第5話 決意

朝の作務(さむ)が終わると昼の勤行である。

でもこれは朝のものよりは短いので俺はお昼の準備が忙しい。昼食は米に一汁一菜が基本となるが、この時代寺であったとしてもそんなに裕福ではない。京の公家でさえモノに飢えていることもあるのだから当然と言えば当然である。

しかしここはさすが越後の米所。それに今は夏なので野菜はそれなりに揃えられるし、味噌は今あるから味噌汁だって作ることが出来る。農民からすれば十分に豪華な食事を摂ることが出来るのである。


これを終えるとまた皆作務に戻る。この時間が俺と虎千代が最も接する機会になる。


虎千代はこの寺に僧となるように虎千代の父である長尾為景がうちの天室光育禅師にお願いして入れてもらった経緯がある。その時の詳しい状況は知らないが天室光育禅師が言うには難しい、渋い顔をしていたと言っていた。

日頃の態度を垣間見て為景自身期待薄なのかもしれない。


戦国時代には図書館は無いし、ましてやインターネットなどは存在しないので知らないことは知っている人に尋ねるしかないのである。そんな時に最も重宝されるのが寺の僧侶である。

寺には多くの書簡が保管されているため専門性の高い金属加工や建築、土木、薬学、農学といった知識を学べるのだ。ただ書かれている書体は漢語つまり中国語であるため農民などの学が無い人は読めないのだ。現代から来た俺だって中学、高校と国語の時間に漢語は習ったことはあるが深くまで理解しているかと言われれば厳しかった。それくらい難しい物なのにさらに専門用語も入ってくれば最早意味不明な理解しがたい文章に思えてしまうのだ。


天室光育は優秀な和尚であり信仰心も篤い。四書五経、漢詩、和歌と幅広い知識も有しているので学ぶにはこれ以上ない存在である。


林泉寺の一室、他の兄弟弟子とは別で俺と虎千代は師から直接教養を学んでいた。

畳張りの10畳程の和室には床の間と書院、天袋と違い棚の如何にも心落ち着く伝統的な書院造。部屋の中央には机が二つ並べられ俺と虎千代は師と向かい合う様に座りあう。


虎千代が寺に来る前から天室光育禅師に様々事を教わっている俺は現代の知識も相まって同世代の中ではダントツで博識である。だがまだまだ師には到底敵わないのが現状であり、何とか超えてみたいと思っているのが今の目標だ。

後から習い始めた虎千代は未だ漢詩の簡単な文章を読んでいるが、その表情はいつものムッとした不機嫌そうな雰囲気ではなく鬼気迫る様な真剣な表情で読んでいる。


理由は簡単で、俺には負けたくないからである。

虎千代と俺は同い年だ。誕生日の関係で俺の方が僅かに年上だが、現代風に言えば同級生であるので大した差ではない。そんな俺が自分よりも上手く文字を扱っているのが気に食わないのだろう。


虎千代はこの寺に来て僅かだが理性が芽生えつつある。それは寺の和尚である天室光育の教育の賜物であろう。いや、歴史はどうあれ元々そういったものはあったのかもしれない。しかし城の中には自分と対等に接したり叱ったりしてくれる人がいなかったのかもしれない。

それが寺に来て禅師に天室光育禅師に出会い、自分よりも身分が下の教養に長けた者がいた。しかもそれは自分と同い年という共通点。子供時代の謙信、虎千代の性格からしたら何としても勝ちたい気持ちでいっぱいだろう。


「うむ、虎千代も幾らか読めるようになってきたようじゃの。しかし雪に比べるとまだまだ、と言った所か。お主よりも2つも小さき頃にはすでにそれぐらいのものは読めたぞ。しかし虎千代よ、磨けば光るものはある。今後精進を忘れるでないぞ」


「……はい」


一生懸命に頑張っている虎千代に対して更に精進しろという師の言葉。それにはさすがにわんぱくな虎千代も頷くしかなかった。

禅師は絶対に虎千代の気持ちを理解しているだろうし、実は陰ながら夜中一人で僅かな月明りを頼りに努力している虎千代の事は知っているだろう。いや、知っているからこそさらに焚き付けているのかもしれない。


こっちはいい迷惑だ、巻き込まないで欲しい。


視線だけを横に移すと唇を噛み、思い詰めた表情の虎千代だけがそこにはいた。






昼の作務を終え、夜の勤行をしている間に俺は他の寺男等と一緒に夕食の支度をする。

夕食の事を薬石といい、これは本来食事とは見なされないものとされている。古来より禅門では食事は朝夕しか摂取せずに夕食は食べないものとされているのである。しかし実際は夕食と見なされない薬石を摂る、何とも都合がいい事ではないか。どうせ抜くなら朝食を抜けばいいのに、と現代で朝食を摂っていなかった俺的には思う。


夕食を終えると夜坐(よざ)という日没後の座禅である。これを終えると皆就寝し、また朝早くからの座禅に備える。


寺男の俺は皆が夕食を摂った後、夜坐を終えるまでに洗い物などの雑事をこなし、寺の来客やお賽銭、寄贈品などの整理をしたりとこれまた雑務をして就寝となるのだ。油は貴重なので火を焚くことはせずに月明りだけで行うので手元が暗くて少々やり辛い。

だが空気が澄んでいるからなのか月の光は現代に比べても圧倒的に明るく感じるのは気のせいか。


何故か俺には一人部屋が与えられている。師の考えは分からないが何か意図があるに違いないのだが、今の俺にはまだ理解出来ていない。

寝床の準備をしいよいよ寝ようと布団を剥いだ時、部屋の障子から透ける月明りがフッと陰る。明らかに不自然な陰り方。気付いた俺は視線を障子の方へ向けると影から声が聞こえた。


「少しいいだろうか。話がある」


思い詰めたように重い、重い虎千代の声だった。

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