第十六話 初めての街

 望夢と凜花は日本の最北端の町に生まれた。

 シェイドの襲来以降、この町も他の地方と同様に孤立していた。この時代、中央政府は一部の限られた都市以外は存在しないものとして扱った。


 中央都市をシェイドの脅威から防衛する。これに国力のほぼ全てを割いていたといっても過言ではない。地方から中央都市に避難する人々も相継いでいた。避難民を受け入れるだけでも精一杯だったのだ。


 そんな孤立した最果ての町に三年半ほど前、一人の女性が流れ着いた。町の有力者の孫娘だった。十五、六年ぶりの再会を果たしたのだ。

 彼女は自らの母親、つまり有力者の娘は既に他界したと告げた。そして孫娘はあろうことか身重の体だった。お腹の子の父親も既にこの世にいないと語るだけ。口を堅く閉ざし、詳細な経緯を決して語ろうとしなかった。

 生気を失った瞳。シェイドに襲われ相当酷い目にあったのだろう。彼女の心に抱えた深い傷を抉るわけにはいかない。祖父母も深く詮索することを諦めた。


 新生児の誕生。それは滅びに足を踏みいれた町の明るい希望となるはずだった。

 しかし、生まれたのは異形の双子。片目は母親と同じ日本人特有の黒だった。が、もう一方が問題だった。男の子は右目、女の子は左目の瞳が深緑色を宿していた。


 二人の生まれ故郷の住民はセイジの存在自体を知る由もない。左右色違いの瞳それ自体が薄気味悪い。

 しかも緑の瞳は災厄を連想させた。これまで何度も付近の町に襲来した漆黒の悪魔。その度に人を食い殺し街を消滅させてきた。

 その化け物の体液とまったく同一とも言える色だった。


 出産に立ち会ったのは祖父だった。産声をあげた赤児を目にし、体が震えた。これは悪魔の落とし子だ。いつか町に災いをもたらすに違いない。そうなる前に手を打たないと。そう思った祖父は赤子の首に手をかける。災厄の芽を自らの手で摘もうとしたのだ。


 その凶行は寸でのところで未遂に終わった。出産直後の母親が、なけなしの気力を振り絞って制止したのだ。彼女はセイジについて必死に説明した。都会でも同じような子供が産まれていると。そしてそれを政府が保護していることも。

 祖父はそれを信用しなかった。そんな話は誰からも聞いたことがなかった。呪われた悪魔を産んだお前も穢れている。蔑んだ瞳でそう言った。


 彼女は母親の実家から追い出された。それでも赤児が殺されることだけは阻止することができた。

 町民も、そんな赤児の出産を祝福するはずもない。穢れた母子と当然のように村八分にされた。


 彼女は街から離れた家に移り住んだ。しかし収入もなく、そのままでは生活すらできない。それを救ったのは祖母だ。元々、孫娘の境遇を一番に気にかけていたのだ。

 ただ祖母は重い病に伏していた。臨終の間際に祖父を説得したのだ。子育てに必要な最低限の援助をする。その約束を取りつけてくれた。

 ただし、それは町民に気づかれないように秘密裏であること。そして呪われた子供は祖父の血縁関係ではないことを公に認めることが条件だった。

 これはつまり、母親自体が祖父と血縁関係にないことを認めさせられたことになる。



   ***


「うわー、凄い、凄いよ!」

「そうね……」


「あの、どこまでも広がっている青いの。あれって海だよね!」


 初めての外の世界。それはどこまでも広く青かった。いつもは小煩い凜花も無言でその光景を見つめていた。

 僕と凜花は三歳になっても外の世界を見たことがなかった。庭の外へは一歩たりとも出してもらえなかったからだ。


「垣根で囲まれていたから、わからなかったね」


 お母さんは心配だからと言う。僕らにとって外は危険過ぎなのだと。

 ただ、そんな状況を不憫に思ってくれていたようだ。庭に幾つもの花壇を作り様々な花を植えてくれた。限られた空間をできる限り華やかに彩ってあげようという思いやりを感じた。


 凜花はそんな花壇が大のお気に入りだった。お母さんと一緒に毎日水やりに励んでいた。天気の良い日は花壇から離れようとしないほどだ。お気に入りの赤や白の小さなバラの花を眺めその香りを楽しんでいた。

 

 勉強もこれまでは問題になっていない。お母さんは都会で一通りの学問を学んでいた。文字や計算、社会常識、家庭科など。生活に必要となる基礎知識をひと通り教えてもらった。


 狭い世界だったが愛情をたっぷりと注がれた。だから僕らは日々幸せな毎日を送っていた。

 それでも外の世界に憧れていなかったわけではない。


 三歳のこの日。僕は初めて外の世界に触れた。そして目を輝かせていた。濃淡の異なる青い空と海。どこまでも広がっていき彼方で繋がっていた。世界はこんなにも広いのか。


「お兄ちゃん、ずっと見ていたいのはわかるけど。今はそれよりも――」

「そうだね。薬を買ってこないと」


 お母さんが高熱で倒れたのだ。普段であれば大した問題にはならない。家に常備薬があるからだ。


「僕らの所為だもん」


 今年の風邪はたちが悪かった。僕と凛花が揃って罹患し、高熱で数日間寝込んだ。快方した頃、それが母親に移った。しかし薬はすでに底をついてしまっていた。


「母さんは寝てれば大丈夫だと繰り返していたけど」

「ベッドの上で、うわ言のように言っている時点でまずいわ」


 額に汗かき、苦しそうにうなされるお母さん。心配で堪らなかった。内緒で街に薬を買いに行こう。そう決心するまで、さほど時間はかからなかった。

 普段は諫める凛花も今日は止めなかった。それほど病状は芳しくなかった。


「裏手は森だったんだ」

「森の側の丘の一軒家って感じね」

 

「あそこが街でいいのかな」


 丘の下の海と陸の境界を指さす。海岸線に沿って多くの建物が建ち並んでいた。


「この家の前の一本道を真っ直ぐに下ればいいんだよね?」

「そう、街の右端に薬屋があるはずよ」


「でも本当に大丈夫かなぁ」

「今更、何言っているのよ。街の人達は私たちの瞳の色を嫌っているのよ。だからこの格好にしたんじゃない」


 黒い出で立ちの僕らはフードを深く被って顔を見られないようにしていた。


「目さえ合わさなければ問題ないわ」

「で、でも……」

「さ、時間ないわよ」

 

 不安な僕の手を握り引っ張るようにして凛花は歩き始めた。

 三十分ほど下ると街外れに着いた。


「お兄ちゃん、そっちじゃない。薬局はこっちよ」

「え、う、うん……」


「あと、きょろきょろしない! 街の人に、ばれちゃうじゃない」


 凛花は事前に街の地図を頭に入れてあったようだ。迷うそぶりも見せずに薬屋に向かって足早に歩く。


「ま、待ってよ。そんなに心配しなくても大丈夫そうだよ」

 

 僕は慌てて凛花を追いかけた。


 街は正午近いこともあり多くの人で賑わっていた。あちこちから快活な声が聞こえてくる。家族連れも多く、とても平和な日常を醸しだしていた。


 お母さんは常日頃から口を酸っぱくするほど、僕らに言い聞かせてきた。

 街の人は、みな恐ろしい。緑色の瞳をとにかく憎んでいる。幼い僕らを見つけると必ず襲ってくる。だから決して外に出てはいけないって。


「たしかに緊張していた分、ちょっと拍子抜けよね」

「どんな恐ろしい格好の人がいるんだろうって思ってた」


「普通の人には見えるわね」

「うん、みんな優しそうだよ。子供たちの姿も僕らと変わらないよ」


「でも気をつけて。優しいお母さんが私達にそんな嘘をつくとは思えないわ」


 街の中心部から数分ほどで目的地に辿り着く。庇に大きく薬という文字。年季を感じさせる店だった。


 さすがの凜花でも店内にすぐに入ることはできないみたいだ。立ち止まってゆっくりと僕の方を振り向いた。あ、顔が緊張で強張っている。僕は無言で頷き凛花の手を握る。凛花は少し安心したような表情を浮かべた。僕らは手を繋いでゆっくりと店内に入った。


「あらあら、ようこそ、かわいい嬢ちゃんと坊や。偉いわね。二人でお使いかい? 今日はどんなお薬をお望みかな」 


 店内に足を踏み入れた直後だった。カウンター越しから声をかけられた。

 僕はびっくりしてそっちを振り向いた。年老いたお婆さんだった。皺一杯の広がった顔に優しさが滲んでいた。


「あ、あの、実は母が――」


 凜花は俯いたまま病状を説明する。あ、そうだった。僕もなるべく下を向かないと。


「そうかい。そりゃ心配さね。少し待ってなさい」

 

 そう告げるとお婆さんはカウンターの裏へと消えていった。二、三分ほどで小さな包み袋を抱えて戻ってきた。


「とりあえず、一週間分処方しておいたよ。お母さん早く元気になるといいさね」


 僕は軽く頷いて薬を受け取る。代わりにポケットから代金を取り出し、お婆さんに手渡した。


「はいまいど。それじゃ、これがお釣りね」

「あ――」


 硬貨数枚が僕の手の平をすり抜けた。音を立てて床へと転がる。俯いていたので、お婆さんの動きをちゃんと見ていなかったのだ。だから手の平に置かれたお釣りをうまく掴めなかった。


「もう、何やっているのよ! どんくさいな」

 

 苛々した口調の凛花だが手際よく床に落ちた硬貨を拾いはじめた。自分の失態が恥ずかしい僕は俯いたまま立ち尽してしまった。


「ほれ、坊や。お釣りだよ。次からはちゃんと落とさないようにね」


 僕の手に皺々の手が重ねられた。いつの間にかカウンターの外にお婆さんが出てきていた。硬貨を拾ってくれたのだ。僕は添えられた手に驚いた。お母さんと同じような温もりだった。


「ちょ、お兄ちゃん!」


 あ……。ついお婆さんの顔を見上げてしまった。目が合った。お婆さんは驚いた表情を浮かべた。僕は自分のしでかしてしまった過ちに絶望する。


「お使いご苦労さま」

「え……」


 婆さんは直ぐに柔和な笑みに戻っていた。そしてフード越しに僕の頭を優しく撫でる。

 

「帰りも寄り道しないで真っ直ぐに帰るんじゃよ。あ、そうだこれを持っていきなさい。買い物のお駄賃さね」


 お婆さんは僕の手を取って裏返した。そして自らの皺くちゃの手を重ねる。その手が消えた後には、色鮮やかな小さな丸い包みが二つ乗っていた。



「えへへ、甘くておいしいね」


 僕は舌で飴玉が転がし上機嫌に街を歩く。道端でふと立ち止まる。


「ちょっと、お兄ちゃん何してるのよ。早くいくわよ!」


 前方をそそくさと歩く凜花が振り返って僕を睨む。でも、香ばしい香りが僕の足を引き留める。小さな屋台から白い煙が立ち昇っていた。網の上、炭火で烏賊が焼かれていた。


「おっ、坊主! 試食してみるか。今朝獲れたての烏賊だから甘くて旨いぞー」


 屋台から鉢巻をした親父が顔を出して笑いかけてきた。がっしりとした体つきだ。肌はこんがりと焼けていた。どうやら漁師のようだ。本日の釣果の一部を自ら串焼きにして売っていたのだ。

 何も言えず突っ立っていた眺めていた。そんな僕に漁師のおじさんが試食用の小さな串を差し出してきた。


「お兄ちゃん! 駄目っ!」


 凛花が振り返って制止していた。でも、僕の街の人への緊張感や警戒感はすでに薄まっていた。

 薬屋の優しい店主のこともあった。お婆さんは僕の瞳を見ても優しい対応を変えなかった。そこまで悪い人たちではないんじゃないか。お母さんは何か勘違いしているのかもしれない。

 しかも、烏賊の炭火焼きなんて食べたことがなかった。欲望に負けてふらふらと屋台へと近づいた。目の前の串を受け取ろうと手を伸ばす。しかし、その手は空を切って串を掴むことは無かった。烏賊串はそれよりも前に地面に落ちていた。

 えっ、もったいない。怪訝な顔で屋台の店主を見上げる。店主の瞳は大きく見開き僕の顔を凝視していた。


「ば、化け物だ! お、おい! 緑目の化け物が街に下りてきたぞ!」


 店主が引き攣った顔で周りに叫ぶ。周囲の人達が一斉に屋台を振り向く。

 店主に指さされる僕を見ると悲鳴をあげて一斉に距離をとった。さらに騒ぎを聞きつけて遠くから駆け寄る人達もいた。


 一瞬で僕の周りに人垣が出来上がってしまった。恐怖や怒り、蔑みなど負の感情の篭った眼差しが取り囲んだ。ええっ。な、なんなのこれ。想像外の出来事と突き刺さる悪意に僕は呆然とした。


 痛っ! 頭に何かが当たりぐしゃりと割れる音がした。生臭い匂いの液体が頬を伝った。


「化け物は、この街から出て行け!」


 取り囲んでいた住民の誰かがそう叫んだ。それが起爆剤となったみたいだ。みんなが口々に同様の罵声を浴びせかけてきた。そして卵など手につく物を次々と投げつけてきた。


「や、やめてよ! ぼくは化け物じゃないよ! 皆と同じ人間だよ!」


 反射的に地面にしゃがみ込み頭を抱えて必死に懇願する。


「たった三年で、そんなにでかくなる人間がいてたまるか!」

 

 僕の言い分には誰も耳を傾けなかった。子供達まで大人の真似をして物を投げつけてきた。

 怖い、怖いよ! すでに僕は痛みなど感じなかった。周囲から浴びせられる悪意への恐怖の方が遥かに勝っていた。


「ちょっとどいてよ! どけよ、おい、糞野郎ども!」


 怒声をあげる凜花の声が耳に届いた。僕は気づかなかったが、焦りと苛立ちが彼女の言葉を荒くさせていた。人垣を掻き分けて僕に近づく。


「お兄ちゃん、立てる?」


 僕は反応できなかった。頭を抱え地面に丸まったまま、ただ小刻みに震えることしかできなかった。

 凛花は僕の手を掴むと無理やり立たせる。そして引きずるようにして歩き出した。

 

進行方向には分厚い人垣。凜花の燃えるような緑の瞳が射る。あまりの迫力に住民は思わず道をあけた。

 二人が通りすぎると背後から罵声が浴びせられた。そしてそれは二人が街の外に出るまでずっと追いかけてきた。

 

 周りが静かになった。そう気づいたときには丘の家に続く一本道の坂を登っていた。凜花がずっと手を引いて歩いてくれていたのだ。


「ご、ごめん。ごめんなさい。ごめんなさい……」


 僕は嗚咽が止まらなかった。悪夢のような記憶が頭に甦る。町民のあまりの急変ぶりが怖かった。自分の存在が世界にとって害悪なのかもしれない。


 街には絶対に近づいてはならない。お母さんのあの言葉はやはり正しかった。僕は大事な約束を破ってしまった。罪の意識に苛まれる。


 凜花は終始無言で歩いていた。ただ僕の手を強く握り締めていた。それが救いだった。凛花がいなかったら僕はどうなってしまったかわからない。


 やっとのことで家に辿り着く。疲労困憊で今すぐにでも布団に横たわりたかった。


「お兄ちゃん。まずはお風呂で体を洗ってきて。酷い格好だから」

「あ、うん」


 しぶしぶ頷き、重い体を引きずって風呂場に向かった。頭から水を浴びる。頭髪に張りついて乾燥した卵の残骸。それが、ぬるぬるしてなかなか落ちない。泣きながら必死で髪を洗った。

 全身もひりひりと沁みた。風呂場の姿見に映る自分の姿。額や体のあちこちに切り傷ができていた。一部は赤く腫れあがっている。

 僕はパニックで気づかなかったみたいだ。街の人が投げつけたのは卵のような食材だけではなかったのか。道端に転がる手頃なサイズの石を投げつける人もいたようだ。


 風呂場から出ると凛花が声をかけてきた。


「お母さんには私が後で薬を飲ませるから。お兄ちゃんは今日はもう布団で休んで」

「あ……」

 

 水を浴びて少し落ち着いたことで、僕は気づいてしまった。凜花の目も赤く腫れあがっていた。服のあちこちに自分の服ほどではないが汚れやシミがついていた。ああ、僕の所為だ。


「今日は本当に、ごめんなさい」

「うん、わかったからお兄ちゃんは休んで」


 頭から布団をかぶる。目を瞑ると今日の出来事が頭に浮かんだ。悪意が押し寄せてくる。僕はそれから身を守るように、両手で膝を抱えて眠った。


 凛花も風呂で水を浴びる。清潔な身なりに着替えて母親の食事を作った。


「お母さん、ご飯だよ」


 寝室を訪れ、母親に雑炊を食べさせる。そして買って来た薬を飲ませた。


「あれ、薬は切れていたんじゃ……」

「引き出しの奥に落ちていたのよ。掃除してたら、たまたま見つけたのよ」


 前もって用意していた嘘をついた。今日のことは街にいけばすぐにばれるだろう。でも、病床の母親にこれ以上、心配をかけるわけにいかなかった。


「はあ、疲れた……」

 

 家事を全て終えて凛花も布団に突っ伏す。気丈に振る舞っていたが彼女も精神的にすでに限界だった。


「あいつら……。私のお兄ちゃんによくも」

 

 天井を見つめる凜花の瞳には憎しみが宿っていた。


「絶対に、絶対に許さない」


 この日、彼女の心に明確な敵意が灯った。第一世代と呼ばれる人類に対して。

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