第三十八話 異変

「うううっ……」


 地面に膝立ちの翔。左手は胸を掻き毟り、右手で頭を抱えて苦しそうに呻いていた。



 大事な人を助けることのできない無力さ。震えることしかできなかった臆病な自分。僕はそれが口惜しくて堪らなかった。ぎりぎりと食いしばる歯茎からは血が滴り落ちる。止めどない怒りが体の芯から湧き上がり体外へと噴き出す。締めつけられる胸。燃えるように熱い体。頭が割れたかのようにズキズキと痛んだ。そして視界までもが霞んでいく――。


「か…か…け……」


 それを端から見ている男がいた。瀕死の徹だ。

 糞っ、もう地に横たわってあいつらの死を待つことしかできないのか。徹の目には事の顛末が全て映っていた。想像しうる限りの最悪の結末だった。全てを諦めていたが、ふとある異変に気がついた。


 翔を取り巻く大気が陽炎のように揺らめきだしたのだ。なんだあれは。さらにその瞳までもが強く輝きだす。そんなまさか。瞳の色が変化していく。薄緑色だったものがセイジ本来の濃緑色へ。そしてそれが紫色へと変わっていく。


「だ…め………そこ…へ…墜…ち………は…」


 俺は声を振り絞る。が、それはほとんど音を成さなかった。僅かに唇が動いただけだ。翔の獣堕ちを引き留めようと腕を上げようとするが体は微動だにしなかった。


 ヒグマのシェイド化は既に最終形態となっていた。しかし砂粒ほどだが未だ生き物としての本能が残っていた。それが危険だと激しく警鐘を鳴らしていた。あれを放置すると自分の存在自体が掻き消される。脅威を未然に潰すことが最優先だった。他には一切見向きもせずに翔へとまっしぐらに突進した。


 直ぐに翔の傍へと近づくたヒグマはその太い腕を振りかぶる。狙うは獲物の小さな頭だ。鋭い爪を振り抜いた。一方、翔は未だ膝立ちのまま身じろぎすらしない。

 駄目だ翔の頭が潰れる、と徹は目を閉じた。もういい。俺はこれ以上は凄惨な光景を目の辺りにしたくない。後はきつく閉じたこの瞼を自らの命が尽き果てるまで維持するだけだ。徹はそう心に決めた。


 しかし、そんな徹の決心はすぐに揺らぐことになった。ヒグマの苦しそうな雄叫びが耳に届いたからだ。想定外だった。何が起きたのか気になった。重い瞼を恐る恐る開いた。そして瞳に映った予想外の光景に当惑することになった。

 振り抜かれたはずの左腕が地面に転がっていた。ヒグマは腕の全てを失っていたのだ。


 徹が混乱している間も咆哮をあげ続けていたヒグマ。突如として自らの体を揺らした。信じたくない光景だった。ヒグマの右の肩口からさらに新しい腕が生えて伸び始めたのだ。

 徹は何が起きたのか見当もつかない。ただ、大きな違和感があった。ヒグマはなぜか翔に背を向けて吠えていたのだ。

 よく見るとヒグマは翔と反対側の何かを憎々し気に睨んでいた。視線の先を追いかける。大地から赤い揺らめきが立ち昇っていた。その中心に二本足で立つ小さな影。そんな馬鹿な。徹は己の目を疑う。記憶違いでなければ、あれはいつも翔の胸元から愛らしい顔を覗かせていた存在だ。


 ヒグマと相対するのは翔の相棒であるクーだった。ただ、その様相は普段とは異なる。瞳の色はシェイドと同じ燃え盛るような赤に変わっていた。なによりもその瞳は三つあった。

 あれは飾りではなかったのか。これを人目に触れないように隠していたんだな。徹はクーの額にあった鉢巻の意味をここにきて理解した。


 クーが地面を蹴った。赤い弾丸が一瞬でヒグマへと迫る。ヒグマは新たに生やした右腕でそれを迎撃する。太い右腕とクーが交錯した。質量差から考えると当然、小さなクーが吹き飛ばされるはずだった。


 しかし、実際に吹き飛ばされたのはヒグマの太い腕だった。しかも、交錯した部分から先が抉られたように消失していた。ヒグマは憤怒と痛みなのか再び咆哮をあげる。


(なんて奴だ……。まだ腕が生えてきやがる)


 徹の口からは多量の血が漏れるだけだ。声に出したと思っていてもその口元すら微動だにしていなかった。意識はすでに朦朧としていた。それでも最後まで見届けなければ死ねない。その信念が途切れそうな意識を支えていた。


 四つん這いのまま二本の尻尾を逆立てヒグマを威嚇する、クー。全身を覆う赤い揺らめきが先程よりも小さくなっていた。一度攻撃すると揺らめきを高めるのに時間がかかってしまうようだ。連続で攻撃しない限りシェイドは新たな腕をすぐに生やしてしまう。これでは決着がつきそうにもないと徹は思った。


 新しい腕が中ほどまで生えた時にヒグマの様子が一変した。ヒグマもクーと同じような赤い揺らめきに包まれたのだ。そしてその巨体が少しずつ大きくなっていく。


(こ、これ以上進化するというのか)


 徹は絶望する。目の前で人類への脅威が高まっていく。近くには州都があるのだ。そこには妹の通う訓練学校もある。自分の命と引き換えに目の前のシェイドを倒したい。だが、今の自分には立ち上がるための足さえ存在しなかった。無力な己がひどく恨めしかった。


 背を向けていたヒグマがゆっくりと振り返った。徹の視線がヒグマの瞳を捉える。


(どういうことだ?)


 それは先ほどまでの荒々しく狂暴なものではなかった。恐怖に怯えた弱々しい瞳だった。血のほとんど通っていない徹の頭はさらに混乱した。

 ヒグマを包む赤い揺らめきがさらに大きくなっていく。ヒグマは苦しそうに胸を掻きむしり始めた。よく見ると揺らめきの一端が直線上にある一点へと伸びていた。


(まさかこれは翔の仕業なのか)


 徹は瞳だけを動かし翔へと視線を戻す。ヒグマを覆っているよりも数段濃い揺らめきの中に翔がいた。まるで炎の中心で焼かれているようだ。そして、翔の瞳はすでに紫色ではなかった。クーと同じ深紅の瞳が眩い光を放っていた。


 死を直前に迎えているにもかかわらず徹は身震いした。本能が警鐘を鳴らす。ここまで恐怖を感じた存在は生まれて初めてだった。


「そ…そ…ん…な…ま………か……」


 徹の口から声が漏れた。虫の息であったにもかかわらずそれは音を成していた。頭をある言葉が過った。衝撃はそれほどに大きかった。


 シェイドは成す術もなく膨れ上がっていく。はち切れそうな体は漆黒の熱気球のようだ。実際、その両足はすでに地に着いていなかった。少しずつ空中へと浮き上がっていく。


 燃え盛る炎に油を注いだかのように翔の瞳が一際強く輝く。そして――。


 パンという音とともに、巨大な風船が破裂した。空気を震わせたあとに緑の雨が降り注ぎ地表を染め上げていく。


(ああ、あれはそういうことだったのか)


 衝撃的な結末に徹は驚くよりも別の感情に支配されていた。先日来の大きな疑問がここにきて氷解したからだ。


 翔の故郷を襲撃したシェイドは当初七体と報告された。それに対し、現地に急行した徹たちセイビーが確認できたのは六体。一体不足していた。シェイドを撃破すると必ず硬い岩石のような遺骸が周囲に散らばるはずだった。しかし、現地にそのような痕跡は一切残されていなかった。シェイドの一体は何らかの理由で撤退したことになる。上司である本部長の山縣にそう報告した。これまでそのような事例は一度も無かった。それを報告する側の徹も報告される側の山縣もその内容について半信半疑であった。


 あれも翔の仕業だったに違いない。徹がそんなことを考えている間に翔を包む炎のような揺らめきが薄く小さくなっていく。


(まさかあれが吸収しているのか)


 翔の胸元が強く輝いていた。首から垂れ下がるペンダントだった。


 赤い揺らめきが全て消え去った。同時に翔の瞳も元通りに戻っていた。セイジにしては薄すぎる緑の瞳だ。ただ、その瞳は虚ろで意思の光は灯っていなかった。

 そして、全ての役目を終えたかのように翔は地面へと崩れ落ちた。


『終世に顕在し業火の双眸。新世創造の光明とならん』


 ある程度教養を受けた者であれば必ず一度は耳にしたことのあるフレーズ。徹も訓練学校でこの予言を習ったのを今でも覚えている。学者達はこれをシェイド襲来の予言であったと結論づけた。シェイドの瞳がまさに燃えるように赤かったからだ。


 果たして本当にそうだったのだろうか。あの預言者は何を目にしたのか。徹は先ほどまでの光景を思い返す。


(残念だ。樹稀、お兄ちゃん約束守れなくてごめんな――。)


 予言の行く末に思いを馳せた。最愛の妹は自分がいなくて大丈夫だろうか。後ろ髪を惹かれる思いが強い。しかし鉛のように重い瞼にこれ以上抗うことはできなかった。ゆっくりと閉じた徹の目蓋は二度と開くことはなかった。



 徹とは別に、遠くの森の影から一部始終を見守る者がいた。


「やっと見つけた。が、やはりこのままでは……」


 そう顔を顰める男。永い旅路の末についに見つけた想い人は想定よりも危険な状態に陥っていた。

 先に準備を整えないとな。自らに与えられた使命を全うするために彼は州都へと向かった。

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