第九話:俺はいつかきっと自分の人生に『嬉々一髪』と喜べる日が訪れると信じている。

 前編:明日は明日の髪が吹く

 地球の砂漠化。それは現代人であれば誰もが知っているだろう環境問題のひとつだ。豊かな緑が砂と荒野と化すその勢いと面積は年々増している。それは俺の頭も同じだった。


「14センチ6ミリか…」


 俺は朝の自宅の洗面所で鏡を見ながら静かな声で呟く。

 もう一度、柔らかいテープ巾素材で作られた巻尺を額に当てて、上へと伸ばそうと思ったが俺は途中でその手を止めた。


「どうした眩輝。今日は静かじゃねえか」


 俺は鏡に写った親父を目で一瞬追うと、再び生え際をじっくりと眺める。


「今日はいつもみたいに叫ばねえのか?14センチ6ミリだとぉぉおおおおおおおおお!?この世の終りじゃああああああああ!ってよ」


 親父は掴む髪もない自分の頭をボーリング玉のように握りながらオーバーなリアクションを振舞う。


 俺はそこまで悲劇のアリスちゃんを演じた覚えはないが、その気持ちの表現はあながち間違いではないのが悔しい。


「別に今さら、生え際の2ミリや3ミリで騒ぐこともないだろう」


 親父がよく使う言葉で冷静に返事をした俺は、コップに水を注いでうがいをする。


「ほぅ。お前も言うようになったじゃねえか。好きな女でも出来たか?」


 ぶふぉおお!!


 思いもよらぬ親父の言葉に俺は思わず、口に含んだ水を洗面台に目掛けて噴出した。なんか最近、噴き出すことが多い気がするぞ。


「と、突然なにを言いやがる!」

「がはははは!照れるなよ。鷲巣家の野郎たちはな。髪の毛が気にならなくなるのは女が原因って昔から決まってるんだよ。俺もそうだった」


 初耳だぞ…。だが親父の言ってることは間違いではないが、正解でもない。


「別に俺は恋なんぞにうつつを抜かしているつもりはない。それに髪を諦めたわけじゃない。いつか必ず、鷲巣家の歴史を変えてみせるからな」


 俺はそう言いながら、日課である育毛剤をひたいにつける。

 効くは一時のハゲ、効かぬは一生のハゲだが俺は決して希望は捨てない。それを改めて教えてくれたのは確かにあの女だが…。


「いい顔してるじゃねえか。期待してるぞ。いつかお前が俺をも超える、鷲巣家最強の ” パーフェクト剃るジャー ” になることをよ」


「うるせえよ」


 こうして、俺の一日は珍しく静かな朝のひと時で幕を開けた。


    ◆


 退屈な授業もあと数分で終わる。俺は「まだかまだか」と小声で呟きながら疼いていた。


 学業という義務からもうすぐ解放される六時限目。俺は教室の窓際近くの自席からそっと一本のスプレー缶を取り出す。


 それには力強いワイルドな書体で【Super Bushy超ふさふさ】と書かれていた。育毛剤である。これが早く使いたくて仕方ない。


 先日まで愛用していた【SONIC GROWS音速で生える】は残念ながら効果はなかった。

 なお、お客様満足度99.9%という実績は、使い切ってからも返品可能というアフターサービスからくるものだった。


「おい」


 だが俺は悲観するつもりはこれっぽちもない。いつか良い結果に結びつく自分だけの運命の逸品と出会えるはずだ。なので、俺はこの新たな相棒に大きな期待を寄せていた。

 

「おい」


 この【Super Bushy】は、効果がありすぎて苦情が出るほどの評判らしい。通販サイトのコメント欄には『生えすぎて困っています』や『散髪代が足りません』など期待に満ちたメッセージで溢れていた。


「おい」


 説明書きには、一日五回、四時間おきに使用するよう書かれている。今朝も昼休みも使ってみたが、何だか頭皮がムズムズとする気がする。


「おい、鷲頭!聞いているのか!」


 野太い怒号が俺の耳元で響き渡り、思わず椅子から尻が浮く。


「ぬお!先生、脅かさないでくださいよ!」


 いつの間にか目の前に立っていた数学のオッサン教師が、こめかみをヒクヒクさせながら、そしてクラスメイト全員がこっちを注目していた。


 どうやら俺はまたもや、少しばかり自分の世界に浸ってしまったらしい。


「先生もよかったら使ってみますか?でも先生は俺のU型ハゲと違って、O型つむじハゲですから、自然素材成分的にあまり効果がないかもしれません」


 教職者を真面目に心配しての俺の勧めは、なぜか教室を爆笑の渦で包んだ。

 そんな中、鷹山も優しさが詰まっているような握りこぶしを口元へと持っていきクスクスと笑っていた。


 俺は授業終了の鐘とともに教師から「ちょっと職員室までいいか?」と、またもや拒否権などないであろう任意同行を求められた。


    ◆


 教師に小一時間ほど搾られた俺は、一人校舎の廊下を歩いていた。 

 説教の途中、顔を真っ赤にしていた教師に「頭に血が上るのは抜け毛の大敵ですよ。深呼吸しましょう」と言ったのは失敗だった。それが拘束時間を長引かせてしまったようだ。


 俺の手には、手さげ鞄ほどの紙袋が握られていた。説教終了と同時にあの教師から渡された物だ。


 廊下を歩きながら俺は紙袋の中身をもう一度確認する。


「そういうことだったのか…」


 俺の中である疑問と推測が交錯するとともに、一つの答えが出そうだった。

 色々と考えを巡らせるうちに教室の前にたどり着く。


 鞄やら育毛剤やらを取りに教室まで来た俺は腕時計を見ながら扉を開ける。時刻はあと少しばかりで夕方の五時を回ろうとしていた。


 教室内は窓から射し込む夕陽の眩しさでオレンジ色に染まっていた。

 おや?俺の席の側に誰かいる。しかしそれは逆光で影となり隠れていた。


「あ、鷲頭君」


 それは聞き慣れた声だった。そのとき、夕陽が少しだけ雲間にでも隠れたのだろうか。眩しさが和らぎ声の対象がうっすらと姿を現す。


 そこには一人の女子生徒の姿、鷹山がいた。

 片方の手には俺の育毛剤【Super Bushy】が握られている。


 そして、彼女のシンボルともいうべき、黒真珠のように美しいあの黒髪のカツラはというと……ちゃんと頭の上に乗っていることに俺は安心する。


 若ハゲの俺とスキンヘッドを隠し持つ学園一の美少女と言われる鷹山。

 二人だけの教室は時間が止まったように静まり返っていたが、あの時のような緊張感はなかった。

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