第3話 連続殺人事件

一週間後のその日、別当光智は結城真司と共に大学の正門へ向けて坂道を下っていた。眩い陽光が降り注ぐ中で、桜葉が春風に舞って、はらはらと煌いている。左手下方の視界に広がるグランドでは、サッカー部員がミニゲームで汗を流し、足元からグランドへ下る石段の中腹では、応援団員の野太い声が飛び交っていた。

 ちょうど坂道の中ほどに差し掛かったところだった。携帯が鳴り、着信を確認すると村井慶彰からだった。

――株取引で不都合なことでも起こったのか。

 よほどの用件でもない限り、村井はこんな時間帯に連絡をしてはこない。

 光智は、先に行くよう真司を促すと、道の端に寄って電話に出た。

「別当です」

「村井です。べ、別当さん、た、大変なことが起こりました」

 普段は冷静沈着な村井慶彰の声が震えていた。光智は、とても株のトラブルなどではないと予感した。

「落ち着いて下さい、村井さん。何があったというのですか」

「堀尾君が亡くなりました」

「はあ? 堀尾さんがどうしました」

 数瞬、光智は村井の言葉が消化できなかった。

「堀尾君が死んだのです」

「えっ! 何ですって」

 思わず声が裏返った。横を通り過ぎようとしていた恋人らしきカップルが、その声に驚き、咄嗟に後ずさりしたほどだった。

 光智は、軽くお辞儀をして詫びを入れると、身体の向きを変えて声を潜めた。

「本当ですか」

「はい。自殺か他殺かは分かりませんが、堀尾君が浴槽で変死したのは本当です」

「まさか、そんな……」

「先刻、専務の土江君から連絡があったときには私も驚きました」

「確か、他殺と言われましたか?」

 桜木の傍らにある公衆電話ボックスに凭れ掛かり、光智は呻くように訊いた。

「その可能性の方が高いようです」

「信じられませんね」

「全くです。ところで別当さん……」

 村井の歯切れが悪くなった。

「こんなときに何ですが、例の買収計画について、至急善後策を相談したいと思います」

「ああ、そうですね……では、今晩七時に風月ではどうでしょう」

「結構です。宇佐美さんや赤木君はどうしましょうか」

「事情がはっきりとしていませんので、とりあえず、今日は私たちだけにしましょう」

「では、私はできるだけ情報を集めてみます」

 光智は駆け足で真司に追い着くと、急用ができた旨を伝え、彼と別れた。


 夜になって、光智は村井から事件の詳細を聞いた。

 彼が帝都大学時代の友人である警視庁の参事官から聞き出した話によると、署内では他殺の可能性が高くなり、大規模な捜査本部設置に向けて準備に入ったという。堀尾は世間の注目を浴びていたため、他殺と断定すれば、当局としてもそれ相応の対応を迫られたということらしい。

 しかも、堀尾の住むマンションのセキュリティーは極めて高度であり、浴槽に運んで自殺に見せ掛けるという手の込んだ偽装工作に鑑みると、強盗や空き巣目的から転じた突発的な殺害ではなく、怨恨等による計画殺人の線が濃厚となっていた。

 堀尾が買収した企業は、光智が関連しているものを含め、大小合わせて十二社あった。これらが全て円満に解決した訳ではなく、中には恨みを持った者もいると考えられた。

 話を聞いた光智の表情は沈んだものになった。彼が関与した五社は、役員の解任や従業員の解雇なども最小限に抑え、極力穏便に済ませていたが、それでも恨みを買わないと誰が断言できるだろう。彼らの中に真犯人がいるとすれば、同義的な責任は免れないと考えたからである。

 村井には、他にも気掛かりなことがあった。この事件で、ウィナーズが遅からず世間の耳目を集めてしまい、株式の買収工作がやり難くなるということである。  ウィナーズの役員の中に、堀尾と光智らとの関係を知っている者は一人もいなかった。僅かに、専務の土江徹(つちえとおる)だけが、個人的に堀尾の投資指導をしていたのが村井であることを知っていた。

 土江は、堀尾の亡き後、次期社長の最有力にいる人物である。もっとも、分散しているウィナーズの株を集約すれば、実質的に光智が筆頭株主であるから、社長人事は彼の手中にあったのだが、問題は土江が光智らと与する気があるかどうかであった。

 その点について、村井は自分の印象を述べた。

「土江君にしても、我々の仲間に入ることは願ってもない幸運でしょう。ただ、彼の資質が向いているかどうか。堀尾君はあのように見えても、相当な野心家でしたから……。もしかすると、その辺りが災いしたとも考えられます」

「土江さんの人となりは、追々見極めるとして、問題は牧野モーターですね」

 光智は、堀尾の代役を誰にするか悩んでいた。と言っても、宇佐美と赤木の二人しかいないのだが、宇佐美は苦労人だったので、極力表には出したくなかったし、若い赤木には荷が重過ぎた。

「しばらく、様子を見ませんか。この件の大筋が判明するまで、我々も動かない方が良いかもしれません」

 村井がアドバイスをした。

「それが良案かもしれませんね。その間、村井さんは土江さんの真意を見極めて下さい」

「真意……、ですか?」

「ええ。堀尾さんが集めた株をどうするつもりか、です」

 光智は、大量取得報告書を提出して、ウィナーズの名前が判明し、相手が対策を立てたとき、土江がこれまで通り自分たちの指示に従うかどうかを知りたかった。

 堀尾は、これまで村井の指示通りに株の買い付けを行い、取得した株は最終的には光智の、それはつまり周英傑の息の掛かった企業に、利を乗せて引き渡していた。そうすることで、ウィナーズは、確実に利鞘を稼ぐことができたのだが、土江が同じように動いてくれるかどうか保証はなかった。

 牧野モーターの株の購入金額は、およそ四十億円だったが、これ程度の資金ならば自前で賄うことができ、光智の支援を必要としていなかった。したがって、亡くなった堀尾と光智の関係を知らない土江が、他に利益を求める可能性も考えられたのである。

 ウィナーズ、つまり堀尾貴仁は上場したときに放出した売却益を株式投資に回していたが、資金がショートしたときには、村井から借り受けていた。その資金の出所は、菱友銀行にドラゴン・グループの会社名義の定期預金を担保にして、光智が借り入れたものである。

 裁量を任された村井は、その資金を堀尾個人に貸し付け、堀尾が自社に融通するといった段取りを踏んでいた。したがって、土江徹が堀尾貴仁と村井慶彰の関係を知っているのは、村井が個人的に株式指南のコンサルティング契約をしていたからで、資金の流れなど知るはずもなかったのだった。

「実は、もう一つ問題が……」

 村井が、遠慮がちに切り出した言葉の先を光智が奪った。

「堀尾さんが、私たちとの関係を他に漏らしていないか、ということですね?」

「直接第三者に漏らしていなくても、手帳やパソコンの文書の中に別当さんの名前を記述していることも考えられます」

「有り得ますね」

「私は構わないのですが、貴方との関係が警察の捜査で露見するかもしれません」

「そのときは、仕方がないでしょう。仕事はやり難くなりますが、私が罪を犯した訳ではありませんから……」

 光智は何ともやるせない微笑を浮かべた。

 

 翌日の午後、所轄の麻布署に捜査本部が設置され、本部長には麻布署捜査一課長の山根警視が就いた。本庁捜査一課の殺人犯捜査第一係が主力として投入され、係長の森野警部が現場の指揮を執ることになった。他に、同第三係の諸岡班からの助勢と所轄の麻布署員も加わるという、単発の殺人事件とは思えない物々しい布陣となった。

 社会的な重大事件か凶悪事件、あるいは大量殺人事件でもない限り、一つの事件に別班の捜査員を加えることは滅多になかったが、堀尾貴仁の風評と知名度の高さから、世論の関心度に鑑みて、早期解決を図ろうとする当局上層部の意気込みの露われであった。


 午後三時――。

 丸一日の初動捜査の結果を踏まえて、第一回目の捜査会議が行われた。この会議を通して、全捜査員が情報を共有することになる。

 会議の冒頭、山根捜査本部長が所見を述べた。

「被害者・堀尾貴仁氏は、再三マスコミにも登場していた人物であり、本件に関しては国民の関心も非常に高いと思われます。諸君らの鋭意努力によって、一刻も早い犯人逮捕、事件解決を望みます」

 会議を進行する本庁捜査一課の森野係長が続いた。森野和則(かずのり)は三十三歳。いわゆるキャリア組であり、まもなく階級は警視、役職は管理官に出世が有望なエリートである。

「では、捜査会議に入ります。まずは、これまでの捜査状況の説明をお願いします」

 管理官が席を立った。本部長を補佐し、捜査本部と本庁のつなぎ役を担う。

 被害者は本名―堀尾貴仁。

 性別―男性。

 生年月日―昭和四十年九月一日。

 年齢-三十六歳。

 現住所―東京都港区六本木六丁目X―X、六本木スカイタワー・マンション二八〇一号室。

 本籍―広島県安芸郡府中町八幡二丁目X―XX。

 職業―株式会社ウィナーズ代表取締役社長。

 前科―なし。

 遺体の発見状況―昨日、四月二十三日九時より、ウィナーズで予定されていた臨時役員会議に被害者が姿を現さなかったので、不審に思った専務の土江徹氏と他一名が、同日午後二時頃、被害者所有宅の二八〇一号室に出向いた。

 インターホンを押しても中から応答は無く、鍵が閉まっていた状態だったので、管理人を呼んで鍵を開けてもらい中に入ってみたところ、全裸で浴槽に浮かんでいる被害者を発見した。したがって、この三人が第一発見者となる。

 主任検視官が続いた。

 司法解剖の結果、死亡推定時刻は、四月二十二日・午後十一時前後と見られ、殺害方法から犯行時間はやや幅が広い、同十時半から十一時半と推定された。同じく死因は、左手首の動脈損傷による出血多量、つまり失血死と断定され、血液中から高濃度のアルコールと睡眠導入剤の成分が検出された。

 以上の説明の後、森野警部が私見を述べた。

「玄関のドアノブをはじめ、室内にも本人以外の複数の指紋が残されていましたが、犯歴の有る物はありません。尚、現場の状況と、いまのところ被害者宅から金品などの紛失がない模様を考え合わせますと、強盗目的の線は薄いと思われます。以上です。何か意見のある方は、遠慮なくどうぞ」

 森野の言葉を受けて、会議室の後方に座っていた麻布署の所轄刑事・中筋博司(なかすじひろし)が挙手をした。昇進試験を受けず、現場一筋に勤続三十五年の熟練刑事である。

 中筋は、右手に持ったペンの先で、白髪交じりの頭髪を掻きながら立ち上がった。

「左手首の動脈損傷ということですので、被害者は睡眠薬を飲んでから浴槽に入り、自ら手首を切ったとも考えられますが、自殺ではなく他殺と判断された根拠は何でしょうか」

 森野が答える。

「ご指摘のとおり、当初は自殺の線も考慮に入れましたが、ここで、害者が左利きという重要な事実が判明しました。左利きの者が、利き手でない右手で、利き手である左手の手首を切る可能性は、五名の検視官に問い合わせたところ、五名とも十パーセントとから二十パーセント程度という答えが返ってきました」

「なるほど。次に玄関の鍵が閉まっていたとのことですが、犯人は合鍵を持っていたのでしょうか、それとも害者の鍵でしょうか」

「どちらでもありません。このマンションは、扉が閉まると自動的にロックされます。したがって、入室時にさえ害者の目を誤魔化すことができれば、ドアノブに指紋を残すことはありません」

「最後に、害者の血液中から高濃度のアルコール成分が検出された、ということですが、犯人が使用したと思われるグラス等は残されていなかったのでしょうか」

「ありません。テーブルの上には、害者のみの指紋の付いたグラスと、睡眠導入財の残りがあっただけです。このことから、犯人は害者が飲酒の途中で、トイレに立つなどの隙を見て睡眠導入剤を混入し、眠らせておいてから犯行に及んだと思われます。そして犯行後、自らの痕跡を消す作業をしてから立ち去ったと考えるのが順当でしょう」

「分かりました」

 中筋は、納得の表情で腰を下ろした。

「他になければ、今後の捜査方針を申し述べます」

 広い会議室に森野の声が響き渡った。


 この捜査会議によって、

 被害者の生前の交友関係の捜査。

 被害者の仕事関係、特に株取引に関する捜査。

 被害者の遺品、特に携帯電話の通話記録とパソコン内の情報分析捜査。

 被害者の住居の捜査。

 現場周辺の聞き込み捜査による目撃情報の収集。

 防犯カメラの分析。

 被害者の前日から当日にかけての足取りの捜査。

 以上の項目が決定された。


 本件が他殺と断定された補強根拠としては、被害者に自殺をする動機が見当たらないことである。社長を務めるウィナーズの事業は順調で、殺害された翌日の役員会議も、被害者の緊急提案によるものだった。企業買収が議題であり、被害者が事業欲旺盛だったことが窺えた。

 三週間前に行われた社内健康診断の結果、健康上の問題はなく、異性関係も順調との証言を得ていた。現時点で遺書は発見されておらず、自殺をほのめかす発言も一切なかったのである。


「最近は付き合いが悪いな。今日はサンジェルマンに付き合えよ」

 結城真司は、視線の先に目敏く別当光智を見つけると、駆け足で追いつき、ポンと肩を叩いた。

 帝都大学は、正門を入ると左手にグランドが広がり、右手に大多数の学部の講堂が立っていた。唯一法学部だけが、グランドの横の坂道を上りきったところにあった。

 同大学法学部は、政治家をはじめ、多くの高級官僚、法曹界、大企業のトップなど、この国をリードしている人間を輩出している特別な学部だった。故に、同じ帝都大学の学生であっても、正門を入って左手を行く者には、少なからず羨望の眼差しが向けられることになった。

「ああ。久しぶりに付き合うよ」

 光智はあっさりと応じた。

 この数日間、再三来店を請う恭子からのメールを受け取っていた。一人で行くことに気が進まず、何かと理由を付けて遠ざけていた彼は、むしろ真司の誘いを待っていた感があった。

「ところで、あの堀尾が殺されたのには驚いたな」

 声を潜めた真司の表情には、明らかに興味本位の色が浮かんでいた。

「やり手のようだったが、目立ち過ぎるのも考えものなのかな」

 光智は、溜息混じりに応じた。

「やけに同情的だな。こう言っちゃあなんだが、お前から見れば、堀尾のような人間は虫が好かないんじゃないのか」

 語調に少し挑発的な感じがあった。

「どういう意味だ?」

「ああいった成り上がり者は、嫌いなんじゃないかと思ってね」

 そういうことか、と光智は顎を引いた。

「たしかに、好ましい人物ではないかもしれないが、だからと言って、死者に鞭を打つ気にはならない。どうも日本人っていうのは、成功者に対する歪な嫉妬心や偏見が強すぎるように思うな」

 光智はそこまで言ったとき、ふとある思いが浮かんだ。 

「それより、堀尾のマンションとお前の住んでいるマンションは近所だな。お前のところにも捜査員はやって来たのか」

「あ、ああ。目撃情報が乏しいのか、ローラー作戦をしているとかで、俺のところにもやって来た」

 光智は、そう答えた真司の目が泳いだような気がした。

「まさか、お前が目撃していた、なんてことはないよな」

 半ば冗談のつもりだったが、

「ば、馬鹿な。ある訳ないだろう」

 と、真司は真顔で答えた。

――いつもと様子が違う……。

 予想もしない反応に、光智の心には割り切れないものが残った。


 サンジェルマンに顔を出した二人を見て、上杉母娘は光智が一人ではなかったことに、一瞬落胆の表情を浮かべたが、すぐに商売上の笑みを取り戻した。そして、真司が携帯に出るため外に出た隙を捉えて、玲子が光智に顔を近づけた。

「明後日の日曜日の夕方、時間を空けて下さらない」

 玲子の顔から笑みが消えていた。光智はまたも厄介な頼みごとかと、気が重くなった。

「何か?」

「加賀見さん宅へご一緒をお願いしたいの」

「私が加賀見さん宅へ……?」

「ええ。別当さんのお陰で、先日正式契約を済ませましたの。もちろん、相手は帝都庶民信用組合ですけど、何と言っても加賀見さんは、ご近所ですからね。挨拶ぐらいはしておきたいの」

「それで、なぜ私が?」

 光智は口調に断りの色を添えた。

「それがねえ……」

 加賀見雅彦は、二年前にギャンブルが原因で離婚をしていた。以降、荒れた生活をするようになり、商売の破綻に繋がったのである。今は落ち着いた暮らしをしているようだが、女性二人では心細いというのだ。そこで、恭子の代わりに光智を、ということらしい。

「親戚の者ということで同席して欲しい。駄目かしら?」

 光智の心中を察した玲子は上目遣いに言った。

 彼は女性のそのような仕種に弱かった。 

「何時ですか」

「それが、午後六時なのよ」

「中途半端な時間ですね」

「日曜は朝から競馬らしいの。身の破滅を招いた原因だというのに、土地を売ってお金ができた途端、またぞろ悪い虫が蠢いたのね」

 玲子は、あからさまに嫌悪感を漂わせていた。

「それにしても遅い時間ですね」

「どうやら先客があるらしいわ」

 そこへ真司が戻って来る気配がした。

「分かりました。乗り掛かった舟ですからね」

 光智が、渋々ながらも承諾したのには他の理由もあった。

 当日の午後三時から結城電器の創業四十周年記念のパーティーが催され、光智も招待されていたのだが、多くの人目に姿を晒したくない彼は、欠席する理由を探していたのだった。もっとも、この理由をどのように誤魔化して真司に伝えるかが問題であるが……。 


 捜査本部は異例の大規模体制が敷かれていた。単独殺人事件にも拘らず、捜査員百名を二十名ずつの五班に分け、各班が三名から五名のチームを作って、捜査方針に従って精力的に動いていた。

 その過程で、いくつか目ぼしい情報が浮かび上がっていた。

 被害者堀尾貴仁は無類の女色家で、複数の交際相手の他に、よく風俗嬢を買っていたということが分かった。ホテトルのデリバリーを頻繁に行っていたのである。

 マンションの防犯カメラが捉えた事件当日の映像の中にも、素性が判明しない水商売風の女性二名が映っていた。しかも二人は、午後九時過ぎに一緒に入り、犯行時刻と重なる同十一時過ぎに出ており、事件との関連性が疑われた。

 マンション内には玄関に二ヶ所、エレベータ内、各階フロアーに三ヶ所の防犯カメラが設置されていたが、プライバシー保護のため、部屋の前を捉えるカメラは設置されておらず、訪問客の確認は各部屋のインターホンに設置されたカメラに頼ることになっていた。

 堀尾の部屋のインターホンには、映像が録画されていなかったため、同階である二十八階の残り全九戸の聞き込みを行った。その結果、彼女らが訪れたと証言する者はなく、二人の女性は堀尾の部屋を訪ねた公算が高くなった。

 だが、このマンション、特に若き独身の成功者で占められている高層階には、日頃から女性の出入りが頻繁だったという情報も得ており、世間体を考慮して、嘘の証言をしていることも捨て切れなかった。

 もう一つ、堀尾が個人使用していたパソコンのスケジュール表の中に『村井』、『宇佐美』、『赤木』とイニシャルと思われる『BM』の記述を見つけていた。特に、BMの文字は半年ぐらい前から頻繁に記述されていた。

 捜査本部は、ウィナーズ専務の土江徹の事情聴取で、この四つの名前の中から、『村井』とはフューチャーの村井慶彰と断定した。そして、村井の仕事柄、この四名に堀尾を含めた五名が共通の利益を追求する投資仲間だったと推測し、彼らの間で何らかのトラブルがあったのではないかと疑った。

 その一方で、精力的な聞き込みの甲斐もなく、目撃情報は皆無だった。いかに六本木といえども、深夜の高級住宅街は人通りが少ないからである。

 以上から、捜査の重点は防犯カメラに写った不審な二人の女性の割り出しと、村井を足掛かりにして、四人の素性及び関係の洗い出しに置かれた。中でも、堀尾がわざわざ『BM』と、名前を伏せた人物に視線が注がれた。


 翌日曜日の夕方、村井の自宅を訪れたのは、本庁捜査一課・森野班の石塚警部補、同若手の都倉刑事と麻布署のベテラン刑事・中筋巡査部長だった。石塚は四十歳、都倉良太は二十八歳で、二人ともノンキャリアである。

 本庁と所轄の刑事がコンビを組むことは滅多にないが、新米刑事の石塚に、捜査のイロハを教えた教育係が中筋だったことから二人は気心が知れており、また中筋は、少年の頃の都倉とも面識があったため、異例の組み合わせとなった。

 村井は、三人を応接室に招じ入れた。

「早速ですが、村井さん。貴方はウィナーズの株式投資の指南役を務めておられますね」

 茶を出したお手伝いが部屋を出たのを見計らって、石塚が話を切り出した。

「はい。正確には堀尾さん個人ですが」

 村井は落ち着いた声で答えた。

「堀尾さんのパソコンの文書の中に、貴方の名前と同列に他の名前の記述があるのですが、誰だか教えてもらえますか」

――やはり、名前を残していたか。

 村井は心の中で舌打ちをした。自分たちとの関係を示す痕跡を残しているのではないか、との危惧が的中する形となったのである。

 だが、村井は何食わぬ顔で言った。

「ええ。私が知る限りにおいては……」

「では、まず『宇佐美』という人物ですが」

「宇佐美ホールディングスの社長です」

「宇佐美ホールディングス?」

 石塚は首を傾げた。 

「居酒屋チェーン『宇佐晴らし』と『楽楽』ですね」

 中筋が口を挟んだ。

「中(ちゅう)さん、良く知っていますね」

「本庁のお偉いさんと違って、私らは安月給ですからね。宇佐晴らしのような安い居酒屋にはよくお世話になっているのですよ」

 中筋は苦笑いしながら言った。

 石塚は一瞬ばつの悪そうな顔をしたが、すぐに話を戻した。

「赤木というのは?」  

「パチンコ機メーカー『赤佑』の専務です」

「ここ数年、急成長を遂げている会社ですね。では最後に、イニシャルと思われる『BM』の文字に心当たりはありませんか」

 石塚が核心に触れた。中筋と都倉も、村井の表情を注視した。

――BM? 別当光智か。そうか、実名ではないのか。だが、なぜ彼だけイニシャルなのだ……?

 村井は、すばやく頭を回転させた。

「お答えする前に、一つだけお伺いしても宜しいですか」

「結構ですよ。どういったことでしょう」

「『BM』という文字は、私たちの名前と同列に記してあったのですね?」

 村井にとっては重要なことであった。光智の名を明らかにする以上、十分な確認が必要と考えていたのである。

「本来なら、捜査機密事項ですので、お話できないのですが……」

 石塚はそう前置きをして、

「『BM』の文字は、貴方方の名前と同列にはもちろんのこと、他にも複数個所、単独での記述がありました」

 と捜査情報を漏らした。

 ほう、と村井は目を光らせた。

「単独で、ですか。まあ、隠していても早晩分かることですから、私の口から申し上げましょう。その『BM』というのは、おそらく別当光智君のことだと思いますよ」

「別当光智……、どういった人物ですか?」

 石塚は身を乗り出し、村井の口元を注目した。

「帝都大学法学部の学生ですよ」

「帝大の学生? 貴方たちは株の投資仲間ですよね」

 石塚は確かめるように訊いた。

「そうです」

「なぜ、学生が貴方たちの仲間に加わっているのですか」

 石塚は得心のいかない目で村井を見た。

「それは、実際に会ってみれば納得されますよ」

 村井は意味深い笑みを浮かべながら、遠回しに言った。石塚にも村井の真意は伝わった。

「分かりました。では最後に、三日前つまり四月二十二日の、午後十時半から同十一時半の間、どこに居られました?」

「アリバイですね」

 村井は、待ち受けていたかのように言った。

「一応、皆さんにお訊ねしていますので、お願いします」

 石塚は恐縮して言った。アリバイは、関係者全員に訊ねるのが捜査の鉄則であるが、村井のように余裕を持って訊き返されると、ばつが悪いものである。

「三日前のその時間は、銀座のクラブ『檸檬』で飲んでいました。同席していたのは、関東証券の池尻専務です」

「有難うございました。また、何かあればお話をお伺いすることになるかも知れませんので、そのときはよろしくお願いします」

 三人は丁寧に礼を言って辞去した。


「村井の言葉は、どういう意味でしょうか」

 覆面パトカーを運転する都倉正義(まさよし)が訊ねた。所轄の交番所勤務から刑事課、そして本庁に抜擢された有能な熱血漢である。

「分からないな。彼から聞いた住所によると、学生専用のアパートのようだから、その別当という学生が資産家の投資仲間というのは解せないな」

 石塚も首を傾げた。

「案外、学生専用アパートというのが隠れ蓑なのかもしれませんね」

 中筋が呟くように言った。

「隠れ蓑? なるほど、被害者がわざわざBMと記したことからしても、その別当という学生が投資の中心人物ということか。しかし、一大学生にそのようなことが……」

 石塚はどうして得心がいかなかった。

 三人は、村井から聞いた住所に光智を訪ねたが、不在だったため、一旦捜査本部に戻ることにした。三人は、その頃光智が本富士警察署において、殺人事件の重要参考人として事情聴取を受けていたことなど知る由もなかったのである。


 遡ること一時間前。

 光智は、上杉玲子の依頼で加賀見宅を訪れていた。十五分も早く着いた光智が、今は閉鎖されている食堂の前で、二人を待っていると、母屋の方で不穏な物音がした。初めはそうでもなかったが、しだいに胸騒ぎがした光智は母屋へ回った。

 光智は玄関の外から二、三度声を掛けてみたが、返事はなかった。念のため施錠を確認したところ、鍵は掛かっていなかったので、中に入って声を掛けた。だが、返事の変わりに聞こえて来たのは呻き声だった。

 そのとき、勝手口の方で誰かの立ち去る気配がしたので、不審に思い中に上がってみたところ、血塗れで横たわる加賀見雅彦(まさひこ)を発見したのである。

 動転した光智が、ようやく落ち着きを取り戻し、119番通報をしようと、上着のポケットから携帯を取り出したとき、なぜか救急車のサイレンが聞こえてきて、その後しばらくして警察車両もやって来た。

 加賀見雅彦は移送途中の救急車の中で息を引き取った。

 光智は第一発見者として、詳しい状況の聴取のため本富士署に赴いていたのだが、事情聴取の途中から、単なる第一発見者ではなく、重要参考人としての扱いに移行していた。

 事情聴取には、本富士署捜査一課の野崎警部が当たった。

「用件はどういったことだね?」

 野崎の口調は厳しいものだったが、警察の聴取とは、こういうものだろうと光智は思っていた。

「加賀見さんの土地を購入された上杉という女性に付き添って、御礼の挨拶に行こうとしていたのです」

「なぜ君が同行するのだね」

「私がその契約に一役買ったからです」

「一役買った? 学生の君がかね……」

 野崎は懐疑的な眼をして言った。

「それは……、とにかく上杉さんに確かめて下さい」

「もちろん、そうするよ」

 野崎は、眼鏡の奥の目に力を込めてそう言うと、

「食堂側は、鍵が閉まっていたのは間違いないね」

 と再度確認した。 

「間違いありません。それで、側道を通って母屋に回ったのですから」

「母屋に回ったとき、立ち去る者は見なかったのだね」

「はい。ですが、たしかに何者かが立ち去る気配を感じました」

「おかしいな。これまでの近所の聞き込み捜査では、そのような物音を聞いた者も、まして立ち去る人物を見た者もいないとの報告が上がっているのだがね。つまり、姿を目撃されたのは君だけなのだが……」

 野崎は奥歯に物の挟まったような物言いをした。光智は、ようやく自分が疑われていることに気付いた。

「あ、そうだ。上杉さんが、加賀見さんには先客があるようなことを言っていました」

「先客だと? いい加減なことを言っちゃあいかんよ」

「本当です。それも、確認して下さい」

「言われなくてもそうするが、口裏を合わす事だってあるからな」

 野崎は木で鼻を括った態度を取った。

 何を言っても通用しないと悟った光智は、

「もう宜しいでしょうか。私にも用事がありますので、帰らせてもらいます」

 と席を立とうとした。

「いや。もう少し、協力をお願いする。何かまずい事でもあるのかね」

 言葉は丁寧だったが、野崎の目は鋭かった。

「では、知人に電話を一本入れて良いですか」

「どのような用件かね?」

「これから、会う約束をしていた方なので、断りの連絡をしたいのです」

 光智はポケットから携帯を取り出し、番号を打った。彼は強制力の無いことを知っていたが、後腐れがないようにしたかったため、野崎の要求に従ったのである。

 電話を終えると、聴取が再開された。

「君は、被害者宅に多額の現金があったのを知っていたかね」

「いいえ、知りません。数日前、上杉さんともう一人島原さんという方に土地を売却されていますから、現金は手に入ったでしょうが、借金の返済に充てられたはずです」

「ほう。良く知っているね。それが、仏壇の下に二千万円残っていたのだよ」

「私は知りません。刑事さん、知っていることは全てお話しましたので、後は答えかねます」

 光智はそう言った切り、黙秘を決め込んだ。


 四十分も経っただろうか。捜査一課長の桑原が蒼白の面をして取調室に入って来た。

「野崎君。事情聴取はここまでだ」

「なぜですか、課長」

 野崎は、いかにも不満そうに言った。だが、耳元で桑原の言を聞いた彼の顔色も変わった。

「別当さん、失礼致しました。どうぞ、署長室までご足労願えませんか」

「署長室ですか?」

 光智も意外な表情で言った。

「ええ。片桐弁護士と天谷議員がお待ちです」

 光智から連絡を受け、身元引受人と称して現れた人物こそ、元東京地検特捜部長の片桐弁護士と、元警視総監で現参議院議員の天谷だった。天谷は政権与党・民自党の参院幹事長の要職にある最高幹部の一人である。

 思いも寄らぬ大物二人の来訪に、本富士署は騒然となっていた。署長の名村警視正も心中穏やかではなかった。何しろ、天谷は本庁勤めのときの直属の上司だったからである。

「天谷さん。なぜ貴方がわざわざ足を運ばれたのですか」

 名村は、額に吹き出た冷や汗を拭った。

「名村署長。別当君を連れて帰るよ。彼が犯罪を起こすような人物ではないことは私たちが保証する。これ以上の事情聴取は、君の将来にも影響するよ」

 有無を言わせぬ強い口調だった。

「お二方がこうして顔を揃えてやって来られるとは、あの別当と言う学生、いったい何者なんです?」

「実は、彼は……」

 片桐が、光智の素性を懇切丁寧に話した。

「えっ! まさか、彼があの御方の……」

「そういうことです。ですから、光智君がそのような愚かなことをするはずがないのです」

 片桐が言うと、

「この秘事は、君が信頼できる男だから話したのだ。だから、表向きはあくまでも周英傑氏の息子ということにしておいてくれたまえ」 

 と、天谷が釘を刺した。

「良く分かりました。お蔭様で命拾いを致しました。お二方がおいでにならなければ……、そう思いますと、この辺りに寒気を感じます」

 そう言って、名村が首の後ろを摩ったとき、光智と桑原、そして野崎が署長室へやって来た。

「光智君、久しぶりだね。今日はとんだ災難だったね」

 光智の姿を見るなり、片桐が声を掛けた。

「先生。お手数をお掛けします」

 光智は恐縮して答えた。

「光智君、紹介しよう。こちらが参議院議員の天谷さんで、彼が署長の名村君だ」

 片桐が二人を紹介した。

「初めまして、別当光智です。御迷惑をお掛け致します」

 それぞれに深々と頭を下げた光智は、あらためて父英傑の大きさを噛み締めていた。片桐は、三年前彼が特捜部長を退き、弁護士になった直後に父英傑から紹介されていた。それは、光智が日本で経済活動をしていくうえでの法律上の後ろ盾となってもらうためだったのだが、いくら片桐と知人とはいえ、まさか大物国会議員の天谷までが足を運んでくれるとは思いも寄らないことだった。

「どうやら、私は容疑者だったようですね」

「いや、そんなことは……」

 野崎はあわてて否定した。

「気にはしていませんよ。野崎さん、それより根拠は何ですか?」

「それは……」

 野崎は口籠った。

「良いから話なさい、野崎君」

 顔色を窺った野崎に、名村が促した。

 本富士署が光智を疑った理由は、まずは第一発見者を疑うという捜査の鉄則からであるが、現場から押収したノートに『本日の午後・BM』と記述があったことが疑いを濃くした。『BM』をイニシャルだと考えれば、別当光智も該当するのだ。加えて、第一発見者にも拘わらず、光智から110番も119番通報もなかった。これらを照らし併せると、充分に容疑が掛けられる、ということである。

「では、誰かの通報があったのですね」

「若い女性の声で、119通報がありました」

「若い女性……、だから、あのときタイミングよく救急車が到着したのですね。それで、通報してきた女性の素性は分かったのですか」

「いえ。話の内容から、帝都大学付近の公衆電話から掛けられたことが分かっただけです」

 通話時間の短さから、通報された公衆電話は特定されていなかったが、その声の切迫性から悪戯電話ではないと判断されたという。

「公衆電話ですか。それはおかしいですね」

 光智の疑問を挟んだ。

「今時、携帯電話を持っていない方が珍しいでしょう。緊急時に、わざわざ公衆電話を使うなんて普通じゃありません」

「別当君。残念なことだが、事件に関わりたくない人間も少なからずいるからね」

 天谷が厳しい表情で言った。

 光智は同意したかのように、天谷に軽く頷いたが、心中は違っていた。天谷の言うとおり、事件に関わりたくないのであれば、通報すらしないはずである。救急車は呼びたいが自分の素性は隠したい、という意図が女性の行動には見て取れる。つまり、単なる目撃者ではないのでないかと疑った。

 光智は視線を野崎に戻した。

「その女性は、殺人現場を見たと通報してきたのですか」

「いえ。被害者宅で揉み合う物音と、絶叫のような悲鳴を聞いたという内容です」

「おかしいですね。私には絶叫など聞こえませんでした」

 光智は不審げに言った。

「現場周辺の聞き込みも同様です」

 野崎も訝しげな面になった。

「奇妙な通報ですが、事件の発生を知っている女性がいるのは事実ですし、彼女が単なる善意の第三者とは思えません」

 光智は、女性の目的は自分を陥れるためではなかったか、との疑いを抱いたが、それを口にはしなかった。

 犯行時刻は、午後五時から通報のあった五時四十八分前後の間と、やや広めの範囲となった。被害者には身体的特徴があり、即死とはいかなかったためである。凶器は発見されていないが、サバイバルナイフのような鋭利な刃物と断定された。  ノートには、BMの下に『金』、その下に『土地』と記述してあった。捜査本部は、被害者がBMなる人物に土地を売って金が入った、と解釈した。

「他に何かありませんか?」

「今のところ目ぼしいものは何も……」

 野崎は頭を掻いた。本富士署は、光智の事情聴取を最重点事項としていたため、他の初動捜査に遅れが生じていたのである。

「光智君。今日のところは、ここまでにしたらどうかね」

 片桐が頃合を見て言った。

「分かりました」

「遅くなったが、これから一緒に食事をしないか。天谷さんを紹介したいしね」

「では、風月に席を取りましょう」

「名村署長。そういうことですので、今日はこれで失礼させてもらいます」

 片桐がそう言うと、三人は本富士署を出て風月へと向かった。


 翌日の午前、光智がいつものように湾岸タワービルのペントハウスを出て、学生専用の安アパートに着いたときだった。

 光智の部屋の前に、三人の男が立っていた。

「警視庁の石塚です。別当光智さんですね?」

 石塚が警察手帳を広げて見せ、他の二人も同様の所作をして、中筋と都倉と名乗った。

「そうですが」

「堀尾氏殺害事件で、お話をお伺いしたいのですが……」

「わかりました。これから大学に行きますので、歩きながらで宜しいですか」

「結構です」

光智は部屋入ると、鞄に専門書を詰めて出て来た。

 昨晩、彼は村井慶彰から連絡を受け、警視庁の刑事が訪ねて来た折、光智の存在を告げたこと、堀尾のパソコンの文書の中に、『BM』の文字があったことも聞いていた。

 彼はそのときから、堀尾と加賀見、この二つの殺人事件はどこかで繋がっているような気がしていた。『BM』という文字が唯一の根拠だったが、決して弱い根拠ではないと感じていたのである。

「昨夜、村井さんから連絡がありました」 

 光智は、アパートを出たところで自ら切り出した。

「そうですか。では、用件はお分かりですね」

 石塚が訊いた。

「例のBMの文字、村井さんらと同列に記述されている『BM』は、私を指していると思われますが、他の日の記述は、私のことではないと思いますよ」

 光智は自信に満ちた表情で言った。

「なぜですか」

 石塚の顔が引き締まった。

「簡単なことです。堀尾さんとは、二人きりでは一度も会ったことがありませんし、直接電話をしたこともないからです」

「信じて良いですか」

「私に嘘を吐く理由はありません」

 光智は歩みを止め、石塚の目を見て言った。

「そうなると、BMは一人を示している訳ではないということになります」

 石塚は、中筋と顔を見合わせた。新たな視点の浮上である。 

「そうだと思います。もう少しBMの筆跡とか、そうですね、文字同士の間合いとかを精査されたらどうでしょう。どこかに違いがあるかもしれません」

「なるほど、そうすることにしましょう」

 石塚はそう同調した後、声をあらためた。

「ところで、事件当夜つまり四月二十二日・午後十時半から同十一時半の間、別当さんはどこにおられましたか?」

「アリバイですね。その時間は、あのアパートの部屋にいました」

「それを証明できますか」

「いえ、その時間帯はずっと一人でした。訪ねて来た人もいませんし、固定電話は持っていませんから、在宅は証明できません」

 光智は、夜のほとんどを湾岸タワービルで過ごしていたが、周囲の目を考えて、ときどき安アパートにも泊まっていた。堀尾の事件はその夜に起きてしまったのである。

「困りましたね。それでは、アリバイが無いことになります」

 石塚は光智の身体の前に手をやり、再び歩みを止めた。

「でも、もっと確かな証明ならできますよ」

 一歩前へ出ていた光智は振り返ると、穏やかに言った。

「はあ? どういうことです」

 石塚には、言葉の意味が分からなかった。

 光智は苦笑いしながら、

「昨日の夕方、私は別の殺人事件の容疑で、本富士署で取調べを受けていました」

と言った。

「えっ、別の殺人の容疑者? しかし、どうしてそれが、貴方のアリバイを証明することになるのですか」

 堀尾殺害の犯行時間とは異なっていた。石塚は、ますます混乱した。

「それは本富士署の名村署長か、捜査一課長の桑原さんに訊ねてみて下さい」

「では、さっそく」

 石塚は、本富士署に確認を取ってもらうため、山根捜査本部長に連絡を入れた。

 その間、中筋刑事が引き継いだ。

「村井さんや宇佐美さん、赤木さん、そして亡くなった堀尾さんは株の投資仲間だそうですね」

「ええ」

「皆、錚々たる資産家ですよ。失礼ですが、一学生の貴方が仲間に入れてもらえるとは、とうてい思えませんが」

「……」

 光智は何も答えなかったが、中筋はその表情から察した。

「どうやら、それも石塚警部補の口から聞けるということですね」

「ええ、まあ。でも、くれぐれも秘密に願います。今、大事な買収作業中ですので」

「それは信用して下さい」

 中筋は軽く頷いた。

「ところで、中筋さん。堀尾さんの事件と昨日の殺人事件は、無関係とは思えませんね」

「何ですと!」

 思いも寄らぬ光智の言葉に、中筋の心がざわめいた。

「昨日の事件とは、どの事件ですか」

 都倉も興奮気味に訊いた。

「帝都大学前の加賀見食堂のご主人が刺殺されたんです」

「ああ、その事件ですか」

 一転、都倉の表情が失意の色に染まった。

「今をときめくIT企業の経営者と潰れた食堂屋の親父。一見、共通点が無いように見えますが、この二つの事件はおそらく底辺で繋がっていますよ」

「その理由は?」 

 中筋の語気が強まった。光智は一呼吸置いて言った。

「勘ですよ」

「勘……、ですか」

 中筋は拍子抜けした声を出したが、落胆した訳ではなかった。彼は、犯罪捜査においても勘働きが役立つことを知っていた。

「私の勘は良く当たるんですよ。株もそれで儲けています」

 光智は、実にあっさりと言った。

「分かりました。心に留めておきましょう」

 中筋は真摯に受け止めた。そのとき、石塚の携帯が鳴った。

「石塚です。はい……えっ! それは本当ですか……、はい……、分かりました。では、そのように致します」

 石塚は緊張した顔つきになっていた。

「別当さん。本富士署に問い合わせた結果の連絡を受けました」

「それで、納得して頂けましたか」

「もちろんです。ところで、先ほどのお話ですが、本当に勘だけですか?」

 石塚は電話をしながら片方の耳に、光智と中筋の会話を入れていた。

「例の『BM』の文字ですけど、昨日私が容疑を掛けられた事件の被害者もノートに書き残していたということです」 

「それは本当ですか!」

 三人は揃って驚きの声を上げた。

「それが、私のイニシャルとも考えられた訳です」

「しかし、偶然にしては良くできていますね。堀尾と加賀見食堂の主人、二人とも貴方と関連があって、共に『BM』の文字を残している。おまけにアリバイも無い。もし貴方が普通の人だったら、嫌疑は免れないところでしょう」

 石塚の含みのある言い方に、都倉が苛立ったように訊いた。

「石塚さん。それはどういう意味ですか」

「それは後で話す。しかし、お陰で良い情報を頂きました。礼を言います」

 石塚は頭を下げた。

「とんでもない。BMの文字なんて、すぐに分かることでしょう」

「いや。それがそうでもないのですよ」

 石塚は決まりが悪そうにした。

 警察は、殊の外セクショナリズムが強い組織であり、そのため横の連絡というのがあまり無い。近年は、ずいぶんと風通しも良くなったが、それでもまだ十分とは言えない。したがって、『BM』の文字の情報が、すんなりと麻布署に伝えられたかどうかは分からず、少なくとも初動捜査に間に合ったことは大変な朗報なのである。

 例えば、石塚らはウィナーズに買収された会社の関係者を洗っているが、中には強引な手口もあったようなので、堀尾に恨みを持つ者がいるかもしれない。その際、『BM』の文字は重要な手掛かりとなり得るのだ。

 目の前に、帝都大学の赤門が近づいていた。

「いやあ、大変助かりました。今後、またお話をお伺いすることも有ると思いますので、よろしくお願いします」

 石塚がそう言うと、三人は丁重に頭を下げて踵を返した。

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