ツキヨノメモリー

RAY

ツキヨノメモリー


「温泉に……行かない?」


 信号待ちの車の中。躊躇ためらいがちに発せられた、彼の言葉。

 スタバで買ったフラペチーノのストローをくわえたまま、私は助手席から上目遣いに彼のことを見た。かなり唐突だったから。


 新入社員の歓迎会で隣の席に座った彼。話をしてみたら、大学のとき住んでいたのも隣の町。地元の話題で盛り上がってそのまま意気投合。何度かいっしょに出掛けているうちに、いつの間にかステディな関係になっていた。小説やドラマでもないのにこんなベタな展開もあるんだって思った。


 スクランブル交差点の長い信号が青に変わる。


「『ツキヨノ』に、自然に囲まれた、穴場の温泉があるんだ」


 アクセルをゆっくり踏み込みながら彼は続けた。


「ツキヨノ?」


 親指と人差指でストローを軽くつまむと、私は小首を傾げる。


「月夜野町――群馬県北部にある町だよ。『月』の『夜』に野原の『野』って書くんだ」


 群馬県に行ったことがない私には聞き覚えのない地名。

 ただ、その瞬間、私の心臓がトクンと音を立てた。


 理由は二つ。

 一つは群馬県には彼の実家があったから。

 そして、もう一つはツキヨノという言葉がとても気になったから。


 初めて耳にした「ツキヨノ」はとても素敵な響きがあり、漢字で書く「月夜野」はとてもお洒落な感じがした。ツキヨノという単語が私の脳裏にインプットされる。


 横浜港に立ち並ぶロフトを抜けると、私たちを乗せた、白いクーペは本牧ランプから首都高速へ入って行く。


 ……50……60……70……80……


 刻一刻と変わっていく、スピードメーターのデジタル表示。

 オレンジ色の数字に呼応するかのように心拍数が上がっていくのがわかる。

 その数字は私がYESと答える確率ともシンクロしていたのかもしれない。


「どうかな?」


 大黒パーキングからの合流点で減速しながら、私の方をチラリと見る彼。

 慌ててストローを口に戻すと目を逸らす私。


 なぜって?


 見透かされたくなかったから。ツキヨノという響きだけで私が温泉行きを決めそうになっていることを。


★★


 あれから五年が経った。彼とは一年と少しで自然消滅した。


 半年の研修期間が終わった後、私と彼は東京と大阪へそれぞれ配属された。

 いわゆる遠距離恋愛の始まり。


 仕事のスケジュールを調整しながら互いの街を行き来した。それぞれがお奨めのデートプランを立てて知らない場所を探索するのはとても新鮮で楽しいものだった。


 しかし、半年が経ってそれぞれが仕事を任されるようになると、歯車が噛み合わなくなる。

 日々の残業が増えたことに加え、彼が土日の営業に組み込まれたことで、二人の間にすれ違いが生じる。そして、いつしかお互いのことが見えなくなっていた。


 結局、二人で月夜野へ行くこともなかった。


 そんな中、私は群馬県のクライアントのところへ出張することとなった。インターネットで会社の場所を確認していたとき、ふと月夜野のことを思い出した。


 ――群馬県月夜野町――


 地図で検索してみたが、そのような地名は出てこない。

 もう少し調べてみると、その理由が明らかになる。


 平成十七年に周辺の町と合併して消滅していた

「月夜野」はすでに存在しない町に、「ツキヨノ」は彼と過ごした時間の中にだけ存在する響きに、それぞれ変わっていた。


 ただ、月夜野という名称が残っている場所もいくつかあった。

 観光地や公共施設はその名称が定着していることで、地名が変わっても以前の名称を使っているものも少なくない。月夜野温泉や月夜野インターチェンジもその一つ。


 息を吐きながら椅子にもたれかかると、ゆっくり目をつむる。


 夜の関越自動車道に白いクーペのフォルムがぼんやりと浮かぶ。他に走っている車はなく、高速道路はまさに貸し切り状態。


 ――月夜野出口500m――


 月夜野インターチェンジが程近いことを示す、緑色の案内標識。その下を通り抜けたクーペは少しずつ減速していく。


 ……80……70……60……50……


 刻一刻と変わっていくスピードメーターのデジタル表示。

 オレンジ色の数字に呼応するかのように心が穏やかになっていくのがわかる。


 月の光を浴びながら流線形のランプを滑るように走る、白いクーペは、料金所のETCレーンをスムーズに通過する。


 その先は灯りひとつない、真っ暗な空間。人の気配はおろか町の存在すら感じられず、道があるのかどうかさえわからない。


 そんな中、クーペは軽やかに疾走する――行き先はもちろん「ツキヨノ」。


 ……90……140……180……200……


 宇宙そら大地りくとの区別がつかない闇の中をクーペは加速していく。

 そして、いつしか一筋の流星へと姿を変えた。


 無邪気な笑顔を浮かべる、あの頃の二人を乗せて。



 RAY

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