秘密の花園

 いつもの通学路。あたしは歯を食いしばって、歩いた。負けたくないから。


 校門が目に入るころ、様子がおかしいことに気が付いた。


 まっすぐ学校を目指すはずの人の流れが行ったり来たり、ごった返してる。校門から先に進めないみたいに、人混みが立ち止まってる。


 耳障りな声でおしゃべりする人もいない。笑ったり、はしゃいだり、してない。低いひそひそ声。かすかな悲鳴。


 何かが起こってる。


「どいて。邪魔」


 あたしは制服の群れを掻き分けて進んだ。何が起こってるにしても、自分の目で確かめたい。ジグザグに歩いて、ようやく人垣の切れ目が見えた。


「そこ空けてよ」


 知らない誰かが青ざめた顔で、あたしに場所を譲った。人混みの熱気が途絶える。あたしは風を感じた。風に匂いが混じっている。


 血の匂い。腐った匂い。生ゴミみたいな匂い。

 昨日の中庭のネコと同じ匂い。


 あたしは悲鳴をあげそうになった。口を押さえて、悲鳴を呑み込む。

 校門のところに見付けたモノ。もう命を持ってないモノ。


 イヌの頭だ。体を持たない、頭だけの。命を持たない、抜け殻の。


「ひどい……」


 あたしはふらっとして後ずさった。背中に、柔らかいものがぶつかった。


「風坂、おはよう」


 ハスキーな声。あたしは振り返る。


「葉鳴」


 万知は長い髪を掻き上げた。


「あれ? 風坂、顔色悪いよ。意外と怖がりなんだ?」

「こ、怖がりって……そ、そういう、問題じゃないわよっ」

「怒らないで。じゃあ、別の問題をテーマに話そうか」

「べ、別の問題って?」


 万知の右手があたしのポニーテールに触れた。


「昨日の話の続きをしようよ。わたしなりに考えたんだ。風坂に聞かせたい」

「昨日の、話?」


 今ここで、こんな光景を見ながら、この女は何を言ってるの?


「ほら、昨日、パフォーマンスの話をしただろ。昨日までのステージは中庭だった。それに比べて、今日のは派手だね。学校じゅう大騒ぎだ」


 万知の胸が震えた。笑ったんだ。声をたてずに。でも、楽しい気持ちを抑えきれないみたいに。


 あたしは鳥肌が立った。


「なんなの……」

「真理に近付いてみたの。いろいろ考えたんだよ。それを風坂に聞いてもらいたい」

「や、やめてよ。あんた、なんか、おかしい……」


 あたしは万知から離れようとした。バランスを崩して、尻もちをつく。


 万知は体をかがめて、あたしに顔を寄せた。にっこりと微笑む。内緒話みたいな甘い声でささやいた。


「好きなんだ、わたし。ぬいぐるみも花もネコもイヌも。そして風坂、きみのことも大好きだよ。わたしと話そう? 待ってるから来て。わたしの秘密の花園、鍵を開けておくから」


 万知は体を起こした。校門のほうへ進んでいく。長い髪の後ろ姿。

 誰かが悲鳴をあげた。万知は足を止めない。


 風が吹いた。死の匂いがした。

 なんでもない様子で、万知はイヌの頭のそばを通って、校舎の中へ消えた。


「秘密の花園?」


 頭のどこかで警鐘が鳴り響いている。行っちゃいけない。危険だ。

 でも。


 あたしはよろめきながら立ち上がった。右手の親指に噛みつく。薄くなった爪が破れて、痛みが走った。


 行かなきゃ。負けたくないから。



***



 一般生徒の立ち入りが禁止された黒曜館の地下に温室があることを、あたしは入学以前から知っていた。明精女子学院の卒業生である母親がメールで書いて寄越した情報の一つだった。


 母親が高校生だったころ、地価の温室は、憧れを込めて「秘密の花園」と呼ばれてたらしい。学長の特別のお茶会が開かれる場所とか、世界でここにしか咲かない花がある場所とか、噂の宝庫だったそうだ。


 でも今は、極端に甘い花の香りと、血の匂いと、腐った匂いと、生ゴミみたいな匂いが、むっとするほど立ち込めている。死に満ちた退廃の花園だ。


 小さくても強力な人工太陽のせいで、ひどく蒸し暑い。


 まともに花が咲いている花壇はほとんどない。雑草が生い茂っていたり、黒い土がむき出しになっていたりと、荒れ果てている。


 いちばん奥の花壇にだけ、白いユリの花が咲き乱れている。


 あたしは、まっすぐ伸びる遊歩道を進んだ。植物の残骸。虫の死骸。壊れた机や椅子。ちぎれたぬいぐるみ。かつては動物だったはずのモノ。こんなふうに庭を荒らした人間は、正気の沙汰じゃない。


 鳥肌が立っている。呼吸をするたびに、毒素が肺に染み入ってくるみたい。


 あたしが一人で過ごす場所は黒曜館だった。窓のない小部屋も北塔も、この庭の上にある。


 こんな地獄絵が床の下に広がっていたなんて。こんな地獄絵の上で呼吸をしていたなんて。想像もできなかった。


 むせ返りそうなほどに甘い香りのユリの花の真ん中に、ベンチが置かれていた。万知はベンチに寝そべっていた。ベンチの脚で踏み折られたユリが、土に汚れている。


 万知がくすくすと笑った。


「花の中で横たわるって、なかなか気分がいいよ。メルヘンっぽいっていうか。うっとうしい害虫も出ないし。ここは中庭と違って、きちんと駆除されているからね」


 万知はベンチから身を起こして、立ち上がった。枕代わりのボロっちい何かがずり落ちた。その正体はたぶん、校門のそばの残骸の片割れだ。ほんの一日か二日前まで、イヌだったはずのモノ。


 吐き気がした。口を押さえる。

 ユリを踏み倒して、万知があたしのそばへやって来た。


「足を運んでくれてありがとう、風坂。ようこそ、わたしの秘密の花園へ。本当はもっと早くお招きしようと思っていたのだけど。座って話さない?」


 万知はユリの中のベンチを指した。

 あたしは首を左右に振る。一拍遅れて、ようやく言葉が出る。


「お断りよ」

「じゃあ、このままでいいや」


 三日月型に笑った唇を、万知がは舌でなめた。


 話をしなきゃいけない。こいつを止めなきゃいけない。悪は上手に活用されなきゃいけない。コントロールされなきゃいけない。


「一ヶ月くらい前、だったっけ? あんたが編入してきたのは」

「うん。大学院の研究機関から所属を外すことになってね。何もしないんじゃ暇だし。調べてみたら、明精に特異高知能者ギフテッドがいるらしい。その子のことが気になって、ここに入ると決めた」


 万知のターゲットは最初から、あたしだった。


「あんたは、あたしを知ってたのね」

「存在そのものはね。だけど、なかなか近付けなかった。意外と機密に厳格なんだ、この学校。担当教官を落として言うことを聞かせるまでに、時間かかっちゃった。風坂はずいぶん特別扱いされてるんだね。ちょっと嫉妬する」


「どうして、あたしを?」

「話したかったの」

「話す? 真理に近付いてみた? なによ、それ?」


 万知は長い髪を掻き上げて、声をたてて笑った。


「大学院を離れて正解だったよ。この学校のほうが、自由で楽しい。飽きてたんだ、研究室でネズミいじるのにも。なかなか死なない品種、作っちゃった。今度、見せてあげようか。本当に死なないから」

「いらない」

「冷たいな。そんな怖い顔してないで、笑ってよ。風坂はわたしに会いに来てくれたんだろう?」


 そうね。あたしはあんたに会いに来た。あんたの真理が殺戮の中にあるんなら、その論理をへし折りたくて来た。


「なんのために殺すの?」


 万知は声を弾ませた。


「嬉しいね。話していいんだ。普通の人間の頭脳じゃあ到達できない理論だからさ、風坂だったら理解してくれるかなって期待してる」

「あんたは理解されたいの?」

「もちろん。無条件の理解と愛情が、わたしはほしくてたまらない」

「都合のいい話ね」


 万知の舌先が、ゆっくりと、赤い唇をなめる。


「自分の不幸について、ずっと考えてきたんだよ。わたしはなぜ、この世界に見合わない身の丈を持って生まれてきたのか? わたしは孤独で不幸だ」

「自分が特異高知能者ギフテッドだってことを言ってるわけ?」


「どんな特別を用意されても、わたしの能力には追いつかない。わたしは満足できないの。この閉塞感と鬱屈を、どうやったら表現できるんだろう? 罪は誰にもないよね。だからこそ、やるせない」

「前に言ってた話と違う」


「見栄を張ってみただけ。風坂ってさ、からかいたくなるタイプだから。ほんと、不幸な表情が似合うよね。自分の存在を否定したいんでしょ? でも、プライドが高いから、できないの」

「……そんなの、なんで、あんたが……」

「なんでわたしがわかるかって? そりゃわかるよ。わたしは特別に頭がいいもの」


 あたしの前に立った万知が、あたしの両肩に手を掛けた。ゾクッとする。動けない。


「あんた、一体、なんなのよ……」


 得体の知れない存在。あたしの頭脳では測れない相手。

 気味が悪い。

 ぬるりとして、すり抜けてしまう議論。会話がねじ曲げられていく違和感。


 万知が迫ってくる。キスをせがむみたいな、甘い声。近すぎる顔。


「風坂なら、わかってくれるかな? わたしが発狂しそうなほどにこの世界に恋をしていること。風坂ならわかってくれるよね?」


 体から重心が消えた。


 次の瞬間、背中を地面に叩き付けられた。衝撃が内臓を突き抜ける。

 息が止まった。胃がひっくり返りかける。


 ユリの花が耳のそばで揺れた。

 万知があたしに馬乗りになった。重い。苦しい。身動きできない。


「風坂の不幸そうな顔が好き。ほんとに大好き。正直で、うらやましい」


 必死で声を絞り出す。


「あたしは……不幸なんかじゃ、ない……」

「不幸だよ。中途半端でさ、どこにも居場所がないんだ。できそこないの、迷子の神さまだ。ねえ、わたしと同じ」


 万知があたしの首筋に唇を寄せた。ゾワッ、と全身が寒くなる。


「……や、やめて」

「やめない。興味があるんだ。初めてだから」

「は、初めて……?」

「そう。人を殺すのは初めて」


 万知は体を起こした。微笑んで、あたしを見下ろす。らんらんと光る、本気の目。


 ……い、イヤ……っ。


 声が出ない。体が動かない。

 違う、動かないはずはない。こんなに震えているのに。


 熱っぽい万知の手のひらがあたしの首筋を包んだ。


「わたしは孤独だよ。わたしの真理は、わたしにしか到達し得ないレベルにあるんだ。万人と共有できるのは、ごく原始的な事象における真理だけ。でもね、だからこそ、わたしは万人に理解させてあげたいの。この不条理な世界にも、揺るぎない真理があるってことを」


 万知は、くつくつと笑いを漏らした。


 あたしの息が切れ始めている。万知の体重がお腹を圧迫して、苦しい。あたしを見下ろしながら、万知はサラリと言った。


「揺るぎない真理。たとえば、そう。『あらゆる生物は殺せば死ぬってこと』とかね」


 万知の目に、暴走する知性と崩壊した理性が、光っている。

 つかまれた首筋が、いきなり、強烈に圧迫された。


「殺せば、行き着く先はみんな同じ。死ぬんだよ。こんなに不条理でバラバラな世の中で、あらゆる存在が同じ結末を迎える。すてきなことだと思わない? わたしのこの手が死という真理を生み出して、どんな愚か者でさえそれを理解し、共有することができるんだよ」


 痛みが来て、痺れが来て、苦しさが来た。


 頭蓋骨の中身が膨れ上がっていくような感覚。すぅっと、浮かび上がりながら沈んでいくみたいな、消えてしまいそうな意識。


「愛してるよ。愛してるんだよ。わたしは、わたしを孤独にするこの世界のすべてを。ねえ、だから、早く認めてよ。わたしは神に等しいって、早くわたしを愛してよ!」


 助けて……と、誰かが叫んだ。

 助けて!


 あたしだ。叫んでいるのは、あたしだ。

 必死に動かす指先に、何か硬いものが触れた。あたしはそれを握り込む。


 まだ、生きていたい……!

 渾身の力で、こぶしを振り上げた。振り回した。手応えがあった。


「うっ……」


 万知が呻いた。ガクリ、と万知の体が降ってくる。


 あたしは万知を押しのけながら、体を起こした。右手から、レンガの破片がこぼれ落ちた。立ち上がりかけて、バランスを崩す。頭を振って、めまいをはね飛ばす。咳が出た。


 万知は髪を乱して、ユリの中に倒れていた。背中は、規則正しく上下している。生きてるみたい。


 怖かった。愚かしいとも思った。


 葉鳴万知、あんたは結局、寂しいだけなの? それとも本当に、人間じゃない存在なの?

 神に等しいだなんて思わない。直感的な倫理が通じない相手なら、それは、悪魔って呼ばれるんじゃないの?


 あたしはあんたとは違う。あたしは人間だから。でも、人間としての普通になれないから。だから寂しい。それ以上でも、それ以下でもない。


 生きた花の香りが、狂気と荒廃の花園を満たしている。


 あたしは立ち上がった。ポニーテールの歪みを直す。ブラウスが汚れてることは、鏡を見なくてもわかった。


 でも、ブラウスの汚れなんて、どうでもいい。もう二度と、こんなブラウスを着ることはないから。


「すがすがしいほど絶望的ね」


 家に帰ったら、一生、引きこもって過ごそう。あたしはもう、外の世界に期待なんてしない。どうせ絶望にしか出会えない。

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