第四十二話 真実

 血に塗れた腹を押さえながらふらふらと立ち上がる女性。


「駄目っ、あの子の誤解を解かなければ――」

 

 あの時、静香はまだ命を落としていなかった。蓮夜は無意識に包丁を刺す力を弱めていたのだ。最愛の人を失いたくないという思いがそれをさせたのだろう。


 そして彼女が玄関口にまで来た理由は、蓮夜を見捨てて男と逃げることではなかった。その逆だった。料理人の彼に謝罪しにきたのだ。一緒に行くことはできなくてごめんなさいと。そして私を愛してくれてありがとう。最後にそう感謝の気持ちを伝えたかったのだ。


 彼と一緒にこの屋敷から出る。それが自分が幸せになるための最善な選択だ。それはわかりきっていた。それでも蓮夜の縋る想いが彼女を屋敷に留めさせた。

 赤子の頃からずっと世話してきた。あの子を残して自分一人が幸せになることはやはりできなかった。最近のあの子は目標に邁進していた。自分がいなくても大丈夫だと思っていた。いや思い込もうとしていた。でも違った。あの子には未だ私が必要なのだ。瞳を見て思った。あの子は瞳の奥に闇を抱えている。助けを求めている。ここで見捨てるわけにはいかない。静香はそう決心したのだ。



「これからあの子と一緒にこの罪を一生償っていこう…」


 あの子は決してしてはいけない過ちに手を染めてしまった。私が見捨てようと考えなければ起きなかったのかもしれない。これは私への罰なのだろうか。彼を愛してはいけなかったのだろうか。いったい何が正しかったのかはわかない。でも、このままではあの子が壊れるのだけは確実だ。私が傍で正しい道に戻さなければ。

 彼女は覚束ない足取りで廊下を歩きだした。


「配役Bさん。それは私の筋書きには入っていませんよ」

 

 秘書の沖田が目の前に口角を上げていた。相変わらず顔色が悪く不気味な男だ。顔は笑っているが、瞳は冷た光を宿していた。


「あなた何を言っているの。そこをどいて。私はあの子に会いにいかなければならないの」


「ちなみに配役Aは被験者の母親です。誠に遺憾ではありますが脚本に従い

大人しくこの舞台から退場してください」


 演目から外れた役者には沖田はすでに興味がなかった。淡々とそう告げる。


「いいからそこをどいて――」


 静香は胸に何かがあたる感触を感じて下を向いた。銃口だった。彼女が声を発するよりも前に引き金が引き絞られた。鉛の銃弾が彼女の命を抉った。

 静香は何が起きたか理解できなかった。ただ沖田を見上げる。


「そ…そ…の…瞳は……」


 驚愕した表情のまま床へと崩れ落ちた静香。


「ぼ、ぼ…っちゃ……」


 未練を残したまま彼女は逝った。そして二度と立ち上がることはなかった。  静香を見下ろす沖田の両目には狂喜の色が躍っていた。


「やれやれ、俺もまだまだだな。感情が昂ってしまうと薬じゃ抑えられないか。いや、血が古いのかもしれないな。ちょうどいい、こいつで血を入れ替えるとするか。使用人の方の血は残りも少ないので地下のタンクにでも入れておくか」


 死んでも調理場に居れるのだから奴も本望だろう。




     ◇◇◇


「やはりあれが大きな決め手となりました。思った通りでした。獣堕ちに必要なのはオリジナル人類への激しい憎悪です。彼は自分では気づかなかったのでしょうがあの日うっすらと瞳が紫に色づいたんですよ。あの時点ではまだ気づかれるわけにはいかなかったので、直ぐに私の薬を飲ませて元の瞳に戻しましたけどね」


『あなた何様なの! 子供の人生を弄ぶなんて。決して許されない』


「そうかもしれません。でも、お蔭様でそんな長い時を要す必要もなくなりました。大人でもほんの短期間でいいんです」


 そう言って沖田は人差し指と中指で、自らの頭をコンコンと叩いた。


「脳通信システムを利用すれば良かったんです。蓮夜君は実に優秀でした。まったくあれは脚本外の大発明です。彼の開発したプログラムと大出力のシェイドコア。そしてその出力に耐えられる軍用ビニック。それさえあれば私の目的をいとも簡単に果たせたました。被験者にヘルメットを被せるだけです。後は個人の意思とは関係なくリーディングもライティングも思いのままでした」


 沖田は手始めに州都近郊の反乱軍の男達で実験をした。人にはそれぞれ大事にしているものが必ず何かしらあるものだ。まずはそれを読み出す。そして、それをオリジナル人類が蹂躙する映像へと編集する。その衝撃的なシーンを彼らの脳に上書きするのだ。それらは作り物の映像だ。しかし被験者の脳にはそれが現実として刷り込まれるのだ。


「といっても、直ぐにはうまくいかなかったんですよ」


 色々なパターンを何度も繰り返すことになった。なぜなら被験者のセイジの大半が気を狂わせてしまったのだ。あまりのショックに耐えられずに獣堕ちではなく廃人となってしまったのだ。

 そして実験を繰り返すうちに絶妙な加減を見つけた。その後は紫の瞳の獣堕ちが量産されるだけだった。


『ひ、酷い。なんて残酷なことを。あなたはもう人ですらない!』


「さて、長話が過ぎました。上空は未だ一進一退ですか。このままでは時間ばかりが過ぎてしまいます。私は無駄な事が嫌いなんですよ」


 沖田は樹稀につかつかと歩み寄る。傍に落ちていたブラッドを掴み上げ遠くへと放り投げた。


「誰かさんみたいに後から刺されたら目も当てられないですからね」


 そう笑いながら、彼女からビニック、つまりゴーグルと首裏のセンサーを奪い去った。


「な…な……に……を…」


 ビニックを奪われた樹稀はもはやまともに言葉を紡げない。


「ふふふ、私の方で操作できるようにクラックするんですよ。たしかありましたよね。自爆モード。わざわざ根回ししたんですから。付いていないと困ります」


「あ…なた…な…かま………こ…ろ…す…き………の……」


「はて、仲間? 私はその言葉を一度も口にしたことはありませんよ。私はね、奴らを、オリジナルを滅ぼすことだけが生きがいなのです。それ以外はただの手段でしかありません」


 沖田は奪い取った彼女のビニックと自らのビニックを接続する。そして専用のプログラムを走らせる。


「ははは、あっけないプロテクトですね」


 自爆キーはすぐに見つかった。

 あとはこれを上空のセイビーに送るだけだ。このキーをビニックが受信すると高電圧で脳の全てを焼き切るように設定されているのだ。


 政府の高官たちは心の奥底でセイジに怯えていた。それはセイジの脳の一部を焼いても変わらなかった。むしろ高まった。自分達の所業がセイジに恨まれる事だと認識している証拠だ。


 そんな人心をも沖田は煽った。使う必要はない。ただ、万が一の際の保険だと。それを持っているのと持っていないのでは大いに違う。それは国民の生命を預かる者として当然の処置であると。己の保身のためではなく国民のためだと強く認識させた。

 こうしてセイジの自爆システムを州規制に盛り込ませた。そう仕向けるのは沖田にとって赤子の手を捻るように簡単だった。



 さあ仕上げとしますか。頭の中でこのキーを唱えれば、あとは空に残った黒い獣たちが州都に降り立ち蹂躙の限りを尽くすだろう。

 沖田は目を瞑る。これで全てが終わる――。

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