伊勢谷《いせや》兄弟の場合

気になる人がいます


 昼間の賑やかな店内とは打って変わって、閉店後となると静けさだけが漂う。


 そんな中で、後片づけをしていたアオイは手を止め一人カウンター席に腰掛けた。


「はぁ……」


 誰に聞かせるでもないため息。

 目を閉じ天井を仰げば、思い出すのは兄キョウスケにキスした時のことだ。


 明らかに女性とは違う少し薄い唇。

 驚くでもなく、ただ真っ直ぐに自分を見つめてくる目。


 その全てに欲情した。

 男の、しかも自分の兄に、だ。


「はぁぁぁぁぁ」


 ため息がより一層深くなった。

 あまりにも世界に入りすぎて、近づいて来る人の気配には気が付けなかった。


「たーだーいーま」


 突然、右肩に重みを感じたアオイはビクリと体を揺らす。

 驚きに見開いた目で振り向くと、自分の右肩に顎を乗せニコニコした顔がごく近くにあった。


津村つむら店長!?」


「いま帰ったぞー」


「明後日までベトナムじゃ……」


 津村と呼ばれた男は、スラリとした長身をさらに伸ばすようにうーんと伸びをしながら「そうなんだが」と苦笑いする。


「あらかた行きたいカフェは見て回れたし、天候も最悪だったから早めに帰国してもいいかと思ってな。次はヨーロッパあたりだろうが、しばらくは日本だな」


 そう言いながら、ごく自然な動作でカウンターに入りコーヒーをいれだす。

 まだコーヒーのマシンは洗浄前だったし、アオイが止める理由もない。


「で?」


「はい?」


「店長代理サマは、店長のお帰りにも気付かず何をそんなに悩んでんだ?」


 とたんにアオイの顔が曇った。

 目をそらし、別に、とだけ答える。


「別にってオマエ。そんな思いつめた顔してなんもない事ないだろ。ホラ、言ってみ?」


 津村が困ったような笑顔でアオイの前にスッとコーヒーを置いた。ゆったりと流れる湯気と、豊かな香りが不思議と心を落ち着かせてくれる。

 ふぅ、とひとつ息をはいた。


「実は…………意識するなんて夢にも思ってなかった人が気になるような気がする、というかなんというか……」


「そんなの伊勢谷いせやだったら簡単じゃねぇか。告白しちまえば即オッケーだろうが」


 暗にアオイが百戦錬磨と言いたいのだろうが、それに対して突っ込む余裕はアオイにはない。


「いや、その……絶対想いを伝えちゃいけない相手だったりして……」


「人妻か?」


「ちっ、違います!」


「じゃあ、女子高生か?」


「違いますよ!!」


「まさか、母親くらい歳の離れた熟女……」


「だから違います!! そもそも女じゃ……」


 瞬時にアオイの顔が真っ青になった。

 口がすべったにも程があると後悔しても遅すぎる。


 津村は目を見開いたまま言葉を失っていた。だがすぐに無精髭をなでながら何かを考えるような仕草をする。


 アオイにとってこの沈黙の空気がいたたまれない。


「オイ」


「は、はい」


「………………俺はダメだぞ」


「なっ! んなわけないでしょう!! 勘違いが大きすぎますよ!」


「なんだよ真剣に考えて損した〜」


 津村は、ほっぺを膨らませる。

 沸騰寸前の思考でバカバカしいとも言えるやり取りをしたせいで、アオイの心身は疲れきってしまった。


 だからということもあって、オレが諦めればいいことですから、と半ば無理やり話をしめくくった。

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