第三十五話 兄
森の外。大地の所々に緑色の染みが出来上がっていた。餌を求めて森の外に飛び出した子熊は、全てエリカによって返り討ちにされたのだ。
「あいつ。なんかキレが増してないか」
「僕はもう目で追うのが辛くなってきた」
シェイドとの戦闘を繰り返すうちにエリカの実戦感覚が磨かれたようだ。さっきまでと同一人物とは思えなった。
「おい、今度はどこへ行く気だ」
「森の外には敵がいなくなったので、森の中に入るみたいだね」
森の中に飛び込んだエリカを待ち受けていたのは生い茂る木々。彼女はスカイムーブを器用に扱い、木々の合間を縫って獲物を探す。彼女は気づいていないかもしれないが、すでに操作技術はベテラン級だ。
あれは、何? エリカの視界に奇妙な光景が飛びこんだ。一人の子供がこちらに背を向け、両手を広げて立っていた。子供の向かいには背の高いコートの姿。エリカはそれに見覚えがあった。このままでは不味い。そう直感したエリカはスカイムーブの水素ブーストを初めて解き放つ。あまりの強い負荷に体が軋む。エリカはそれを必死に耐える。
コートの男が上空から迫り来るエリカの姿に気がついた。慌てたように身を翻し、森の奥へと逃げていった。エリカは両手を広げたまま仁王立ちしたままの子供の前へと着地した。安否を確認しようと振り返った。
「ああ、エリカちゃんだったんだ。ありがとう助かったよ」
少年は望夢だった。
「だから降ろしてっていったじゃない」
「ご、ごめん。夢中だったから、つい」
エリカの駆けつける十分ほど前に遡る。望夢と凛花は二人きりで森の中を彷徨っていた。いつの間にか他の乗客達と逸れてしまったのだ。方向音痴な望夢が凛花を抱えて無我夢中で走った結果だ。望夢の背後を歩く凛花が延々と愚痴を零す。
突如、前方から複数の人の声が聞こえた。
「な、なに今の悲鳴」
「ああっ――」
前を歩いていた望夢はそいつを見てしまった。
「凛花、こっちに来ないで!」
「え、急にどうしたの」
そいつもこちらの存在を認識したのが望夢にはわかった。でも僕だけだ。幸い木々が死角となって後ろの凛花にまでは気づいていないようだ。
望夢は前を向いたまま後方の凛花に声をかける。
「凛花、そのまま後ろに下がって木の陰に隠れて! とってもやばそうな奴がこっちに近づいて来るんだ」
普段大人しい望夢からは考えられないような真剣な口調だった。
「だから何事なの。お兄ちゃん一人で大丈夫なの」
「いいから早くして! 何があっても絶対に声を出さないで!」
叱りつけるような口調だった。初めて見せる兄の剣幕に凛花は驚き、素直に木陰へと隠れた。
木の葉と枝を踏みしめる音が次第に近づいて来る。紫色のコートを着た男だった。何よりその瞳が服の色と同じ狂喜の色に満ちていた。
「これは珍しいな。片目だけの成りそこないか」
「あ、あなたは何ですか! なぜ罪もない人達を殺したんですか!」
望夢が目にしたのは殺人現場だ。被害者は一般乗客の三人家族。大人の首の骨まで素手で簡単にへし折っていた。とても常人とは思えない。
「あれは単に余興みたいなものだ」
「あ、遊びで人を殺したっていうんですか!」
「人っていっても時代遅れのオリジナルだろ」
「人間には変わりないじゃないか! しかも小さな子供まで……」
「はあ、セイジは無暗に殺すつもりはなかったんだが。見られてしまったからには仕方がない。セイジだろうが何だろうが、今までも脅威は全て排除してきたしな。どうせ、お前は生きていてもこれから辛い思いをするだけだ。そうなる前に、俺が楽にしてやろう」
そう語りながらコートの男はゆっくりと望夢へと近づく。
「さっきから何を言っているのかわからない! こっちに来ないで!」
そう言いつつも、望夢は前に出た。これ以上近づかせると凛花が見つかってしまう。妹だけは絶対に護る。その想いが震える足を動かした。
「俺にはよくわかる。成りそこないに待っているのは絶望という名の未来。虐げられて辛い思いをするだけだ。生きる糧は憎しみだけ。お前を見ていると昔の自分を思い出してしまうな。いまこの手で救ってやろう」
紫の狂喜に満ちた瞳に僅かに同情の光が宿っていた。
もちろんそんなことは望夢にわかるはずもない。恐怖のあまり膝ががくがくと震えていた。ふと、こちらに歩み寄る男の足が止まった。男は僕の背後を見ていた。凛花が見つかってしまったのかと一瞬絶望したが、違った。男の視線は上空に固定されていた。
「ちっ、ここであれは不味い!」
男は舌打ちし、コートの中に手を伸ばす。
望夢は男の見据えた視線の先が気になって背後を振り返った。遠くからセイビーが駆けつけて来るのが見えた。ああ助かった。望夢は心から安堵した。
エリカは逃げた紫の男を追うかどうか迷っていた。翔に目をつけていたあの男の目的が気になった。
「ああ、エリカちゃんだったんだ。ありがとう助かったよ」
望夢は弱々しく笑うとそのまま後ろ向きに倒れた。
「えっ、望夢!?」
仰向けの彼の腹部は真っ赤に染まっていた。
紫の男は何もせずに逃げたわけではなかった。しっかりと目的は果たしていた。逃げ去る直前にコートから取り出した拳銃。それで望夢の腹部を撃ち抜いたのだ。グリーズ相手には何の役にも立たない骨董品であったが、人に対しては今も非常に有効な武器だった。
「お兄ちゃん!」
凛花が必死の形相で駆け寄ってきた。地に横たわる望夢へと縋りつく。
「お、お兄ちゃん! ねえ大丈夫! え、なによこれ! どうしたらいいの――」
「だ、だいじょ……ぶ……。凜花が、無事で良かっ……た」
「何言っているのよ! 全然良くないわよ! 血が止まらないよ! エリカ! 早く誰か助けを呼んで来てよ!」
望夢の状態はすでに手の施しようがないのは誰が見ても明らかだ。
間に合わなかった。エリカは自分の無力さを悔やみ下を俯くことしかできなかった。
望夢の手が弱々しく凛花に伸ばされた。狼狽えて泣き叫ぶ彼女の頭に添えられる。その手がぎこちなく動かされた。最後の力を絞り最愛の妹の頭を撫でていた。
「り、凜花、もう…僕は、無理だ…よ。さ、最後に、やっと、お兄ちゃんらしく…妹を守れたか…な」
「な、なに馬鹿な事いってるのよ!? 最後とか言わないでよ――」
「ぼ、ぼくの…リュックを…持ってき…て……」
近くに転がっていた望夢のリュック。凜花はそれに駆け寄るとひったくるようにして戻ってきた。
「ああ、もうっ! なかなか開かない!」
手が震え視界も滲み、なかなかリュックの紐が解けない。苛立つ凜花であったが、なんとかリュックの口を開いて望夢の脇へと置いた。
望夢は右手をゆっくりと入れ、何かを探すようにしばらくまさぐる。引きだされた手には白く小さな箱が掴まれていた。それを自分の胸の上に置くと左手で蓋を開ける。そして右の手の平を顔の正面に掲げた。親指と人差し指そして中指の三本で、コの字を形づくる。
「お、お兄ちゃん何を――」
エリカも凜花も彼がいったい何をしようとしているのか、まったく想像がつかなかった。
望夢は目を見開く。そして三本のコの字の指を勢いよく左目に突っ込んだ――。苦悶の呻きがあがる。あまりの奇行に凛花もエリカも固まってしまい、それを止めることができなかった。
気づいた時には望夢の左目があった場所が窪んでいた。代わりに彼の右手には黒い瞳の眼球が摑まれていた。そしてそれを白い箱の中に大切そうに収める。蓋を締めると箱の脇のスイッチを押す。箱から小さな作動音が聞こえた。
「ここに…入ってい…る…か、ぎり…二日…くさら…ない…左目…に…移…植…するん…だ…。黒い…目…だから…もう…虐め…られな…い…ね」
「お、お兄ちゃん――」
最後の力を使い果たしたのか、望夢の腕は地面へと力なく垂れ下がる。
思い残した事はやり遂げた。望夢の残された翡翠の瞳は満足そうにどこか遠くを見つめていた。
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