第三章 僕と先生のこと(2)

「ところで、久喜君。春日井先生のことなんだけどね」


 心臓が跳ねた。

 時生は思わず手を止め、目の前で微笑んでいる男を凝視してしまう。荻野が例の人物を珍しく「先生」を付けて呼んだことに気が付かないくらい、時生の中は今脳内回線が乱れていた。


「先生が、どうかしましたか?」

「いや、ね。ちょっと困ったことになっていて」

 大変言いにくそうに、荻野は肩をすくめる。「荒れている、というか」


 言葉の真意が掴めずに、時生はしばらくきょとんとしていた。というか、彼の中では春日井が荒れているのは割といつものことだと思っている。それのどこが困ったことなのだろうか。理由がさっぱり分からない、が本心である。


 そういう旨を伝えると、わざとらしい嘆息を吐き出されてしまった。敢えてこの時の荻野の気持ちを代弁するならば、「やれやれ」もしくは「この師あってこの門弟あり」だろうか。そんなことを言われても、が時生の心境ではあるが。


「ここ七年ほど締切を破ったことのない春日井恭助先生が、なんとびっくり、締切を守ってくれないんですよ」

「……はあ」


 その件についてはかつて荻野本人から聞いたことがある。七年前までの春日井は、締切破りは普通、資料が欲しいとほざいては担当編集者を西へ東へ奔走させたというある意味曰くつきの学者なのであった。しかし、どういう訳か七年前からはぴっちりと締切を守るようになり、出版関係・学会からも信用という意味で評価が上がったというが――


「私がお宅に伺ったら、あの独り暮らしにしては無駄に広い平屋が散らかり放題で足の踏み場もなく、加えてその中で先生は倒れていたんだ。空腹でね」


 彼の言うところの状況が分かってきた。春日井は研究に没頭しすぎるか、または極端に集中力が欠けるかすると何故かものを食べなくなるのだ。今まではどうしていたかというと、一日に一回程度時生が彼を食卓へ引きずりだし、無理やり食べさせていたのである。その時生がここ一週間ほど不在で、加えて明らかに面白い「夜光魚」の研究が待っているんじゃあ、彼が倒れるのも無理はない。この話を聞いて、とりあえず春日井が仕事はしていると分かり内心ほっとしている時生である。


「昨日締切だった記事も全然できていなくて、このままだと先生は原稿を落とすことになってしまう」

「それは、困りましたね」

「そうだろう? 久喜君」


 がし、と突然肩を掴まれた。なんだか嫌な予感しかしないのだが、これは気のせいだろうか。冷や汗をだらだらと垂れ流している時生の前で期待の眼差しを向ける荻野が、何だかいつも以上に輝いて見えた。


「だから、ちょっと行ってきて夕餉を作ってやってよ。このままでは日本、否、世界の春日井に傷がついてしまうよ!」


 別に時生的には春日井の名に傷がつこうが何しようが心底どうでもいいのだが、とは言えない状況にあった。それよりも気になるのは、春日井の名にさりげなくこびりついていた極端な誇張表現だ。


「そんなに大げさな……、世界だなんて」


 時生のその反応に、荻野は怪訝そうな顔をした。まさかとは思うけど、という謎の前置きを付け加えつつ、彼は首を傾げる。


「……君、知らないのかい?」


 一体何が、と尋ねると、荻野は一言「魚さ」と答えた。


 これには心当たりがあった。魚――すなわち、春日井が預かっている『夜光魚』のことだ。


「先生が今研究なさっているというあの魚、あれがどういう経緯で彼の手元にやってきたか知っているかい?」


 否、と時生は首を振る。


「学生時代に大変お世話になったという方が預けたということは知っていますが」

「春日井は何て?」

「『珍しい魚を見つけたから是非調べて欲しい』と……」


 ははあなるほど、と荻野はひとりで勝手に納得し、そこでようやく彼は自分の手元でどんどん温んでゆく珈琲に手をつけた。その間、一体話をどう進めればいいものかと思考を巡らせているようでもあった。時生は瞬時に察した。春日井は、初めから時生になにかを隠していたのだ。おそらく珍しい魚云々の件は決して間違いではないのだろうが、それとは別のお達しが来ていたのだろう。


「時に久喜君。この間の戦役に、君は出兵していたかな」

「いいえ」

「次の戦役が控えていることは?」

「それは……、何となくは」


 それとどういう関係が? と時生が尋ねると、困りあぐねた様子で荻野は腕を組んでいた。


「春日井に口止めされていたんだが、まあいいか。君には知る義務があるだろう。つまり簡単に言うと、あれが光る仕組みが分かれば、軍事利用できる可能性があるってこと」


 え、と口からこぼれた時生の声には覇気がまるでなかった。荻野は続ける。


「兵隊が行動中にその足元に置けば、あの青い微かな光が目印となるだろう。海蛍のそれでも充分だろうが、できればもっと扱いやすいものがいい。特にあの魚は新種のようだから、仕組みが分かるだけでも大きな発見となる。春日井は在学中医学科の中でも臨床ではなくもっと根本的な部分……生物そのものの機構の方が得意だったみたいだから、それで白羽の矢が立ったのだろうな」

「何も先生でなくてもいいじゃないですか!」

「今回ばかりは春日井じゃなきゃ駄目だったんだ」

 ぴしゃりと荻野が言い放った。「高名な学者には任せられない。他所に件の魚のことを知られたら計画が台無しになるだろう。だから、腕はいいが表に出ることに対して無頓着な春日井の元に話がやってきた。まさかあんな平屋でそういうことが行われているとは誰も思わないだろ」


 だからって、と時生は俯きながら首を横に振る。


「……もしも仕組みが分かってしまったら、先生は」

「軍に引き抜かれてしまうだろうね。まだ推定の段階だけれど」


 それは嫌だ、と思った。

 春日井はいつでも自分の先生であってほしい。仕事をしている彼は誰よりも素敵だということを、時生は知っている。そして、春日井自身が学問を非常によく好んでいるということも。しかし、その学びの成果を戦役のために使うのを彼は良しとするだろうか。そして単純にこうも思う。


 もう、会えなくなってしまうのではないか。


 時生が俯いたまま膝の上で拳を握っていると、荻野は再び冷めた珈琲に口をつけた。二人の間に沈黙が流れる。何も語らないことがこんなにも息苦しいものだということをこの時二人はようやく実感したのだった。

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