第三十九話 はじまり

 漆黒の壁。峡谷の谷底から見上げたかのような巨大なそれが行く手を天まで遮っていた。この壁と比較すると北都の防壁はまるで張りぼてのようなものだ。


「ついに辿り着いた……」


 風格すら醸しだすその光景に圧倒されながらも僕は感慨に耽っていた。故郷の街を出てから僅か四日間の出来事。まるで数年かけて世界の果てにまで来た気さえしてしまう。命の恩人ともいえる徹を含めたセイビーの護衛部隊はいまや誰も残っていなかった。


「ね、ねえお兄ちゃん。ここが州都なの?」


 右手に握る小さな手に力が篭ったのを感じた。隣を振り向くと小さな男の子が不安そうな顔で僕を見上げていた。軍用列車から森へと逃げる際に背に担いでいた幼子だ。


「おう、そうだぞ。ほら、あそこに入口が見えるだろ。あそこまでいけばもう安全だ」


 その子の不安を消し去るように僕は力強い笑顔で頷いた。


 意識を取り戻した時には全てが終わっていた。僕は状況が理解できないながらも、生存者がいないか周辺を探しまわった。森の外れで蹲っていたこの男の子以外には一般乗客の生存者は一人も見つからなかった。ここまでの道中、男の子は僕の手をずっと離さなかった。不安で一杯だったのだろう。


 僕の言葉に安心した小さな男の子は握っていた僕の手をそっと離す。そして興奮したように声をあげて州都の門へと駆けていく。



「お兄ちゃん。私、無事に着いたよ。もう少しだけ待っててね。きっとやり遂げるから。そしたら一緒に世界を見て廻ろう」


 胸に白い小箱を大事そうに抱える凜花の瞳は生気を取り戻していた。力強いがどこか危うげな彼女の瞳。そこに宿る思いが何なのか僕にはわからなかった。



 茜色に染まる夕日。僕は空を見上げて両親に誓う。僕はお父さんのように皆から尊敬されるセイビーになる。そしてシェイドから平和を取り戻し僕たちセイジが差別されないで暮らせる世界を必ず作る。そう固く決意した。



「翔、い、痛い……。怪我してる、女性に、優しく」


 左脇から抗議の声が届いた。肩を貸していた腕についつい力が入ってしまったようだ。振り向くとエリカが痛みに顔を顰めていた。


「ご、ごめん!」


 慌てて腕の力を緩める。エリカはしなやかで白い指先を僕へと伸ばし、首筋を撫でた。なぜだろう。彼女に触れられると妙にどきどきして落ち着かなかった。


 エリカは愛おしそうに翔の首筋を撫でる。翔の胸から首にかけて紫色の痣が広がっていた。子供の頃と同じだ。また翔に助けられた。この痣は私達を助けた代償に間違いない。これが何を意味するのかはわからない。しかし決して良いものではないと直感していた。エリカの胸中に不安が渦巻く。ただそれでも彼は生き延びてくれた。そしてその姿を再び直近で見ることができた。エリカにはそれが何よりも嬉しかった。


「そういうの、元気なときに、して欲しい」


 夕日に染まったエリカがはにかむように僕に微笑みかけた。その美しさに思わず見惚れてしまった。僕は恥ずかしくなってふたたび空を見上げた。


「約束通りエリカを護ることができたよ」


 僕は育てのお母さんに笑顔で報告した。

 

 そんな僕らの背中からぶつぶつと念仏のような呟きが聞こえてきた。先程ほどまでは夢遊病患者のようにふらふらと無言で歩いていた秀人だ。

 州都の防壁が視界に入った途端に興奮したかのようにずっと何かを口走っていた。今だけは静かにして欲しい。僕は心の底からそう願った。



     ◇◇◇


 新たな検体を抗生剤に取り込もうとしていた大いなる意思は、ある異変に気がついた。抗生剤が固まったように動かなくなってしまったのだ。何度も思念を送ったが無駄だった。


 原因を突き止めようとしていると抗生剤の中心部が強く発熱し始めた。そして瞬く間に抗生剤の循環液が沸騰した。抗生剤本体までもが内側から溶け始めた。固体や液体が気体へと変わったことで常圧での体積が数百倍に膨れ上がる。抗生剤の外殻内の圧力は急上昇した。圧力に耐えられなくなった外殻が少しずつ押し広げられていった。


 大いなる意思は自らの欠片を通じてこの異変を食い止めようとした。しかしとても間に合うものではなかった。気づいた時には意思の欠片までもが抗生剤と同様に溶けてしまった。成す術もなく抗生剤は破裂した。そして抗生剤とともに意思の欠片の溶解液は周囲へと飛び散り霧散した。



 しんと静まりかえったその場に言葉を成していない声が響いた。尻餅をついて泣き喚く赤ん坊が一人取り残されていた。その全身は周りの地面と同じように緑色に染まっていた。


 暫くするとしゃくりあげる泣き声が段々と小さくなり笑い声へと変わった。頬がくすぐったかったのだ。泣いている赤子をあやすように小さな動物が頬を舐めていた。同じように全身が緑色に染まったエゾリスだった。

 泣き止んだ赤子は今度は必死に手を前に伸ばしていた。目の前の地面に転がる物を掴もうとしていたのだ。それは目が眩むほどの強い輝きを放つペンダントだった。


 シェイドに食い殺された女性。彼女は第二世代軍北都軍事研究所の主任研究員であり、赤子の母親でもあった。彼女の任務はシェイドに対抗するための特殊兵器の開発だった。


 北都で最強を誇っていた夫が目の前で自分を庇って命を落とした。絶望に打ちひしがれ、また自らの死も覚悟した。しかし最愛の息子の命だけでも何とか助けたいと切望する。

 そんな彼女の目に地面に転がる自分の鞄が映った。すぐにある物の存在を思い出す。ラボレベルで有効性を検証した新技術。実証試験に移行するために自らが先日作成した試作品のことだ。研究所がシェイドに襲われた際に彼女は真っ先にそれを鞄に入れて逃げ出したのだ。それに一縷の望みを託した。


 シェイドが襲いかかるよりも先に彼女は鞄に駆け寄った。そしてそれを自らの首にかけた。振り返って息子の姿を見たのが彼女の最後の記憶だった。

 その後にシェイドの身に起きた現象。それが彼女の求めていた効果であったかどうかは誰も知る由がなかった。




 青い星の中心で大いなる意思は戦慄していた。


 病原生物の一部が抗生剤に耐性を示したのだ。変異しつつあるのは間違いない。気になるのは変異したと思わしき病原生物に抗生剤を構成する主要元素の一つが検出されたことだ。もしこれが事実なら由々しき事態だった。

 その元素によって病原生物の骨格が軽く強靭になってしまう。さらに神経組織の伝達速度も飛躍的に向上している可能性がある。このまま放置するとさらに進化し、肌一面へと再び増殖しかねない。そうなればこの回復しつつある肌の潤いはすぐに失われてしまうだろう。


 あの病原生物をより深く調査研究し、適切な対応策を早急に講じなければならない。そのための手段を思案する。答えはすぐに見つかった。

 病原生物の挙動を詳細に観察するには自らがそうなればいいのだ。つまり、抗生剤にしたのと同じように病原生物に自らの意思の欠片を同化すれば良いのだ。


 問題はその方法だ。病原生物に直接触れる手段を持ち合わせていなかった。このため二段階の輸送が必要だった。まずは抗生剤に自らの意思の欠片を運ばせる。そして抗生剤に接触した病原生物へと欠片を移さなければならなかった。


 この試みは二つの問題からなかなか成功しなかった。一つは自らの意思と病原生物の親和性が非常に悪かった。拒絶反応が強く同化できずに病原生物が死んでしまうのだ。それでも諦めずに幾度もそれを繰り返した。その甲斐もあって意思の欠片との同化率が高い条件が明らかとなった。それは病原生物の成長ステージにあった。分裂直後の若い病原生物であれば拒絶反応が小さく成功しやすいのだ。


 ただし、もう一つ問題が成功を妨げた。自らの意思が病原生物に移ると抗生剤の制御が効かなくなるのだ。意思の移植に成功しても抗生剤がその病原生物をすぐに消滅させてしまうのだ。特に若い病原生物なので逃げることもままならない。度重なる失敗。それでも大いなる意思は諦めなかった。


 何百回にもわたる挑戦。そして遂に成功した。意思の欠片を病原生物に移植した直後にたまたま抗生剤が死滅したのだ。まさに運と執念の成せる技であった。


 そしていま、意思の欠片は最大規模を誇る病巣の外側にまで辿り着いていた。それは想像以上に硬く厚い殻で覆われていた。これでは抗生剤が効くはずもない。大いなる意思はそう嘆息する。しかし悲観することはない。内部から根絶すればいいのだ。自らが意思の欠片を介して抗生剤を病巣内へと導けばいい。侵入さえできれば問題なく破壊できるだろう。

 それに病原生物の生態が明らかになれば自ずとその弱点も掴めるはずだ。あとはそれに応じて抗生剤を改良すれば問題ない。


 州都を見上げる瞳は希望に満ちていた。その瞳が鮮血のような真っ赤な色へと一瞬だけ切り替わる。本人も周りもその僅かな変化には気づくことはなかった。


     ◇◇◇


「おい、これはどういうことだ! 俺たちにこんな事して只で済むと思っているのか!」


 

 胡坐座りで激高するのは、州都近郊域で反乱軍を束ねる男だった。その男が睨む視線の先でソファーで優雅に腰掛ける人物。全身が紫の出で立ちで顔には大きなサングラスを掛けていた。

 反乱軍のリーダーにとって紫の男は今回の仕事の依頼主だった。明らかに怪しげな風体だが北部域反乱軍の主導者からの推薦状を携えていた。しかも今回の襲撃に使用する武装の全てを無償で提供してきたのだ。信用するには十分だった。


 依頼を達成してアジトに戻った瞬間。構成員十五名全員の意識が刈り取られていた。気づいた時には全員が特殊な鎖で全身を拘束されていた。


 喚き続ける男達に紫の男はため息をつくとソファーから立ち上がった。リーダーの傍へと近寄り屈みこむ。そしてゆっくりとサングラスを外した。リーダーの深緑色の瞳孔が広がる。


「う、うわぁぁあ、け、獣堕ち! た、助け――」

「耳元で煩い」


 男の顔面が殴られ血が迸る。狂喜に満ちた紫の瞳が男を見下していた。鼻血を噴き出しながらもリーダーが手の平を突きだす。


「ま、待ってくれ! 俺達はお前の、い、いや、ミスターTさんの依頼を全てこなした! 重油を撒いて森を燃やしてシェイドを引き寄せた。軍用列車の積み荷も全て手に入れた。それに出来たらでいいと言われたライフルでの対象の狙撃にさえも成功したじゃないか!」


「それで?」


「北都の奴らだって長年に渡って商売に協力してきたはずだ。最近も北都の軍事倉庫からご希望通り、このスカイムーブを盗み出したと聞いている。我々は良好なビジネスパートナーのはずだ。こんな仕打ちをされる謂れは無いはずだ!」


 広い室内。男の指さす場所には二つの山があった。一つは漆黒の山。これは、一昨日にこの街まで運ばれて来た。北都で手に入れた盗品のスカイムーブとブラッドそしてビニックだった。

 もう一つは特殊な透明保護容器に包まれた赤く光り輝く山。誰も居なくなった軍用列車から強奪してきた大量のシェイドコアだった。


「ああ、そうだな。お前らには本当に感謝している」

「な、なら――」

「だから、お前らにも表舞台に立つことのできる力を授けてやろうと思ってな。ま、うまくいけばの話だが」

「な、なにを、ぐぶっ――」

「だから煩いと言っているだろ」


 男を殴りつけると獣堕ちの男は愉快そうに口角を吊り上げた。



 オリジナル人類、新人類のセイジそして獣堕ち、さらには大いなる意思。この四者の複雑な関係がここから新たな局面を迎える。

 四本の異なる色の糸が複雑に絡まり合いながら、誰も想像しえない破滅の未来を紡ぎだそうとしていた。

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