第拾六章


―拾陸―




 良太と逆方向に別れた識也は、遠回りして自分の教室に戻った。

 別れたばかりでまた顔を合わせるのは気まずいだろうと思って、玄関に降りる階段からは遠い方の渡り廊下を使って戻り、椅子に座って横に引っ掛けていた鞄を机の上に置いた。机の中に手を突っ込み、教科書やノート、配布されたプリントを口を開いた鞄の中に仕舞っていく。


「つっ……」


 その途中で指先に鋭い痛みを覚え、識也は顔をしかめて腕を机から引き抜いた。ジクジクと痛む指の腹を見れば、細長く皮膚が裂けて赤い血が滲んでいる。どうやら紙で切ってしまったようだった。

 人差し指を咥えて舐め取るも血はジワリと滲んでくる。このまま帰ろうかとも考えたが、ノートや教科書が血で汚れるのも嫌だ。識也は溜息を吐くと立ち上がった。

 良太に合わないよう注意しながら教室を出て保健室へ向かう。もうすでに五時になろうとしているので校医が居るかは不安だが、ダメだったら勝手に漁って治療しよう。絆創膏くらいは何処かに転がっているだろう。

 そう考えながら階段を降りていく識也だが、その時ふとあの化学教師の事を思い出した。それと同時に苦い思い出が頭を過って、かつて良太に殴られた口元が痛んだ様な気がした。


(そういや、今回は音無先生を見てないな)


 感情を余り表に出さず、識也の中では潔癖でとっつきにくい印象があった彼女だったが、前回の時間軸でその印象は随分と変わった。表情の変化が乏しいため感情の変化が分かり難いのは確かだが、かなり個性的な教諭だと思う。好き勝手に保健室を使っている様子で、医師免許を持っているので確かに治療行為をする分には問題は無いのだろうが、校医の仕事を奪ってしまうのはどうなのだろうか。木梨校医は気にしていないのだろうか。

 たぶん気にしていないんだろうな、と浮かんだ疑問に勝手に結論を付ける。そして、不意に音無が最後に言っていた言葉が思い浮かんだ。


「失ってから気づくこともある、か……」


 未来を一度失って、如何に彼女がかけがえのない存在であるかに気づけた。どうやって自分が過去に戻っているのかは甚だ不明ではあるが、それはどうでも良かった。大切な存在を失って、自分の気持ちに気づくことができて、そしてまた失う前の状態に戻れた自分は非常に幸運な存在なのだろう。


(そしてたぶん……)


 ああいった言葉を本心として吐き出せる、というのは音無も過去に大切なものを失ってしまったのだろう。それはきっと本当に大切で、失ってからその輝きに気付き、けれどもその時には取り戻せない。その後は多大なる後悔の海で漂うばかりだ。

 幸いにしてこの世界では識也は、前の時間軸で失った未来と、そして良太との繋がりを失わずに過ごせている。それは、識也自身は意識していなかったが、彼女の言葉が頭の何処かに残っていたからかもしれない。

 関係を進める覚悟ができたのは彼女のおかげか否か。その是非は分からないが、とりあえず識也は心の中だけで感謝の言葉を述べた。


 保健室の前に辿り着いた識也はドアの取手に手をかける。中から気配がするので誰か居るのは分かるが、居るのは果たして木梨校医か音無似非校医か。絆創膏をもらうだけなのでどちらでも構わないのだが、何となく音無には会いたくない。色々と疲労が溜まりそうな気がする。


「はい……あら、いらっしゃい」


 中に居たのは音無では無く、木梨教諭だった。

 齢五十を越えた熟年の養護教諭はドアに背を向けて座っていたが、ドアを開けた音で振り返って識也の姿を確認すると柔らかく微笑んだ。目元や口元にはやや深くなった皺が刻まれていて、茜色の空に照らされた髪にも多く白髪が混ざっている。音無に比べるとかなりの年配で、また冷たい印象があった音無とは対照的に優しく表情豊かに微笑む木梨は気持ちを穏やかにさせてくれるような、包み込むようなそんな印象を識也は抱いた。


「こんな時間にどうしたのかしら?」

「あ、はい。ちょっと指先を切ってしまいまして。絆創膏でも頂けたらと思って来たんですが」

「あらあら。じゃあちょっと座って待っててちょうだい。あ、やっぱり座る前にそこの蛇口で傷口を洗っててちょうだいな」


 用件を告げると木梨教諭は立ち上がって棚の方へ歩いて、絆創膏を探し始めた。だが中々見つからないのか、立ち上がったり座ったり、こっちの棚を開けたりあっちの棚を開けたりと繰り返している。


「あら、おかしいわね。確かこっちに仕舞っておいたと思ったんだけど……」

「右の棚の真ん中の引き出しの中にありませんか?」


 水道で指先の血を洗い流してながら横目でその様子を見ていた識也だったが、流石に見ていられなくなって口を出した。

 識也の方を振り返って首を傾げた木梨教諭だったが言われた通りの場所を探すとすぐに破顔した。


「あったあった! ゴメンナサイね、お待たせしちゃって。でもよく分かったわね、あそこに入ってるって。

 えーっと……ゴメンナサイ、どのクラスの何君だったかしら?」

「二年B組の水崎です。はじめまして」

「これはご丁寧にありがとう。養護教諭の木梨です。はじめして」木梨は椅子に腰掛けると丁寧な所作で識也に向かって頭を下げて微笑みかけた。「保健室に来るの初めて、よね? 水崎君は」

「あー……一応初めてじゃないですね」


 この時間軸では今日が初なので、「初めて」と答えても間違いでは無いのだが何となくこの壮年の女性を前にすると嘘をつけなくなる。

 木梨教諭は識也の返事を聞いて「あら!」と口に手を当てた。


「なら『初めまして』じゃなかったかしら? ゴメンナサイ……謝ってばっかりね。でも許してちょうだい。もう大分お婆ちゃんだから最近物忘れが激しくて」

「いえ、大丈夫です。それに木梨先生はまだお婆ちゃんっていう歳じゃありませんよ」

「うふふ、ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」


 木梨教諭はそう言ってコロコロと笑った。


「でも初めてじゃないってことは……あ、分かったわ! 音無先生ね?」


 パシン、と両手を合わせて楽しそうに微笑み、識也が否定しない事から正解を知った彼女は「もう、あの子は……」と呆れた口調で話しながらも気分を害してはいないように見えた。


「ご存知だったんですか? 音無先生が普段から治療をしてること」

「まあね。昔からだもの、彼女。人が居ないとすぐに勝手に棚を漁って欲しいもの使っちゃうのよ。私なんかよりもよっぽど経験豊富なお医者さんだから治療は全く問題ないけれど、使ったものはキチンと戻してくれないのが玉にキズね。学生時代から変わらない悪いクセだわ」


 話している内容は完全にボヤキなのだが、口調そのものは楽しそうだ。

 だがそれよりも識也は彼女が最後に漏らした言葉が引っかかった。


「音無先生はこの学校出身なんですか?」

「そうよ。はい、オシマイ」


 木梨教諭が手を打ち鳴らして治療の終了を告げた。識也は話の続きが気になったものの、特に重要な事でも無いかと思って立ち上がった。そのまま辞そうとした識也だったが、その背後で「そうだ!」と木梨教諭が手を打ち鳴らした。そして棚の引き出しをゴソゴソと漁り、中から菓子折りを取り出して微笑んだ。


「少し時間はあるかしら? この間お菓子を貰っちゃったんだけど食べるの忘れちゃってて。一人で食べるのも味気ないし、お婆ちゃんとのおしゃべりに付き合ってくれないかしら? とっておきのお茶もご馳走するわよ?」

「はあ……別に構いませんが」

「そう! ならお茶の準備するから座って待っててちょうだい」


 識也が同意すると木梨教諭は破顔してもう一度手を打ち鳴らす。本人が言う通り孫が居てもおかしくない歳だが、嬉しそうに準備するその様子はデートに挑む少女の様にも見える。


(まあ……いいか)


 いつもの識也ならばいい歳して……と呆れるところではあるが木梨教諭の人徳なのかどうも憎めない。良太とは少しでも時間を置いて帰りたいというのもあり、識也は黙って椅子に座って待っていた。


「はい、どうぞ」

「ありがとうございます。では遠慮なく頂きます」


 正面に座った木梨からカップを受け取り、紅茶を口に運びながら差し出されたお菓子をつまむ。それなりに良い物らしく、あまり味に興味のない識也も「美味しいですね」と本心から口にした。


「そう? 口に合って良かったわ」

「保健室に来る人にはこうやってもてなしてるんですか?」

「たまにね。保健室にはあんまり人が来ないから。それ自体は良いことなのでしょうけど、この歳になると寂しくって、つい、ね。

 それに保健室に来る子の中には色々悩みを抱えてる子も多いから。悩みを抱えてるって事はそれだけそれを吐き出すことが苦手って事なの。でもそんな子でもね、美味しいお菓子と美味しいお茶があると少しずつ辛い気持ちを吐き出してくれたりなんかもするのよ。だからいつもこうしてお茶菓子を準備してるの」

「僕は別にそういったのはありませんけど」

「本当かしら?」


 木梨のやや訝しんだ声に識也は顔を上げた。木梨は識也を見つめて微笑んでいる。それ以上特に何かを言うわけではなく、ただ優しく微笑みかけているだけだが何となく心の内を見抜かれようとしているように思え、識也は眼を逸した。


「まあ……生きていますからね。それなりに悩みの一つはありますよ」

「それはそうよね。ごめんなさい、変な話をしちゃって」

「いえ」識也は小さく頭を振って話を変え、聞きそびれた事を尋ねた。「ところで、音無先生も昔からここを利用していたみたいなことを話してましたけど、ウチの卒業生なんですか?」

「ええ、そうよ。ずっとお医者さんになるのが目標だったみたいでね、高校生の頃から、私が居ない時に勝手に他の生徒の治療をしたりしてたの」

「良いんですか?」

「もちろん良くは無いわ。いつも好き勝手に棚を漁って適当に片付けちゃうから、何処に何があるか分かんなくなっちゃうもの」

「いえ、そうではなくて……」

「ふふ、冗談よ。もちろん何度か注意したんだけど、手際も知識も立派なものだったし、彼女も真剣だったからあまり強く言えなくてね。私としてもお医者さんの夢を応援してあげたかったし。だから、私が監督している時ならって簡単な治療は彼女に任せる事にしたの」


 木梨はお茶を一口含み、顔を上げる。懐かしむように眼を細め、天井の先にある過去を見つめた。


「だから……彼女が無事にお医者さんになったって聞いた時は嬉しかったわ」

「そうですよね……けど、音無先生は今は」


 識也が今の彼女に言及すると木梨は寂しそうに顔を伏せた。


「ええ……頑張ってお医者さんになったけど、実は彼女自身はそれを望んでは無かったようなのよね。ご両親のご意向が強かったのね。厳しいご家庭で、だいぶ彼女にもきつく当たってたみたい。それでも彼女もそのご期待に応えたんだけど、直後にご両親が相次いで亡くなっちゃって……」

「そうだったんですか……」

「彼女も道を見失っちゃったみたい。

 ある日、迷子みたいに雨に打たれながらそこの窓のところに立ちつくしてたの」

「それで、どうしてウチの教師に?」

「私が勧めたの。少しきつい印象もあるけど、元々面倒見の良い子だったし、賢い子だったしね。教師はどうかって思って話してみたの。でも、まさか本当に教師に、しかもウチの高校の先生になるとは思わなかったわ」


 少し翳りがあった表情がまた嬉しそうなものに変わる。それは彼女の立ち直りを本心で喜んでいるのが分かる微笑みだった。


「木梨先生は慧眼ですね。音無先生は今も生徒達に人気ですし、教師になって正解だったと思いますよ?」

「私はただ思いつきを口にしただけだわ。生徒達に人気なのは彼女の頑張りと嫌味のない素直な心根の結果でしょうね。元々学生の頃から男女問わず人気者だったし」

「昔から今みたいなクールな感じだったんですか?」

「そうね……クールはクールだったと思うけど、もう少し学生らしかった、といえばいいのかしら? 他の生徒と比べても落ち着いてたけれど、年相応の明るさがあった気がするわ。だからでしょうね、男の子だけじゃなくて女の子からも告白されてたみたい」

「そこは今も変わりませんね。よく女子生徒からも熱い眼差しを受けてますよ?」

「あら、そうなの? 大人になってもっと魅力的になったから尚更子どもたちも彼女に惹かれるのでしょうね」


 当時を思い出したのだろう。木梨は口元に手を当ててクスクスと笑った。

 音無は確かに魅力的な女性だろうと識也も思う。整った容姿で背も高く、女性的な魅力とさっぱりした性格で頼りがいのある男性的な魅力が混在している。人気があるのもさもありなんだ。


(しかし……なんだろうな)


 お菓子をかじりながら思う。識也自身も音無に対して惹かれるところはある。だが、それは決して男女の魅力的な部分とは違う。何処か、自分と近しいものを感じとっていた。あまり会話も交わしていないが波長が合うというべきか、似ているところがあるような、直感的にそう思っていた。

 何処にそう思わせる要素があったのか。音無という人間との記憶を探っていた識也だったが、ふと顔を上げると木梨は膝の上で抱えたカップを見つめていた。その眼には微かに涙らしき雫が光っていた。


「どうしたんですか?」

「え……あ、ごめんなさいね」識也の声に木梨は笑ってみせ、目元を拭った。「ちょっと昔の事を思い出しちゃって。ダメね、歳を取ると涙もろくなっちゃう」

「……音無先生に関すること、ですか?」

「さて、どうかしら?」


 木梨ははぐらかした。窓の方に向けた顔には柔和な笑みが浮かんでいるが、微かに「失敗した」というように目元が歪んでいた。


「……」

「……はあ、そうよね。気になっちゃうわよね」


 識也の視線に木梨は観念したように顔を覆った。


「他人の事情を伺うのは気が引けますが、できれば。それに、木梨先生もずっと気に病んでいるのでしょう? 僕で良ければ聞きますよ? 幸い、ここには美味しいお茶もお菓子もあることですし」

「……ずるいわ。そんな風に言われたら拒めないじゃない」


 泣き笑いに近い微笑みを浮かべる。法令線が深く刻まれ、先程より年老いたようにも見えた。


「何年か前……音無先生が教師として一歩を踏み出した年だったわ。教師としては一年目だったけれど、さっきも言った通り彼女はすぐに人気の先生になったわ。彼女自身はそれに戸惑ってたみたいだけど、新しいやり甲斐を見つけて順調に歩み始めたの」

「……」

「先生になってもよくこの部屋に来てたわ。おしゃべりなタイプじゃないけど、居心地が良かったのかしら。気分転換だって言ってここで仕事をしてたりしてた。私の居ない時に保健室に来た生徒の相手も代わりにしてくれてたりしたの」

「何も問題はなさそうですけれど……」

「ええ、本当。何も問題なかったわ。でも、その年の秋から冬に掛けて頃からだったかしら……一人の女子生徒が保健室に来るようになってから少しずつ歯車がおかしくなっていったの。

 その生徒は普段は殆ど保健室に来ることは無かったのだけれど、その日は偶然体調が悪かったのね。授業の途中で保健室にやってきて、その時は私は不在だったからちょうど代わりに音無先生が居たの。もちろん彼女は優秀なお医者さんだったからきちんと診察してくれたわ。対応に何も問題は無かった」

「ということは生徒の方に問題が?」

「問題があった、とは言わないわ。ただその女の子が恋に落ちてしまったの」

「……誰にです?」

「音無先生に、よ」

「……なるほどレズビアンだったということですか」

「それ自体は問題じゃないの。同じ性別の人を愛してしまうことだってあるでしょうし、その子にとってはそれが自然だっただけのこと。けど、それが彼女にとっての初恋。だからのめり込んでしまったんでしょうね。それからというもの、事あるごとに保健室にやってきて音無先生にアプローチをしていったの。仮病も頻繁に使ってね。それはもう熱烈なアプローチだったわ」

「音無先生も、対応に苦慮してたんじゃないですか?」

「そうね……戸惑いもあったし、どう接していいか分からなかったというのもあって、最初はよく相談されたわ。あの年頃の子は対応にも注意が必要だし、だからといって教師と生徒が付き合うというのも大問題になるでしょうし。そこら辺は彼女もしっかりわきまえていたから慎重ながらも話を聞いてあげていたわ。その対応にも何も問題が無かった。だから私も途中から安心してた。でも……」

「でも?」


 木梨は識也の問いかけに口を噤み、深い溜息を吐き出して一度顔を覆った。


「でも……私は彼女に任せきりにすべきじゃなかった。いえ、違うわね……もう少し見守ってあげるべきだったの。だって……彼女にとっても初恋だったから」

「え? それはどういう……」

「音無先生も彼女に恋をしてしまったのよ」


 識也は眼を見張った。


「そう、だったんですか……」

「恋心をこんな風に言うのも良くないのでしょうけど……思えばあの頃の彼女はご両親を亡くして、お医者さんも止めて新しい仕事を始めて精神的に不安定な時期だったわ。あまり感情を表に出さない子だから忘れてたけど、きっと音無先生だって毎日不安だったでしょう。だからついに一線を越えてしまったの……職業倫理とのせめぎあいの果てにね」


 まさか音無教諭にそんな過去があったとは。識也はあまり感情を表に出さない化学教諭の意外な過去に小さく唸った。


「しかし……そうだとするとかなり問題になったんじゃないですか?」


 世間一般の反応から察した識也の疑問に、だが木梨は首を横に振った。


「いいえ……それを知ってたのは本人たちと私だけ……もちろんその生徒が音無先生に懐いていたのは色んな生徒が知ってたけど、まさかそれが恋心とは誰も思っていなかったし、まして音無先生がそれに応じるなんて思いもしてなかったの。本人たちも決して口外しなかったから」

「木梨先生は止めなかったんですか?」

「止めようとはしたわ。せめて、卒業してからって。けれど……恋心なんて理屈じゃないもの。それに」少しだけ木梨の顔が綻んだ。「付き合っている時の音無先生は笑顔でいることも多かったから、本気で止めることができなかった。卒業までの一年半だけ秘密にできれば、後は何の問題もないと思ったの」

「その言い方だと……何かがあったんですね?」

「ええ、そう……付き合い始めて半年が経った頃かしら。二人の様子がおかしくてね、尋ねてみたの。そうしたらケンカしちゃったみたいで、生徒の方も保健室には来るんだけど、会話はしないのね」

「痴話喧嘩ですか」

「私もそうだと思ったわ。だからそこまで気に止めて無かったの。

 けれど――まもなくして生徒が行方不明になったの」

「――っ!」


 木梨の手が震え、カップの中の紅茶が波紋を立てた。柔和な笑みは鳴りを潜め、眼には涙。ただ眉間に深く皺が寄っている。


「自殺、ですか?」

「わからないわ」首を横に振った。「四年……その子が行方不明になって四年が経ったけれど、未だ不明のままだわ。何があったのか、誰も分からない……無事だと信じたいけれど、何処でもいいけど生きていてくれればいいけれど……」


 彼女の中では最悪の事態が何度も過っているのだろう。恐らくは確信めいたものになっているはず。信じたくない。けれどそう思わざるを得ない。


「その、音無先生は大丈夫だったんですか? 何か事情を知ってたりは……」

「……彼女は何も知らないようだったけれど、良くは分からないわ。聞こうとしたけれど、ショックを受けてる彼女を深く追求することはできなかったわ」

「何も、ですか?」


 木梨は再び首を横に振った。


「何も……ただ大丈夫か尋ねることが出来ただけ」

「その時は先生は何と?」

「一言だけ……無理して笑いながら言ったの。『失ってから気づくものもあるんですね』って……それを聞くともう……それ以上は何も言えなかったわ」


 それはかつて音無が識也に告げたのと同じセリフ。恋人を失った事を悔いるように聞こえる。だが識也の頭の中では、前の世界での彼女の仕草や言動と木梨から聞いた彼女の話が複雑に絡み合っていく。


「そうですか……」


 識也は口元を隠して少し考え込む仕草をし、しかし微かに口端が吊り上がった。ゆっくりと立ち上がり、カップを部屋の隅にある流し台へ片していく。


「すみません、言いづらい話をありがとうございました。もうだいぶ遅くなってしまったので僕はこの辺で」

「……あら、本当。もう六時前」


 木梨が顔を上げると陽はすっかり傾いていた。空は茜色から瑠璃色に変わり、完全な日没も近い。

 木梨は目元の涙を拭い立ち上がると、識也に「大丈夫よ」と微笑みかけた。


「ごめんなさいね。変なお話を聞いてもらっちゃって。本当なら私の方が識也くんの話を聞く立場なのにね」

「いえ。僕には先生ほどの人生経験もありませんし、話を聞くぐらいしかできませんがそれで先生のお気持ちが楽になったのでしたら良かったです」

「ふふ、本当にどっちが先生でどっちが生徒か分からないわね」


 少し恥ずかしそうに笑う木梨。識也は人懐っこい笑みを顔に貼り付けると一礼した。


「それでは僕はこの辺で。また美味しいお菓子とお茶を頂きに来ます」

「今度は貴方のお話を聞かせてちょうだいね? 何か困ったことがあればいつでも相談に乗るわ。お勉強の相談でも進路の相談でも、好きな子ができたとかでも、ね?」


 茶目っ気をみせる木梨に識也は困ったように頭を掻いてみせ、苦笑いを浮かべながら保健室のドアを開けた。

 一歩部屋の外に出る。だがそこで識也は立ち止まり、扉に手を当てたまま振り返った。


「どうしたのかしら? 何か話したいことがあった?」

「いえ……一つ確認したいのですが」


 識也は首だけを木梨に向け、そして尋ねた。


「先程の行方不明になった生徒ですが――もしかして、四年前じゃありませんか?」







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