約束

 もともと今日は外出する予定だったんだって。そこにあたしも加わって、三人で県立美術館に向かった。


 朝綺は美術館に会員登録してるらしい。


「外に出る機会をつくれって、界人がうるさいんだ。美術には、そこまで関心があるわけじゃないんだけどさ」


 朝綺は軽量型の車いすに乗って、おにいちゃんが車いすを押している。


 車いすのハンドルの位置は、あたしが押すには高すぎた。背が高いおにいちゃんに合わせてハンドルの位置を決めた特注品なんだって。お互いに負担にならないように作ったらしい。


 美術館って、あたし、実は初めてだ。視覚に強いあたしは、絵は得意分野のはずなんだけど、あたしが通ったエリートアカデミーに美術系の講義はなかった。


 平日の美術館は、貸し切りに近いくらいのガラガラ状態だった。


 おにいちゃんは、絵がけっこう得意だ。ゲームの開発でもCGを担当してたくらいだから、美術館にもご満悦みたい。


「ぼくは、いつもいい目を見させてもらってるよ。朝綺がいるおかげで、たいていの施設で介助者の入場料はタダだから」


 ちなみに、今日はあたしもタダで入館してる。美術館の会員である朝綺が優待券を持ってたから。


 シャガールっていう画家の特別展だった。おにいちゃんがいちばん好きな画家だって。


 マルク・シャガールは二十世紀の画家だ。ユダヤ系で、ロシア圏の出身。二度の世界大戦を経験しながら、差別から逃れていろんな国を渡り歩いた。


 人が飛んでる絵が多い。花束っていうモチーフも多い。サーカスもたくさん描かれてる。


 感情そのものみたいな色遣いが、あたしの視覚に刺さる。喜びのブルー。悲しみのスカーレット。失った故郷を想うときは、寂しげなグリーン。


 シャガールが描くのは、感情だ。その描き方は、計算し尽くしてある。計算はたぶん、本能的なもの。


 情感と色彩を関数に見立ててカンヴァスの上で処理するみたいに、シャガールの絵はとても理性的で秩序的だ。


 あたしと同じタイプの人だったのかもしれない。目に映る光景を、数式に置き換えて分析する。変わり者の自分を、同時に分析しながら。


 幻想的なタッチの中に、整然とした法則が読み取れる。緻密な計算が、現実と非現実を美しく溶け合わせる。


「いい絵ね」


 初めて見たのに、なつかしくて、苦しくなる。不思議。百年前の画家の絵が、あたしの心に、こんなに近い。


「麗って、絵が好きだったっけ?」

「嫌いじゃないみたいね。自分でも知らなかった」

「じゃあ、これからも三人で来ようか」

「さ、三人ね。うん……」


 朝綺がイヤだって言わなければね。


 おにいちゃんが美術館を楽しんでるのはよくわかる。でも、朝綺はどうなの? あたしがいて、邪魔じゃない?


 あたしはシャガールの絵に心を奪われながら、同時に、一瞬で多くの情報を読み取れるこの目で、朝綺の言葉や表情を観察してる。朝綺の情報を一つも取り逃がしたくなくて。


 見れば見るほど、朝綺はラフを思い出させる。


 現実に比べて圧倒的に少ない表情しか持てない世界で、それでも全身で生き生きしてたラフ。あんなふうに跳んだり跳ねたりするのが、朝綺の望みなんだ。


 真実を知って、あたしは悔しくてたまらない。



***



 特別展のシャガールを観た後、常設展も観賞した。


 見終わるころにはちょうどお昼ごはんの時間帯で、美術館に併設されたカフェでランチをとることになった。屋内席とテラス席がある。


「どっちにする?」


 おにいちゃんの質問に、パッと答えたら。


「外がいい」


 あたしと朝綺の声が、また重なった。朝綺は笑ってたけど、あたしはうまく笑えなかった。


 今日はキレイに晴れてて、秋風が気持ちいい。芝生の庭は広々してる。

 ほんとの屋外って、ぜいたくだ。住宅の庭も学校のグラウンドも近所の公園も、UVカット仕様の強化ガラスで覆われた場所がほとんどだから。


 朝綺はいたずらっぽく目をきらめかせた。


「外出するときに地味にいちばん困るのは、食事なんだぜ」


 おにいちゃんが笑いながらうなずく。


「朝綺の車いすで、たいていの人は察してくれるけど。でも、あれだよな」

「おれの食事介助ってさ、男どうしで『はい、あーん』ってやるようなもんだから。しかも、若いイケメンどうしで」


「絵になるって言われるんだよ。ヘテロのカップルより、ゲイのカップルに対する反応のほうが、なんていうか、こそばゆいほど温かいだろ?」

「違うんだとも言いづらくなるんだよな。違うんだけどさ、マジで」


 ホッとしてる自分に気が付く。おにいちゃんの口からゲイって言葉が出たときに、体がビクッとしてしまった。


 取られたくないっていう気持ちは、一体、誰に対してのものなんだろう?


「じ、じゃあ、あのっ……今日、あ、あたしが食事介助、しようか?」

「へっ?」


 朝綺が、変な声をあげた。そんなにこっち見ないでよ。顔、上げられないじゃない。


「な、なによっ? 文句、あるの? あたしがやれば、あのっ、変な誤解を受けずに、すむ、でしょ……」


 ぷっ、と、おにいちゃんが噴き出した。


「あはははは! 二人とも、表情が最高!」

「お、おにいちゃんっ!」

「いや、ごめん。なあ、朝綺。外食の介助は、これから麗に全部、任せようか?」

「おにいちゃん、調子に乗りすぎ!」


 あたしはおにいちゃんの背中をパシッと叩いた。おにいちゃんは笑いながら席を立った。


「カウンターで料理の注文をしてくる。麗は、日替わりって言ったよな?」

「うん」


「朝綺も、いつもどおり日替わり?」

「いや、オムライスにしとく」

「珍しいな」

「スプーン系のほうが、初心者でも介助しやすい」


 朝綺の口調はびっくりするくらい冷静で、あたしはハッとして朝綺を見た。大人だ、と思った。あたしの思いつきを否定せずに、むしろフォローしてくれてる。


 おにいちゃんは冗談っぽく、朝綺に釘を刺した。


「じゃ、行ってくるけど、麗にちょっかい出すなよ」

「手が出せりゃ、とっくに出してる」

「おい」


 おにいちゃんは、カフェのレジカウンターのほうへ行ってしまった。


 あたしは思い切って、朝綺と正面から向かい合った。テーブル越しの距離は、遠いようで近い。


 さっき、気付いたことがあった。展示室の独特の照明を浴びながら、朝綺の顔に、うっすらとした傷跡があるのが見えた。ラフと同じで、右のほっぺたに一文字の傷跡がある。


「その右のほっぺたの傷、どうしたの?」

「ああ、これ? 子どものころに、鉄棒から落ちたときの傷。頭から落ちて、小石に顔をぶつけてさ」

「鉄棒?」

「やっぱ、驚くよな。こんな身動きとれない人間が鉄棒やってたとか」


「だって、あの……」

「いいよ、何でも訊いて。おれさ、九歳のころまでは、鉄棒や縄跳びもできてたんだ。十歳の一年間で、急にいろいろできなくなった。鉄棒も縄跳びも、走ることも。ライフスタイルの変化も関係あったかな。飛び級して中学に上がった年だったから」


 秋風が吹いた。カフェのほうから、コーヒーの香りが流れてくる。現実なんだって気付く。ニコルが淹れるコーヒーは、香りがなかった。


 朝綺の髪が柔らかそうにそよいだ。


「じゃあ、いろいろ訊いていい?」

「どうぞ」

「なんで、飛び級なんかしようと思ったの?」

「そりゃあ、おれの時間は限られてるし」


「時間があったら、飛び級しなかった?」

「したくなかったな」

「なんで、エリートアカデミーじゃなくて、普通の進学コースを?」

「できるだけ普通がよかったんだ。特別扱いされたくなかった。だって、おれ、特別なんかじゃないぜ?」


特異高知能者ギフテッドなのに?」

「IQの数値だけで自動的にランク分けってさ、好きじゃねえから。つうか、意味ねぇだろ。つまんねぇし」


 正論すぎて、あたしは言葉に詰まる。

 朝綺は続ける。


「おれの希望に合う学校を、全国くまなく探し回ったんだ。病気持ちの特異高知能者ギフテッドを普通学級に置いてほしいって希望、そうそう叶えてもらえなくてさ。まあ、苦労して探した甲斐はあったと思ってる」


 不思議な人だ。健康で力強いエネルギーが、生まれつき病んでいる体から沸いてくる。病気だから、ではないんだろう。朝綺はもともとこういう人なんだ。


 あたしはボタンを掛け違えてたんだ。敷かれたレールをただ走った。レールを敷いた両親を逆恨みした。


 バカよね。あたしが自分で探そうとしなかっただけ。自分が何を望んでるのか、まじめに考えなかっただけ。探して、考えなきゃいけないんだ。あたしの居場所はどこにあるのか。


 現実は、ゲームとは違う。ログインすれば居場所が用意されてるなんて、そんな優遇された世界はゲームの中だけ。現実はそんなもんじゃない。


 立ち止まってしまったあたしは、ここからもう一回スタートし直さなきゃいけない。セーブしてたデータとは別の道を、レベル1から始めるんだ。


「なあ、お姫さま?」


 ドキッとする。ラフの声で、ラフの呼び方で、朝綺があたしを呼んだ。


「な、なによ?」

「学校、ずっと、つらかったんだろ? でも、界人はおれのせいで忙しいし、ご両親に相談できる状態じゃないみたいだし。だから、何があっても、お姫さまひとりで耐えてたんだよな?」

「べ、別に」


「ラフにいろいろ話してくれて、ありがとな。おれ、ほんとに聞くだけしかできなかったけど。お姫さまは、やっぱ強いよ」

「そんなんじゃない……」


 ラフである朝綺の声はキレイで繊細で優しくて、あたしは涙が出そうになる。


「実はおれもね、親とケンカしたんだ。中学のころ、ほんとにすげえ大ゲンカ。それで、高校からは家を出て一人暮らし。長らく家族と会ってないんだよ」

「親とケンカって、どうして?」


「筋ジストロフィーに関する見解の相違。自力での歩行やトレーニングは、筋肉を損傷する。損傷した筋肉を修復する機能は、おれには備わってない。どこまで自力で意地を張るかの線引きが難しくてね。そのへんの考え方が、おれと親とでバラバラだった」


 朝綺は、ひとつゆっくりと、まばたきをした。

 淡い表情だ。


 だんだん筋力が衰えていく朝綺は、遠くない将来に顔から一切の表情を失う。このキレイで切ない表情もなくしてしまう。


 あたしは両目に力をこめた。視線をそらさないように。涙をこぼさないように。


「あんたの病気は二十代が寿命だって聞いた。徐々に筋萎縮が進んで、最終的にはまぶたを開けることも、眼筋で視線を動かすこともできなくなる。呼吸器や心臓も」

「客観的に表現すると、そういうことだな。おれの感覚では、萎縮というより喪失だけどね。おれの二の腕や太ももはもう、おれの体に存在しない。まあ、皮膚感覚は残ってるから、変な具合なんだけど」


「治すための方法、探さないの?」

「おれの頭は医学向けじゃあなくてさ」


 あっさりした言い方。そんなの、嘘。口調はごまかせても、目はほんとのことしか言わない。

 あたしが見つめる前で、朝綺は長いまつげを伏せた。


「自力で立てなくなったのが、十四歳のころだ。一人暮らしを始めてすぐだった。つかまり立ちすらできなくなったのは、大学を卒業するころだから、十七のときか。その半年後には、車いすを転がすことができなくなった」


「今は?」

「最近は肺活量が落ち始めてる。心臓のほうは、血圧調整剤のおかげで、まだ数値は悪くない」


 あたしは右手の親指を噛んだ。喉の奥がゴツゴツして熱い。無理やり、涙を飲み下す。


 あきらめたみたいな悟ったみたいな、そんなの、あんたに似合わない。あんたは、ほんとは潔くない。ギリギリまであがこうとしてる。あたしはそれを知ってる。


凍結保管コールドスリープ、でしょ?」


 朝綺は目を上げた。黒い目が秋の光を映し込んで透きとおってる。


「今、なんて言った?」

凍結保管コールドスリープって言ったの。できるものならやりたいって思ってる? 病気の治療法が確立される日を、凍結保管コールドスリープの状態で待ちたいって?」


「……知ってたのか」

「調べたのよ。そして、わかったの。あんたがどうしてラフを凍らせたのか、その理由」


 おにいちゃんからラフの正体を知らされた日、あたしは調べものに没頭した。筋ジストロフィーについて。万能細胞やジャマナカ細胞について。先端医療について。オンライン図書館に居座って、片っ端から資料を読んだ。


 凍結。


 その言葉に目が留まった。それは医療技術の一種だった。細胞ならびに生体の凍結保管コールドスリープ


 ラフを凍らせた朝綺の本心を、あたしは理解した。雪山のシナリオは、絶望なんかじゃない。ポリアフの剣は希望のストーリーだ。


「あたし、知ったの。ジャマナカ細胞の研究で世界をリードしてる響告大学は、当然、細胞の保管の技術にも実績がある。生体の凍結保管コールドスリープの技術は、実験レベルでは、すでに確立されているのね」


 朝綺は小さくあごを引いた。うなずいたんだ。


「生体を凍結させて、老化を完全にストップさせる。いわば、時間の流れから外した形で保管する。動物実験では成功済みだ」

「知ってるわ。ヒトより小さい動物だけじゃなく、ウシやウマでも成功した。次は霊長類での実験に入る。医療現場への導入は、早ければ数年後らしいわね」


 凍結保管コールドスリープは希望の光に見えた。でもすぐに、それが蜃気楼みたいな光だと気付いた。


 数年後、という実現までの時間。朝綺に残された、命の残り時間。


「間に合わねえんだよ。数年後じゃダメなんだ。おれの体は、そんなに長く待ってられない。人体実験でもいい。少しでも治療の希望が持てるのなら、おれは……だって、おれは……まだ、死にたくねえんだ……」


 声が震えた。呼吸が乱れた。朝綺は目を閉じた。


 あたしはギュッとこぶしを握った。あたしが変えるって決めた。希望のおとぎ話を、現実に。ラフに託された願いを、現実に。


「しっかりしなさいよね。あたしがなんとかしてあげるから」

「え?」

「あたし、響告大医学部の大学院に、編入申請を出したのよ。来月には許可が下りるはずだわ。あたしが実績をあげて、あんたに治療のチャンスをつくってみせる」


 朝綺の目が見開かれる。驚き。戸惑い。たくさんの、複雑な感情。


「どうして?」

「あたしにしかできないからよ」

「確かに、特異高知能者ギフテッドのお姫さまなら、響告大の医学大学院にもソッコーで編入できるだろうけど」

「頭の話をしてるわけじゃないわよ。あたしも、あんたと同じなの」


「おれと同じ?」

「あんたはあたしのために、ネットの世界を征服する野心を捨てた。そう言ってた。あたしも同じ。あんたが今、生きてる。あたしが成果を出せば、これからも生きていられる。あんたのおかげで気付いた。自分がどうしてこんなふうに生まれてきたか、その意味に」


 あたしは、包帯を巻いた右手の親指を握り込んだ。

 痛い。現実の世界を生きているから、傷付いた肉体が、とても痛い。


 あたしは朝綺の目を見て言った。


「あんたがあたしのために、あたしを守ろうと決めたみたいに、あたしもあんたを守りたい。他人にわずらわされるのは嫌いだけど、それ以上に、あたし、孤独が嫌い。だから……」


 朝綺が震える声で言った。


「おれも、孤独は嫌いだ」


 知ってる。運命に、ひとりで耐えられなかったんでしょ? だから、シャリンであるあたしを呼んだんでしょ?


 あたしは深呼吸をした。朝綺の目をのぞき込む。


「あんた、二十一だっけ?」

「そうだけど。あんたじゃなくて、名前で呼んでもらえると嬉しいかな」

「朝綺」

「呼び捨てかよ。おれのほうが年上なのに」


「朝綺だって、うちのおにいちゃんのことを呼び捨てにするでしょ」

「まあ、そうだけど」

「とにかく。朝綺は、あたしより四つ上なのよね。よしっ!」


 あたしは朝綺に人差し指を突き付けた。


「え、なに?」

「四年よ。あんたの病気を治す方法を、四年で完成させてみせる。だから、四年間だけ凍ってなさい」


 約束だから。絶対だから。あんたを孤独に死なせたりなんかしない。

 朝綺がまぶしそうに微笑んだ。


「サンキュ」


 その生きた笑顔を、あたしが守ってみせるから。


 朝綺に触れてみたい。不意に、あたしはそう思う。架空の世界の冒険の間、何度も触れたけれど、本物の朝綺とは触れ合っていなくて。


 手を伸ばせば届く距離。でも、あたしが手を伸ばさないと、触れてもらえない。


「ねえ、指切りしよう?」


 びっくりした顔の朝綺は、すぐに微笑んだ。


 あたしは、朝綺の動かない腕を支えて、右手の小指をからめる。包帯を巻いた、あたしの右手。関節が目立つ、朝綺の右手。


 ちょっとひんやりした朝綺の小指は、キュッと、あたしの小指をつかまえた。


「指切りげんまん」


 初めて、触れ合えた。


 おにいちゃんの声が聞こえた。料理の注文をすませてテラスに戻ってくる。朝綺は、おにいちゃんのほうを向いて応える。


 日光を受ける朝綺の横顔のほっぺたに、一文字の傷がクッキリと輝いた。

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