第41話 荊棘の毒、目先の事、新しい来訪者

 毒が全身にまわり、何かが変わっていく。


 見るモノも、感じるモノも全て。

 溶けない蟠り。何かが身体にまとわりついて、身動きがうまく取れない。春の雨はまだ冷たく、身体を芯から冷やしていく。人混みの中、頭の良い兎は時計を気にして走り去っていき、小さな足跡だけを残す。甘く尖った薫りを残しつつも、仄暗い穴に身を潜めるのだ。夢は夢で良かったんだ。汚れていく心と身体。身体に溜まった熱は上昇するばかりだ。このままでいいのだろうか、見当もつかない。このままにして、蒸発するのをただ俺は待つんだ。そのあとに何が残ろうとも。何を感じようとも。引き攣れる火傷の痕のように、この燻る心に罰を与える。


 *****


「……ねえ、ニールはこのまま帰らないつもりなの? あんな、一方的な電話。あんなのは、ちゃんとしたサヨナラだって、アタシは認めないんだからね……」

「ティノ、今日は冷えるからカーディガンをちゃんと着て……」

 シモンはティノの肩に掛かる髪をそっと触れ、カーディガンを背にかける。

 春の嵐は冷たい雨を降らせ、花弁を全て流し落としていく。その流れゆく花弁は道の隅に追いやられ、徐々に排水溝に飲み込まれて消えてしまう。雨音は音楽を奏でるように、規則正しく窓を濡らす。手を伸ばせば、回避出来たかもしれない後悔は渦へと、消えた。


「ねえーえ! シモンちゃん! レッド・ベリルって知ってる?」

「うん? レッド……ん? 何?」

「レッド・ベリル! なんかさ~ 僕のソレはコレに似てるんだってさ! なんでもとっても珍しくて、希少らしいよ?」

「ソレって?」

「ボクの涙の欠片!」

 ニアは大きく立派な図鑑を指差し、紅く美しい石の写真を見せる。オッドマン・ソファーの上で靴のまま胡座をかき、シモンに問いかける。シモンはいきなりの質問に素っ頓狂な声を上げ答えた。そのシモンに、ニアは自慢げに鼻を一度すすり上げ答える。すると、そのやり取りにガブリエルは耳を傾け、驚いた表情をニアに向けた。国立図書館からこっそりと持ち出したであろう、背表紙に刻印の入った図書。ガブリエルは呆れた目をニアに落とし、深い溜息をこぼした。


「ニア様! それは持ち出し不可だとあの時、ワタクシは何度も説明をした筈ですよ……」

「それは知ってるよ? だから次行った時にちゃんと返してくるってば! 別に傷つけたり汚したりしなければいいでしょ!」

 問いかけに、ニアは呆れているであろうガブリエルの顔を見ることなく、適当に返答をする。


「……ちょっと待ってよ! どうやってセキュリティを通り抜けたのよ? ニアは本当にどういう仕掛けで出来てるのよ!」

「……さあ?」

「勘違いしないでよ? 褒めちゃいないわよ?」

 照れたように手を頭に乗せ笑うニアに、一同は呆れる。そこに、ウィリアムが帰宅し、ニアの手元に抱えられた刻印の入った図書を見て、冷たく言葉を投げる。


「ニア! すぐに返してきなさい! まったく、貴方って人は……」

「えーー! ウィリアムさんまで同じことを言うの!」

「そりゃ~ ウィリアムさんだって呆れちゃうわよ! そういうのは泥棒っていうのよ? いい大人のする事じゃないのよ?」

「だって……」

「だってじゃないわよ! ……はっ! まさかこの図鑑も…… そうじゃないでしょうね?」

 ティノはテーブルに置かれた蝶の図鑑をそっと指先で触れ、我に返った顔でニアを見た。


「ティノ、安心して! それは僕が借りたモノだから。無断で持ち出してきたんじゃないよ」

「シモンちゃんが? なら安心ね!」

 そのティノの言葉に、少し緩んだ笑みを浮かべ、シモンがティノを優しく見つめた。


「ねえ、まさか、コレ、ボクひとりで返しに行くの? ちぇっ! こんな時に居ないなんて使えないな…… ニールは……」

 ニアは徐々に声のトーンを落としていき、膝に腕をつくと周囲に聞こえない程度のため息を吐き、壁のキーを見上げた。


「そうはいきません! ガブリエル! 付いて行ってやって下さいますか?」

「ええ! 勿論です、ウィリアム様……」

 先日のこともあってか、ウィリアムはニアに鋭い声を突き刺すように吐き出した。ニアは身体を小刻みに揺らし、膝を抱え小さく蹲った。ガブリエルはウィリアムに深々とお辞儀をすると、ニアの手から本を優しく取り上げ、カバンに入れ冷たい笑顔を向けた。


「そんな事をするから怒られちゃうのよ!」

「彼なりの場を変えようとした結果……でもこればっかりは間違いだね? うん! お門違いだね!」

「……シモンちゃん、どうして?」

「……うん?」

「毒吐いた! 猛毒吐いた! ポイズン悪魔ああああ~!」

「僕だってそんな事も思うし、毒だって吐くよ?」

「ふふふ…… 天使なのにね?」

「ティノ!」

 ティノらしい場の緩め方。みんな必死だった。少しでも柔らかく、少しでも運命を捻じ曲げようと、奇跡を信じていたかったんだ。


 濁った空気は時間をかけて徐々に、そこに煤のような黒いモノを沈めていく。かき混ぜる事をしなければ、いずれ硬くなっていく。何も無かった訳にとはいかないが、未来は変わることを望む。きっと、僕らもそれを望むだろう。


 *****


「んん…… 頭が痛い……」


 テレビの音に気がつき目が覚める。子供の頃に見た覚えのあるアニメーションがついていた。目覚めが悪く、一杯の水を無理矢理に喉の奥に流し込んでいく。あの女が居なくなっていた事に気がつくのに、多少の時間が掛かった。トイレでもなく、バスルームにも居ない。気紛れに女は何処かに行ったのかとニールは思う。小さなテーブルにメモ書きが残してあった。『気が向いたら電話して』ナマエも無く、その一言と番号が書かれていた。まるで娼婦だ。赤いストールは何処で見たんだろう。何故あんなにも懐かしく思ったのだろう。ニールは天井を仰ぎ見て、ベッドにもう一度身体を委ねた。


「器」「ハーフ・デイモン」「ネフィリム」「確かなモノ」「覚醒」「シモン」


 あの言葉はなんだったのか。ニールはいくつもの言葉をペンで書く。シンプルなメモ用紙に綴られた文字。歪で、どこかにささくれる言葉の並び。いくら考えたところで答えは見つからない。むしろ拗れていくばかりだ。考えは廻るばかりで出口が見つからずに、あちらこちらに散らばるばかりだった。


 *****


 静かな午後に暖かな紅茶の香り。焼きたてのクロワッサンが香ばしい風を窓から逃がしていく。どんな事があっても食事はしっかりと取らなくてはならない。空腹は心までダメにしてしまう。ウィリアムはそう、ガブリエルとニアに言付けを言い、依頼に出向いて行ってしまう。テーブルには、ブロッコリーとベーコンのクリームシチュー。それに、ジャガイモとアンチョビのサラダが並べられた。そこに食欲に拍車をかけるように焼きたてのクロワッサンとカフェオレが用意される。ティノは目を輝かせてカトラリーを並べて、手を洗いにいく。そんな穏やかな気持ちを崩すように荒々しいドアをノックする音が事務所に響き渡る。その音に慌てるニアは靴音を軽快に鳴らし、軽い返事をして扉を開け手に持っていたティーポットを落としそうになった。


「あら? アナタがニアちゃん? それからそこの色男はガブリエルね!」

 長身に派手なメーク。それに負けないくらいの目に全く優しくない、蛍光グリーンのスポーティーな上着。足の長さを強調させるグレーのラメ入りタイツとショート丈の黒いパンツ。そこに真っ赤なピンヒールを履いていた。ニアは体制を低くして威嚇する様な目を向け、ティーポットの柄の部分を両手で持ち、いつでも飛びかかれるように膝を軽く落とした。


「いやあ〜ねえ! 別に取って食っちゃわないわよ! そんなに威嚇しないでちょうだい!」

 豪快な笑い声は響き渡り、事務所の扉の前で堂々と立つ長身の人物に、手を洗い、タオルで丁寧に拭きながら出てきたティノは言葉をなくし、その後を何事だと出てきたシモンが明らかに引いているのがニアの目に映った。


「本当にアンティーク調のきちんとした部屋ね〜 飾りっ気がちょっと足りない気もしないけど…… まあ~ そんなことは今はいいわ!」

 許可もなく入ってきた人物は、両手の荷物をテーブルに重い音を立てて置く。唖然とする四人は顔を見合わせて事務所に沈黙が続く。


「ん~! いい匂いね〜! アタシにも一杯いただけるかしら?」

 ニアの手に握られたティーポットを指さしてウインクをする。そのアイコンタクトに脚の先から電気が走るように、ニアは身体を震わせた。


「あ〜! 苦々する紅茶は苦手なの! オレンジの皮の入ったのあるかしら〜」

 この期に及んで要求までする人物にとうとうニアが声を上げる。


「もう! オネエサン何者? つか! なんなの!」

「ボクくん! やっと、おくち開いたわね!」

 少し呆れたような言葉を吐くと、とても柔らかな笑顔を向けニアの目を捉える。


「アタシは使いで頼まれて此処に来たのよ!

 アナタがニアちゃんで、そこの可愛いお嬢ちゃんはティノちゃんね! そこの色男がガブリエル! で? そこで人いちばん輝いてるのがシモンちゃんね? 聞いていたとおり! 本当に綺麗な子ね! 全員ひっくるめてアタシの子にしちゃいたいわね!」

 ひとりひとりを指で悩ましく指差し、最後はシモンの顔の前で指を円を描き、声色を変える。


「あ〜…… あの〜……」

「色んな意味でも心配な子ばっかね! これはほっといちゃダメね〜…… 当分はアタシが面倒見てあげてもいいわね!」

「……あのう~」

「アダムとグランちゃんの言う通りね〜 素敵な佇まいに素敵な時間が流れてるわ〜」

 息もつく暇もなく、マシンガンが四人に突きつけられた感じに背が痒くなる。色んな言葉を読み解いていくと合点がいく。この人はアダムさんとグランくんの知り合いのようだ。


「あのう~……」

 ティノは、おそるおそるという言葉がぴったりと嵌ったようシモンの後ろに隠れる。そしてゆっくりと声をもらした。

「あら…… 可愛いお嬢ちゃんはアタシに何か言いたそうね?」

「言いたいことも聞きたいことも山ほどあるわ! これは一体全体どういう状況なの? というか! あなたはどちら様?」

 ティノの言葉に鳩が豆鉄砲をくらった顔できょとんとすると、豪快に高らかに笑い声を上げる。

「あらやだ! まだ自己紹介もしてなかったわね! アタシはね――」


 春は暖かな風と共に少しだけ、安らぎと忘れかけていた人の温かさを運んで来たようだよ? ニールが今、此処に居たら、なんて言っていたかしらね? きっと呆れた目で笑って紅茶を飲んでいたかしら。

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