 まわりとあまりにも感覚が違うと、いずれ困ることが出てくるだろうって、おにいちゃんは言う。


 あたしが納得するまで、おにいちゃんは説明を続ける。もともと、おにいちゃんは工学部でプログラミングをしてた。そのおかげで、おにいちゃんの説明は論理的だ。ついでに、バグったプログラムと延々にらめっこすることに慣れてたから、すごく我慢強い。


「じゃあ、行ってくる! 麗、戸締まりには気を付けろよ」

「わかった」

「あと、ピアズをやるときは、部屋を適度に明るくして、目の負担を減らすように気を付けて」

「わかったってば」

「それと、食器の片付けは……」

「いいから、さっさと行きなさいよ!」


 おにいちゃんはにこりとして手を振った。すらっとした、長い指。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 あたしはまず洗濯物を取り込んだ。自分のぶんだけを畳んで、タンスにしまう。それから、シャワーを浴びた。


 おにいちゃんがいないときには、遠慮なく下着で過ごせる。この部屋は旧式マンションの最上階で、構造的に熱がこもりやすい。秋の夜でも、下着でちょうどいい。


 夕食のメニューはオムライスだった。ふわとろ卵は、完全無欠な黄金色。それと、温野菜サラダと、冷製カボチャスープ。


「将来、おにいちゃんを家政夫として雇おうかしら」


 おにいちゃんがいたら、いろいろ便利だから。それなら、あたしもこの世界で、やっていける気がするから。



***



 今年は、西暦二〇五二年。SNSを利用した犯罪が相次いで大量の逮捕者が出たのは、二十七年前のこと。あたしが生まれる十年前だった。


 そのときの法的措置はとても厳しかった。粛清っていっていい。インターネットを活用したビジネスは潰滅。コンピュータゲーム産業も、もちろん完全にすたれた。


 以来二十五年間、市場に出回るゲームは、すべてオフラインだった。インターネット回線による通信システムは、全面禁止。家庭用ハードウェアと家庭用ソフトウェアで完結する「ハコ型」のみOK。


 特別認可オンラインRPG『PEERS'ピアズ STORIESストーリーズ』が配信解禁となったのは二年前のことだ。


 LOG IN?

 ――YES


 ピアズは、オンラインゲーム業界再生のための第一歩。二度と犯罪を蔓延させてはならないから、管理体制は徹底している。


 オンライン本編のプレー時間は、一日四時間まで。最初のダウンロードにだけ料金が必要で、それ以外の本編での課金は、制度そのものが存在しない。


 システムエラーが少ないのもピアズの特徴。プロのエンジニアが全力でサポートしてるらしい。ピアズ内の治安維持は法律系のエキスパートが担当してる。


 基盤産業の希薄な日本が生き残りをかけて展開する国家プロジェクトが、コンピュータゲームだ。外国に先駆けてオンラインゲームを解禁したのも、その一環。


 PASSCODE?

 ――****************


 OK! ALOHA, SHA-LING!


 画面の中に現れたのは、アタシ。オーロラカラーのツインテールを揺らす少女剣士、シャリンだ。


 あたしは唇の両端にリップパッチを着けた。リップパッチはマイクの集音器であり、同時に、口元の表情をアバターと連動させる装置でもある。あたしが笑えば、シャリンも笑う。


 戦闘コマンドは、音楽系ゲームと同じシステムだ。かなり変わってる。ピアズの開発者の趣味らしいけど。


 バトルに使うのは、八つの矢印。上・下・左・右の四方向と、それを四十五度回転させた斜め四方向。


 バトルが始まると、画面手前に小ウィンドウが開かれる。リズムとフレーズに合わせて矢印が降ってくる。小ウィンドウの下にある「ヒットライン」に達する瞬間、タイミングよくコマンドを入力する。


 リズムの正確性が大事なの。スキルが成功するか失敗するか、どれだけの威力を発揮するか、それを決定するのはリズム感と指先のテクニック。


 高度なスキルを発動させるには、高度なテクニックが必要になる。初歩的なスキルはBPM120。つまり行進曲のスピード。上達しても、大抵のユーザの限界はBPM220くらい。それ以上になると、もう矢印を目で追えない。


 あたしの視覚は人並み外れている。特異高知能者ギフテッドとしての能力だ。あたしなら、BPM400のロングフレーズも完璧に視認できる。もうすぐBPM480の新スキルも出るんだって。楽しみ。


 手慣れたコマンドを入力すると、シャリンの剣が鮮烈な光を発した。オーロラカラーの髪が、キラキラと、ひるがえる。ローズピンクの目が輝いて、小さな唇が口角を上げた。


 跳躍。七閃する剣光。


“Wild Iris”


 うん、いつもながら調子は上々。

 では、いざピアズの世界へ。あいつらが待つ、冒険の島へ。

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