第25話 プリズム

 白く輝く壁は高く高く、ぼくの手が届かないものなのかな? あとちょっとなのに、そこに見えるのに。どうしても届かないんだ。

 

 お兄ちゃん、ぼくらはいつ逢えるの?

 

 早くしないと逢えなくなるよ?

 

 ぼく、きっと遠くにいっちゃうよ。

 だから、早く迎えに来て。



 待ってるからね。



 *****


 次の映画は、医者の役か。面倒くさいな。役者仲間からは、医者の役をしたら病気になった時に病院に行き辛くなるって聞いたんだ。ああ、もう早く帰ってベッドで眠りたい。


 俺は、とある病院に取材を兼ねて訪問に来ていた。表向きはカッコイイこと言ったってこれも仕事だから来ただけだよ。誰が好きで病院なんかに来る? 物好きだろ? 病院は苦手なんだよ…… そんなもんだろ? みんなだって。


「あんたの次の主演の映画が決まったわよ! 小児科病棟の医者の役よ! 話題作りのボランティアがてら、なんて素敵でしょ? 「イメージ作りの為に」とかなんとか、マスコミに言って来週に行くわよ! 逃げないでよ? いいわね?」

 あの馬鹿女、なんでもかんでも話題作りとか言いやがって! とかなんとかって一体なんだよ! 意味わかんねえよ! 見てろよ? もっと売れた時には、お前より出来のいい男のマネージャー雇ってやるからな!


「アタシは許可書を出してくるから此処から動いちゃダメよ? いいわね? ……ちょっと! 聞いてるの? アダム!」

「ああ、聞いてるよ! ここに居りゃいいんだろ? そんなガキじゃないよ! わかってるよ! イライザ!」

「イイコね…… アダム、分かっていればいいのよ!」

 赤いハイヒールで下品な音を鳴らし、イライザは足早に行ってしまった。刺激の強い香水の匂いだけが残り、まるで俺を「逃がさないわよ!」と、キツく縛る拘束の鎖は付けられたままのような気がしてならなかった。


「ホントに面倒くさい女…… 一生、戻ってこなきゃいいのに!」

 俺は苛々してベンチに腰を下ろし空を見上げた。ちくしょう! 無闇やたらといい天気じゃないか! ……やっぱりここから逃げるか?


「お兄ちゃん! そのサッカーボール取って!」

「……ん? お兄ちゃんって俺?」

 

 赤と黒のチェックのパジャマに緑のカーディガン、ダーグブラウンの髪に日焼けした古いハンチング帽を被り、やけに色白で、年齢にすれば十歳くらいだろうか? 一見、女児か? と、見間違う程の綺麗な顔立ちをした少年が俺の前に立っていた。


「サッカーボール? ん~、ないね? こっちには飛んできてないよ?」

 ベンチに腰掛けたままで見える範囲を見渡すが、彼が言うボールは落ちてはいなかった。


 楕円形の花壇が沢山のクリスマスローズで淡い色を撒き散らす。それは、まるでフェアリーが絵本の中で眩い光を散らす緑の鱗粉。クリスマスローズなんていうのは名ばかりで開花する季節はクリスマスよりもずっと先で名前の由来なんてアテにならないものだと、子供の頃に図鑑を読んでいて思ったことを俺は思い出す。


 その花壇がある中庭は丁度、病院の中心部にあった。天井には屋根の代わりに磨り硝子が色のないステンドグラスのように雪の結晶を想像させる模様に張ってあり、暖かな陽の当たる温室のような構造になっていた。あちこちに分散していた太陽の光は一点を目指すように中庭はきらきらと光る粒でとても眩しかった。

 冬なのにここだけは暖かく、子供が数人駆け回れるくらいの広さだった。


 少年は両手に大きな本を大事そうに抱え持ち、俺の目を逸らす事なく小首を傾げた。


「ああ、その本…… 昆虫図鑑か! 懐かしいなあ〜! 俺も同じ本を持っているよ! キミは本が好きなの?」


 そう声をかけた彼の足元には、何処から入ったのか、大小様々な種類の鮮やかな色の蝶の羽根が無数に散らばっていた。美しいのに俺は背筋に冷たいモノを感じた。


 そして、彼は俺のその言葉に小さく息を吐き、肩の力を緩め、屈託のない笑顔で何も言わずに俺を見ていた。

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