安心感

 ネコがいる。黒い毛並みの、キレイなネコ。こっちへ近寄ってきて、まん丸い目であたしを見上げる。


 ほら、おいで。おやつをあげるから。

 あたしは、家の冷蔵庫から持ち出したソーセージを、ぽいと足下に落とす。


 ネコのピンク色をした鼻がピクリと動いた。足音をたてずに、あたしの足下までやって来る。


 いい子ね。すなおで、いい子。そして、とってもバカな子。


 ソーセージにかぶりつくネコを、あたしは真上から押さえつける。

 ネコが暴れた。かわいい抵抗。これで全力なの? なんて弱いんだろう。


 左手でネコを押さえて、右手でナイフを構える。予備のナイフはたくさんあるの。だって、たくさんやってみたいんだもの。


 くくっ。

 うふふ。


 あはははは!

 はははははははははははははははは!!


「きゃああああああああああああっ!!」


 悲鳴が、耳に刺さった。

 息が苦しい。心臓が苦しい。ココロが苦しい。


 ドンドン! ドンドンドンッ!

 ドアを叩く音がする。


「おい、麗っ? 麗、どうしたっ?」


 部屋のドアを外側から叩きながら、おにいちゃんがあたしを呼ぶ。


「……お、おにいちゃん……」


 助けて。夢を見た。怖い夢を。


「麗、入るぞ? いいか?」


 そっと、ドアが開かれた。廊下の明かりを背景に、おにいちゃんのシルエット。

 おにいちゃんはゆっくり部屋に入ってきた。あたしのそばに片膝をつく。


 あたしは床にへたり込んでいた。ベッドから転がり落ちたんだと思う。


「どうしたんだ、麗?」


 おにいちゃんは、切れ長の目を柔らかく微笑ませた。メガネをかけていない顔、久しぶりに見た。


「ゆ、夢……すっごく、イヤな夢……」

「イヤな夢? 怖い夢なのか?」


 あたしはガクガクとうなずいた。


 ネコを殺そうとする夢を見たの。夢の中のあたしは笑ってた。笑いながら小さな命を殺してしまえる自分が、怖かった。


 おにいちゃんはあたしの頭をポンポンと叩いた。大きな手のひらがあったかい。


「今、五時半くらいだよ。起き出してもいいし、二度寝してもいい。どうする? 起きる?」

「起きる……」


 ベッドに戻ったら、あの夢の続きに襲われるような気がする。

 おにいちゃんは立ち上がった。


「キッチンにおいで。ハチミツ入りのホットミルクでいいかな?」

「うん」


 おにいちゃんが部屋を出て行こうとした。あたしは慌てて立ち上がった。左手でおにいちゃんのパジャマのそでをつかんで、右手の親指に噛みつく。


 おにいちゃんはあたしの顔をのぞき込んで、にっこりした。


 あたしがもっと子どもだったらよかったのに。ほんとはね、おにいちゃん。思いっきり、抱きつきたい。もっと頭をなでてほしい。



***



 甘いホットミルクでお腹を温める。だんだん、気持ちが落ち着いてくる。

 おにいちゃんは食卓の向かいに座って、ハチミツを入れないホットミルクを飲んでいる。


「おにいちゃん」

「ん?」

「起こしちゃったよね?」

「寝てなかったから大丈夫。さっき、夜勤から帰ってきたばっかりだ」

「じゃあ、今、眠い?」

「いや、平気。夜勤中でも、小刻みに仮眠をとってるんだよ」


 沈黙。

 冷蔵庫がブーンという音をたてている。あたしは黙っていられなくて、口を開いた。


「最近は毎日よね、夜勤」

「利用者さんのわがままにお応えしてるんだ」

「アサキって人?」

「うん。朝が綺麗っていう字で、朝綺なんだ。頭の切れる、おもしろい男だよ」


 友達のことを話すみたいな口調だ。朝綺って人のこと、初めてちゃんと聞いた。


「おにいちゃんはその人の日常生活の介助をしてるんでしょ? なんで夜勤が必要なの?」

「朝綺は夜の間、寝ているときだけ、人工呼吸器を着けてる。それのチェックをしないといけないんだ」


 人工呼吸器? 寝てるときは、自力で息ができないの?


「い、医療機器の誤作動なんて、めったに起こらないものよね?」

「起こってもらっちゃ困るよ。ぼくの知識じゃ、人工呼吸器を直すことなんかできないしね。ただ、ぼくは、特別な機能のために夜勤に入ってるんだ。その機能は、どんな高度なマシンにも実現できない。逆に、人間の介助者であればそれができる」


「どういう機能?」

「安心感を与えるっていう機能。それを実現するためには、人間がそばにいるのがいちばんなんだ。夜の間、一時間に一度、ぼくが人工呼吸器の動作状態をチェックする。それが安心感につながって、朝綺はゆっくり眠れるんだ」


 朝綺って人の気持ちが、あたしにもわかる。夢にうなされて飛び起きた今、おにいちゃんがいてくれることが心強い。何もしてくれなくてもいい。そこにいてくれるだけでいい。


 朝綺って人は、ずるい。わがままよ。あたしのおにいちゃんを、そうやって毎晩、独占してる。お金を出して雇ってるとはいっても、友達だっていっても、ずるい。あたしにも、安心感がほしい夜はあるんだから。


「ねえ、おにいちゃん」

「ん?」

「おなか減った。朝ごはん作って」

「はいはい。わかりましたよ、お姫さま」


 最近よく「お姫さま」って呼ばれる。ラフがそう呼ぶから、ニコルにもうつってる。どうしておにいちゃんまで同じ呼び方するのよ?


 それにしても。今さらだけど。


「おにいちゃん、あのメガネ、かけるのやめたら? というか、やめなさい。メガネがなければイケてる顔してるんだから、ちょっと自覚して」


 おにいちゃんはホットミルクを喉に引っかけて、盛大にむせた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る