第44話 近くのようで遠いもの

「いつだって、ぼくは一人だったよ?」


 しゃくり上げて泣いたって、助けてって、大声で叫んだって、誰の耳にも届きやしない。

 

「愛されることって何?」


 繋いだこともない手の温もりに憧れる。空を仰ぎ見て、飛びたいと思うように。

 ってそんなの嘘だよ! 気持ちの悪い冗談だよ。だって、それは戸惑うだけだろ? そんなの知りたくもない。だってそうだろ……本当のことを知れば、人なんてみんな裏切るのさ。


 ピアノの音色はサヨナラの合図だよ。


 さあ、戯言はこれで終わりさ。覚悟は出来たかい? つまらないお遊戯はもう飽きただろ?




「……もういいかい?」




ーーーーー



 濃いグリーンの絨毯にオレンジ色の丸い小ぶりのクッションがふたつ無造作に転がる。白い壁には落書きの跡。壁の目地に入り込んだクレヨンの名残だろうか、うっすらと残るナマエと似顔絵が浮かび上がった。


『NEEL&SIMON』

 丸い顔に茶色い髪が僕。少しだけ面長の顔に、ねずみ色の髪はニール。バスケットボールと本の絵。ふたりの好きなモノ。


「シモン! またオマエはそんな場所に描いちゃったかあ~、まあいいや! 一緒に拭こう! きっとすぐに綺麗になるよ!」


 ソーダ水の泡のような弾ける笑顔。椅子の上に登って描いた様々な絵に不格好な文字。


 くしゃくしゃの笑顔で笑うニールは、僕のやることに文句ひとつも言わなかった。優しくて温かくて力強い。確かなモノ。絶対的で逆らえないモノ……そう思ったこともあった。でもね……


 手の届かない高い場所だって手をそっと重ねてくれる。真っ暗な闇だって一緒に照らしてくれた。今度はその手を僕は離さないよ。 強がりだけだっていいんだよ。そうやっていればきっと何かが見えてくるよ。今度は、ニールが迷ってるなら僕が照らすよ。ね?



 ーーーーー


 窓を閉めた指先がじんわりと赤く冷たくなっていく。ニアがそれを見つめたままでシモンとニールの部屋で何も言えずに立っていた。時間は無常にも過ぎて、心配をして部屋を覗きに来たアダムとティノが扉を開けて驚いた顔をする。入っていった筈のシモンの姿は何処にもなく、綺麗に整頓された部屋とニアが不安を纏った表情を見せたのだ。此処は四階建てのビル。窓をつたって降りるには危険すぎる。窓から見える足が届く場所は何ひとつ見当たらない。煉瓦作りの壁に窓が幾つかあるだけの年季の入った古い建物だ。モダンなんて言うがシンプルという言葉が似合う建物だ。

 シモンが此処から飛び降りるとも考えられなかった。ニアは慌てたように部屋から出て絨毯を捲る。サークルは薄く、今にも消えそうだったが、これは原因じゃない。次に部屋の四隅に掛けられた、ナナカマドの手作りの十字架を見たが、これといった傷もなく変わりなく揺れているだけだった。ふと背中に違和感を感じ振り返ると、あのアコーディオンが電灯の灯りを取り込み、妖しくその色を揺らめかせる。


「ウィリアムさん!」

 悲鳴に近い声を上げ、ニアが涙を目いっぱいに溜める。ウィリアムの固く閉ざされた部屋の赤茶けった大きな扉。ニアは書斎部屋に向かって走り、握りしめた両手で力一杯に扉を叩く。すぐにゆっくりと扉が開き、優しい返事とウィリアムの顔に、ニアの瞳からひとすじの涙がこぼれ落ちた。悲しみの涙は床に落ちると、赤黒い石に変わり転がり落ちていく。ウィリアムの胸に吸い込まれるように、ニアは柔らかく抱きしめられた。


「もうゆっくりしてはいられなくなりましたね……ニア、お手伝いはしていただけますか?」

 その言葉に無言で顔を見上げ、ニアが声を上げて泣き出してしまう。雨の流れる音がその声をかき消していく。アダムとティノは黙ったままで、ガブリエルが少し離れた場所で青い封筒とマンスリー・レッドデータ・ブックを握りしめて悲しみの表情を浮かべながら写真立てのニールとシモンを見つめた。


 雨が強く窓を叩く。この季節には珍しい霧が街を包む。遠くの電車の音が響き、辺りは人の気配を消し静まり返った。



 ーーーーー


 真っ暗な場所。目がいっこうに慣れない。少しの明かりがあれば慣れてくるというのに。本当に此処は真っ暗闇だ。それから、湿度が高く、少し肌寒い。さっきから音が何も聞こえない。静かすぎて耳が痛いくらいだ。風も吹いてはいない。手を伸ばすのが怖い。立ち上がるのも怖い。此処は何処だ? 僕は何故こんな場所にいるんだろう。今はいったい何時なのだろうか。夜なのか? 昼なのか? 疑問は増えていくばかりだ。微かに何かの香りがする。なんだろう? 懐かしいような感じがするのに思い出せない。甘く芳ばしい匂い。全てをこの香りに集中するが、やはり容易く思い出せない。何かがもやもやと脳裏によぎる、喉元まで出かかっている、もう少しの記憶。大人になってからの記憶? 子供の頃の記憶? 何度も記憶を手繰り寄せては離す。それを何度も繰り返した。すぐそこまで近づく記憶は懐かしさだけを脳裏に残していく。


「わかった! これは古い本の匂いだ!」


 やっとの思いで辿り着いた記憶に僕は思わず声を上げてしまった。その声を合図に小さな蝋燭の炎が数メートル先に見えた。小さな炎のはずが、とても眩しく感じて僕は手を目に添える。


「やあ! やっと会えたね! シモン・クインテット!」

 子供の高く含み笑いを交えた声が僕の耳元に囁かれる。


「誰?」

 きょろきょろと見回すが何も見えず、唯一の暗がりの蝋燭の炎が陽炎のように揺れる。


「僕の声も思い出せないのか? そりゃそうか! 一瞬だったもんね〜! じゃあなんて言おうか?」

「君はもしかして……」

 あどけない舌足らずなたどたどしい話し方。付け加え、馴々しい問い掛け。見えない姿に諦めた僕は、その声にだけ答える。


「あったり~! 覚えてくれていたなんて感激だな〜!」

「あの時の……」

「……なーんてね? 冗談! やっといちばん欲しかったモノが目の前に居る! 完璧なカタチで完成した器が手に入った! ホントに探したんだよ? 完成形のキミをずっとボクは探していたのさ!」

「僕を連れてきてどうするつもりなの? ただのネフィリムだよ! 何も出来ないただの出来損ないだよ……」

「またまた! そんなご謙遜を! だってキミは十二使徒のひとりなんだろ?」

「……十二使徒?」

「神の熱狂的ファンのひとりだってみんな噂しているさ!」

「何かの間違えだよ! 僕は何も知らない!」

「それは試してみれば分かるさ!」

 その言葉と同時に少年は僕の手を強く引っ張る。薄暗い灯りに輝く瞳は人のモノではない。


 心底思うよ、僕はつくづく何も出来ない生き物だと。

 こんな暗がりでも人の感覚は凄いね。引き攣る痛みに熱くなる腕。溢れ出る血が滴るのが分かる。温かく生々しい鉄の匂い。これが僕の匂い。薄れていく記憶を辿るように父さんと母さんの影が揺れる。ゆっくりと、意識が何処かに飛びそうになる。床の温度がやっと身体に伝わってくる。ああ、こんなに此処は冷たかったんだね。


 明かりに目が慣れた頃、周りの異常さに気がつき、声にならない。僕らを囲むように無数の鳥の羽根と無惨に転がる数人の裸の女性が何処を見る訳でもなく、冷たく、人の光を感じさせないと、僕は声にならない声を上げ叫んでいた。


 ーーーーー


 灰皿の煙草がフィルターまで辿り着き、ゆっくりと燃え尽きる。さっきまで数人が居たはずのダイナーは静まり返っていた。きっと珈琲も風味が落ちている頃だろう。微かに苦味のある香りが鼻腔に残った。


「……なあ?」


 男の顔を訝しげに見るニールの顔は男の数センチ先に近づけられる。男は微動だにせず何も言わずに口元だけを歪めた。


「あんたは誰だ? いったいあんた……ナニモノだ?」



「答えるがそれに合った報酬は貰えるのか?」

「……何が望みだ?」

 ニールはますます眉間に深く皺を寄せる。こいつの人を見下した態度も温もりを感じさせないのが、やけに気に入らねえ。


「……あんたに消えて欲しい!」

「消える?」

「正直、あんたが邪魔だ! きちんとした器ならオレが探す! というより、お前じゃなきゃオレは誰でもいい!」


 グラスの中の氷が溶けだし、表面にうっすらと汗をかきテーブルを濡らす。

 びりびりと痺れる痛みは、背に感じる恐怖。刻一刻と進む時の流れに逆らえないと、全身に冷たい感覚を痛感した。

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