第3話、お名残りおしゅうございます、とラストゆえ 「わたくしの赤ちゃんを、返してくださるかしら」

 この季節は、急に雷雲が発生する。

 遠くの方で、ゴロゴロと空が地響きのような音を立て始めていた。


 コンビニから足早にコーポに戻ったネズミとウシは、電灯の傘がないため、裸電球をポツリと点けた和室で握り飯を頬張っていた。


 ネズミは口元をふくらませ、せわしなく両目を動かしている。裸電球の灯りはキッチンまで届かず、かえって夜の暗さを際立たせている。


「おい」


「へ、へーい」


「何かしゃべろ」


「えっ」


「こんな薄暗い部屋で男二人が黙って握り飯を食ってるなんざ、絵にならねえ。何でもいいから、話せ」


「へ、へい?」


 ウシもすでにサングラスをはずし、点のような小さな目をしょぼつかせて宙を仰ぐ。


「え、えーっと。さっきの畑にいたのって、やっぱし、幽れ」


「バ、バカ! そんな話をしろなんて言ってねえし。こう、もっと楽しくなるような話題はねえのかい」


「いや、しかしですな軍曹殿。自分は前もってこの拠点の周辺情報を収集いたしました。

 そういたしますと、その筋では有名な心霊スポットがあるという事実を掌握するのであります。

 心霊スポットとは、墓地や古戦場、それに自殺の名所が代表格であります。またトンネルや峠など、都市伝説として語られる場所、病院や学校の廃墟と呼ばれる建物も相当いたします。

 そして問題なのは、過去にいままわしい事件や事故が起こった場所。

 軍曹殿は、なぜこのアパートの家賃が格安であるのか、ご存じでありますか。

 数年前にさかのぼります。このアパートの一室で若い女性が自殺したという新聞記事を、市内の図書館より入手いたしました。さらに調べると、その事実が隠ぺいされたまま新しい入居者と不動産会社は契約いたしております。

 入居したのは、またもや若い女性。

 そこから想像を絶する恐怖劇の幕が切って落とされることに、あいなるのです

 自殺した女は怨霊と化し、新しい入居者を己と同じ地縛霊にしようと襲いかかったのです」


 ウシは別の人格が主導権を握り、饒舌じょうぜつに語っていく。

 

 ネズミは両耳を手のひらで抑え込み、喉をワアワアと鳴らしてウシの話を聴かまいとしていた。


 ゴロゴロッ、とさらに雷の音が近づいてくる。


 開け放した窓の外で、ぽつんぽつんと雨が軒を叩く音がする。


 ピカッ! 


 一瞬窓の外にまばゆい光が走った。

 

 ガラガラッドーン! 


 本格的な落雷が発生し、雨はさらに強くなってきた。


「ひやっ」

 

 ネズミは耳を押さえたまま、畳の上に突っ伏す。


 雨が矢のような勢いで窓から室内へ注ぎ始めた。

 ウシは小さな目をショボつかせて、のそりと立ち上がると窓を閉めにいった。


 カーテンのない窓をビシャビシャと太い雨が叩く。


 ドオゥーン! 


 再び落雷があり、フラッシュを焚いたような閃光がガラス窓から相次いで差し込んできた。


 ぼーっとその様子をながめながら、ウシはもしゃもしゃと握り飯を食べ続ける。

 

 ネズミは布団袋からタオルケットを急いで取り出すと、四肢を折り曲げて頭からかむった。


「あー、せ、先輩軍曹、殿、あ、暑くないですかぁ。俺が、う、団扇うちわで仰ぎましょーかあ」


「いいからほっといてくれ! おまえが変な話するから、余計に怖くなっちまったんだよっ」


「あー、あははぁ、そうですかぁ。えーっと、お、俺は何の話をしてましたっけ? うん? この鮭のお握りは、し、塩加減がちょーどいいなあ。美味しい」


 稲妻が乱舞する夏の夜は、まだ始まったばかりであった。


 ~♡♡♡~


 ごちそうさまでした。


 やはりママの手作りキムチは、最高のおかずですわね。五合炊いたご飯が、あっと言う間にわたくしのお腹に入ってしまいました。

 

 だめねぇ、つばめは。ちゃーんと腹八分目を守らないと。その分、お夜食を少なめにしておきましょうか。

 三合はいきたいところですけど、二合よ、つばめ。


 なにか肩がこると思ったら、わたくし、ずーっとあなたをおんぶしたままだったのね。


 ご飯に夢中ですっかり失念しておりました、申し訳ございません。


 ママの手縫いの浴衣ゆかた、じゃなかった経帷子きょうかたびらって案外着心地がいいわね。


 もうじき近くの公園で盆踊り大会がありますゆえ、ちょっと気取ってこの着物で踊ってみようかしら。

 団扇なんぞを帯の後ろに挿しまして、


 屋台で魔法少女のお面を買ってそれを顔にかけたらいいかもね。

 

 うふふ、真っ赤な鮮血の飛び散った死装束しにしょうぞく。ではなくてヒガンバナ模様のを華麗にまとった魔法少女。


 お子さまたちから、サインなんぞをせがまれたりして。


 でも町内にはお年を召されたかたが多ございますゆえ、いっそのこと日本手ぬぐいで頬かむりして、お能で使う般若はんにゃのお面をつけますの。


 それで豊作を祈願いたしまして、両手に切れ味抜群の鎌なぞを持ちます。  

 ハァー、やっとせっとなぁ、なんて音頭を取りながら鎌を頭上で回転させます。そのまま盆踊りの中心部へ舞いながら駈け込みいたしますれば、拍手喝采間違いなしですわね。うふふ。


 あら雷さまの音が。

 夏ですわねえ。


 よいしょっと、さあここに寝て下さいな。ああ、肩が楽になりましたわ。


 そうそう、思い出しました!

 確かあなたは、ハイハイができるってヒメさまが仰ってたわね。


 お夜食までまだ時間がありますから、それまであなたとお遊びしましょ。

 

 えーっと、スイッチ、スイッチと。

 

 うわああぁん、ってこれは泣き声のスイッチ。ハイハイのスイッチは、ああ、ありましたわ。これね。

 

 よいしょっと。

 はい、どうぞ。


 あら、動かないわね。もっと強く押さなきゃダメかしら。

 

 えいっ!

 

 

 んっ? 


 この指先でもてあそばれている異物は何かしら? 

 まあ、これはスイッチじゃありませんこと。

 わたくし、もしかしたら駆動用スイッチを壊してしまったの?

 

 と思ったら、動き始めたわ。


 すごいすごーい! 


 手と足がバランスよく前後するのね。ゆっくりゆっくりと赤ちゃんはハイハイしていきます。


 どこまでいくのかしら。そっちはキッチンよ。包丁とかあるから気をつけて。

 

 まあっ、キッチンへ入った途端、動きが早くなったわ。手足がとてつもなく速く動いてるわ。っと言うよりも、速すぎますわ。


 ああっ、ぶつかる! 


 と思ったらうまく転回していくのね。まるでお掃除ロボットのようですわ。でもスピードが全然違いますけど。


 あっ、こっちへ来たわ。でもすぐにUターンしてキッチンへ。


 すごいわねえ、あなた。近代科学の結晶、そう申し上げても過言ではございません。

 

 じっと見ていると、あまりの速さに目まいがしてきそう。

 

 ドドーンって地響き。

 これはすぐ近くに落雷があったのね。


 花火大会も楽しいのですが、雷さまは臨場感がたっぷりだから、わたくしは大好きです。


 ちょっと電灯を消しまして、カーテンを全開にしてっと。


 あっ、稲妻が走りましたわ! 

 直後にズバーンと落雷。

 キャーッ、花火なんて目ではございませんわね。

 いっそのこと外へ出て直接観覧いたしましょうかしら。

 

 雷さまのライブをせっかく楽しんでおりますのに、この子ったらチョンチョンわたくしの足に攻撃を加えてきますわね。

 少しはジッとできないのかしら。

 

 そうだわ、スイッチを切ればようございますわね。早く気付けばよかった。

 

 動き回るからなかなか取り押さえられないわ。こらぁ、観念しなさいな。

 

 だめ、追いつかない。

 

 仕方ないわね。

 そうだわ、ママが送ってくれた段ボール箱を使ってみましょう。

 

 そーれぃ! 惜しい、あと少し。

 

 はい、捕まえた。残念でしたわね。

 

 おねえさまが雷さまを楽しむ間だけ、あら、あらら、この子ったらむき出した牙で段ボール箱を食い破ろうとしているわよ。


 悪い子ね。そんなことをする子は、許しませんことよ。

 

 こうなったらお仕置きですわね。


 押入れにしばらく入ってなさいな。


 わたくしも幼少の頃はお転婆てんばさんでしたから、よくパパやママに叱られては閉じ込められたものです。

 

 わたくしの場合は、屋敷の地下にある牢獄でした。

 灯りが一切ない鉄格子のはまった狭い部屋でしたわ。


 さすがに一ヶ月もそこで寝起きすれば、やんちゃなわたくしもシュンと反省したものです。


 でも今思えば、なぜ我が家には地下室に牢獄があったのかしら。


 どこのご家庭でも、鉄格子のはまったお部屋のひとつや二つはありますものね。それが我が家は、ってことですわ。

 

 ああ、そんなに押入れの中を高速で走り回ったら、お客さま用のお布団が破れてしまいますわ。


 早く駆動スイッチをば、ああっ、そうでした。わたくしとしたことが。

 先ほど壊してしまっておりました。おほほ、困ったことになりましたわね。

 仕方ありません。この際、雷さま観戦のほうが重要よね。

 

 よいしょっと。

 ここを開ければ、と。

 

 はい、お部屋よりもずっと広いですわよ。ここの屋根裏は五室分ありますから。

 ここで好きなだけハイハイしなさいな。どうぞぅ。


 ああっ、走る走る。

 骨組の木材など簡単に乗り越えてハイハイしていきましたわ。

 

 さあ、それではわたくしはゆるりと雷さまのライブへ戻ります。


 ~※※~


 天を真っ黒な雷雲が支配していた。

 滝のような雨がN市を中心に上空から流れ落ち、「ゴールドクレスト・UEDA」の瓦屋根を叩く。


 ダダダダダッ! 


 まるで機関銃で一斉射撃を喰らうような音が耳をつんざく。

 

 タオルケットに丸まったネズミの横で、ウシは畳に上に寝転がっていた。


 握り飯は朝食用の分まですべて胃に収めてしまった。ネズミが激怒するに違いない。


 窓を閉め切っているため、ウシは全身に汗をかいていた。


 テレビなどの娯楽品は、本部からは支給されない。ただ時がくるまで、こうしてジッと耐え忍ぶことも兵士には必要であると言われている。


 ウシは大の字になったまま、なすすべもなく、死んだように板張りの天井を見つめていた。

 

 先ほど雷とは違う、ドタバタする音が聞こえたが、あれは気のせいだったのだろうか。


「暇だなあ。じ、人生ゲームでも買ってもらえば、よかったかなあ」


 ピカッ! と室内が真昼のように浮かび上がり、ドドーンッと落雷の音が窓ガラスを震わせる。


「んんっ?」


 雷の音ではない音が、ゴトッ、ゴトゴトゴトッと聞こえる。じっと耳を澄ます。

 その音は天井から聞こえてくるようだ。

 ネズミでもいるのだろうか?


 そう思ったウシは、「あははぁ。ネ、ネズミはここにいるしなあ」と横で丸まっているネズミに視線を向ける。


 天井を這いまわるような音が続き、ピタリと止んだ。


 稲妻の閃光が窓ガラスを突き抜け、部屋を襲う。


 その時、天井を見つめていたウシの小さな目が、ある位置で止まった。

 

 またしても稲光が室内を照らす。

 

 ウシは見た。


 いや、正確に言えば、目が合ったのだ。

 天板の隙間から、ジッと見下ろす赤く充血した真ん丸な眼球と。


「ウゥッ、ウウウッ」


 ウシは視線を外そうとするが、磁力で引き寄せられるように天井から覗く目に吸い寄せられる。


「ネ、ネ、ネズ、ミ、ミ」


 顔を動かすことができず、ウシは必死の形相を浮かべて隣りのネズミを呼ぶ。


 視力が人並み外れて良いウシは、天井の隙間から真っ赤に血走ったギョロリとき出た眼球が、瞬きもせずににらんでくることに戦慄した。


 恐怖に囚われて、声が出ない。

 ウシは太い腕で、隣で雷に震えるネズミを何度も思い切り叩いた。


「アタッ! アタタタッ!」


 ネズミは跳ね起きた。


「て、てめえっ、上官に向かって手を上げるたあ、いったいどういうこった!

 重営倉じゅうえいそうにぶちこむぞ! こらあっ」

 

 怒り心頭のネズミは、横たわっているウシに怒鳴る。 


 ところが裸電球の下でもわかるくらい、ウシの顔色は真っ白になっていることに気づいた。


 ウシは顔を震わせ天井を見据えたまま、先ほど攻撃してきた太い腕を持ち上げて天井を指している。


「あん? 天井がどうかしたのか」


 眉をしかめつつ、ネズミは細い目で天井を見上げた。

 

 そのまま硬直する。


「だっ、だ、だだだーっ」


 誰何すいかしようとしたのかどうかは定かではない。ネズミの目にも天井から覗く、真っ赤に充血した目玉が映った。


「グギギギッ、ゥウオォーンンッ」


 地底から響くような悪魔の叫び声が、天井から降り注いだ。


「シエェェーッ!」


 素頓狂な悲鳴を振り絞り、ネズミは腰を抜かす。


観自在菩薩かんじざいぼさつッ、行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみったじィ、照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくうゥ、度一切苦厄どいっさくやくゥ、舎利子しゃりしィ、色不異空しきふいくうゥ、空不異色くうふいしきィ、色即是空しきそくぜくうゥ、空即是色くうそくぜしきィ」


 顔面蒼白のウシは般若心経はんにゃしんきょうを大声で唱え始めた。


 その昔、耳なし芳一ほういちが怨霊に連れて行かれるところを、和尚さんがこのお経を身体全体に書いたと言う。


 なぜ耳だけ書き忘れたのか、それはおいといて、般若心経は古くから困った時のお守りとして使われてきている。

 

 ピカッ! ドドーンンッ!


 容赦なく雷鳴と落雷が続き、雨はもはや凶器のように大地に降り注いでいた。


 ~♡♡♡~


 わたくしは今、特等席である窓際のベッドの上で雷さまを鑑賞しております。


 あっ、光った! あっ、落ちた! 

 てな具合ですの。


 ビリビリと窓ガラスが揺れるさまなどは、ビッグ・アーティストのライブをアリーナ席で観るおもむきがございます。


 そういえば、あのフランケンシュタインの怪物も雷さまの力で命を吹き込まれたのですわね。


 わたくしは春の生まれでございますが、やはり夏はようございます。

 雨もシャワーのようだわ。

 このまま修行僧のように雨に打たれてこようかしら。


 まだまだライブは続きそうですから、そろそろあの子を降ろして一緒に観ましょう。


 よいしょっと。


 押入れの天板をはずして、と。

 あの『屋根裏の散歩者』も、こうしてよそさまのお部屋を覗きに行ったのですわね。

 さすがにわたくしは、よう真似などいたしません。


 どうせ覗くなら、今は科学の力を使ったほうが楽ですもの。

 盗聴器はもちろん、赤外線暗視カメラや掛け時計型スパイカメラ、それにドローンなどのすぐれものが簡単に手に入れられますものね。


 あらっ、あの子はどこまで散歩にいったのかしら?


 ここからだと暗くてよく見えませんわ。


 でもこんなこともあろうかと、わたくしは「IGNUS」を所有しておりますの。

 ご存じかしら、アメリカ国防省認定の最強の懐中電灯。LEDで、照射距離は最大で千八百メートルよ。

 これで屋根裏を照らしまーす。


 あっ、いたいた。あんなところでお休みしてるわ。


 えーっと、いくら女子のわたくしでも、それなりに体重はございます。

 まさか天井板をぶち抜く覚悟で上がるわけにはまいりませんもの。

 

 ひい、ふう、みい、と。このお部屋からの距離をざっと計算いたしますと、二件お隣の天井で停まっておりますわね。


 そういえば相次いでここのマンションからみなさま引越しされましたけど、いったいどうしてなんでしょう。


 わたくしはご近所付き合いは大切と思いまして、週に三回は各ご家庭にママのキムチをお届けに上がっておりましたのに。


 ご不在時には失礼のないように、風通しの良い和室の出窓へお皿に盛って置かさせていただいておりましたのよ。


 マンション二階の出窓へは、今流行のボルダリングの要領でスイッスイッと軽やかに登ります。

 

 二階建てで、ようございました。

 三階以上だと行政府に、クライミングの届け出が必要ですものね。


 こう見えましても、わたくしは怪人二十面相さまばりの軽業師かるわざしのように身軽なんですの。

 

 ですから、わたくしだけポツンと孤島に残されたような、そんな寂しさがございました。


 と、思えば今朝がた、引越し屋さんが二件お隣のお部屋に荷物を搬入されておられましたから、嬉しいわ。


 お引越しそばなどをいただくつもりは毛頭ございませんが、ご挨拶がてらうかがってみましょう。


 そうだわ! ちょうどよかった。

 お近づきのおしるしに、ママ特製の白菜キムチを持っていってさしあげましょう。きっとお喜びになるわ。


 つばめは本当に気の利く女子でございます。


 ~※※~


 ネズミは腰を抜かしたまま涙と鼻水を垂れ流し、ウシは金縛りにあったかのように硬直したまま、般若心経を唱え続けている。


 豪雨が窓や屋根を叩く音、稲妻と落雷の轟音、稲光の明滅。視覚と聴覚を支配され、さらに天井から覗く怖気の走る血走った目、泣いているのか呻いているのかわからぬ声。


 男二人の精神は限界点であった。


 ドンドンドンッ! 

 ドンドンドンッ!


 突然激しく玄関を叩く音に、ネズミとウシは震えあがった。


 こんな豪雨に雷が鳴り響く中、いったい誰が訪ねてきたというのだ。本部からの人間ではない。それなら前もって必ず連絡があるからだ。


 ドンドンドンッ! 

 ドンドンドンッ!


 ノックというよりも、拳で合板のドアを突き破るような叩き方だ。


「か、鍵は、鍵は!」


 ネズミは泣き顔のまま、ウシに叫ぶ。


「だ、大丈夫っす! お、俺がきっちりこう、きっちりこい、きっちりなう!」


 ウシはもはや自分で何を言っているのかさえ、分からなくなっていた。


 ドアを叩く音が止んだ。


 ネズミは金縛りには合っていなかった。


 グイッと奥歯を噛みしめ、力の入らない腰を自ら殴りつけて立ち上がる。


 天井から目を離したとたん、ふっと身体が軽くなった。呪縛が解かれたようだ。

 

 宇宙遊泳するような格好で、まず玄関横にあるトイレに入る。

 用を足したいわけではない。

 用ならすでに和室において知らぬ間に垂れ流していたので、意外とスッキリしている。


 さきほどウシが隠した拳銃を取りに寄ったのだ。

 役に立つ相手かどうかはわからない。それでも手元に武器があるだけで心に余裕が生まれる。


 油紙に包まれたトカレフを一丁取り出し、玄関ドアを確認する。

 昔ながらの内側のドアノブ中央にあるボタンを押すタイプの鍵だ。いまどきこんな施錠の家などない。


 確かにボタンキーは押されている。だがネズミはチェーンロックされていないことに気づいた。

 

 カッ、と曇りガラスが稲光によって鈍く輝いた。


 ネズミの目は、その曇りガラスを通り過ぎる黒い影に釘付けになった。

 正体不明の来訪者が舞い戻って来たのだ。


「あわわっ」


 ドンドンドンッ! 


 合板の玄関がまたもや叩かれる。


「ヒキッ」


 ネズミはあわててチェーンロックをすべく、鎖を引っ張った。


 暗いのと手が震えているのとで、なかなかチェーンの先が引っかかってくれない。


 焦れば焦るほど、無情にも鎖の先端部分がポロリと外れる。


 ガチャガチャッ、ロックされたドアノブが何度も回された。


 ネズミの心臓は限界点まで鼓動を速める。

 拳銃を持っているため、片手しか使えない。ドアノブを持って押さえるか、早急にチェーンロックするか。

 

 瞬間にチェーンロックを選んだ。

 ドアノブは少なくとも施錠された状態なのだ。

 決断すると、再びチェーンロックをかけようとした、その時。

 

 がしゃり。


「イッ!」


 ロックされているドアノブの、施錠が外された音がやけに鋭くネズミに鼓膜に響いた。

 

 ぎっ、ぎぎいいぃぃ。

 

 錆びた音と共に、玄関ドアがゆっくりと開かれていく。ザザーッと大量の雨が室内へ降り注いだ。


 ネズミはすべての動きを停止する。

 そして、両目だけを動かして来訪者を見た。

 

 大量の血が飛び散った白い死装束しにしょうぞくを着た、見上げるような大女が立っていた。


 せつな、その女が口を開く。


「っんんわあぁぁっー!」


 落雷の激しい音に重なり、大女の叫び声が響く。


 むき出しの廊下を否応なく叩く雨。

 

 女はずぶ濡れで、長めの髪が顔を隠しボタボタと滴が垂れている。


「ヒッ! ヒッ!」


 ネズミは神仏に対して敬う心を持っていなかったことを、この時ほど後悔したことはない。

 すでに意識が飛びかけていた。


「赤ちゃんを、返してえぇぇ!」


 キューンと目を回し、ネズミは完全に失神してしまったのであった。


 ~♡♡♡~


 気持ちのいいシャワーだこと。

 このマンションの廊下は、雨が直接当たりますものね。


 えーっと、二件お隣は灯りが洩れておりますゆえ、ご不在ではないみたい。


 数度玄関をコンコンとお上品にノック。こちらのお宅は呼び鈴がございませんの。

 雷さまと雨音のデュエットで、聴こえないのかしら?


 ではもう少し力を込めまして、ドンドン、ドドン、あっそーれ、ドドンド、ドンドンと。合いの手を入れましてのノック。


 だめね。


 仕方ないですわ。わたくしはいったんお部屋へもどります。こうなったらママに教わった要領でピッキングをば。


 電子錠だってわたくしの手にかかれば、あっという間に開錠よ。

 ここの施錠くらいはお茶の子さいさい、って感じかしら。うふふ。



 もしチェーンロックがあったとしても、そんなのは手刀でエイッといっちゃいますもの。

 ほら、簡単に開いたわ。

 

 こんばんはーっ! 

 

 わたくし、ご挨拶だけは必ず元気よくしなさいって両親から言われております。

 

 あら、こちらにお住まいになるのは殿方でいらっしゃいますのね。

 それなら白菜キムチはたーんとおすそ分けしなければ、ですわね。

 

 わたくしの、赤ちゃんを返していただきに参りました。

 二件隣りに住まう墓尾つばめと申します。今後ともよろしく、ってあらいやだ。

 

 お話の途中で、お眠りになってしまわれましたわ。

 お引越しでかなり体力を消耗されましたのね。


 おや? このおかたがお持ちになっておられるのは、懐かしのトカレフではございませんこと?


 わたくし、銃器の扱いについては少々得意としておりますの。


 二年後の就職活動時のエントリーシート。

 特技の欄に「あらゆる火器の取り扱い可。特に銃器においての見識及び技術は目をみはる」なんて書けるくらいです。


 茶畑で世界のお茶を製造販売されています、わたくしの叔父さま。

 貿易業も営んでおり、拳銃や自動小銃、手りゅう弾なども幅広く扱っております。でも薄利多売だって嘆いておりますのよ。


 ですからわたくしも叔父の手ほどきを受けまして、小学生時代より叔父様の住まうお屋敷の地下にございます、射撃場シューティング・ルームで腕を磨いておりました。


 高校生の頃には叔父さまからこれと同じトカレフをプレゼントされまして、通学カバンにこっそり忍ばせておりましたわ。


 思い出しました。


 ある日、学校からの帰り道のことです。わたくしは自転車通学をしておりました。


 もちろん常に全速力。わたくし、自転車のサドルに腰を降ろして漕いだことは一度たりとてございません。

 自転車は立ち漕ぎ、これが基本でございます。


 セーラー服のスカートをなびかせまして、時速は六十から七十キロくらいでしたかしら。


 商店街を通り抜けて住宅街へ入った途中で「誰かっ、捕まえてーっ!」と女性の叫び声を耳にいたしましたの。


 中年のおばさまが道路にしゃがんでおりました。ふとそのおばさまの前方に目を向けますと、ソフトバイクに乗った殿方が片手にハンドバッグを持っているではありませんか。


 これはひったくり! 

 

 わたくしはピーンときましたの。

 でも人通りがまったく途絶えてしまっており、おばさまの悲鳴は誰にも届いておりません。


 わたくしは意を決し、再び自転車のペダルを力いっぱい漕ぎましたわ。

 すぐに追いつき、「あなた、停まりなさいな」と声をかけます。「ひったくりは捕まれば極刑ですのよ」となんとか諭そうと試みました。


 でもダメ。やはり女子高生の言葉など、聞く耳持たずでございました。

 

 わたくしは自転車を漕ぎながら、通学用バッグからトカレフを取り出すと、躊躇することなくトリガーにかけた指をひきます。

 

 一発目はハンドバッグのど真ん中に命中。少し穴が開いてしまいましたが、おばさまもお許しくださるでしょう。二発目はお背中の中心部を狙って、パンッ! 


 ところが自転車を片手運転でしたため、狙いがはずれてバイクの後輪を撃ち抜いてしまいましたの。


 逃走する殿方はなんとか体勢を整えようとしますが、バランスが崩れ大きく転倒されました。五十メートルくらいは吹き飛んだと思います。

 

 なんとか犯罪を食い止めることができた、とわたくしはそのまま名乗りもせずに自宅へ帰りましたわ。

 だって新聞社やテレビの報道関係に「お手柄の女子高生」などと取材を受けるなんて、考えるだけでとても恥ずかしいですもの。

 

 ですから、拳銃の取り扱いは慣れたもの。

 

 お眠りになる時に拳銃を握りしめたままだと危ないわ。

 寝惚けて暴発なんて、よくあることですゆえ。

 わたくしは殿方の固く握った指を外そうとして、少々力を入れます。


 まるで小枝を折るような感触がございまして、なんとかトカレフを指の間から抜き取ります。


 あら? 


 指があらぬ方向へ曲がっておりますわ。

 お身体が柔らかい体質? 

 シルクドゥソレイユか、中国雑技団所属のおかたかも。


 なにはともあれ、ホッとかわいいくため息をつきまして、失礼して奥の部屋へ。トカレフは危のうございますので、わたくしの胸元へしまいました。


 まあ、こちらにも殿方が。


 なにやら暗唱していらっしゃるわ。もしや、乱歩先生の御作では?

 負けませんわよ、わたくし。

 それならわたくしは名作の誉れ高き『やみうごめく』をば。


 ごほん、とかわいく咳払い。


 ~※※~


 バタンッと玄関ドアが開かれ、ごうっと風と雨が室内へ侵入してくる気配があった。


 引きつったネズミの悲鳴と、ドタンッと倒れる音がウシの耳に聞こえる。

 金縛りの呪縛が解けないまま、ウシは何度も何度も般若心経を唱え続けた。


 みしり、誰かかキッチンからこちらへ歩いてくる。


 確認しようにも、両目は天井に吸い寄せられ動かせない。


 みしり、みしり、さらに近づく。


 いきなりバサッと長い髪がウシの視界に入った。

 ボタボタと滴が顔に落ちてくる。


観自在菩薩かんじんざいぼさつッ、行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみったじッ、ヒッ、照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくうゥ、ヒッ、ヒッ、度一切苦厄どいっさいくやくゥ、舎利子しゃりしッ、色不異空しきふいくうゥ、ヒーッ!」


 ウシの唱える声に悲鳴が混じる。


「もう十年ほど以前になります。はっきりした年代は忘れてしまいました。そればかりか」


 ウシの顔の上に髪を垂らした女が、突然腹に響く声でしゃべりだした。


 これは、間違いなく自殺した女の怨霊ではないか!

 自殺した経緯を恨めしく話し、その後冥界へ引きずりこんでいくのだ!


 ウシはパニックに陥った。

 怨霊は血しぶきを浴びた死装束姿で、天井を見上げる。


「やはりここにいたのね、わたくしのかわいい赤ちゃん。うふふ。

 押入れから失礼してよろしいかしら」


 女の霊がウシにニタリと微笑みかける。下ろした前髪からランランと光る妖しげな双眸。


「どうぞどうぞ、美しきマドモアゼル。よろしければ私がお手をお貸ししましょう。レディに危険な真似はさせられません。ふふっ、男って生き物は、常に女性のために自ら死地へ赴きます」


 自分で何を言っているのかわからない、ウシ。

 次第に意識が遠くなっていく。

 

 最後に記憶に残っているのは、赤ん坊を抱いた女の霊が、なぜだか大量のキムチを盛った皿を、ウシの横に置いて姿をかき消したことであった。

 死ぬほど強烈な臭いがした。


 ~※※~


「それはコワいよ、ヒメちゃん」


 冷酒の三本目を空けた凜子は、ゾクリと肩を震わせた。


 いつの間にか外は雷雨が到来したようだ。新しく暖簾をくぐってくるサラリーマンらしき二人連れは、ずぶ濡れであった。


「ただこのお話は、本当かどうかはわからないのですな。前の持ち主は結局見てはおらんようでしたから。噂が噂を呼ぶ。尾ひれがついてしまって、それを鵜呑みにしていたんじゃないですかなあ」


 姫二郎は、凜子からお酌してもらった冷酒のお猪口に視線を落とした。


「でもそんな噂話を耳にしていたら、いつなんどき現象が起きてもおかしくないって疑心暗鬼になるよね」


「さよう。ですからあの人形を入手したはいいが、結局倉庫にしまいっぱなし。それでも怖くなって手放す決心をしたと」


「そこへヒメちゃんが現れたもんだから、これ幸いとノシまでつけてくれちゃったんだね」


 はあっと凜子はため息を吐きながら、両肘をカウンターに乗せて手で顎を支えた。


「それにしても、つばめは大丈夫かしら。そんないわくつきの人形を手元に置いてさ」


「逆に言えばですな、つばめさんこそあの人形の持ち主に最もふさわしい。僕はそう思いますが、いかがですかな」


「まあね。あの子に勝てるヒトなんざ、この世にもあの世にもいないしね。

 それにしてもだよ。泣き声は電池を入れ替えれば今でも出るけど、動き回る予定の駆動モーターがいかれちゃって修理不可能。絶対に動かないはずなのに、夜中になるとひとりでに這い回り出すなんて、オカルト話もいいところね」


「まあ実際に動く様子を見た持ち主は、未だかつておりませんがな」


「つばめの部屋に憑りついているって噂のある地縛霊が、もしかしたら外へ出たがってあの人形にのりうつっているかもよ」


 二人は顔を見合わせて笑った。

 

 ~※※~


 明け方、太陽の光が町に射すころ、植田うえだの交番に二人の男が駆けこんできた。


 二人とも顔面蒼白で息も絶えだえに、応対した若い警察官にすがるように土下座する。


 怨霊にり殺されそうになったから保護してくれ、と懇願してきたのだ。無残にも小柄な男は、片手の指が五本とも複雑骨折をしていた。


 幽霊って関節攻撃サブミッションなんてするの?

 

 応対した若い警官は首を傾げる。


 しかも女幽霊は子持ちであり、大量のキムチを置いていったと訴える。


 ちょ、ちょっと待って。

 子持ちはいいとしてだ、キムチ? なぜ怨霊がキムチなのよ。


 応対した若い警官は首を傾げる。


 気絶するほど猛烈な臭いはあの世から持ってきたに違いない、コワくて捨てられないから警察で何とかしてくれないかとも付け加える。


 応対した若い警察官は、二人が何を言っているのかさっぱり理解できなかった。


 そこでふと宙を仰いだ。


 そういえば昨日の夕暮れ時に、犬を散歩させていた小学生の男の子が、泣きながら駆け込んできたことを思い出したのだ。


 男二人が怨霊に襲われたというコーポの二階で、血に染まった白い着物を着た大きな女の幽霊が、男女の若者を相次いで首を締めながら部屋に引きずり込んでいくところを反対側の道路から見た、と訴えに来たことを。


 その時は笑いながら、見間違いじゃないかと諭したのだ。


 だが今も必死の形相で訴える二人に只事ではないと判断し、念のために愛知県警本部に報告するのであった。


 すると驚いたことにこの男たちは、全国指名手配になっているテロリスト集団の一味であることが判明したのだ。


 公安関係の刑事たちが召集をかけられ、普段は静かな植田の交番はてんやわんやになった。

 

 その後二人がすべてを自供したことにより、日本を転覆させようと目論んでいた凶悪なテロ組織、『常夏とこなつの島』が壊滅していくことになるのである。


 つばめと白菜キムチが日本を魔手から守ったことを、むろん誰も知らない。

 

 ~♡♡♡~


 ああ、気持ちのいい朝ですわね。昨夜の雷さまが大暴れなんて、ウソみたいなお日和ひよりです。


 日曜日の朝は寝だめをするかたもいらっしゃるようですが、わたくしは感心いたしません。


 お休みの日こそ朝から活動しなくっちゃ。


 お掃除にお洗濯。こうみえても、つばめは家事全般なんでもござれ、ですのよ。


 でも驚きましたわ。


 昨晩はやはり着物のキムチ汁が気になりまして、朝一番からお洗濯しましたの。洗濯機は廊下ではなく、バスルームに置いてございます。


 漂白剤がちょうど切れていたため、代わりにママの開発した万能薬の錠剤をひとつだけ試しに入れてみました 。


 回転するお水と経帷子。

 

 すると徐々に赤く染まった漬け汁が、お着物から浮き出てきたのです。

 

 これは大発見だわ!


 わたくしは錠剤をさらに十粒ほど放り込んで、仕上がりを楽しみにしておりましたの。


 お洗濯終了のブザーが鳴りましたゆえ、洗濯機のフタを開けます。

 

 あら?

 経帷子がないわ。

 なぜ? どこへ消えたの? 洗濯機のイリュージョン?


 しばらく思案のうちに、わたくしは、なるほどと大きく手を打ちましたの。


 どうやら錠剤を入れ過ぎて、お着物の繊維が分解されてお水に溶けてしまったんだわ。

 ですから排水時に、見事綺麗に洗濯ドラムからお水と一緒に流れてしまったわけですわね。

 明智小五郎先生のような名推理でございます。


 これはママのお薬がとても強力であった、ってことですわ。

 さすが万能薬、さすがママです。


 あら? 赤ちゃんはいづこ?

 いた、いた。

 玄関ドアをさかんに引っいている。

 お散歩に行きたいのね。でもおねえさまは忙しいから、後でね。

 泣いてもダメ。わたくしはしつけにはうるそうございますのよ。

 仕方ないわねえ。こうなったら少し辛抱していてね。

 

 わたくしはキッチンに置いてあるビニール紐を取り出し、素早く赤ちゃんの両手両足を縛り上げます。ママから教わった亀甲縛きっこうしばりを応用いたしましょう。


 まあ、それでも全身を動かして這い回るのね。


 それでは、とわたくしは赤ちゃんを持ち上げて逆さにした状態で、鴨居からさらに紐でぶら下げます。


 これでどうかしら?

 そうそう、ブランコよ。楽しい?


 ではわたくしは朝食の準備に入ります。

 もちろん今朝も栄養たっぷりの、お野菜のスムージー。


 生ニンニク、生ニラ、納豆にラッキョウ。そうだわ、今日は冷やしてある絞ったタマネギジュースもアクセントに入れましょう。


 今日も一日、つばめは元気にまいります!

                             了

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猟奇なドール 高尾つばき @tulip416

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