愉悦と犬

秋口峻砂

愉悦と犬

――眼に焼きついたそれは苦悩よりも愉悦を呼び起こした。


 苦しみと痛みは錆びた水に似た味がする。どこにも居場所なんてありはしない。

 無責任な父親、奔放すぎる母親、壊れてしまった姉、友達という皮を被った屑、それらの前で曖昧に笑うことしかできない私。でも薄汚い周囲よりも自分のことが一番嫌いだった。

 曖昧に笑うことでしか、自分を守れなかった。

「ガキのくせに」と父親は言う。

「好きにすれば」と母親は言う。

「私の苦しみは誰も分からない」と姉は泣き狂い、「私達、友達でしょ」と厭らしく嗤いながら友達が掌を差し出す。

 冷たい風が吹き荒ぶ夕闇の小さな公園は人通りも少ない。もう往く当てのない私が彷徨い辿り着いた場所。強く握り締めた両手にはもう感覚すら残っていない。

 ベンチに座り込みながら自嘲気味に口元を歪めた。

「どうして」という疑問は随分前に捨てた。誰に訊くこともできない問いの答えなんて、持っているだけ無駄だから。

 それでも、一人になると悔しくて悲しくて、何よりも恐ろしくて泣き喚きたくなる。理由は分かっていた。もう私には自分自身の存在価値の欠片すらも見つけることができない。

 必要とされていないことが苦しかったのか。そうだとしたら、私は必要とされたいのだろうか。

 少なくとも両親と姉は私を必要とはしていない。友達が私を必要としているのは金蔓としてに過ぎない。

 ぽつりぽつりと雨までも降り始めた。神様もそこまで酷い仕打ちをしなくてもいいはずなのに。

「馬鹿みたい」

 小さく呟いて自分を笑う。神様なんていないと知っているのに恨むなんて馬鹿げている。俯き唇を噛み締めながら嗚咽を上げた。

 もう自分自身すらも私を必要としていない。

 悲しいというよりも、ただ悔しかった。

 なんて惨めな奴なんだろう。なんて恥ずかしい奴なんだろう。なんて愚かな奴なんだろう。

 私にはどこにも居場所がない。誰にも必要とされていない。立ち向かうような真っ直ぐな強さなんて、どうやったって持てっこない。弱くて情けなくて、私なんてきっと蛆虫みたいなものなんだ。

 私が生きている意味ってなんだろう。私はどこで間違ったのだろうか。何の罪を背負っていたのだろうか。誰か知っているのなら、どうか、どうか教えてください。

 ただ震えながら泣くことしかできなかった。うすぼんやりとした意識の中で、私は小さな決断を下す。

 そうか、あんなことをしてしまったのだもん。もうどうでもいいじゃない。

 そうだ、自分自身すらも必要としていない私なんて、捨ててしまえばいいんだ。もう結末は見えているのだから、何もかもを捨て去って楽になってしまえばいい。

 私が生きていようがいまいが、そんなの関係なくみんな楽しく自分勝手に生きていくに違いない。

 なら私も自分勝手に終わってしまおう。誰も文句は言わないだろうし、例え言われたって構わない。

 ただ、彼女を思わず突き飛ばしてしまったその瞬間の光景が目に焼きついて離れない。

 私のスカートを奪おうと携帯を片手に厭らしく歪んでいたはずのその眼が、その瞬間、驚愕に大きく見開かれていた。

 その身体はゆっくりと傾き、小さな悲鳴と共に非常階段を転げ落ちていった。薄く開いた眼にはもう生気はなく、口元と頭からは血が溢れ、ぴくりとも動かなくなった。

 その姿は、まるで糸の切れた操り人形のようにも見える。

 自分の掌に、彼女を突き飛ばしてしまった瞬間の感触が残っていた。それは間違いなく、人を殺してしまったという恐怖であり、同時に今までの仕打ちに対しての復讐という強い愉悦だった。

「う、あ……」

 次の瞬間、恐怖に全身が強張った。耳に届いたのは血塗れのまま手を伸ばし助けを請う、哀れな彼女の姿だった。

「た、たすけ、て。たすけ……」

 ゆっくりと、本当にゆっくりと、苦悶に歪むその眼から生気が薄れていく。差し出された手がとうとう非常階段の踊場に落ちた。見開かれた眼は、もう何も語ろうとはしなかった。

 怖くなった私は、その場から逃げてしまった。

 きっと彼女はもう生きてはいない。だけど、これって私だけが悪いのだろうか。私はずっと周囲から疎まれ蔑まれてきた。唯一の親友だと思っていた彼女すらも、私を裏切ってあんなことをしようとした。

 冷たい雨が私の身体から熱を奪っていく。その痛みすらも覚える尖った冷たさに、私は身体を震わせた。

 このまま死んでしまえれば楽になれるのに。

 ふと、呆然とした視線に一匹の老犬が飛び込んできた。薄汚れた灰色の身体は痩せ細り、左前足を酷く怪我しているのか引き摺っている。

 老犬は私の視線に気付くとゆっくりと近づいてきてベンチの下に身体を収めた。雨宿りのつもりなのだろうか。ただ私には興味がないらしく見向きもしない。

 存在そのものを無視するような態度に、私は強い苛立ちを覚えた。どうしてこんな薄汚い犬にまでこんな扱いを受けなければならないのだろうか。

 私は老犬の怪我をしているらしい左前足を力一杯踏みつけた。激しい痛みに老犬が顔を歪め小さく鋭い悲鳴を上げた。だが次の瞬間、老犬は私の足に噛み付いた。

「こ、この馬鹿犬っ……」

 だけど老犬の眼を見て身体が強張る。その眼は私への強い怒りに見開かれ、牙を剥き出しにしながら唸っていた。

 野良犬のくせになんて生意気な奴だ。

「このっ、野良犬のくせにっ、野良犬のくせにっ……」

 私は自分のこれまでの不幸をぶつけるかのように、何度も老犬を蹴りつけた。老犬はその度に私に牙を立てようとするが、その抵抗は少しずつ弱くなり、ついには動かなくなってしまった。

 倒れ込んだ老犬は、小さな息を吐きながら、それでも私を睨みつけていた。

「ま、まだそんな眼でっ……」

 もう一度強く蹴り付ける。それでも老犬は私に尖った視線を突き刺す。その眼には明確な意志があるように思えた。

「どうしてっ……」

 意味が分からない。どうしてそんな眼で私を見るのか。見下していたのはお前じゃないか。薄汚い犬の分際で、人間である私を。犬なら犬らしく、人間に媚び諂っていればいいじゃない。

 不意に、両親や姉、友達の前で曖昧に笑う自分の姿が脳裏を掠めた。彼女を突き飛ばした感触が、掌に残っている。

 こいつは少なくとも牙を捨てていなかった。傷付き、痩せ細り、年老いていながらも、それでも害意に立ち向かっていた。

 私なんてただ流されるまま笑ってやり過ごしていただけなのに。彼女を突き飛ばしておきながら、逃げてしまったのに。

 私はこの傷付いた薄汚い老犬よりも、弱くて情けない存在なのかもしれない。

 ふと老犬に目を向けると、老犬はゆっくりと身体を起こし、雨の中を覚束ない足取りで歩き始めた。街灯に照らされたその姿は、薄汚れているにも拘らず何故か気高く美しかった。

 それはきっと、薄汚れ、傷付き、年老いていようとも、彼が前を向いているからなのだろう。

 その姿が見えなくなるまで、私は彼を見詰め続けた。

「何をやっているんだい、君」

 不意に眩しい明かりを投げ掛けられ、私は目を細めた。明かりの先には外套を着た警官が二人立っていた。

 ふっと肩の力が抜ける。口元から漏れたのはきっと安堵の吐息だと思う。

 償うことができるのか、償う必要があるのか、私には分からない。今は何も考えられない。これでいいのか、それすらも。

 ただ一つだけはっきりしていることは、私は罪を犯したということ。きっと、罪は償わなくてはならない。

 降り注ぐ冷たい雨の中、私は唇を噛み締めた。

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愉悦と犬 秋口峻砂 @dante666

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