Caffè Latte

ひよこちゃん

Caffè Latte

 リーゼロッテは退屈だった。

 くるりとした短い髪の毛を指先で弄びながら目の前の女生徒達を眺める。

 恋話に花を咲かせる彼女達には申し訳ないが、リーゼロッテとしてはさっさとこの場を後にしてしまいたいという所が本音である。

 そも、あまりこういった貴族の社交場になどと出てしまっては敵を作りすぎる。

 普段であれば適当に理由を付けて辞退していたのだが。

 出てきたのは何の事はない、この学院でも有数の貴族であるレティシアご令嬢からのご指名であったからだ。

 そうとなれば話は変わる。出るよりも出ない方が面倒を呼びこむ事は目に見えている。

 呼びつけて来た本人である件のご令嬢はリーゼロッテを完全に無視し、ここに来てから話しかけてさえ来ていないが。挨拶だけはしたが返事どころか目線さえ寄越さなかった程だ。

 彼女の兄であるグライアスはベルベット家を毛嫌いしている。無論、兄がそうであるならば妹であるレティシアもそうなるというものだ。

 別に珍しい話でもなく、平民の立場から戦で成り上がったベルベット家に対して当たりが強い貴族というのは幾らでもいる。特に軍属の貴族であればなおさらに。

 つまるところ、ただの嫌がらせなのだ。貴族とはいえ学院内で綺羅びやかなドレスを身に纏うなどと出来よう筈もなく、規定の制服を着てはいるものの。

 やはり、空気が違うのだ。

 貴族と平民では。顔、体型、肌、髪、装飾品、全ての格が違う。何よりも立場が。

 此処には家格無き平民が来る資格はない。故に、此処に居るは貴族のみ。リーゼロッテもその一人というわけだ。

 が、リーゼロッテが彼女達と肩を並べて歩くなどと出来よう筈もない。貴族籍のリーゼロッテが居る、何も問題はない。規則上は。

 無論のこと、然様な事が通るわけもなく。彼女達とまともに口を聞けばそれだけで父は吊るしあげられるだろう。

 挨拶をしておいたのは逆に何も言わなければやれ不遜だのと言われるからである。理不尽かつ甚だ不愉快であるが、それを呑み干すは祖父の名に連なるという矜持が在る故にである。

 こういった場合にどうするか、答えは何もしないことである。

 ただじっとして動かない。視線を常に流し、余計な事を一切しない事だ。

 陰口程度で済むならばこれ以上は無い。だがやはり、花弁のように、いっそ亡霊のように陽が差す庭を揺々と彷徨う貴族に混ざりたいとも思わないが退屈ではあった。

 視線を巡らせ続けていれば。ひらりと揺れる、そう、確か金魚だったか。あれに似ている―――――彼女達の関心事がリーゼロッテの嫁入りなるものに移ったらしく。

 ちらちらと向けられる視線に侮蔑と好機、やれヘクストリア家だのレンドリズ家だのと控えめながら幾つかの名を上げている。

 まぁ無理も無いが……ベルベット家の立場を考えればリーゼロッテが何処ぞの貴族を見繕って嫁ごうとするであろう、という考えに至るは。

 この国の何代目かの国王が建立した歴史ある由緒正しいらしい学院には上級貴族どころか王族さえ居る。

 貴族の男は全てここで剣を学び、魔の扱いを覚え、そして騎士となるのだ。貴族の男がここでこの国の国教と武と魔法を学ぶのもまたこの国の伝統とやららしいので。

 それを当てに此処に居ると思われているわけだ。どうせレティシアご令嬢も家の名でリーゼロッテを招いたなどと態々風潮はすまい。

 溜息を付きたくなるも仕方の無い話であろう。

 この国の騎士など安全な後方で士気を鼓舞するという名目の元、飾り立てた姿で立っているだけの存在だ。リーゼロッテに言わせれば全くもって無価値の存在である。

 王族など尚更である。あれならば騎士の方がマシだ。平民などいくら死んでも構わないとでも言うつもりか。戦場が膠着すれば容易く突撃命令を下す姿には怖気すら覚える。

 先の戦争でこの国が辛うじて勝利を収めたのは王族の采配が優れているわけでもなんでもなく彼らが見下してやまぬ下々の力が優れていたからに過ぎない。

 そんな縦社会に慣れきったお貴族様と王族様にとって実に業腹な事であろうが、王族も上級貴族も下級貴族も、ほんの一部の裕福な平民もここでは一緒くたの学び舎に通う事になる。

 故に、リーゼロッテも折角ある貴族籍を使ってこの学院に居るわけだが。リーゼロッテを汚らしい蛮族の娘などと嘲笑ってくれるのは如何ともし難い。

 正面切って下賤な紅き血の蛮人めがと罵られたるは記憶に新しい。

 この場でも隙を見せればこれ幸いと突いてくるだろう。

 態々そのような所へ嫁ぐ筈もなくするつもりもない。自虐の為に茨の道を好んで歩く趣味はない。何が悲しくて彼らに色仕掛けをせねばなるまいか。

 リーゼロッテ・シュライナー・ベルベット。

 彼女が子を成したいと願う男は今も昔もただ一人だけである。



 *



 さわさわと程よい風に屋敷の庭園の花々が揺れる。

 日向は心地よく、風も温かい。この春一番の陽気であろう。

 テーブルの珈琲を眺める。

 遥か西より取り寄せた高級嗜好品は紅茶が主流であるこの国に住まう者にとって苦いことこの上ない。

 原産国では気分の高揚効果のあるこの飲物は専ら戦場での支給品として定番という事もあり、軍人であった祖父が個人的に輸入を始めたものである。

 貿易船の片隅に一箱だけ乗せられるこれはこのベルベットの家でしかお目にかかる事もない程の希少品なれど、リーゼロッテの舌にはとんと合わぬ。

 脇に立つ男を視線だけでちらりと見上げる。

 全く、この男のように飲めたものではない。そも、この色がまず頂けないのだ。

 豆から抽出した液体は焦げ茶を通り越し黒と言っていい。隣の誰かさんを彷彿とさせずには居られない。リーゼロッテを拒絶するかのようなこの苦味とえぐみも面白くなかった。

 腹立たしさのままに、手元のミルクと砂糖を山と入れやれば黒の液体の中を白がゆるりと巡る。その様を見ていれば多少は溜飲も下がるというもの。

 ガチャガチャと乱雑にかき混ぜてやれば先ほどの色は面影も無い。口をつける。味も悪くない。悪くない。

 初めて珈琲を飲んだのはリーゼロッテがまだ七か八だった頃であろう。しれっとした顔で出された珈琲を子供らしく疑うこともせずに口いっぱいに頬張った瞬間は未だに忘れられぬ。

 見た目に反してお茶目などという悪い性格の男は真っ赤な顔で足をバタつかせるリーゼロッテをまっこと愉快そうに笑ってくれたものである。


「リーゼロッテ様、如何なされましたかな」


「何も無いわ。何時も通りよ」


 とんでもなく苦い珈琲を入れた従者にそっけなく返事をする。

 わかっている癖にこのいい様だ。

 全く。面白くない。鈍いというのならばまだしも。

 残念ながら祖父と肩を並べて戦場を駆けたという軍人上がりのこの男は愚鈍などとは程遠い。

 リーゼロッテがどのような想いで男を見つめているかなどととうに気付いているだろう。

 だというのに、なびく様子が毛ほども無い。

 ベルベットの家は成り上がりの家である。第一、ベルベットという家名すら断絶した家の名を一時的に受け継いだというものに過ぎない。領地も既に返領が決まっている。父が任を終え、リーゼロッテがベルベットの名を受け継ぐと共に、このベルベットの名を王へと返し、ただの平民となる。初めからそういうものだったのだから惜しくもないが。

 祖父が先の戦争で多大なる武勲を挙げたが故の褒章としての貴族籍である。積み重ねた血筋などあろう筈もない。平民あがりらしく、見目とてそうそう良いものではないのだ。

 であるからしてリーゼロッテは己の身体を幼き頃から磨き上げる事に苦心してきた。顔は美形の血を長く取り入れてきた上級貴族などと比べ物にはなるまいが。

 身体に関しては、貴族の中にあっても引けを取らぬと自負している。

 それを武器としリーゼロッテは長い事、この男を誘惑してきたのだ。……が、全く靡かない。

 例えば夜這い。シーツ一枚で夜這いをかけたのは一度や二度ではない。なにせ女に恥をかかせる気かと上に乗って詰め寄ればこの男の事、何だかんだと一夜を限りに事に至るであろう事は一晩で実が落ちてしまうという果物が元であろうと思われる水蜜夜の君などという若かりし頃のふざけた浮名が証明している。そうなればしめたもの。

 一夜だろうがなんだろうがその一度きりで必ずや子を産んで既成事実を作ってくれるわという執念で夜這い続けるものの、その人外染みた勘の良さで逃亡され続けること二年。全戦全敗のリーゼロッテなどと父に揶揄される始末。

 こうなればとマムシの精力剤だのを主従関係を盾にたらふく飲ませ、さらには「へなちょこ」な男に飲ませれば女とくれば見境なく獣の如く襲い掛かり三日三晩寝かせてもらえないというご禁制スレスレの薬湯も飲ませたがしれっとしたもの。まるで効いている様子がない。期待して損した。あの魔女ぶっ殺してやると剣を取ったのは記憶に新しい。

 しかし効果の程を確かめてくれるわと冷えた夫婦関係に悩むメイドに渡したところ一週間ほど欠勤し、やっと出てきたと思ったら夫とアッツアツの触るも御免なファッキンホット状態、潤んだ瞳で夫に抱きつく姿にイライラとさせられ、挙句に見事三ヵ月後に懐妊が発覚すると言う実績に剣を収めるほか無かった。リーゼロッテもそうなりたかった。実にそうなりたかった。何食わぬ顔で耐えるこの男がおかしかったのだ。そう思うしかない。

 いっそ不能であれば良かったものを。戦場を駆けるうち、年を取ったからと妻を迎え入れることもしなかった男に子は無い。

 しかし残念ながら、若い頃などは世の女性達を幾人も枕を涙で濡らさせたという男である。不能などという事があるわけもなく。その点に関しては父のお墨付きである。

 今は年老いてはいるもの、男として枯れているわけでもないだろう。問題なく一物は使える筈だ。

 ガチャガチャとさらに珈琲を混ぜこくる。この珈琲のようにかき混ぜるだけで容易く甘ったるい白を受け入れればいいものを。不愉快きわまる。

 男の為だけにこの胸元を押上げ、強調し晒しあげるかのような扇情的な服を更に肩までずり落としているというのに。視線一つ寄越さないとはどういうわけだ。巫山戯ている。これ以上脱げというのか。脱いでもいいが確実に普段通り視線を寄越さないだろう。それがわかるので脱がない。非常に悔しい。

 ちらりと再び男を見上げる。

 壮年の男は体毛も色を失って久しく髪も髭も元の色もわからぬほどに白い。老いという病が皺となってその身体を蝕んでいる。だが十人中十人が所謂、ダンディだとかセクシィだとかと評するであろう男。

 その瞳には隠しようも無い齢を重ねた智謀の輝き。その所作一つ一つがなんと洗練されていることか。一見して細身なれど、スーツに隠されている極限まで鍛え上げられた身体は老いてなお、未だに第一線でも通用するであろう事は想像に難くない。

 今のお茶目さからは想像も出来ないが、戦場では魔族とすら張り合える程の力を持ち、英雄扱いされていた程の男だ。

 リーゼロッテの代、もとい、リーゼロッテが名を継ぐと共に名を返すのだから実質父の代でこの家は終わりとくれば婿だの跡継ぎだの余計な心配も無い。父には好きにしろと言われている。好きな男の元に行けと。

 ならば、リーゼロッテはこの男こそが欲しいのだ。この男のものにこそなりたいのだ。真っ直ぐにこの男だけを見つめている。

 ……だと言うのに、落ちない。残り少ない人生、リーゼロッテにくれても良いだろう。最期にリーゼロッテを妻とし孕ませるぐらいなんだと言うのだ。男の甲斐性を見せろという話だ。

 はぁとため息をつく。からからと混ぜる珈琲は既に冷めている。

 この口でお慕いしていると、愛しているのだと告げればこの逃亡劇にも決着が付こうが、未だ若いリーゼロッテにそのような愛の言葉を紡ぐなど出来よう筈もない。

 どうせ赤くなって俯いてモゴモゴ言って終わりだろう。己の事ながら容易く想像が付いた。そもそも愛の言葉を口に乗せて断られたらどうするのだ。というよりも十中八九拒絶されるだろう。

 そうなったら諦めきれるのか。否、諦めなどつくものか。ああ、そうとも。

 この国、この世界、どこを探したってこの男、クロード以上の男などきっと居やしない。この背中だけを見ていた。

 御伽噺の王子様などいらない。この男の妻という地位だけが欲しい。鋼のようなその腕に抱かれる事だけをリーゼロッテは夢に見ているのだ。


「リーゼロッテ様、茶菓子もお持ちいたしました。

 どうぞ、南蛮の砂糖菓子でございます」


「ええ」


 差し出された白い菓子を口に含む。

 ほろほろと崩れるそれは確かに美味ではあった。

 が、子ども扱いされているようで面白くない。そもそも何がリーゼロッテ様だ。昔のように愛称で呼んで欲しいというのに。

 クロードにほのかな恋心を抱くリーゼロッテがぶすくれるのも仕方が無い事なのだ。

 しかし子供のように甘やかしてくれるのも悪くは無いので困ったものだ。

 甘酸っぱい想いを蓄えた恋する乙女心とはかくも複雑なものなのである。



 口を尖らせ、拗ねるリーゼロッテにまだまだ子供ですなとクロードは顔には出さぬままに笑った。

 その盛大に拗ねた顔たるや、祖母であるリシェーラに実によく似ている。



*



 夜、一人物思いに耽る。思う事はいつも同じだ。

 彼の事を考えた時、一番鮮やかに蘇る記憶は祖父が存命だった頃の記憶である。

 リーゼロッテは祖父の事が好きだった。祖父の話はどれを聞いても面白く、戦場での失敗談には涙がでるほどに笑い、劣勢からの逆転劇などリーゼロッテもわくわくとしたものだ。

 今にして思えば、幼いリーゼロッテの為にかなり話を盛っていたとわかる。幼い孫娘の為に、戦場の汚さなど語りはしなかった。 

 淑女の嗜みなどなんとやら、力いっぱい飛びついてくるリーゼロッテを仕方ない孫だと笑って抱き上げてくれた。

 窘めてくる父に舌を出したリーゼロッテにいいぞもっとやれと笑っていた。

 立てた武勲は数知れず。戦乱の世にあったこの国を救ったと言って良い祖父。

 部下には酷く慕われていた。それこそ祖父の為に命を投げる程に。

 だが、人としての祖父をあまり知らぬ人には好かれていない人だった。躊躇せず外道と謗られるような戦術を取ってきた人物だったからだ。

 平民であるが故に貴族からは見下され良いように扱われていた。しかし、守ってきた筈の民からすらも石を投げられる人だった。

 風向きが変わったのは最強と名高い隣国の騎士団を壊滅させ、国の悲願であった領地の奪還を成し遂げてからだと聞いた。侮りの感情は恐れに変わった。

 戦争が終わり、その頃には魔人と呼ばれ恐れられてばかりの祖父だったが、リーゼロッテの頭を撫でる手のなんと優しかった事か。孫娘に甘いばかりの好々爺。

 人にとっては悪鬼だろうがリーゼロッテにとっての祖父とはそのような人だったのである。

 クロードとの出逢いは当たり前だが祖父が彼を屋敷に招いた時の事だ。

 今でも覚えている。白い淡雪の降る頃だ。

 祖父が自分の親友だと紹介したのがクロードだった。

 祖父の後ろに隠れているリーゼロッテに向かってまるで一人前のレディを相手にでもするかのように膝を折り、手の甲に口付けられ挨拶されたのが出逢いだ。

 レディは身体を冷やすものではないと外套を掛けられ、しかもさりげない動作で菓子を与えられた。祖父に聞いたのかどうなのか、リーゼロッテの大好きな菓子だった。

 女の扱いに慣れきったクロードにまんまとたぶらかされたリーゼロッテはクロードがそれですっかり気に入ってしまったのだ。

 その後、屋敷にクロードが訪れる度にリーゼロッテはクロードにしがみついて懐いていた。定位置はいつもクロードの膝の上だった。

 祖父も好きだが彼も好きだ。リーゼロッテの中で父の順位は更に下がった。


「おい!クロード!この女ったらしがリズに唾付けるんじゃねぇよ!自分の年考えろ!俺の可愛い娘だぞ!?」


「何を言うか小童めが。

 お前に全く似ていない可愛らしさに皆ほっとしているのだ。

 将来を不安にさせるような事を言うものではない」


「この口が減らねぇクソジジィ……!リズ、離れろ!!お父さんのところに来なさい!!」


「いやよ!ちちうえちかよらないで!りずはくろーどがいいもの!」


「ぐあぁっ!親父何とか言ってくれ!クロードの嫁に出す気か!?」


「君、馬鹿を言うな。

 リズはどこにもやらん。特にクロードにやるなど論外だ。こんなサディストの絶倫にくれてやったら毎夜ベッドの上で泣かされるだろう。可哀想すぎる。

 それとリズの言うとおり近寄るんじゃない。筋肉ゴリラが伝染ったらどうする。

 馬鹿かね君は」


「…………」


「ちちうえ、うごかないね」


「放っておきなさい。どうせすぐ起きるから」


「困ったものですな」


「クロード、僕は君にも困っているのだが」


「はて、何の事かわかりかねますな」


 万華鏡のように移り変わる夢の様な日々。

 うだるような熱さの夏の頃だった。祖父が亡くなったのは。リーゼロッテは泣けなかった。

 岩のように強張った手。真冬の土のように冷たい温度。ただ恐ろしかった。

 目の前の物体は本当にあの祖父なのだろうか?

 何か、恐ろしげなものではないのか。

 震えるリーゼロッテの頭に置かれた手の平。顔を上げた先に居たのは祖父の親友である。

 何も言わずに幾度かリーゼロッテ頭を撫でると、小さな手を取り祖父の白い頬に共に花を飾った。

 肩に置かれた手の暖かさに、そこで漸くリーゼロッテは声を上げて泣いた。

 いつからだったろうか。クロードを男性として意識し始めたのは。

 初めての夜会で派手なドレスに身を包んで壁の隅で縮こまるリーゼロッテによく似合っているとダンスに誘ってくれた折か。

 貴族をよく思わない悪漢達に攫われたリーゼロッテを一人で鮮やかに救出してみせた折か。

 遠くからリーゼロッテを見守るその優しい視線に気付いた時だろうか。

 考えても答えは見つからない。いつからか、クロードの背中ばかりを見つめるようになっていた。

 この年齢差だ。悩まなかったと言えば嘘になる。

 だが、この想いを止める事もリーゼロッテには出来ない。

 彼の事を想うと胸が切なく締め付けられるような甘い心地を覚えてたまらないのだ。

 これが恋であり、そして恋とはそのようなものなのであろう。



*



 さざめく声。

 立ち止まって見回しても特に異常はないように見受けられた。

 いつからだろうか、学院の空気が変わった。

 リーゼロッテはここではあまり評判が良くは無い。成り上がりの平民でありながらそれを弁えずこの学院に足を運ぶ身の程知らずの娘などと言われるリーゼロッテには友もおらず、声を掛けて来るような者もいない。

 それにしても感じるこの違和感。

 あちこちでひそひそとする人々。空気が淀んで濁っているのが肌で感じ取れる。

 微かな声で聞こえたるは第一王女の体調が優れぬ、という言葉だった。将来的には近縁の公爵家子息と添い遂げ国を継ぐとされていた王女。

 確かこの学院にも通っていた筈、体調が優れぬ、成る程。確かにあの綺羅々しい銀髪を蓄えた姿を見ていない。

 だが、不信を覚えるも確かな話だ。以前見た折には体調不良などとは無縁に思える程度には元気いっぱいであったのだから。

 いやさ、それを抜きにしても―――――ただの病であればこの空気は異常であろう。張り詰めた緊張感、まるで戦争でも始めるようではないか。

 見回した回廊に縮こまる人々。

 まるで何かに怯えるかのように。 

 


*

 


 その姿を見たのはただの偶然であった。

 夕暮れの中、静かに窓の向こうを見ている。

 

「……………」

 

 目を見開く。

 これは本当にあの第一王女であろうか?

 落ち窪んだ眼窩、枯れ果てた唇、どう見ても体調不良などというものを越えている。

 何事かを呟く姿、どう見ても病などではない。

 肉体を蝕む類の物をば自ら飲んだか、あるいは他者に盛られたものか。どちらにしても一生涯元に戻りはすまい。明らかに中毒の症状が出ている。

 正気を失っているのは見ればわかる。相対するのはどう考えてもまずい。

 妄想と幻覚に彩られた彼女の世界には理不尽しか存在し得えぬ。

 足早に立ち去ろうとしたその時だった。背後から押されたのは。

 

 「……ッ!」

 

 転びこそしなかったものの、物音は隠しようもない。

 顔を上げればギョロリとした魔女さえ裸足で逃げ出すであろう眼窩がこちらを見ていた。


 「……ごきげんよう、リーゼロッテ。あの穢らわしい魔人は息災かしら。

 お父様が言っていらしたわ。ベルベットというのは百三十年前に断絶した家ですってね。

 革命などと叫んで押し寄せた平民を討伐したのだけれど、その折に騎馬を平民に奪われたのを恥としてご自害されたそうよ。

 お子も居らずに自然と一族が散ってしまったのですって。この意味、わかるかしら」


「……魔人?」


 祖父、の事であろうが。既に他界しておりそれを彼女も知っている筈だ。

 見つめてくる虚ろな視線には感情というものが伺えない。

 

「…………フェルメール様はどこへ行かれたのかしら………。

 リーゼロッテ、貴女はご存知なくて?」


「いえ…」


 前後が全く繋がっていない。完全に記憶が混濁している。


「……汚らしい卑怯者の魔人、私の前に姿を見せないで。

 最近体調が良くないの、フェルメール様……この間ご紹介頂いたお医者様はとっても素敵でしたわ……。

 王都にお招き頂いたらと思うのです……」


 後ずさる。会話をしようなどとは思わぬ。

 直ぐにこの場を離れた方がいいのは明らかに過ぎた。

 振り返ろうとして、そこで背後に立っていた人物に漸く気付く。

 フェルメール、彼女の婚約者である男だ。押したのはこの男であろう。何の意図があったかは知らないが。

 悪意から来る行動であったのは確かであろう。何せこの男、ローゼリルのこの様子に何も感じていないらしい笑顔である。

 正気を失っているローゼリルだが、先ほどの言葉……目の前の男が関与していてもおかしくはない。

 頑なに引き結ばれた口は貴族の中の貴族と言われた男の事、言われなくともわかる。

 平民などとは口も開きたくない、そういう事だ。それに、口よりよほど雄弁に語る物がある。磨き上げられた美しい屋敷の中に汚らしい害虫が居るのを見た、そういう目だ。

 騎馬を平民に奪われた事を恥として自害、目の前の男なればするであろう。

 目は合わさぬようにしながら一声だけ掛けて歩き出す。泥のように絡みつく視線を感じながら。

 後ろから声が聴こえる。話しかけてきているわけではない。ただ声を出している、そのような声音だった。


「最近なんだが。下の方で流行している本がある。人民論という題目でね。

 内容は取るに足らないものだよ。実にくだらない。貴族と平民が同じ机に付くなんてまるで恥知らずだ。怖気が走る。

 ローゼリルがあの本を読んでいたのを見つけた時は驚いたよ。本当に。

 ベルベットの魔人だったかな。誇り無き卑怯者、軍人を名乗るも烏滸がましい。貴族の誇りに泥を塗った男だ。

 彼が上げた数々の武勲とやらも穢らわしい血に塗れたものだ。その息子も、その娘もそうだ。きっとその次も次も。

 彼らに伝わってきたものがあるか?先祖から伝わる光り輝く魂があるか?矜持無き貴族などと冗談じゃない。

 先王が何故彼に指揮を取らせたのか理解に苦しむ。例えばそう――――僕の父や、そうだな……武勇誉れ高きクリーロッツォ家、智謀を誇るセルディオ家が執っていたなら。

 あんな無様な戦などしなかっただろう。汚らしい歴史をこの国が抱える事も無かった。

 貴族を平民が打ち倒した、なんて下らない事を書かれる事も無かったんだよ。

 今一度この剣でこの国に蔓延る流言を祓うべきだ、そうだろう」

 




 王家の封蝋が為された夜会への招待状。

 そのような物が届いたのは春も終わり頃のことであった。

 出たくはない、が。出るしか無い。

 例えどのような事があったとしても、出るしか無かった。

 何かが起こるであろう事は予感していた。何も起こらないなどとは考えてはいなかった。

 それでも、そこで起こった事はあまりにも常軌を逸していた。






「リーゼロッテ、何か言うことはあるかな」 


 声がでない。フェルメールが仰々しく語った言葉はどれ一つとして全く身に覚えのない事だ。

 何を言っているのか。

 貴族としての立場を利用しローゼリルに麻薬を流したなどと。あろう筈がない。

 口を差し挟む余裕すらない。

 何だこれは?

 何が起こっているのかもわからない。

 何か、盛大な催し事ではないかとさえ思えるこの状況。舞台の一幕を見ているような寒々しい心地に身が震える。外した喜劇の山場のような荒唐無稽さ。

 馬鹿馬鹿しいにも程がある。笑い出したくなるような言葉だ。

 目の前でローゼリルを優しく抱き締めながらこちらに語って聴かせるフェルメールがいよいよ怪物にさえ見えてくる。何を言っているのかわかっているのか?

 どうかしているとしか思えない。彼が語る言葉は支離滅裂に過ぎ、理解が及ばない。

 何か新しい妄想に取り憑かれたらしきローゼリルは……様子を見るに薬断ちでもさせられているのであろう。

 色の無い唇でリーゼロッテと縋るように名を呼んでくる彼女に総毛だった。その苦しみはリーゼロッテが与えたものなのだと信じた彼女は悲痛とさえ言える声でどうしてと問いかけてくる。

 記憶も精神も完全に壊れたらしい彼女はもう自分が何を言っているのかさえわかっていない。

 耳鳴りが響く中、微かに言葉が聞こえてくる。


「君の代でベルベットの貴族爵位は返還される。先の無様な戦のお陰で残された貧困と飢饉で彼らは追い詰められている。

 ベルベット家は彼らと同じ立場に戻るのが嫌だったんだろう?国を混乱させ再び戦を起こそうとしたわけだ。

 甘い汁を吸う事を覚えたんだね。民衆の間では嘆かわしい事に国民を扇動する俗本が流布されていると聞く。あの本になんて書いてあるか、君は知っているだろう?

 貴族と平民の垣根はもうない、貴族など何も出来ない、ベルベットの魔人を見よ、とね。全く呆れるよ。

 君達の貴族籍を今この時をもって剥奪する。よもや言い訳はないだろう」


「………」


 その言葉に、糸がつながった。

 先ほどまで混乱しきっていた心が嘘のように冷え切っていく。氷でも流されたような心地だった。

 これはそう、予定調和なのだ。こうなる事が決まっていたのだ。

 彼らにとってその是非も真偽もどうでもよかったのだ。彼の言っている事は正しい。彼らがその保証をしてくれる。それだけでこの国では真実たりえるのだ。白も黒も彼らが決める。そこに真実など割り入る余地はない。貴族。この国を蝕む病魔だった。

 誰一人として彼の言葉に否を唱える者など居ない。この場に引きずり出されたリーゼロッテを蔑みと共に眺め見下ろしているだけだ。


 ああ、そうか。リーゼロッテは嘆息とともに悟った。悟らざるを得なかった。

 この国はついに、国全体に根付く身分という差別を乗り越える事が出来なかったのだ。

 平民でありながらその武勲によって貴族籍を手に入れた祖父。この国の身分制度に開いた風穴だった。

 与えられた僅かな領地を荒れさせでもすればそれを笠に貴族籍の剥奪を出来た。そうなれば所詮平民だったと。平民など我々貴族に使われてこそだと言えたのだ。

 だが祖父は何の問題を起こす事も無くやり遂げてしまった。求められたのはほんの一分の隙も許されぬ、薄い氷上を歩くような繊細な仕事だっただろう。しかしやり遂げてしまったのだ。そして父もまた祖父のようにその任を終えつつある。

 晴天の霹靂だった。このままリーゼロッテの代で見事、勤めを果たしきり最初の約定通りに名を返上すればそれは貴族にとって恐るべき事態をもたらしかねない。

 ベルベットの家は望ましくない前例となりつつあったのだ。

 そもそもが祖父がこのような褒章とは名ばかりの貴族籍などと面倒この上ないものを請けたのは偏に平民の為だったのだ。

 国は腐敗しきり、数多の平民に学ぶ場はなく声を上げる事さえ出来ず。この国に未来はない。未だ他国を植民地とすればよいなどと本気で考えている国だ。愚の骨頂だ。日夜進み続ける近隣国に勝てる筈が無かった。

 嘗て国を支えた人々はもう居ない。数名の技術者、数名の魔法使い、数名の軍人達。前線で命を投げた数多くの兵士達。彼らに頼りきって乗り越えた戦いだった。貴族と王族が何をしたというのだ。悪戯に戦場を混乱させ続けただけではないか。その姿に失望し、亡命した人間がどれほど居るかわかっているのだろうか?

 その亡命者の中にどれほどの人材が居たか。国は何が何でも引き止めるべきだった。だが、奴らは平民だからとそれすらしなかったのだ。

 彼らを失い、先の戦争で疲弊したこの国は魔道学と技術と経済で遅れを取るままに他国に飲まれるだけだ。それが祖父にはわかっていた。だからこそ、残ろうとする部下に影ながら亡命を薦めていたのだろうから。自分は残ったものの、その思いは国への忠誠などではなく将校としての義務感からだったのだろう。

 そしてリーゼロッテにもまたわかってしまった。

 この国は終わりだ、と。

 フェルメールの言う事などきっかけでしかない。

 彼らは彼女の言い分、その全てを通すだろう。なんら反論の場を与えられる事もなくベルベットの家は終わる。

 祖父と父に心の中で頭を下げる。あまりの事に涙が零れそうだった。ここまでとは。ここまでとは思わなんだ。

 もしかしたら、この場にいる彼らにそのような明確な意思は無いかもしれない。だが、その蔑む眼のなんと冷たい事か。人を見る目ではなかった。

 根底にある思想。戦場で幾千の尊い命を刈り取り貴族となった獣の血筋であるリーゼロッテならするだろうという人格を無視した前提。自分が立っている場所がどれほどの血が流され成り立っているかも弁えぬ余りにもあきれ果てる言い分だった。

 嘆いた。彼らのあらゆる言動にありありとそれが見て取れてしまった。

 華美な装いも飾り立てた言葉も無意識の最中、心の奥底にある差別意識を覆い隠せるものでは、なかった。

 二人が、いや、戦争で国の為に命を捧げた人々の築き上げた全てが崩れ落ちた瞬間だった。



 何を話したか、何があったかを覚えていない。リーゼロッテにとってそのようなものは初めての経験であった。どうやってあの場をあとにしたのかさえわからない。

 ふらふらとした足取りで屋敷へと戻る。迎えは来なかった。想像は付く。屋敷が今どれほどの混乱に包まれているか。

 震える足で、震える手で父の元へと向かう。僅かばかりの使用人達が慌しく荷を纏める姿に胸が痛んだ。

 扉を押し開き、父を呼ばわる。我が声ながら迷子の幼子のようなみっともない声しか出ない。


「父上……」


「ん?ああ、戻ったか。リズ、荷を纏めなさい。なるべく手早くな」


「……………………は?」


 実にいつも通りの平常な声で言われた言葉に、目をぱちくりとさせる。

 あまりにも父の対応は予想に反するものだったからである。

 まるで全てを知っているかのような、わかっていたような顔だった。

 そこまで考えて、気付く。何のこともない。

 わかっていたのだ、こうなると。


「いやぁー、親父の言う通りだったな。俺はあの人の頭の出来だけは尊敬してるんだ。

 ん? リズ、どうした?

 何だ気にしてるのか?

 あのじゃじゃ馬が殊勝な事だな。……ってお前、泣いたのか!?

 ブッフォ!!ブハハハハ!!おい、クロード!来い!!おもしれぇもんが見れるぞ!!おまっ……ブフゥッ!!」


「…………」


 先ほどとは別の意味でプルプルとする腕を振り上げ、父の顔面に叩き込んでおいた。




 青タンの出来た頬を摩りながら、父、カーマインが種をばらした。


「いやー。親父と俺がうまくやったら間違いなくこうなるだろうとは言ってたからなぁ。

 ま、こんなもんだろ。何せホラ、親父は戦場でこれでもかってくらいには辛酸を舐めてきたらしいから。潰された功績なんて十や二十じゃないからなぁー。

 だからまぁ……気にするなよ、リズ。こうなる事はわかってたんだ。何、たいした問題じゃない。

 どうとでもなるからよ。お父さんに任せなさい」


 ポン、と頭に置かれた大きな手の平にすっかり引っ込んだ筈の涙が出そうになる。笑われるのが目の見えているので気合で耐えた。


「……ただなぁ、お前のほうに行くとは思わなかった。すまなかった。

 来るなら俺の方だと思ってたんだが。まさか恥も外聞もかなぐり捨てての方法とはなぁ」


「…………」


「そんな顔するなリズ。忙しくなるぞ。親父のコネは大事に使う。行き先は青藍国だ。あっちは飯がうまいしな」


「青藍国……」


「親父の戦友が居るのさ。もう連絡は取ってある。何遊んでやがる、さっさと来いだとよ。

 この国の民には悪いが、やれる事はやった。俺達の役目は終わりだ。ここまで来て餌を上から垂らして貰えるのを待ち続けているようじゃあどうしようもない。

 そんな手段で自由を得ても、何れ腐るさ。リズ、親父が帰国した時この国の人間は生卵ぶつけやがった。あの状況でほぼ対等の講和まで持ってったってのによ。

 その上でこれじゃ忠義も味噌っかすに消えらーな。元々孤児で流れ者も同然だしな。

 つーわけでだ。貴族か軍人だったらこの国に残るが、俺達は今、名無しの権兵衛だ。夜逃げだリズ。夜逃げ!」


「……父上、夜逃げだなんてやめてください。

 人聞きの悪い」


 我が親ながら人を誑かすのが本当にうまい。

 その技能を少し分けて欲しいものだ。

 頭の中で持ち出すべき物を考えながら、リーゼロッテも笑った。



 *


 付いてくるのはクロードと、国から出てカーマインに付いて行きたいと言った僅かな使用人達。国境を越えるのは楽なものだった。

 この国は疲弊しきり、もう後は無いのだ。


「いやー、クロード!

 青藍国なんて何年ぶりだろうな?

 みんな元気にしてっかなー」


「さて、旦那様が未だおねしょも直らぬ時分だったと記憶しておりますが」


「余計な事は言うんじゃねェッ!クソジジイが!!」


「旦那様、少々お口が悪いですな」


 澄み渡った青空の下を笑い声と共に進む。

 目指すは東。その名の通り、海の青と空の青、森の青に溢れた美しい国である。


「クロード!待って頂戴!」


「リーゼロッテ様、そのように走るものではありませんよ」



 *



 迎え入れたのはなるほど、祖父の戦友らしく実に剛胆な男だった。

 父の背中をバンバンと叩き、クロードと抱擁し昔を懐かしがる姿にほんのりと嫉妬心を覚えたのはリーゼロッテがまだ幼いからだろう。

 あのクソ野郎の倅をみっちりと鍛えてやると意気込む姿は年を感じさせないが、彼の妻がこの頃はあまり元気がなかったから嬉しいと呟きこっそりと泣いていたのを見てしまったので嫉妬心は仕舞っておく事を決めた。

 父は嫌がったがどうやらこの国に仕える事に決まったらしく、与えられたのはそれなりの屋敷である。あちらの国とは違い、勝手の違う様相にリーゼロッテもはじめは困惑するばかりであった。

 見慣れぬ文化、見慣れぬ国。

 ようようと慣れてきたと思えたのは半年程経ってからの事である。時折塞ぎ込む事があった使用人達もそのような事がなくなってきた折。

 一人の男が屋敷から姿を消したのは雪もちらつき始めた冬であった。



 *



 父の書斎に猛牛の様に突撃する。はしたない?クソ食らえである。今のリーゼロッテにそんな言葉は無意味だ。馬に蹴られて死んじまえ、いい言葉だ。


「父上ッ!!」


「よっ、遅かったなリズ。もう行っちまったぞぉー」


「知っていますとも!!どこに行きましたか!?」


「口止めされてんだわー。いやー、悪いね。ハハハ!」


 そんなものも知っている。聞いただけだ。

 知っているがお前の顔が気に喰わない。

 グーパンをお見舞いしておく。敢えて受けたのは少しは罪悪感があるからだろうか。


「いって~。お前もうちょっと自分の手を労れよ。なぁ、リズ。お前に見合い話が来てるんだが。

 悪くはない男だし会ってみないか?」


「お断りします」


「そう言うなって。俺も会ったけど中々の好青年だぞ?

 まぁ見合いなんて受ける柄じゃねぇのはわかるが会ってみたらどうだ?ちょっとは心揺さぶられるかもしれんぞ?」


「嫌よ。その人はクロード以上の男だと言うつもり?」


「そりゃないな」


「でしょう。クロード以外はカボチャか何かです」


「クロードの野郎……むやみやたらにリズのハードル吊り上げやがって……」


「追いかけます」


「だろうなー。何せお前、俺の娘だし。

 さっさと行って来いよもう。口止めはされたが止めろとは言われてない。

 リズに捕まるならそれがあいつの運命だったんだろ。老い先短いから早めにな。

 花嫁衣裳はいる?作っといた方がいい?」


「当然です!」


 言い捨てて部屋に駆け戻り、ありったけの路銀を掻き集める。持ち物は少ないほうがいい。

 小さな鞄に必要最小限のものを詰め込む。

 雪が降り積もる中、リーゼロッテの小さな足跡が続く。


「クロード!私は諦めないわ!!」







 光輝く真白の雪が舞い降りる中、リーゼロッテは探している。

 春が来た。

 絢爛たる薄紅の花びらが舞い散る中、リーゼロッテは探している。

 夏が来た。

 瑞々しい新緑の翠に照らされる青の中、リーゼロッテは探している。

 秋が来た。

 大地を燃えるような紅が染め上げる中、リーゼロッテは探している。

 そしてまた、冬が来る。




「うーん、見てないわねぇ」


「そうですか。ありがとう」


 訪れた街を巡りながら住人達に彼の行方を聞いて回る。

 もう慣れたやり取りだ。

 一時は止んでいたものの、再び降り始めた雪に外套をきつく身体に巻きつけた。この冬はかなり厳しい寒さだとどこからか聞こえてきた。

 この国ではまだ二回しか冬を経験していないリーゼロッテにはわからないが。きっとそうなのだろう。

 悴んだ指で地図を開いて眺める。

 次はどこに行くか。彼はもうこの国を出て行ってしまったのだろうか。

 遥か故国を想う。かの国を覆う暗雲は未だ晴れず、いつ戦争になっても可笑しくはない有様と聞く。あの国の事だ。追い詰められれば容易く隣国の土地と民に手を伸ばすだろう。そうなれば地図から消えるのは故国の方である。肥沃な大地、欲しがる国は多い。分割され丁寧に分けられる事だろう。

 彼らを守る盾はもう何もない。貴族には貴族の戦い方がある、それに合わせてくれる国などあるわけがない。

 時代は変わる。騎馬に乗った貴族など銃を持った平民に打ち倒されて終わるのだ。

 父や祖父と同じく、忠誠心など持ち合わせては居ないリーゼロッテだったがそれに対してやはり思うことはある。

 付いた息は白くなって消えた。

 クロード、どこに居るの。

 早く彼に会いたい。その一心で足を交互に動かし続ける。

 耳に聞こえてくるのは雪の音だけだ。


「……?」


 違和感にリーゼロッテは顔を上げた。

 人の往来が不自然に途切れたのに気付いたのだ。

 この雪だ。町外れという事もあり人は少なかった。だが、少なすぎる。

 いつの間にか、リーゼロッテを囲う八名。

 その豪奢な服にあるのは見た事のある紋章だった。


「リーゼロッテだな」


「いえ、人違いです」


 即答した。

 が、相手にはリーゼロッテの確信があるのだろう。抜き放った剣を収める気配はない。


「国に巣食う悪意と呪詛を祓うため、貴様らの首が我々には必要だ」


「呪詛……?」


 脳裏をよぎったのは最後に見た二人の姿。ふと、夕暮れの中で聞こえた言葉を思い出した。

 ―――――――今一度この剣でこの国に蔓延る流言を祓うべきだ、そうだろう。

 ……何がどうなっているのだ、あの国は。まさか本当に戦争でも起こすつもりなのか。それとも民衆の声を抑えきれなくなってきたのか。

 いや、そんな事はどうでもいいのだ。八人。女一人に随分と多い。

 僅かに後ずさる。完全に囲まれている。

 なんとしても生きる、そうは思うが。どこか頭の中で無理だと囁く声を拒絶できるだけの意思を貫くも難しいのも事実だった。


「国を蝕む悪鬼が、死ねッ!!」


「……っ!!」


 必死になってそれは避けたものの、後がない。

 じわじわと諦めの気持ちがわいてくる。

 ここで終わりなのか。この場を切り抜けられるほどリーゼロッテは強くはない。

 助けを求めようにも、この人数を相手に出来るような人物が都合よくこの場に居るわけもない。

 紋章付きの騎士達が八人。

 ―――――無理だ。


「きゃぁ……!!」


 目前まで迫った刃。殺される、そう思った。最期に思ったのはやはり想い人の事である。

 想いを伝えぬままについに会えず仕舞いだった。それだけが口惜しい。

 それ故に。振り下ろされる刃から庇うが如く力強い腕に引き寄せられるままに抱き込まれたのはリーゼロッテにとっても予想さえしない事だった。

 空振りに終わった刃を腕ごと斬り飛ばす剣。


「ぐあ……っ!!」


「何だ貴様!?邪魔立てするか!?」


「魔女に加担するなら貴様も斬る!!」


 見上げる。

 求め続けた男がそこに居た。


「クロード?」


「リーゼロッテ様、下がっておいでなさい。

 何、直ぐに済ませますので」


 激昂して立ち向かってくる騎士達をクロードはその辺の教会からもいだと思われるような儀礼用の装飾がふんだんに為された刀剣などと強度も十分とは言えぬ武器であっさりと全員を切り伏せる。

 息さえも乱す事もなかった男は己の血に塗れた剣を角度を変えて幾度か検分し、わずかに眉根を寄せた。


「やれやれ。私も老いたものだ。感情に我を忘れて刃を欠けさせるなど果たして何十年ぶりの事やら。剣に申し訳ない事をしましたな。

 リーゼロッテ様。お怪我はございませんかな」


「……クロード!」


 足が笑っていて立てない。忌々しい。目の前にクロードが居るというのに。あの、クロードが居るのだ。ここで動かないなど冗談にもならなかった。

 立ち上がろうとして何度もへたりこみその度に涙が出そうになる。

 早くしなければまた行ってしまう。また逃げられてしまう。そんなのはイヤだ。

 ぐしぐしと腕で目を擦って再び足に力を入れようとして――――。


「そんなに目を擦るものではない」


 信じられなかった。

 目尻をそっと拭う指先が頬を滑り落ちる。そのまま背中に回った腕。片腕で肩を抱き寄せられる。

 あまりの事に頭の中が真っ白になって何も考えられない。

 だって、抱き締められた。

 本当に?

 額にちくちくと当たるのはクロードの白い髭に違いない。吐息がかかって死にそうだった。頬に押し当てられる逞しい胸板の熱さに心臓が早鐘を打つ。この鼓動が伝わらなければいいとも思うが、伝わって欲しいとも思う。

 なんと苦くて甘いのだろうか。この想いは。

 頬どころか耳まで熱を持っているのが自分でわかった。これは夢だろうか?

 いっそこのまま時が凍りついて欲しい、そう思った。


「リズ。君は若い。私のような老いぼれに嫁ごうなどと追いかけるのはやめなさい。

 君は初恋をただ特別なものだと思い込んでいるだけだよ。忘れるのに辛いのも最初だけだ。大人になるうちに何れ甘酸っぱい思い出として、青春だったと笑って思い返せる日がくるとも」


 顎を軽く持ち上げられ、頬とも唇ともつかない、唇に触れるか触れないかの場所に落とされた口付け。

 無意識にそれを追いかけようとして、合わさる前にあっさりと離れていってしまった。

 残ったのは僅かな温もりの残滓。


「クロード……」


「リズ、見合いの男とは会ったかね?

 あれはそれなりにいい男だ。身分もある。あれならばリズも幸せになれるだろうと思うのだよ。

 私の事は忘れなさい。若い女性は王子様からのガラスの靴を望むものだ。君にきっと似合うだろう。

 君が思う程に私は良い人間ではない。独占欲も強ければ嫉妬深い。女性を泣かせるのが好きな性格で、その上に人の幸福よりも自分の欲を優先する。

 そうすべきだとわかっていながら何年も長々とあの屋敷に居た救いようのない愚かな男だ。

 もうカーマインの元へ帰りなさい。あそこならば今回のような事もない」


 最期にリーゼロッテの額に口付けると、クロードは身体を離した。

 その雪に塗れた身体を整えてやり、頭を撫ぜてから優しく手を引いて身を起こさせる。

 立ち去るその紳士然とした後姿を、半ば夢心地で見送ってからリーゼロッテは己の唇をなぞった。

 額が熱い。唇の端が熱い。というか顔全体、いやさ体全体が熱い。リーゼロッテの小さな身体一杯に練炭でも詰め込まれたような熱さ。

今ならば火も噴けよう。降りしきる雪の冷たさなどもう微塵も感じなかった。

 なんて男だ。このタイミング、偶然などであるはずが無かった。

 あの言い分を見るに、屋敷から姿を消したのは身を引いたつもりなのだ。クロードを探し続けるリーゼロッテを影ながら守り続けていたのだ。

 きっと、リーゼロッテが気付かなかっただけで今までもきっと助けてくれていたのだろう。そのくせ、あんな何でもないような顔で。さも偶然とばかりに。

 ああ、やっぱり諦められるものか。

 あんないい男、世に二人と居るわけない。さもなければ抱擁と口付けひとつでこれほどまでに身体が熱くなるものか。

 小さい頃からその背中だけを見ていたのだ。幼かったリズはもう大人だ。今度こそ隣に立って共に歩きたい。

 呟く。


「私は王子様からのガラスの靴より貴方の唇が欲しいわ」


 走り出す。今度こそ捕まえるのだ。そしてもう二度と離してやるものか。

 老い先短いのだから一刻たりとて無駄には出来ないのだ。

 リーゼロッテに諦める気はさらさらない。さっさと諦めてリーゼロッテと添い遂げろというのだ。

 若い頃から女性を泣かせ続けたクロード、最期にリーゼロッテまで泣かせた。悪い男だ。実に悪い男だ。

 いい加減に年貢の納め時だ。長らく空白を守り続けた妻の座を明け渡すべきだ。そんなもの後生大事守ってどうする。男なら潔く開城すべきだ。

 子供は最低でも二人、男女一人ずつだ。絶対だ。

 雪はもう止んだ。春はもう近い。

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Caffè Latte ひよこちゃん @hiyoko_chan

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