第三章 僕と先生のこと

第三章 僕と先生のこと(1)

 街を歩いていた時生は、偶然荻野と出会った。


 彼が出会った荻野は相変わらず襯衣に洋袴ズボンという出で立ちで、加えて洋袴とお揃いの帽子をやや気取って被っていた。しかし、それが嫌味に見えないところが荻野の良さでもある。


 そんな彼がたまたま古本屋帰りの時生を見つけるなりやたら大袈裟に手を振るものだから、当事者である時生はとても恥ずかしかった。穴があったら入りたいという気持ちは、今まさにこのことを言うのだろうと思った。


 時生が逃げようと思ったのと、荻野が時生を捕まえたのは若干後者の方が早かった。荻野はいつもの爽やかさを含んだ笑顔で話しかけてくる。空気を読むという言葉は、編集者のくせに荻野の辞書には載っていないと思われる。まあそれが彼らしいと言えばその通りなのだが。


「奇遇だね、久喜君。ご機嫌いかがかな」

「ええ、まあ……。荻野さんは、」


 ご機嫌ですね、と言いかけて、時生はふと彼が持っていた紙袋に目が留まる。中にはいつものように複数の封書が詰め込まれていた。なるほど、と時生は思う。これは使える。幸か不幸か、時生はこういう時の頭の回転だけは異様に速い。したがって、そんな些細な出来事すらも彼から逃げるための手段に使わせていただくことにした。


「仕事中、ですね。それではお気をつけて」

「待ってくれないか、久喜君。つれないじゃないか」


 彼の前から立ち去ろうとすると、荻野はがしっと時生の肩を掴んだ。そしてにこりと笑いながら、

「ちょっと付き合いたまえよ」

と言い放った。


 その笑い方がまたいつも以上に胡散臭かったので、時生はできるだけ遠慮したかった。荻野がこの笑い方をしている時は大抵とんでもないことを考えているのだ。どうせろくなことではないと分かっていたのに、不覚にも荻野が発した次の一言で考えを改めてしまった。


「これからつい最近できたばかりの可否茶館に行こうと思うのだが」


 可否、茶館。だと?


 時生の目の色が変わった。勿論それに気が付かない荻野ではない。そもそも今は衰退しているとはいえ時生は元々いい所のお坊ちゃんだ。こういう目新しいものはとても好きなのである。本人に言わせれば、「田舎者の性分としては、その誘惑には勝てる気がしない」そうだが。


 そんな訳で時生は荻野と例の可否茶館に入ることとなった。我ながら単純だとは思うのだが、こういう機会でもなければこういった場所に入ることはまずない。世の中経験は大事だ。時生はそう自分に言い聞かせ、同時に自分を納得させていた。


 しかし、普通の茶店とは明らかに異なるハイカラな雰囲気に気圧されたのだろう。一体何を注文するのが正解なのか分からないという事態に陥った。仕方がないので、荻野が注文したものと同じものを頼んでみる。しばらくして時生は目の前に出された黒い液体に度肝を抜かれていた。白い湯のみのようなものに入ったそれはなみなみと注がれ、怪しく揺れている。


 なんだろう、泥水だろうか……と正体不明の液体について考え込んでいると、その様子が大変面白かったらしい。荻野は苦笑しつつも教えてくれた。


「珈琲。飲んだことないの?」

「こーひー、ですか。なるほど」


 先生はこういうものを飲まないから、とぼんやりと考え、直後時生は無意識下の自分の思考にひどく絶望した。


 あの夜の一件から既に一週間ほど経過している。時生はあれ以来春日井の元へ行っていない。なんとなく顔を合わせにくかったし、何よりあの状態で彼の側にいることの方が辛い。自分の気持ちをぶちまけたことについて何一つ後悔はしていないが、それについての返答を聞くのが怖かった。ただ、それだけだ。


 ゆっくりと……否、恐る恐る例の黒い液体に口をつけると、その液体はひどく苦かった。びっくりして思わず目を剥いてしまったほどだ。


「苦いですよ、これ」


 驚きのあまり目の前でにやついている荻野に訴えると、


「珈琲は苦い飲み物だよ、久喜君」


 その反応が大層面白かったようで、目の前の荻野は必死に笑いを堪えていた。


「牛乳を入れるといい、それで少しはよくなる」


 そういえば一緒に付いていた銀色の容器があった。小さなその容器を白い器に傾けると、中からとろみがかかった牛乳が注がれてゆく。泥水のような濃い茶色が薄まり、なんとか日に焼けた藁半紙くらいの濃さにはなった。それでもまだ苦かったが、これ以上は仕方がない。

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