6-5

 あたしはそっぽを向かなかった。向けなかった。見つめてくる良一の目に留め付けられて、そのまま動けない。

 良一が一つ、肩で息をした。

「おれ、今までの人生でいちばんドキドキしてる。結羽にも、おれがドキドキしてること、さすがに伝わっただろ?」

 早口のささやきに、うなずかざるを得ない。心臓って、こんなにドキドキするんだ。走ったわけでもないのに。

 良一がかすかに眉をひそめて、切ない表情をした。息を吸って、口を開けて、唇が動きかけて、言葉が空振りするみたいに、息だけが吐き出される。

 もう一度、良一は肩で息をした。そして言った。

「好きだ」

 言葉がまっすぐ、あたしの心臓にぶつかった。

 ダメだ。閉ざさなきゃ。感情が動きすぎる前に、鎧を着けて、顔を背けて、耳をふさいで、センサーを鈍らせなきゃ。

 だけど、間に合わない。良一が言葉を紡ぐほうが、あたしよりも素早い。

「結羽のことが、好きです。小学生のころも好きだった。大事な初恋の思い出だった。再会して、また好きになった。高校生の、ほっとけない雰囲気の結羽を、今のおれの心で好きになった」

 聞きたくない。理解が追い付かない。

 好きって何だ。恋って何だ。どうしてキスしたの。あたしに何を告げたいの。

 昔から感情を閉ざす方法を知っていた。無防備じゃない心は、きっと育ち方を間違ったんだと思う。あたしには、良一が言う「好き」がよくわからない。

 再び、良一は、あたしのほうに手を伸ばしかけた。大きな手のひらの感触を思い出して、あたしは息を呑む。体がビクッと跳ねた。

 良一は手を下ろした。

「ごめん」

 傷付いた目をする良一を前にして、ようやく、あたしは呼吸の仕方を思い出した。声を出せるようになった。

「意味がわからない。こんなこと言って、何になるの?」

「言いたいから言った。面と向かって言うには今しかないと思ったから、眠らずにずっと、結羽がギターを持って外に出るのを待ってた。結羽は、遠距離恋愛って無理?」

「は?」

「いや、結羽は東京に出てくるよな。オーディションにパスして、音楽をやるために、上京してくるんだろ。そしたら、おれはもう結羽と離れずに済む」

「何言ってんの?」

「おれと付き合ってください。今は遠距離ってことになるけど、おれ、結羽しか見てないから」

 良一の声が震えた。喉が狭まって細い声しか出せないときの震え方ではなかった。喉が勝手に暴れて叫んでしまいそうなのを、どうにか抑え込んでいるときの震え方だった。

 あたしはかぶりを振った。

「誰かと付き合うつもりはない。あたしは歌うことにしか興味ないの」

「おれは、結羽の音楽活動を応援する。歌ってる結羽が好きだ。付き合うってことがピンとこなくても、今はそれでいい。正直、おれもよくわかってない。でも、おれが結羽を好きなのと同じくらい、結羽がおれを好きになるように、おれ、努力するから」

「努力って、何それ?」

「もっと活躍してみせる。小近島のためにも、自分自身のためにも、誰にも恥じない仕事をしてみせる。ほかの誰にもできない仕事、おれにしかできない表現活動を実現してみせる。だから、結羽、おれのカッコよさをちゃんと見て、認めてよ」

 良一は賢い。あたしの胸に刺さる言葉を、きちんと理解して選んでいる。

 胸の内側で何かが揺れかけた。あたしの音楽活動を、同じような立場から応援してくれる人は、身近にいない。孤独だと感じることがある。こういうときはどうすればいいのかって、悩みを吐き出せる場所がない。

 いや、ダメだ。

 必死の思いで、自分自身を支える柱を、まっすぐ建てようとしているんだ。ちょっと手を離したら、違う柱に寄り掛かることを覚えてしまったら、自分自身の柱はあっけなく倒れてしまう。あたしは一人で立てなくなってしまう。

「ねえ、結羽」

「あたしは自分のことしか見えない。ちょっと先の未来もわかんない。まずは、がむしゃらに走りたい。誰にも邪魔されたくない」

「邪魔なんかしない。誓うよ。おれは、結羽と一緒に走りたい。小近島の思い出を共有してるみたいに、将来の夢も共有したいんだ」

「あたしの夢は、あたしのものだ」

「でも、結羽が夢を叶えることで幸せを感じられる人は、たくさんいる。おれは、結羽のいちばん近くで、その幸せを感じたい」

「あたしは一人でいたい」

「結羽がどれだけ一人になりたがっても、おれは後に引かないよ。結羽は一人が好きなんじゃない。一人でいれば人を傷付けないって思って、人を傷付けるのを怖がってるだけだ」

「だったら何?」

「おれは、簡単に傷付くようなタマじゃないから、そばに置いてよ。何でもぶつけてくれていい。ほっとかれると、いじけるけどさ」

 良一の手が、ゆっくりとあたしに近付いてきた。あたしは顔を背けた。良一の手が肩に触れる。今度はビクッとせずに済んだ。

 でも、触れられたいわけじゃないから。

「離れてよ」

「イヤなら離れる」

「イヤだ」

「どうして?」

 そんなの、一つひとつ言葉で簡単に説明できるなら、あたしは、壊れるほど悩んだりしなかった。理屈の通らないぐちゃぐちゃが、あたしを人から遠ざける。人が怖い。人が嫌い。人が憎い。

 あたしの口が、とっさに動いた。

「近すぎ。ギター弾くのの邪魔だから、離れて」

 言ってしまってから、ああ、そうだなと思った。あたしは今、ギターが弾きたい。暴れる感情を自分なりに理解するには、理屈であれこれ考えるより、音楽がいい。

 あたしの言葉に、良一はキョトンとして、それから笑い出した。

「物理的に邪魔にならないようにすれば、近くにいていいってこと?」

「そんなふうには言ってない」

「そんなふうに聞こえた」

「言ってないって」

 あたしはギターを取り出した。良一は離れていかない。ギターのチューニングをするあたしの顔を、すぐそばからのぞき込んでくる。

「結局、返事は保留?」

「何の返事?」

「おれと付き合って」

「しつこい」

「そりゃ、当然でしょ。はぐらかされて、あきらめられるわけがない」

「売り出し中のモデルのくせに、そういうの、まずいんじゃないの?」

「誰もが応援したくなる純愛ストーリーだと思うけど?」

「勝手に言ってろ」

 良一の体温が邪魔だけど、仕方ない。あたしは弾き語りを始める。万人受けする純愛ソングなんか、絶対に作らない。あたしには、ほかに歌いたい唄がある。あたしにしか書けない唄がある。

 今まであたしが見てきた風景、感じてきた潮風、聞いてきた潮騒、抱えてきた思い出も痛みも、立ち止まった経験さえも全部、あたしは唄にしたい。

 昨日よりも今日、ハッキリと見えている。しっかりとつかんでいる。あたしがなぜ歌いたいのか。何を歌いたいのか。

 真節小が最後に、思いっ切り、突き動かしてくれた。ここが限界だと、あたしが勝手に決めてしまったところを、ガツンとぶち破ってしまえばいいんだって。できないかもしれないって、立ち尽くして嘆くより、できなくてもいいから、走り出してみろって。

 弾きたくて、歌いたくて、疲れ果てた体が悲鳴を上げているのを無視して、あたしはギターを掻きむしる。ちょっと笑っちゃうほど、運指はボロボロだ。

 良一も、いつの間にかウトウトし始めていた。寄り掛かられて、びっくりして、あたしはギターを弾く手を止めた。

「ちょっと!」

「んー……」

「んーじゃない! 寝ぼけないでよ!」

 邪魔だし、重いし、暑いし、ギターは弾けないし、コンクリートの階段の上だから危ないし。もう、今夜は仕方ない。あたしは良一を揺さぶって起こして、夏井先生の家へ帰ることにした。

 帰り道を歩き出すと、ようやく良一は目が覚めたようだった。夜空を見上げて、歓声を上げた。

「すごいな。星が明るい。明日も晴れるよな。暑くなるんだろうな」

「たぶんね」

「フェリー、揺れなかったらいいね。結羽は船酔いしないほうだっけ?」

「あんまりしないけど、揺れるときは疲れるから、波がないほうがいい」

 本土に戻ったら、すぐに本番だ。行きつけの楽器店主催のオーディション。だから、体調を崩したりなんかしたくない。

 あたしは今年こそ、全国大会まで勝ち上がるんだ。

 動画配信を続けていることと、その動画のクォリティも、評価に加算される。去年よりもギターが上達したってだけじゃなく、あたしはもっと広い意味で、シンガーソングライターとしての力を付けてきた。

 負けない。自分にできる最高のパフォーマンスで、会場を沸かせたい。

 唄は、誰かに届いて初めて、唄として産声を上げるんだと思う。あたしは、あたしの唄と共鳴する誰かに受け取ってもらうために、歌いたいと願っている。

 オーディションのことを考えながら夜道に足を進めていたら、良一が眼鏡越しの視線をあたしに投げた。

「結羽、オーディションの全国大会、東京だろ? 日程はいつ?」

「聴きに来るの?」

「今なら、スケジュールの調整が利くはずだから。結羽が来る可能性が高いんだし、その時期は、ちゃんと空けとくよ」

「……九月の第二土曜」

「わかった。会えるの、楽しみにしとく」

「それはどうも」

 良一は前を向いて、ひとり言みたいに付け加えた。

「デカいステージで歌う結羽を見たら、おれ、また結羽に惚れ直すんだろうな」

「バカ」

「うん、バカだと思う。ボロクソに言われっぱなしなのに、結羽と話すことが嬉しい。恋をすると、バカになるのかもしれないな。何か、すげー幸せだよ、今」

 良一は、クスクス楽しそうに笑って、あたしの手を握った。あたしは握り返さなかった。振り払うこともしなかった。楽しいとも幸せだとも感じなかったけれど、怒りもいらだちも起こらなかった。

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