1. 銀狼の姫 -A Lady with silver eyes- (7)

 二人と一匹は茂みの陰にしゃがみ込んでいた。前方には同じように身を潜めている戦士たちが其処此処に見受けられる。鬱蒼と茂る森の中、街道と川が交差する橋のたもとから少し脇に入ったところに伏せている。街道沿いに妖魔をおびき出し、隠れていた部隊が一気に襲いかかる作戦になっている。ただし橋には誰も置かず、逃げさせた上で追撃を行う手はずになっていた。

 二人は伏兵部隊の最後尾に位置していた。魔術師は前線には出ず援護に徹するように指示が出ていた。身軽で弓が得意なウィニフレッドは先ほど高い木に登っていった。妖魔を狙い撃ちにするつもりなのだ。

 森は木々が茂り昼間でもなお薄暗い。風が強く葉擦れの音が時折大きく響く。風下に潜めたのは幸運だった。

「大丈夫?」

 フィルはレティシアに話しかけた。ただでさえ色白の顔が今はさらに青ざめている。魔力の発動体の指輪をつけた右手をぎゅっと握っている。その隣に伏せているアスコットも耳をぴんと立てている。主人の不安を感じ取ってか落ち着かない様子だった。

「あ、ええ……。少し、緊張しているだけです」

 レティシアはフィルの方を見上げた。

「貴方はそうでもないみたいね」

「うん。村では親父についていって狩りに参加してたからね。その延長線上だと必死に思い込んでる」

「お父様は狩人だったのね」レティシアはぎこちなく口元をつり上げた。「フィルも魔術で狩りを? エナジィ・ボルトで仕留めたりしたの?」

「いや。それだと毛皮も肉も焦げちゃうから。仕留めるのが目的じゃなくて、狩りから得られるものが大事」

「あ、なるほど……」

「だから基本的に手助けだけだった。獲物の進路を誘導したり、親父に補助魔法かけたり。よくそんなもの必要無いって怒られたけど。いつまでも若いつもりなんだ」

 フィルが苦笑いしながら言うと、レティシアも少しだけ口角を上げた。しかしすぐに表情が引き締まる。

「でも今回は狩りではなくて戦なのよね。魔術で攻撃した方が良いのかしら……」

 フィルは作戦を頭の中にまとめて戦局がどうなるかシミュレーションした。妖魔に隊列を組むなどという考えはないだろう。しかしこちらも報奨金目当ての傭兵が多く、連携を取って戦うような意識は低そうだ。

「向かい合っての戦いならそれも有効だと思うけど、大魔法だと味方を巻き込む危険がある。とりあえず近づいて来たところに範囲の広い魔法を打ち込んで、その後は敵から距離を取りながら危なそうなところを援護、くらいかな。乱戦になった後は、臨機応変にいくしかないね」

「なるほど」

「それと、いざというときのために最低限の魔力は残しておいた方が良いと思う。戦局がどう転ぶか解らないし」

「魔術師向けの戦術書でも読んでくれば良かったかしら……」

 レティシアは自分の右手に視線を落とした。握りしめていた指輪には真紅に輝く宝石が一つ填っている。魔力を集め、魔術を行使するのに必要な発動体だ。フィルも村から持ってきた樫の杖を握りしめる。

 魔法を行使するためには自分の体内や自然の中の魔力を集めた上で、実際の現象として変換する作業が必要になる。その触媒となり、魔力の収集と変換の手助けになるのが魔術の発動体だ。初級の魔術師には必須の道具だが、導師クラスの実力の持ち主なら無くても魔術は行使可能だ。しかし精神にかかる負担が桁違いに大きくなるため、どんな偉大な魔術師であっても発動体は持っているものだ。樫の古木で作られた杖が一般的だが、特殊な加工を施した宝石でも作ることが出来る。指輪の方が小さいし何かと便利だが、いかんせん高価なのでフィルにはとても手が出ない。しかし杖はいざというときに鈍器としては使用可能で、今までに幾度となくウィニフレッドの攻撃を受け止めてきた。

「あ、来たみたいだ」

「え?」

 フィルの言葉にレティシアは少し頭を上げて目をこらす。

「リルムがそう言ってる」

「……そう」

 リルムは先ほどから高い木の枝に止まって、妖魔の巣の方を見張っている。アスコットと異なり戦いに参加する気は毛頭無いようだ。

 前方が騒がしくなってくる。フィルは攻撃呪文を幾つか思い出しどれが適切か思案した。葉の陰から妖魔を挑発しながら駆けてくる囮部隊と、それを追う妖魔の軍勢が見えてくる。

 フィルは不思議な感覚を得ていた。戦場を俯瞰しているような意識があり、それぞれの考えていることが手に取るように判る。潜んでいる部隊は息を殺してタイミングを計っている。囮部隊は必死に逃げる振りをしながら、潜んでいる部隊に呼応し反撃に出る準備をしている。妖魔たちは目の前のことしか見えていない。血気に逸り、いかに敵を屠るかしか頭にない。

 フィルにとって、妖魔の姿をしっかりと見るのは初めての経験だった。二本の足で立ち、やや小柄だが人間とあまり変わらない姿形をしていた。肌は浅黒く粗末な服を着ている。体毛は薄く頭部にも縮れた毛が疎らに生えているだけだ。切れ長につり上がった目は凶暴な光を宿し、薄い唇からは乱杭の歯が見え隠れしている。手足は細いが腹部だけが丸く突き出ているのが醜悪だった。甲高い奇声を上げ手に持った武器を振り回しながら走っている。人間に似ている分、強く嫌悪感を感じた。

 フィルはレティシアに一度目配せをしてから、上位古代語で呪文の詠唱を始めた。魔力が身体に満ちる感覚が少しこそばゆい。

「鋭利なる見えざる風の刃よ……」

 フィルはイヴァキュエイティッド・カッタを唱えることにした。風の刃で相手を切り裂く攻撃魔法で、広い範囲に効果を発揮する。街道の様子を見ながら詠唱の速度を調節する。味方の囮が通り過ぎ、妖魔の先頭が潜んでいる場所の正面に来たタイミングで、魔法を発動する。

「荒ぶる灼熱の浄化の炎よ……」

 レティシアはフレイムド・ヘイルの詠唱を開始した。燃えさかる炎の雹を降らせる魔法だ。隣ではフィルがイヴァキュエイティッド・カッタを準備しているのが判る。緊張に震えそうになる身体と声を意志の力で押さえ込んで、一文節ごと、はっきりと呪文を唱える。

「イヴァキュエイティッド・カッタ!」

「フレイムド・ヘイル!」

 風の刃に妖魔の一団が切り裂かれ血しぶきが上がる。少し遅れてレティシアによる炎が小柄な身を焼いていく。さらに矢の雨が降り注ぐ。突然の攻撃を受けて妖魔たちは甲高い叫び声を上げた。

 それを合図に、鬨の声を上げながら潜んでいた戦士たちが一斉に森を飛び出す。一目散に逃げていた囮部隊も反転して敵に当たる。レティシアの脇からアスコットも飛び出した。

 攻撃魔法が発動するのが、木の上のウィニフレッドからよく見えた。フィルが相手を傷つけるような魔法を唱えるのを見たのは初めてだった。風の刃に妖魔たちが切り刻まれる。

 風が治まるのを待ってから、ウィニフレッドは矢を射かけた。狙いは違わず妖魔の眉間に突き刺さる。妖魔は高い悲鳴を上げて地面に倒れ込んだ。それを横目で確認しながら二本目の矢を番える。

 動物は左右には目を配っても上には視線を向けないことが多い。妖魔であってもそれは変わらないようで、上から降ってくる矢に対してはほとんど無警戒だった。しかも追われている野生の動物とは違い、直線的に走るので狙いもつけやすい。息吐く暇も無く弦を引き絞っては矢を放つ。妖魔の叫び声がその度に響いた。

 街道はたちまち激戦地になった。あちこちで人間と妖魔が武器を手に切り結ぶ。フィルは森に潜んだままそれを冷静に見つめる。魔法で傷つけたうえに不意を突いたのが奏功し、かなり押している。妖魔の黒い体液が飛び散る度に、甲高い叫び声が上がる。

「フィル……」

 レティシアは前に立つ背中に声をかけた。フィルは首だけ振り向いて小さく笑った。

「大丈夫だよ、ティア。かなり優勢だ」

「ええ……」

 レティシアは曖昧に頷いた。しかし別に戦況を心配していた訳ではなかった。目の前で命が失われていくという状況に、強い緊張を覚えていただけだった。

「この後は、どうすれば?」

 不安を押し込んでレティシアは問いかけた。戦場の方に向き直りながらフィルは答えた。

「敵に見つからないのが最優先。近づかれると対抗できないからね。その上で地味な補助魔法とか」

「地味な補助魔法?」

「タナップとか、かな」

 フィルの答えに、レティシアは一瞬、からかわれているのかと思った。しかし彼の表情は真剣で、冗談を言っているようには見えなかった。

 タナップは地面に隆起や穴を作って相手を転ばせる魔法である。詠唱も短くて簡単だし魔力の消費も少ない。初歩中の初歩とも言える呪文だ。学舎にいたころにはよく悪戯に使われていた。レティシアも一度だけ、アスコットにかけたことがある。

「そんなもので良いの?」

「結構効くと思うよ。狩りのときは効果絶大だった」

「……解った。やってみる」

「後はリパルションとかウェポン・エンハンスメントとかだね」

 フィルは魔法の名を上げた。魔力で衝撃を緩和する魔法と、武器を強化する魔法だ。どちらも初級のレベルの魔法だ。

「どれも簡単な魔法ばかりなのね」

「詠唱が長い魔法は危険だよ。敵に近づかれたら一巻の終わりだから」

 木の陰から戦局を覗う。最初は人間側と妖魔側が向かい合って切り結ぶ形になっていたが、段々と敵味方入り交じり乱戦になりつつある。怒号や剣戟が静かだった街道を埋め尽くしている。予想よりも妖魔の数が多かったため簡単に決着はつきそうもない。

 二人はタイミングを見計らってタナップを次々に繰り出した。面白いように妖魔はバランスを崩し戦士たちがそれを確実に屠っていく。どす黒い体液が噴き出し、街道を染めていく。やがて妖魔たちの士気が崩壊し始めた。妖魔たちは橋の方が開いていることに気がついたのか次々に敗走を始める。その背後から切りかかる戦士たち。川岸に待ち構えていた戦士たちは矢の雨を降らせている。

「よしよし……」

 ウィニフレッドは妖魔たちが潰走し始めたことに気がついた。乱戦の方ではなく、橋の上へと目標を切り替える。切り結んでいるところに射かけると、どうしても味方に当たってしまう危険性がある。狙いを外さなくても、矢が届くまでに敵と味方の位置が入れ替わっていることもあるからだ。その点、橋の上には敗走する妖魔ばかりだ。恐慌に駆られ逃げていく妖魔を正確に射貫いていく。

 しかしそれでも極端に一方的な戦局にはならなかった。戦場となった街道のほぼ中央で、一際大きい妖魔が二人の戦士と互角に渡り合っている。妖魔たちのリーダーのようで、一匹だけ種族が違うようだった。他の小柄な妖魔たちが次々に駆けていく中、一匹そこに留まり背後からの追走を防いでいる。

 フィルはそのリーダーを狙って二度タナップを唱えた。しかし、上手くバランスを取って対処され効果が得られない。直接攻撃魔法を撃とうにも味方を巻き込みそうで狙いがつけにくい。その間にも次々と妖魔たちは逃げていく。

「ぐっ!」

 隙を突かれた戦士の一人が妖魔に切り倒される。そこを狙ってもう一人の戦士が切りかかるが盾で受け止められた。返す剣で腕を裂かれ片膝をつく。

 フィルは慌ててエナジィ・ボルトを撃つ。狙い通り妖魔の顔面に命中したが、まるで効いた様子は無い。それでも戦士が体勢を立て直す時間は稼ぐことが出来た。しかし彼はもう戦うことは出来そうもない。

 妖魔が、ぎろりとフィルの方をにらむ。そのまま早足で近づいてくる。フィルは慌てて周囲を見渡した。しかし手が空いている戦士は一人もいない。目の前の妖魔と剣を交えているか、橋の方へ追撃へ向かっている。アスコットも追走に向かってしまったようだ。フィルと妖魔の間を遮る者は何もなかった。

「……ッ!」

 大柄な妖魔が近づいてくるの気がついて、レティシアは思わず息を飲んだ。フィルが前を見据えたまま話しかけてくる。

「ティア。強力な攻撃魔法は唱えられる?」

「はい」

 恐怖を押し殺して、レティシアは短く答えた。声を出したことで、少し緊張が和らぐ。

「頼む。俺が時間を稼ぐ」

 そう言い放って、フィルはすぐにアクセラレーションの詠唱を始めた。ついこの間勉強したばかりの体内速度を高める時間魔術だ。妖魔の剣を躱し続けるつもりなのだろう。

 レティシアは発動体の指輪を握り込んだ。大叔父から貰った紅い宝石は少し熱を持っているようだった。大柄な妖魔が近づいてくるのが目に入る。恐怖よりも嫌悪感が心を支配した。

「紅玉の憤怒、炎帝の抱擁……」

 レティシアは詠唱を開始した。得意の炎を操る呪文のうち、もっとも威力が高いものを選択する。近づく妖魔に焦る心を何とか押し込めて、一文節ごと確実に上位古代語を紡いでいく。汗が顎を伝うのが感覚で判った。

「……」

 街道から森に入り、フィルの目の前まで妖魔はやってきていた。右手にフィルの背丈ほどもある大剣を構え、左手には金属製の平盾。醜悪な浅黒い顔は、勝利を確信しているのか下卑た笑みを浮かべていた。

 両手の中の杖を握り直す。見よう見まねで構えて距離を取る。どうせ戦いの心得なんて無い。妖魔が剣を振りかぶる。フィルは先に右にステップする。妖魔の顔から目を決して離さない。妖魔の目がフィルの動きをしっかり捉え、剣が振り下ろされる。

 その瞬間、フィルは二つ目の魔法を発動すると同時に逆方向に飛び直した。目の前を刃が通過する。それでも身体に当たることはなかった。そのまま飛び退り距離を取る。

 唱えたのはウィンド・プッシュの魔法。風を操り物を動かす魔法だ。吹き飛ばしたのは自分自身。アクセラレーションによる身体能力の向上と合わせて、なんとか妖魔の剣をかいくぐった。

「グッ!」

 地面にめり込んだ剣を妖魔が引き抜く。妖魔が向き直る瞬間、フィルは地面にタナップをかけ出来る限り高く地面を隆起させる。そして間髪入れずそこにエナジィ・ボルトをたたき込んだ。

「グワッ!」

 土の塊が妖魔の目の前で粉々に砕け、盛大に砂埃を上げた。妖魔の顔が砂埃に覆われ、視界が著しく悪くなる。盾を取り落とした妖魔が片膝を付く。しきりに目をこすっている。作戦通りだった。

 しかし続けざまに魔術を行使しフィル自身の消耗もかなりのものだ。息を落ち着けながらフィルは慎重に距離を測った。もちろん自分が切られるわけにはいかないが、離れすぎて呪文を唱えているレティシアに向かわせるわけにもいかない。詠唱の調子からして、そろそろ唱え終わりそうだとフィルは判断した。

 立ち上がった妖魔がまたフィルを視界に捉えた。今度は侮った様子もなくじっくりと近づいてくる。両目が赤く染まっていた。それに合わせてフィルはじりじりと後ずさりをした。背を向ければ一気に斬りかかられるだろう。かといってこのまま後退し続けるわけにもいかない。この距離では満足に魔法を唱えている時間も無かった。

 放った矢が妖魔の背を射貫いたのを確認して、ウィニフレッドは一息吐いた。背中の矢筒に手を伸ばしながら戦局を確認する。

「……え?」

 目に入った光景が信じられず、思わず数度瞬きをする。フィルが魔術師の杖をへっぴり腰で構え、大柄な妖魔と対峙している。ウィニフレッドの背筋を嫌な汗が伝った。慌てて弓を投げ捨てると木の枝から飛び降りた。膝を折り畳んで土の上に着地する。それから腰に下げた小剣を抜きながら全速力で走る。大きく両手を広げてフィルと妖魔の間に割り込んだ。

「通さないよ!」

 怖じ気付かないように妖魔に向かって大声で叫ぶ。気圧されたらそこで終わりだと隊長から何度も言われていたことを思い出す。それから剣を両手に構えて腰を低く落とした。

 武器を持った新たな敵に妖魔は少し警戒を強めたようだった。剣を構えて様子を窺っている。しかしまだどこか余裕がありそうだった。

 ウィニフレッドはまた気合いの声を上げて、一歩踏み出した。完全にはったりだった。今までに剣で戦ったことは一度も無い。相手に手強いと思わせればそれで良いのだ。時間さえ稼げば、フィルがきっと何とかしてくれると確信していた。目を逸らさずに、威嚇を続ける。

「イフリーツ・ケアス!」

 そのとき、凜とした声が響いた。それを聞いて魔法の発動を認識したフィルは慌てて飛び退る。しかしウィニフレッドは剣を構えたまま妖魔と向かい合っていた。

 妖魔に巻き付くように、真紅の炎が発生する。それが一瞬巨人を形作ったかと思うと、一気に爆発した。強烈な光と衝撃波にフィルは思わず目を覆った。露出している皮膚に強烈な熱線を感じる。

「グアァァァァァァ!」

 妖魔が叫び声を上げる。しかしそれもすぐに聞こえなくなった。閃光が現れたときと同じように瞬時に消えてなくなる。その中心には黒い塊があった。一見して死体かどうかも判らない。焼け死んだというのに焦げ臭くすらなかった。どれほどの温度だったか想像もつかなった。

 しん、と。一瞬戦場に静寂が訪れた。すぐに妖魔が恐慌を来す。次々と橋に向かって駆けだしては背後から切り落とされる。戦局は一方的なものになった。援護はもう必要なさそうだった。緊張と一緒に、俯瞰している感覚も消えていった。

「ウィニフ!」

 フィルは慌ててウィニフレッドの方に駆け寄った。魔法の発動を予期できなかった彼女は、直接巻き込まれはしなかったものの、炎が掠めたようだった。

 ぺたんとウィニフレッドが尻餅をつく。その髪の毛に火が燃え移っていた。フィルは慌てて腰に下げた水袋からウィニフレッドに水をぶちまけた。水分が蒸発する音が響く。それでも不安で、フィルはローブを脱いでウィニフレッドの頭を覆った。

「大丈夫!?」

「う、うん……」

 ウィニフレッドが呆然と呟く。間近で閃光を見たため、視界を奪われているようだ。フィルは彼女に肩を貸しながら街道から遠ざかり、森の深くに身を隠す。幸い、恐慌をきたした妖魔の中に、フィルたちを襲おうとしたものはいなかった。

「フィル……」

 先ほどまでと同じ場所にレティシアが立っていた。全身に汗をかいて木の幹にもたれていた。強力な魔法を使った所為で精神的な消耗が激しいのだろう。

「ウィニフレッドさんは……?」

「うん、大丈夫!」

 落ち着いたのか、ウィニフレッドは元気な声で返事をした。被されていたローブからぴょこんと頭を出す。元々ボサボサ気味だった髪が、一層酷いことになっていた。

 頭髪が焼け焦げ、鼻をつく匂いがする。肌が露出していた部分は赤くなって熱を持っているが、火傷というほどでは無いようだ。シャツも一部焼けて破れ、上半身が一部露出している。それに気が付いて、レティシアは慌てて被さっていたローブでウィニフレッドを包み込んだ。

「別にフィルになら見られても構わないのに……」

 ぶつぶつ良いながらウィニフレッドがローブのボタンを留める。レティシアが目を丸くした。

「助かったよ。ありがとう」

 フィルはレティシアの方を向き直った。

「フィルの言ったとおりね。味方を巻き込まないように、って注意してくれていたのに。ウィニフレッドさん、本当にごめんなさい……」

 レティシアが目を伏せて俯いてしまう。ウィニフレッドはぶんぶん手を振り回しながらその言葉を否定しようとする。

「そんなことはないです! あの魔法がなかったら……」

 そして言いかけた言葉を飲み込んだ。レティシアはすでに気を失っていた。

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