第10話 長門

 ……そこから先はよく覚えていない。

 気づけば俺は必死で自転車のペダルを漕いで、街を突っ走っていた。行き先は長門が住む駅前の分譲ぶんじょうマンションだ。

 がらんとしたエントランスホールのインターホンを押すと、すぐに長門が答えた。

『入って』

 同時に、エレベーターホールのドアが開く。

 708号室のドアをノックするとすぐにロックが解錠され、玄関に制服姿の長門有希が立っていた。

 俺が来るのを予想していたんだな、という気がなぜかした。


 以前と同じ殺風景さっぷうけいな部屋だった。

 磨き上げられたリビングの床には、冬にはこたつになるであろうえ置きテーブルがあって座布団が三枚用意してあった。カーテンすらない大窓からしゅいろ色の春の月がのぞいている。いつもながら生活感が全く欠落した部屋だ。

 茶器をもって長門が台所からやってきた。客人にはお茶が定例化していんだろうか。

 長門はちっこい手で完璧な動作を見せて、湯飲みに茶褐色のお茶を注ぎでいる。

 長門の沈黙ほど心やすいものはない。その不変の落ち着きが今の俺にはありがたかった。手紙一通で取り乱した俺が情けない。

 自分の茶碗にも注いでから、長門は言った。

「統合情報思念体の急進派に動きがあった」

 俺はズボンのポケットから封筒を取り出し、机に置いた。

「これだろ? 朝倉はお前の情報操作で転校したことになっているはずだ」

 ああ、わかってるさ。自分がおびえてるって事ぐらい。

 でも、誰だってそうなるだろ。自分を襲った奴がいなくなったと安堵していたところに、そいつから手紙が来るんだぜ?

 長門に助けを求めているのは事実だが、正体を明らかにしたい僅かなプライドもまだ残ってはいる。


 長門はしばらく黙ってその無表情な顔を俺に向けていた。

 眼鏡こそないものの、去年ここでトンデモ話を長々と語った長門と同じ姿勢、同じ視線だ。

「お前の親玉はなんて言ってる?」

「急進派は情報開示じょうほうかいじこばんでいる。主流派といえども強制はできない。それは多様性たようせいを阻害する」

「そのために俺がどうなってもいいのか」

 俺はテーブルに片肘かたひじをついた。

 あれは五月の末頃だったろうか。朝倉の暴走で追い詰められた俺は長門に救われた。しかしいつもそうなるとは限らない。

 俺が懸念けねんしているのは、ほとんど万能に見える長門ですら過ちを犯すってことだ。それが教室の再構成中に眼鏡をつくり忘れる程度ならまだいい。その万に一つのあやまちで俺が死ぬ可能性だってあるのだ。

 俺はお茶を飲み干して言い方を変えた。

「朝倉は消滅したんじゃなかったのか」

「物理的実体の破壊は、必ずしも彼女の構成データの消滅と同義ではない」

 何の感情も込めずに長門は言って、空いた俺の茶碗に再びお茶を注ぐ。


 “思念体は、この通り、一枚岩じゃない。相反する意識をいくつも持ってるの”

 “いつかまた、わたしみたいな急進派が来るかもしれない”


 あいつが言った最後の言葉だ。

 絶対に忘れようのない、砂漠に似た異様な空間で俺に放たれた言葉。その直後にあいつは結晶化し、きらめく砂のように粉々になってその存在ごと消滅した。

 俺は再び朝倉のダイイング・メッセージを心の中で反芻はんすうする。あいつは自分がまた来る、とは言っていなかった。誰かかわりのやつ、なのか。そいつが朝倉の名をかたって手紙をよこした……?

「カナダとか言ってたのはお前の設定じゃないのか」

「そう」

「その設定が利用されてる?」

「そう」

「朝倉はこの世界に存在するのか」

「高度な情報遮蔽しゃへいが行われている」

 俺は溜息ためいきをついた。だがまだ希望は残っている。相手が俺に危害を加えるつもりなら、その日時を連絡したりはしないはずだ。

 実はフェイントで安心させておいて背後からいきなり、とか。


 ……インターホンの呼び出し音が部屋に鳴りひびいた。

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