第一部 戦いの書 光の子と闇の子の戦い

第2話 ▲叛逆の炎 ラムリザードの咆哮


 レオの時代 紀元前八〇八七年八月一日



 ロゴス。太陽。それはラー。


 ラーの眩しさに、マリス・ヴェスタは目は醒ました。独特にカールしたプラチナブロンドが風で蛇のようにゆらゆら揺れている。ボリュームのあるツインテール。

 マリスが寝ていたのは、トートアヌム大学のカンディヌス研究所のバルコニーだ。

 澄んだ金眼が真っ青な空を見上げる。どこまでもどこまでも高く青い空。蒼空の中を、鯨型の飛行戦艦の群が編隊を組んで飛んでいる。ラムダ大佐の旗艦ラムリザード号以下、巨大な飛行戦艦のマカラー艦隊だ。鯨型戦艦はこの国では珍しくない。大きいほうから鯨級、鯱級、イルカ級と呼ぶ。それというのも鯨類、中でも鯱はタラッティオス・クリオスと呼ばれ、皇帝家のシンボルとなっている。権威の象徴であり、神聖にして最強の海洋生物タラッティオス・クリオスはアトランティス帝国の力の象徴だった。ゆえに戦艦や船の形に採用されている。だが全長三百メートル、乗員数三百六十名、「黒鯨」の異名を持ったラムリザード号は、鯨級戦艦の中でもひときわ巨大だった。鯨級艦隊は、これから起こる事の予兆だった。夢の中で死屍累々となったオルカやイルカの群れが海岸に打ち上げられた光景がふと蘇ってくる。その青空の西の方角から黒い影が飛んできた。猫のような金眼でじっと見ていると、羽音と共に一羽の烏がバルコニーに降りて来た。烏はバルコニーで人の姿になった。

「ここで寝ていたのか?」

 バルコニーに立った若い男、カンディヌスが訊いた。烏の姿でアクロポリス中を探しまわっていたらしい。

「……うん」

「たった今シャフトから報告があった。正式にアリーナへの参加が決まったぞ。今回の逮捕にはお前の功績が大きい。これで俺たちは正式なシャフト保安省のメンバーだ」

 ベンチのマリスはゆっくりと上体を起こした。真っ白な顔を縁取る大きくカールした金髪の髪は依然として風で揺れていたが、まるで自分の意思を持って揺れているようにも見る者に感じさせる。マリスは腕のアミュレットのクリスタルを外していたので、連絡に気づかなかったらしい。百六十八センチにブーツを履くので立つとかなり大きい。

 空の艦隊を見上げている浅黒いカンディヌスの横顔を眺めながら、マリスはしばらく考え込んでいた。

 白昼夢の中の映像。巨大な津波が建物を次々と壊していく。見知らぬ都市の、見たこともない建物群。赤く焼けた大地に天使が落ちていく光景。それは、予知夢ではないかという不吉な予感がした。夏だというのに、マリス自身は冷えていた。手がかじかむような感覚がまだ残っている。死への不安と絶望。それは、アトランティスを待ち受ける近未来なのか。

 アトランティス帝国。この国の国土はもうすでに、千年前の三分の一しか陸地が残っていない。歴史を学ぶ、誰もが直面する帝国の現実。過去、何度も何度も繰り返されてきた壊滅で、この群島に最後のアトランティス人たちが残されていた。

 昨日は忙しく、日付が変わるまでずっと作業していた。小休憩のはずが、いつの間にか寝てしまったらしい。

 マリスは一段楽してほっとしている。それにしても多忙だった。

 運河に挟まれた三重の同心円都市アクロポリスに昨夜、激震が走った。それは、シャフト保安省による皇帝一族の一斉逮捕劇だった。

 全ては春先に始まる。

 三月初頭に「間の子」・キメラの暴動が起こった。それはDNA工学で誕生した奴隷階級である半獣半人生物キメラの中でも最も知性の高い有翼人による反乱騒ぎである。彼らの特徴は、羽が生えているだけでなく、足が鳥そのもので、眼が飛びきり大きくて、どこか高貴な気配を漂わせる鳥の風貌を持った種族である。その首領たる革命家は「士師」と呼ばれ、ミラージュと呼ばれる有翼人の少女が勤めた。当初、ミラージュを先頭としたキメラの乱は、暴力を伴わない純粋な労働争議から始まった。しかし、一部の人間達が彼らに賛同し、共に蜂起したことで、組織化が起こった。そうしてキメラ解放の乱を画策したのが、ジョシュア・ライダーという人間の兵士だった。それは結果としてアクロポリスに大損害をもたらした。鎮圧部隊であるシャフト保安省によって数多くのキメラが殺害され、人間側の首謀者たちも暴動への加担、さらに議長暗殺の嫌疑で逮捕された。ところが多くのキメラが殺される中で、当の有翼人たちは結局処刑される事なく、尋問の途中に忽然とこの世から姿を消したのである。有翼人たちが一体どこへ消えたのかは未だに分かっていない。

 だがこの一連の事件によって、その他の多くのキメラが犠牲になった事は事実だった。そしてこの一件は、それで終わらなかった。シャフト評議会議長は、この事件を機に再び「国土崩落」が起こるというビジョン・ロジック(予言)を発表したのである。それは不吉な影をアクロポリスにもたらした。アトランティスは過去何度も国土崩落の危機を経験してきたからだ。ゆえにアクロポリス市民は暴動鎮圧後も、アトランティスは沈んでしまうのではないかという恐怖と戦うことになった。

 シャフト保安省によって皇帝が逮捕されたのは、それから五ヵ月後のことだった。皇帝の逮捕の罪状はキメラの反乱を醸成し、その原因となったというものだ。皇帝及びその支持者の集まりである王党派、その過激派組織「情熱党」との戦闘を経て、シャフトの武装保安隊は皇帝らを捕らえ、マリス・ヴェスタはその情報戦に後方から参加した。

 マリス・ヴェスタは、マギルドの科学者としてのその天才的な頭脳と、「マギ」としてのたぐいまれなシェイプシフト、つまり変身能力によって、終に昨夜アトラス帝を追い詰めた。トートアヌム大学で記憶魔術アルス・ノウァを高い成績で修了したマリスは、シャフト保安省の部隊の中では最年少の研究職であり、アクロポリスの同心円都市の一番外側、いわゆる労働階級の住む「サイト3」の出身である。無名でありながらも皇帝家を一網打尽にするきっかけを作り、処刑場と化す予定のアリーナへと送り込む一助となった。

 トートアヌム大学の研究室のブルークリスタルを使用し、シャフトのユグドラシル大本部に待機した上司カンディヌスの操作するブラッククリスタルと連携し、反乱を目論んだ数多くのメンバーの居場所の特定に成功した。皇帝逮捕に至る過程である「情熱党」との戦闘にも参加し、一役買った。誇り高きその能力ゆえ、若き女性科学者は、他の誰よりカンディヌスに信頼されていると信じている。

 二人はその功績を認められ、今朝アリーナで行われる公開処刑の立ち合いに、正式なシャフト保安員としての参加が許されたのである。マリスは二十歳、カンディヌスは二十二歳。マリスは、一連の事件解決の一助を成した自分が誇らしかった。

「そろそろ時間だ。外にロードマスターを停めている」

 ロードマスターとは、アトランティスで一般的な低空飛行で飛ぶ三角形のイカのような形状の街でよく見られる乗用車である。反重力で浮遊し、車輪は存在しない。高く飛ぶことも可能であるが、路上の低滑空を原則としている。カンディヌスは、一旦は研究所に立ち寄りながら、マリスがバルコニーに寝ている事に気づかなかった。マリスは保安員の黒い制服を身に着けた。二人はカンディヌスの運転する銀色のロードマスターに乗り、アリーナへと出かけた。アクロポリス市内は道・建築物が何もかも広く大きく、巨大な摩天楼がそびえている。白・黒・赤の三色の大理石に、金やプラチナ、オリハルコン製の装飾が施されている。街中に高位アデプト達の彫像が立ち並び、あちこちにある温泉施設の湯煙が吹き上がり、噴水も多い。それら彫像もまた、高純度の貴金属で作られている。

 都市の中央には、「傷だらけのガイア」と命名された女神像が立っている。両手で地球を抱えたガイア女神の身体は傷だらけで、ドレスもボロボロ。だが、その顔は眼を閉じ不思議とやすらいだ表情で微笑んでいる。観るものに高潔な印象を与える、アトランティスで散々モチーフとなった女神像だ。

 二十万人を収容できる巨大なアリーナは、高さ二百メートルの黄金に輝くピラミッド神殿のすぐ横にあった。普段は最大の競技場であり、コンサートや祭典なども行われている。騒々しく、中はすでに市民でいっぱいだ。

 するとマリスの胸に奇妙な「声」が鳴り響く。隣のカンディヌスは気づいていない。


 ……逃げて、みんな早く逃げて!


 空がどこまでも高くて青い。目にしみる青さだ。

 アリーナの上空には、ヴィマナ搭載のマカラー艦隊が六機集結していた。青く美しい空に、禍々しいその威容。その周囲に展開するピンクの光沢でメタリックに輝くコマをサカサマにしたような形状の戦闘機ヴィマナは、浮力・推進力を生み出すエネルギーである「ヴリル」を受信するため、大部分が赤い金属オリハルコンで製造されている。空中戦艦はヴリルの浮力に加え、ガスを詰めた飛行船でもあった。中でも旗艦ラムリザードは、ダイヤと並び称される超硬質のアダマンタイト装甲で全体が覆われ黒光りした、この帝国の武力を象徴する超鯨級戦艦である。首都防衛の要、最終防衛ラインである。それらは音もなく浮かび、アリーナの地面に不気味な影を落としていた。

 かつて皇帝が演説を行ったアリーナには、アトラス皇帝本人の他に皇帝家の一族の者たち、さらに、数千人の王党派の人々が集められている。

 アトラス十三世。正式な御名はアトランテオトル帝。「空を支える者」。その人が今、両手を後ろ手にして手錠をかけられ、裸足で土の上に立っている。高貴な衣類は剥ぎ取られ、粗末な白装束に身をやつし、それすらも破れている。さらに体中にレーザー鞭の生々しい傷跡が残っていた。

 深夜遅くシャフトの緊急放送が国中のクリスタルラジオで流され、それは今朝までずっと流れていた。皇帝家が「シャフト」の秘密警察たる保安省に逮捕されたのは、つい七時間前のことだった。この日まで国民から絶大な支持を受けていた皇帝は突如犯罪人として手錠をかけられた。一連の放送の中でシャフトは、シクトゥス評議会議長の命によって皇帝家を逮捕し、即決裁判が行われる事になった一部始終を、早朝に皇帝のアリーナで発表すると伝えた。

 日が昇る頃から、アクロポリス市民がアリーナに続々と集結してきた。一体、何が起ころうとしているのか、理解する国民は誰一人いなかった。皇帝の祭典が行われ、スポーツの競技場となり、数多くの歌手や劇団のステージとなった世界一のアリーナ。だが今朝の「催し」はそのいずれでもない。そうして今朝市民たちが見たものは、長らく人々から敬愛されてきた皇帝家と王党派の、罪人としての悲惨な成れの果てだった。シャフトが皇帝家に対してクーデターを起こした結果が、アリーナで行われるこの即決裁判なのだ。

 楕円形上に取り囲んだ座席には、半径九キロの大帝都アクロポリスのほとんどの市民が詰めかけ、早朝からその模様をじっと見守っていた。さらにこのアリーナの模様は全国に放送され、全世界にも中継放送された。もっとも放送を受信できる技術を持った外国は、この時代、ごくごくわずかにしか過ぎない。

 受刑者たちは、マギの証である魔法石を奪われ、代わりにその首にはシャフトが用意した首輪を着けられている。さらに首輪には、力を封印するための石が着いていた。アデプトとしての「力」を奪われた彼らは、今や立っているのもやっとという状態だ。アリーナに集められた人々の中でも痛々しいのは、バルタザールという白ひげの老賢者だった。彼こそは誰もが知る、帝が幼少の頃から仕えてきた側近だ。かつて数多くの人々の尊敬を集めたその額には、拷問を受けた傷跡が生々しく残っている。


 午前八時を回った。時間が来てアリーナに黒衣を纏った議長が登場した。背が高く、痩身ながら骨ばった体格で威圧感のあるシャフト評議会の最高権力者。長いローブの胸には十二芒星が光っている。年齢は六十前後。その隣には黒ヒョウがつかず離れず歩いている。かつて皇帝が演説を行ったその席に今シクトゥス議長が座し、黒ヒョウもその横に腰を落ち着ける。シクトゥスの後ろには、放射状の光線が周囲に刻まれた巨大な「すべてを見通す目」のレリーフがあり、直下の皇帝を見下ろしていた。

「国民の諸君、私は、アトランティス・シャフト最高議長、マギ・シクトゥス4Dである。全員、ご起立願いたい。裁判に先立ち、偉大なるラーに宣誓する! アトランティス人にとって、宇宙の純粋なるロゴスとは第一にラー(太陽)なり。ラー即ち太陽エネルギーは、ピラミッドで受信され、我々は偉大なる文明を築いてきた。我々アトランティス人にとってロゴス、すなわち神とは、有用なるもの、天空に輝く太陽に他ならない。そう、有用だからこそ神といえる! そして、そのロゴスを体現する魔術科学者もまた、神近き能力を持つとされ、この国で永く尊敬されてきた。その代表がアトランティス・シャフト、すなわち我々マギ神官の評議会である。そのシャフト評議会は、ラーに対してウソ偽りなく真実を明らかとするため、皇帝陛下裁判をここに開廷することを宣言する!」

 皇帝家を除くこの国の最高意思決定機関は、「アトランティス・シャフト」と呼ばれていた。それは、アトランティス帝国の神秘科学評議会の通称である。その評議会議長シクトゥス4Dは、この度のクーデターによってこの国で最高力者の座を獲得したマギの大神官である。この国で神官は魔術科学者「マギ」と呼ばれ、神秘科学を修めるマギたちの巨大な官僚組織マギルドがアトランティスを支配していた。

 アトランティスの魔術科学は、魔術と科学が一体化した学問体系だ。アトランティスは「精神はヴリルというエネルギーである」と理解される魔術科学に達していた。ヴリル(霊光)とは、「生命の夜の側」と称されるアストラルレベルのエネルギーを指す。アストラルとは、物質次元、エーテル次元に次ぐ高次の次元である。それは精神のエネルギーであると捉えられ、人間とは脳が全てである、あるいはDNAが人間をあらしめているという、後々の現代科学の認識とは全く異なる。人間とはヴリルであり、精神エネルギーの生命、電波生命だとされるのだ。このヴリルによって成立した科学体系は、後にカバラや「錬金術」として知られるものの源流となった。

 錬金術といえば今日、卑金属を貴金属へと変えるものとされ、それを成すものは「賢者の石」と呼ばれている。賢者の石はまたの名をエリクサーといい、不老不死へと至る秘密の鍵であると考えられている。それはアトランティスではテクノロジーそのものだった。

 ヴリルこと「精神の内宇宙」を調べていけば、人間の顕在意識はその奥に潜在意識(無意識)、集合的無意識(ガイアレベル)、さらには宇宙意識へとつながってゆく。その超心理学的学問理解の中で、人間は宇宙=神(ラー)へと一体化し、宇宙創世の秘密につながるヴリルの力を高めていくべきだというのが、マギルドの錬金術師・マギ神官たちの修行目的だ。エリクサーによって不老不死へと至るのである。シャフト議長ともなれば、ヴリルを自在に操る能力は絶大だった。

 魔術科学体系の中心に位置するヴリルをクリスタルに込める事が、アトランティス文明の大きな特徴である。そのため、クリスタルやあらゆる鉱石、金属類を扱う事において、彼らは熟練の錬金術師、達人(アデプト)でなければならなかった。マギ神官たちは、これら魔法石によるヴリルの増幅、魔法の杖による集中、呪文(マントラ)、舞踏、神聖幾何学で設計される魔方陣による召喚、そうしてそれらを宇宙エネルギー科学と高度に一体化させた。その魔術科学を取りまとめている数十万人の官僚組織マギルドの上層部数千人で構成されているのが、アトランティス・シャフトなのだ。すなわちシャフトとは大魔術師集団マギルドの頂点である。

「ではこれより、シャフト評議会によるアトラス帝裁判を始めたいと思う。本日、偉大なる太陽神ラーの下、真実が明らかとされる時が訪れた! 今日アトランティスは重大な局面を迎えている。この危機を乗り越えるため、我々は国民と一丸となって全力で解決に臨まなければならない。なぜ、我々シャフト評議会は皇帝を逮捕したのか? 昨夜から起こった一連の出来事の発端を、最初に明かすとしよう。……三月半ばより始まったキメラ暴動は、アクロポリスに大混乱をもたらした。さらに過激派組織・情熱党との戦い。その全てはアトラス帝に、原因があったのだ。奴隷生物である、キメラ達を助長させたのはアトラス帝その人であった。それだけではなく、今日までアトラス帝は皇帝という立場を利用して、数々の虚偽をばらまき国民を扇動してきたのだ!」


 アリーナの最上段の最後尾の席の後ろの円柱の陰で、赤い髪のショートヘアの少女が男ともめていた。

「今助ければ、陛下を救えるんだ! ……早く、早く陛下を」

 若干十七の赤毛の少女ヱメラリーダ・ロックバルトは叫び、四十代半ばのアルコン・ペンドラゴンに阻止されている。

「駄目だ、今は耐えろ! 今行けば二人とも殺されるぞ」

 アルコンはアリーナ上空に浮かぶ六隻のヴィマナ艦隊から身を隠そうと、急いで円柱の陰へ百六十センチしかない小柄なヱメラリーダを引っ張り込んだ。それに加え、円形のアリーナを囲むように、何千人ものシャフト保安省の兵士が長銃を構えて立っている。見つかればレーザー光線でハチの巣にされるのは確実だ。

「陛下を救えないなんて……それでもアンタ近衛隊隊長なの?」

 ヱメラリーダのやや釣り目の碧眼が睨み上げる。

「俺たちはこの国で最後の抵抗勢力だ。今は残った者たちだけでも生き延びねばならん! でなきゃ王党派は全滅する運命だ。お前を救うので精いっぱいだったんだぞ。非難は幾らでも浴びてやろう。だがここは一度退却し、捲土重来を」

 柱の陰から同様にアリーナの模様を窺っているアルコンは、周囲に気付かれないように声を押し殺した。二人は壊滅した情熱党の一員である。

 昨夜の皇帝逮捕の際、保安省の追手が迫る中、近衛隊隊長であるアルコンは、皇帝家の脱出作戦を指揮し、皇帝に逃げるように勧めた。しかし帝はなぜか逃げるという選択を拒み、留まったのである。「ここで逃げれば、自分が語ってきたことが全て偽りだったということになる」そうアトラス帝は言った。やむをえずアルコンは、一緒に脱出してくれる者だけを逃がす他なかった。そうしてヱメラリーダの救出に成功した。その後、当然の結果であるが、皇帝はシャフト保安省によって逮捕された。

「何が捲土重来だよ」

「これは命令だ! ヱメラリーダ」

「くっそ……」

 目の前に陛下が捉えられていると云うのに。こんな光景、これから毎日悪夢を見そうだ。ヱメラリーダは自分だけが助けられ、皇帝や同志達がアリーナで断罪され、処刑される姿を見下ろしている事に我慢がならなかった。だがそれでいて、やむをえないというアルコンの言葉も分かる。

「今日の事、忘れないから。あんたは、陛下を見殺しにした。許さない。そのこと、覚えておいて! 今度、私が自分で決断したことは絶対にあなたには止めさせない」


「……しかるに! アトラス皇帝は、これまでのアトランティスの、ロゴスへの伝統的な理性と信仰を否定し、検証されない不確かな妄説を国民に向けて喧伝し続けた。それはあたかも、原始社会の呪術ソーサラーの時代に逆戻りするかの如き迷信であり、近代アトランティスの魔術科学が歩んできた伝統を破壊する危険思想を吹聴することだった。中世アトランティス社会より、唯物主義者は唯物論禁止法によって厳しく規制されてきた。なぜなら、それはヴリルを基本とするアトランティスの魔術科学の伝統を根底から破壊するアナーキズムだったからである。そしてその社会に混乱をもたらしたアナーキズムは、ラーに敵対する者・アポフィスの邪悪な力によるものだった。さてここにいる彼は、即位以来ずっと妄説によって国民を間違った方向に扇動してきた。その妄説とは、ヴリル以外の、何も検証されていない、アガベーという不確かなエネルギーの存在だ。アガペーとは、未だ実証された事のないインチキなエネルギー概念である。そこにシャフトのマジカル・エビデンスは依然存在しない。だが『アガペー』なる概念もまた、アナーキズムを蔓延させ、社会に混乱をもたらした。皇帝の身分でありながら町へ出てキメラと交わるなど、何というふしだら! 一緒に食事したり、労働に交わったり、皇帝としてあるまじき行為! キメラの解放運動もそこから始まった。それゆえにキメラの暴動を醸成した。アガペーとは……それは間違いなく悪魔的な概念である。なぜならばそこから、退廃的な平等主義が説かれたからだ。皇帝という立場であるにも関わらず、いいや皇帝という立場を利用して、彼の退廃的な平等主義は、シャフトが守って来た秩序あるアトランティス社会の伝統を破壊したのだ」

 中世アトランティスにおいて、唯物論、つまりヴリルを基礎としない科学は社会の伝統(シャフトの法体系)に混乱をもたらすアナーキストとして禁止法ができ、保安省による唯物主義者狩りが行われた。そして、そのようなアナーキズム、唯物論は闇と混沌を象徴する邪神アポフィスの仕業だとされた。

 アガペー。それは、アトラス帝が唱えた教義で最も重要なものであり、「神の純粋な無条件の愛」を意味する。ヴリルを単なるエネルギーではなく、無限の「愛」という概念にまで高めた、未知のエネルギー次元である。

 アガペーとは、アストラル界よりも遥かに高次元に存在するヴリルであり、なおかつ宇宙的法則……神そのものであるとされ、宇宙の万象万物を生かしあらしめているヴリルのもっとも純粋な部分、つまり宇宙という御神体の血液であるのだとアトラス帝は定義した。他者を生かす無限エネルギーである故、「愛(アモーレ)」と同義なのだという。さらに宇宙の万生万物を生かしあらしめるアガペーは、このレオの時代に、「宇宙から吹く風」として集中的に降り注ぎ、生命進化を促進する人体の成長ホルモンのような作用をもたらし、その結果、宇宙中の星々に飛躍的な進化成長を促すというのだ。

 つまりヴリル・エネルギーに「無限の愛」というものの意味づけを込めたもので、シャフトの常識からは理解しがたいものとして反発を受け、シャフトはそれを拒絶した。だがその新エネルギーの仮説、「愛のヴリル」(ラ・ヴリル)は国民の絶大な支持を受けたのであった。

「アガペーというのはつまり『愛(アモーレ)』だというのだが。そもそもヴリルに、そのような一種の価値観や意味づけをするのはナンセンスだ。ヴリルには善いも悪いもない。中立的なものである。思いやりや愛というのは、人間が社会を営んでいく上で作り出した一種の共同体の約束事であり、社会を運営していくにあたって有益な物である。だが、決して実体のあるヴリル・エネルギーなどではない。それは決してイコールではなく、一線を越えてはならない。だからその仮説は公会議によってはっきりと否定され、以後異端とみなされている。ところが皇帝は、その後も再度エビデンスなきアガペー仮説を語り続け、さらに、仮説の上に仮説を塗り重ね、魔術科学的手続きを一切無視し、国民に対しこのアリーナで直接、あたかも真実であるかのように喧伝し続けてきた。これが皇帝の罪状である……」

 議長の隣で身体を休めている黒ヒョウが、じっと静かな瞳でアリーナを睨みつけている。皇帝と王党派によって、アガペーというエネルギーが提唱されて以来、紛糾していたが、結局シャフト評議会はアナーキズムを正統化する理論と結論付けた。どんなに皇帝が言葉を尽くそうとも、アガペーは、シャフトにとって何一つ検証されざるエネルギーだった。シャフトの科学的認識では一仮説に過ぎず、それも、根拠の不確かな仮説だった。何がヴリルでそうでないか、それはシャフト評議会が決めるべきことだった。アガペーは奴隷生物キメラの乱を起こした要因として、帝が逮捕されたきっかけになった。だがアルメルダ皇后は暴力を否定し、帝はキメラのミラージュの乱を引き起こした訳ではない。それでも、「アガペー」という未知エネルギーの概念が理解できないシャフトは、アナーキズムだと断定した。

「さらに皇帝の呪術的妄説は続く! ここにある過去の講演録によれば、アガペーの情報をもたらした聖白色同胞団や、神がかり的な守護天使の存在。そしてアガペーによる『神の国』の到来だとか『永遠の王国』だとか……。彼はこのアリーナで神を騙り、あたかも自分が地上の神であるかのよう振舞った。これらもまた何も実体はなく、何も検証されざる迷信に過ぎない。こうなるともはや神秘科学でもなんでもない。神を騙るモノ。それが何であるか。間違いなく、魔術科学と一線を画すべきソーサラー(妖術使い)の戯言だ。すなわち、アポフィスに操られた証拠だ!」

 ソーサラーとは「黒魔術師」である。黒魔術は、シャフトによって公式にははるか二千年前に禁止されている。魔術科学には、簡単にいって白魔術と黒魔術とがある。そのうち白魔術とはロゴスたる太陽神ラーの神意に沿った魔術であり、一方黒魔術とは、魔術科学を神意に反するベクトルに特化させた魔術である。

「これらが一国を代表する皇帝の口から発信されると云う非常事態。皇帝のアガペーは、アナーキズムのみならず、悪魔の惑わしであるという事は確実だ。このような前近代的な夢幻の如き非魔術科学的妄説の数々は、シャフトのアデプトの霊査によって、魔物に扇動されていた結果だと判明した。同時に、それを熱狂的に支持し続けた王党派の勢力も同罪である。彼らは、以上の帝による妄説を『上からの革命』の一環と称した。このようにして皇帝は、永年に渡って市民の前で繰り返し妄説を説いた。遂には伝統的に太陽神の代理を務めて来たシャフトの権威を貶める言説をまき散らすまでに至った。ここへ来て私はもはや、シャフト議長として看過できない状況にアトランティスは置かれていると判断せざるを得なかった」


「アルコン……胸糞悪い! あたしもう出る」

 右腕が有機機械であり、半ばサイボーグと化した少女は、最上段の座席の柱の陰からアリーナを睨むように見下ろして、吐き捨てるように言った。

 もとよりアルコン・ペンドラゴンはアリーナなどに近づくべきではないと主張した。だがヱメラリーダが、シャフトが行う裁判を見届けるというので、危険を賭して付き合っているにすぎなかった。しかし案の定、ヱメラリーダは結局処刑を目の当たりにして暴走するのをアルコンが制止する歯目になった。彼女は空を飛べるので、いつ飛び出すかと冷や冷やしている。目の前には皇帝が生きてまだそこに立っている。しかし二人は何もできずに、即決裁判が行われていく状況を見守るしかない。シャフトの皇帝に対する侮辱に、もはやヱメラリーダは我慢の限界を超えている。もしアリーナへ飛んで行ってしまったらアルコンに制止する術はない。

「待て、ヱメラリーダ。確かに我々は今陛下を救えない。だがよくお前の碧眼に焼けつけるんだ! 善悪が転倒した悪魔払い裁判というモノを、こうやってアトランティスで堂々と行われ、それによって陛下が殺される日を迎えたという事実をな……!」

 アルコンとて到底平静ではなかったが、陛下の最期の姿を見届けねばと考えなおしている。むろんそれは不愉快極まりない代物である。赤いくせ毛、顎髭の王宮近衛隊隊長の碧眼は怒りに燃えている。

 アトラス大帝は唯物論者でも黒魔術師でもなかった。だが、キメラ解放運動が、キメラの暴動の引き金となり、他の対立している国とも和解しようという政治哲学とアガペーという未知エネルギーの概念、それらは唯物主義者の裏返しであるとして、アポフィスにそそのかされたせいだとシャフトは結論したのだ。

 アルコンの脳裏に、クーデターが起こる以前の陛下の表情が浮かんでいた。陽気で朗らかなアトラス大帝。気さくで冗談好き、周りの臣下も上限関係に関係なく、冗談が飛び交っていたあの平和な日々。それが一体、なぜ今日という日を迎えたのか。


「そこに佇むその男が、妄説を繰り返し説き続けた理由は一体何であったか?! 世の全ての人々は欺かれた。我々シャフトさえもだ……。皇帝の呪術的妄説には、実に驚くべき秘密が隠されていた。それが何をもたらすか。ここで我々に視えたビジョンロジック(予言)を発表しよう。帝の上からの革命は、伝統及び国体を破壊するのみならず、国土の危機を再びももたらす。近年再び頻繁している地震や天災の数々はその男! アトラス皇帝の活動と因果関係があったのだ。つまり、アガペーなる邪悪な概念が国土にもたらした災禍だ! それはすなわち国の危機ゆえ、やむなく私はシャフト議長として提議し、議会の多数決をもってクーデター発動を決定した。全てはこの国にはびこりつつある最期の黒魔術を打倒し、国家の危機を救うために!」

 議長の言葉は多くの人々に、かつてアトランティスが体験した衝撃を思い起こさせた。

 その昔アトランティスは、今日のアトランティス帝国に見られるような、五つの小大陸(群島)からなる国家ではなかった。それはオーケアノス洋(大西洋)上に浮かぶただ一つの広大な大陸だったのだ。しかし今日へ至るまで過去に、アトランティスを何度も壊滅的な天変地異が襲いかかった。特に歴史上アトランティスは、過去二度の大規模な壊滅的な大洪水を経験した。それ以外にも大小様々な洪水や天変地異を経験しているが、その都度国土は減少したのである。

 最初に大洪水が起こったのは、「巨大怪獣撲滅の時代」と呼ばれる原始アトランティスに遡る。シャフトのクーデター発生時より約五千年ほど昔、曙光期のアトランティスの大地には、多くの超巨大哺乳類たちが闊歩していた。現在でもアトランティスの郊外には数多くの象類が存在するが、当時の人々はそれら大怪獣の陰におびえて生活していた。マンモス、サーベルタイガーといった大怪獣は、今は化石でしか見られない太古の大地を支配した恐竜たちにも匹敵するほど巨大で、極めて凶暴な人類の脅威だった。マンモスは身体が後世の象よりはるかに巨大であり、アトランティスに現存するマストドンのような温厚な生き物ではない。毛むくじゃら、性格も獰猛で、容易に近づいてはならない怪獣だった。追いかけられれば、まるで山が迫ってくるような恐怖を人間に与えた。しかしマンモスだけではない。哺乳類も爬虫類も鳥類も、全てがケタ外れに巨大だった。

 ゆえに太古のアトランティス人たちは恐れを込めてそれらを「大怪獣」、あるいは単に「獣(じゅう)」と呼んだ。この時代、原始的な道具しか持たないひ弱な人間たちにとって、大怪獣たちは悪夢のような現実であり、彼らの餌にされたり、あるいは一方的に攻撃されないように逃げ回るより他はなかった。そうして実際、数多くの人間たちが大怪獣の餌食になった。

 アトランティス初期の主な社会問題は、必然的にこの怪獣対策となった。人間はこれ以上自分達が肉食獣の餌にされ、マンモス達に踏みつぶされないようにと住居を転々とし、あるいは巨大な城壁を建設し、その中に籠ってひっそりと暮らす生活をさっさと終わらせたいと考えていた。そこで科学者を中心に様々な研究が行われ、クリスタルを使ったレーザー光線が開発され、兵器として日の目を見た。同じころ気球や飛行船が開発されると、初の空軍が編成され、空に集結し、上空からレーザーを撃って怪獣たちを追っ払った。こうしてアトランティスの科学文明は、大怪獣対策によって徐々に進歩していったのである。次第に文明を手に入れた人間たちは、いよいよ人間社会を脅かす大怪獣の討伐に乗り出した。

「神より選ばれしアトランティス人は自然を征服し、自然の支配者でなければならない」

 この時編纂された「ラ・アンセム(創世神賛歌)」に記された言葉は、その後のシャフトの神学になっていく。ラ・アンセムは伝説のアデプト詩人達のグレイテスト・ヒッツを凝縮した叙事詩である。自然への畏怖は、自然の征服という挑戦へと変わったのである。獣(じゅう)を制圧する方法が盛んに議論され、アトランティス人の錬金術師たちはレーザーに加えて、錬金術の原型となっていく今日の化学分野の成果を得て、爆弾の開発を進めた。地中深くガスを掘削し、大量のガス爆弾を使用して、大怪獣討伐作戦を実行する事にした。地上を這う大怪獣を一掃し、人間の国土とするためだ。かくて大轟音と共に爆弾攻撃による人類側の反撃作戦が開始された。その結果、人類は始めて獣(じゅう)に勝利したのである。まさにそれは創世神賛歌に特記されたアトランティス人の使命が実現した瞬間であった。ところがその直後、それは幻の勝利だったことが分かる。

 一時の勝利に酔うアトランティス人をしり目に、自然界の猛反撃が起こった。爆発と共に、ガス掘削の影響で地下深くの火山が爆発し、地震を誘発した。国土の大部分に津波が襲い、大陸は南北に引き裂かれた。北の島ルタと南の島ダィティヤに分かれたのだ。膨大な災害は国土を削り、国土は縮小した。

 その代償はあまりに大きかった。この時からすでに、アトランティス人……つまり人類と自然界との分離は始まった。そういえるかもしれない。広大なアヴァランギ平原を三方で囲む山脈は、みな火山だ。アクロポリスは各地で温泉が湧いている。公共の温泉・冷泉は市民であれば無料で入り放題。それらは心身をいやしたり、治療に使われている。強力なヒーリング効果のある「若返りの泉」もある。だがそれは地面の真下で依然、マグマが活動している事を意味する。

 二度目の大洪水は、クリスタル及びピラミッド技術が進み、科学文明が絶頂に達した近代に起こった。この頃、怪獣討伐で手に入れたテクノロジーの数々は最高水準に達し、その結果、アトランティス帝国の威光は世界に君臨した。近代アトランティスの夜明けである。

 太陽エネルギーをクリスタルに集積し、ヴリルと呼ばれたそのエネルギーをレーザーや送信機を使って都市の電気を賄うピラミッドが各地に建設された。無線やクリスタルの受信機を使ったラジオやテレビジョンも開発された。光線や各種エネルギーをクリスタルのプリズムにかける事によって、遺伝子組み換えが可能になり、ヴリル及び遺伝子工学による農業技術は飛躍的に向上した。二毛作・三毛作・四毛作。さらにそれ以上の短期間で植物を成長させる事が可能になり、巨大植物や様々な新種を開発する事ができた。亜熱帯地方のアトランティスは常夏であり、年中作物が取れることでも農業大国として恵まれている。バナナや、今も原産地不明とされるトウモロコシはアトランティス人たちの「作品」である。もともと自然界のバナナは果肉の薄いメロンに似た種類だったが、アトランティス人はそれを今日の様なクリーミーな果実に仕上げた。それで当時アトランティス・バナナと呼ばれていた。バナナは大流行し、農業大国に弾みをつけるバナナ・ルネッサンスが起こった。トウモロコシは今日のバイオエタノールに似た利用法でも珍重された。

 このようなクリスタル・テクノロジーは錬金術の極致だった。文字通り彼らは「自然の支配者」だった。科学と魔術が一体化した文明が完成し、その頃魔術官僚機構マギルドと共にシャフトも誕生した。クリスタルを代表とする魔術科学を集大成したシャフト創始者の名は、大マギのロード・トートである。こうしてアトランティスに黄金時代が訪れた。

 当初霊的な目的で使用されたクリスタル技術は、アトランティスに起こった大規模な産業革命によって、次第に物質エネルギーに転化される様々な技術に利用され、遂に利己的な目的によって兵器化した。だが、錬金術の科学文明を謳歌した近代アトランティスの夜明けに、再び大陸の地中深くのマグマの沸騰が起こったのだ。それは火山の爆発を誘発した。その結果、巨大地震と共にアトランティスの科学文明に再び大洪水が襲いかかった。かつて広大だったアトランティス大陸は、南のダィティヤが海中に没し、北のルタも現在の五つの小大陸と群島に分かれた。遺伝子組み換え作物の田園風景が広がる広大な平原に二千万の人口を抱え、百万都市アクロポリスがある小大陸アヴァランギ(アリオン)、巨人たちの島オグ(オズ)、エリュテイア、「楽しき都」マグ・メル、そして「常若の国」アヴァロン。全体で六千万人ほどの人口である。

 「最上の都」アクロポリス(別名アルタ)はその名の通り、かつて小高い丘の上に位置していた都市だったが、水位の上昇によって海辺に面した都市へと変貌を遂げた。高いところにあったにも関わらず、同心円状の運河はその当時から存在した。それは今、海へと直結している。同心円の地形は、内側の円にいくに従ってそれぞれ三十メートルずつせりあがっていて、離れてみると緩やかなピラミッドのようになっている。現在の総人口は計六千四百万人だが、この時、国土は以前の三分の一にまで減少したのである。多く人が亡くなり、国外へと脱出していった。残った人々は貧困と混乱にあえぎながら、エネルギーシステムの再構築によって、素早く立ち直っていった。

 神より選ばれしアトランティス人は、自然を支配する権利を有する。その神学を持った彼らにとって、実にゆゆしき事態だった。シャフトでは、この原因について様々な議論がなされた。その中で最有力の原因として浮上したのが、唯物主義の台頭であった。この頃から高度なクリスタル科学文明の発展と共に、魔術科学文明の方向性について、盛んに議論がなされた。その中で大きく育っていったのが唯物論……ヴリルを基底としない科学主義者たちだった。ヴリルの存在は認めても、それを乱用するような社会を認めない、ある意味で開明的とも言えるグループが台頭し、それと共に奇妙なことにアナーキズムが流行した。それはアトランティス社会を破壊する道徳的荒廃と見なされた。これと天変地異との因果関係は解明されなかったが、禁じられた黒魔術の復活ではないかと噂された。黒魔術は、魔術科学を光の方向にではなく闇の方向へと利用する「宇宙の犯罪」であり、神への反逆行為である黒魔術は、シャフトによって明確に禁止されている。こうして唯物主義者……アナーキストは古代のソーサラー達と同様、邪神アポフィスが操っているとされ、第二の破壊と無関係ではないと結論付けられた。これ以後、この大帝国では神秘科学に敵対する唯物主義を禁ずるという法が成立した。

 何が是で何が非かを判断するシャフトの現体制は、この時に確立したといえる。「創世神賛歌」を含む数々の聖典の教義の整備、シャフト法典、魔術科学の主要学説などが確立した。そうして過去、アトランティス社会を混乱させ、大陸を破壊に導いた唯物主義は、国を滅ぼす邪法として禁止され、唯物主義者はシャフトによって徹底的に弾圧されて滅んだ。その時に結成されたのが、シャフトの秘密警察、保安省だった。大流行したアナーキストと対抗するために、保安省にはえりすぐりの魔術科学者たちが集められていた。アクロポリスの中心にあるツーオイ石は、彼らによって逮捕された唯物主義者たちの尋問のために使われた。その時代それは、「恐怖の水晶体」と恐れられていた。近代以後、尋問目的のツーオイ石の使用は禁じられたが、水晶体の恐るべき側面として人々の記憶にとどめられている。

 百年前、ヴィクトリア地方を襲った大地震、そして巨大津波は、この国を襲った最後の国土崩落の大災害だった。津波の直後、ヴィクトリアにあったクリスタル発電所が凄まじい大爆発を起こした。地震の被害によるものである。

 その事故は各クリスタル発電所に連鎖反応を起こし、遂にアクロポリスの都市中枢にあるツーオイ石がダウンし、大規模な停電を起こすまでに至った。復旧までおよそ二週間かかったという。各クリスタルはネットワークでつながっている。それは、アクロポリス市民をしてアトランティス帝国の滅亡へのアポカリプスという、恐怖のどん底へと叩き落した。しかし、なぜヴィクトリア・クリスタルがツーオイ中枢まで影響を及ぼしたのか、本当の理由については分かっていない。

「私はここでその秘密の正体を解き明かそう。アトラス皇帝は、ソーサラーの黒魔術を使っていた。それが今朝の即決裁判の判決で明かされるもっとも重大な真実である! 当然のごとく、黒魔術はシャフトによって二千年も前に禁じられた魔術であり、以後もシャフト保安省のたゆまざる尽力によって滅亡したはずだった。だが……それは密かに復活し、この社会に忍び込んでいた。恐るべきことに、それを成したのが他ならぬ皇帝だった。この事実に、国民はもとよりシャフトも長らく欺かれた、という事実である。その為に、彼の妄説は常に正統化されていた。しかし皇帝が即位した頃より、実は我々シャフトの間では、ずっと皇帝の言説についてのある『噂』があったというのは事実だ。それは、単なる憶測でしかないという理由で結局のところ放置されていた。それを見落としたのは我々のミスだったことは認めよう。だがキメラ暴動の究明に追われた結果、我々はこのままいけばヴィクトリア地方の国土崩落以来、百年鎮まっていたこの国の崩壊が、再び起こる危険性に気付いた。もはやこの事実に目をそむけることは決してできない。帝こそがまさしくアトランティスに破壊をもたらす、恐ろしい悪魔の手先に成り下がったという、その事実を! それはまさに、アトランティスの正統なる神秘科学の伝統を破壊しようとした罪であり、なおかつ、国家をも滅ぼそうとした罪に他ならない!」

 こうして皇帝と、王党派たちの罪は確定した。皇帝逮捕の法的根拠は、アトランティスの神秘科学の伝統を破壊する行為、すなわちソーサラーの黒魔術であった。ソーサラーは二千年前に成立した「黒魔術禁止法」以来、厳しく取り締まられてきた。この法律が成立した背景には、アトランティス社会を脅かした重大な問題、国土の危機が存在した。


「酷いソーサラー狩りだ。陛下のせいでまた国土崩落が起こるだなんて。そんな無茶苦茶なビジョンロジックがあるか! シャフトは遂に正体を現したな」

 ヱメラリーダは悔しさで震えている。アトラス帝のアガペーの教えは、その背景にアポフィスがいたとして、社会的混乱を引き起こすのみならず、国土崩落にまでつながると警告し、人々を恐れさせる代物にまで貶められた。だが以前から情熱党と対立してきたシャフトの面々が、首都アクロポリスにも被害をもたらしたキメラの反乱を利用して、さらに国土がまた沈むという人々の恐怖心を操り、敵対者を葬り去ろうとしたに過ぎない。

 シャフトによると、アトラス大帝は、アトランティスを滅ぼす禁断の唯物主義を復活させ、悪魔の教えを言葉巧みにオブラードして伝えていた。それは残された国土をさらに危機にさらす行為だった。これ以上放置すれば、百年前のヴィクトリア以上の惨事が起こる。滅亡へのカウントダウン。つまりその言動は精神的堕落だけでなく、アトランティス人にとって残された最後の陸地まで滅ぼす脅威のあるものだ。それと同時に、皇帝家が国民生活を苦しめるほどの私腹を肥やしていた証拠の数々も明らかにされた。これが皇帝逮捕によって、シャフトによって暴かれた真実だった。

「これじゃあ中世に逆戻りじゃないか! いつの間にか全てがすり替わっている。だのに、なぜ誰もそれに気づかないの?」

 彼女の叫び声が、シャフト保安員達に聞こえるのではないかと、アルコンは気にしている。しかしまさにヱメラリーダの言うとおりだ。裁判における議長の独演会の結論に、柱の陰に隠れた二人は愕然とするしかない。そしてこの国が危機に瀕していることに、国民たちは誰も気づいていない。自分たちが危機が共にある事に。

「アガペーは……アガペーは決して悪魔の教えなんかじゃないんだッ! やつらは一体性の法則を忘れたのか!」

 ヱメラリーダがまた叫んだ。シャフトはアガペーを社会の秩序を乱す異端と定義している。だが、皇帝と王党派は、アガペーという未知なる科学概念は存在こそ魔術科学的に証明されないものの、伝統的なる神秘科学の体系とも相反するものではないと主張してきた。そしてそれがスピリチュアル・ワンネス、一体性の法則だ。アガペーこそ一体性の法則を裏付けるものなのである。シャフトが関知しない未知の高次元エネルギーの磁場を、彼女は何度も何度もその身で体験してきた。それはヴリルの、アストラル界の範疇を遥かに超越しているだけで、連中が察知できないだけで、それは確実に存在する。

「アトラス帝が唯物主義者でアナーキストで、かつソーサラーであると、それが連中の論理だ……」

「無茶苦茶な理屈だよ!」

「あぁ、あまりに理不尽な話だ」

「どこまで罪名を積み上げれば気が済むつもりなのよ。どこまであたし等を貶めれば気が済むの」

「これほど馬鹿げた論理を、連中はアトランティスの魔術科学だと言い張る。これが奴らのやりかたさ」

 むなしい問いを繰り返すアルコンもまた、もはやヱメラリーダの声の大きさを注意するどころか、歯ぎしりしながら怒りの言葉をこぼしている。単に、戦いに敗れたけではなかった。神の掟の子らは唯物主義者、悪魔使いのレッテルをはられ、今まさに皇帝家は名誉もなく全てが抹殺されようとしている。この国にはもはや正義もなければ神の意思さえも通らない。これほどの悔しさをかつてアルコンは感じた事がなかった。隣のヱメラリーダは華奢な肩を震わせてもはや何も語らなかった。

 このままアリーナにいることは危険だった。だが、果たして皇帝が最後に何を語るか。それを見届けなければ、アルコンは決してこの場を離れることはできないのだった。それは来るべき捲土重来の為の財産とするため。しかし眼下の皇帝は沈黙している。


 ハッハ、ハッハッハッハッハァ!


 突然にアリーナがざわつき始める。二人は注視する。アリーナの中から高笑いが響いてきた。あのバルタザールが笑っている。

「貴様の判決文なぞに、わしは耳を貸さぬぞ! 逆に、今日までラーと陛下にお仕えしたこのわしの方からお前にビジョンロジックを示してやろう。間もなく、ラーによりこの帝国に最期の審判が下される。この国は間もなく滅びる! 貴様たちにはネズミやトカゲにかしずかれる暇すら許されないのだ。レオの時代で最期なのだ。アトランティスは黄昏だ。今や偉大なるアトランティスの栄光は去ったのだ! ラーの光は永遠に差し込まぬ。それは、貴様たちが自分で滅亡の書類にサインを記したからだよ! シクトゥスよ、貴様は廃墟の中で王冠を戴くがよい! お前たちはその時ラーの、大白色同胞団の答えを、身をもって思い知る事だろう!」

 バルタザールは両手を広げて叫び、再び笑った。叫んだり笑っているのはバルタザールだけで、アリーナに膝を屈している当の皇帝は何も抗弁しない。他の郎党たちも同様に沈黙している。

 保安省トップのカトージ・ハウザー長官が「狂信徒め」と嘲笑い、他の連中もワハハハと笑いの大合唱をした。

「おい、おかしいぞ。あれは、バルタザール殿じゃないぞ!」

 アルコンが異変に気付いた。普段のバルタザールの物腰からは想像がつかなかったからだ。誰かがシェイプシフトでバルタザールに成り代わっている。

「……タブリスか! あいつ生きていたのか」

 バルタザールが立って所には、いつの間にか破れた黒衣を着た男が立っている。ボサボサの長い黒髪、無精ひげ、ギラギラとした目つきのタブリス・ウォードは、バルタザールの姿になり替わって、いつの間にかこのアリーナに忍び込んでいたらしい。タブリスはクーデター騒動の混乱で生死不明だった。

「あいつ……無茶だッ」

 ヱメラリーダはアリーナで議長を挑発する男を心配する。一体何をするつもりなのか。タブリスは杖を高々と掲げ、議長を指した。

「奸臣シクトゥス。この国を救うはずだったメサイアを殺す気か?! 『支える者』を殺すことがどういう結末を生むのか。馬鹿め、その罰に怖れおののくがよい! お前達シャフトは、神秘科学の敬虔な使徒でもなんでもない。お前たちこそが、闇の子、悪魔に魂を売った魔人なのだからな! ハハ、ハハハハハハ」

 タブリスは、議長の話を遮ったまま、一向に止める気配がない。すると議長の隣に座っていた黒ヒョウがぬっと立ちあがった。それは剽悍な動きで勢いをつけ走り出すと、いつの間にか人の姿へと変じた。タブリスの面前までツカツカとブーツの音を立てて歩いてくるイゾラ・マジョーレ中佐。年は二十八歳。黒髪のつやのあるショートヘアの大きな釣り目の中佐は、モービル剣・シーガルスホルムの剣を抜いた。モービル剣とは赤い蛇の波紋を持つ剣で、中佐の精神に感応し、まるで「蛇」のように変幻自在に形が変わる。閃光と共にタブリスはシーガルスモルムに殴られた。黒ヒョウが変じた「キラーウィッチ」として恐れられている彼女の赤いモービル剣は、殺す事も気絶させる事も可能なレーザー鞭である。感電し、一瞬で気絶すると、男は無残にも砂埃を舞いあげて倒れた。最初から死ぬつもりだったのか。それを見て他のシャフト保安省の隊員達まで一斉に大笑いし始めた。

「あのヤロォ、許さない、許さない。絶対に許さない……」

 ヱメラリーダの碧眼に怒りの涙が浮かぶ。いからせた小柄な肩を震わせ、それでも突進する気をグッと抑えている。だが、自分がここで出ていけばタブリスと同じ運命が待っている。

「あまりに斬新だったんだ。陛下の教えは、あまりに時代を超越しておられた……」

 国民に熱狂的に迎え入れられたアトラス大帝のアガベーの教えは、アトランティスの危機を救うはずの上からの革命だったはずだ。だが、その真実を知る者たちは弾圧され、捕らえられ、殺され、遂に最後に沈黙した。

 アルコンの言う通り、合理主義者だらけのアトランティス人にとって、その内容はあまりに斬新過ぎた事も一因かもしれない。アガペーの存在は最後、感性で感じ取るしかないのだ。アトランティス人は科学文明を獲得する過程で、理知的な部分を発達させた。しかしそれは同時に感性的部分を退化させてしまう事でもあった。一方で感性を中心とした帝の上からの革命は、理論的根拠が乏しかった。結局アトランティス人、特にシャフトの官僚たちにとってあまりに異質だった。それで帝の革命は市民に熱烈な賛同者たちを数多く生み出すと同時に、多くの伝統的な人々の反発を買い、シャフト評議会のクーデターへの機運を醸成させた。確かに、シャフトといえどそれだけで皇帝を葬る理由にはならない。だが、皇帝の人気を強く妬む者達がいたのである。シャフトの中の伝統的魔術科学者たちは、ただその流れに乗るように行動を起こし、アトランティス社会を転覆させた。多くのアトランティス人たち、いやシャフトの大部分でさえ、本当には何が起こったのか気づいていなかった。あまりに愚かな話だが、それだけ事は秘密裏に、電撃的に行われた。この事態に発展するに至るまでには、アトランティス人特有の気質も大いに関係していた。

「そんな言葉、聞きたくないヨ!」

 ヱメラリーダが釣り目で睨みつけた。

「すまぬ。……だがな、今この場で、この裁判の判決を疑う者は少数だ。偉大な皇帝はアトランティスの伝統を無視した革命を行っただけではなく、黒魔術師にまで落とされてしまった」

「恐ろしく巧妙なやり方でね」

「というより、誰もシャフトの独裁には逆らえるはずがない」

 アルコン達がいかに憤っても、大多数の市民はシャフトのもたらす利便性や利益に眼をくらまされ、その結果何が起こっているのか分かる者などほとんどいないだろう。「シャフト」が危機をあおれば、すなわちその通りだと考える。多くの支持者が簡単に寝がえり、弾圧側に回った。アルコンはその凡庸さにあきれ果てる。社会の正邪はひっくり返り、事実はシャフトこそが悪魔に乗っ取られている。もしここで誰か、真実を告げる者が名乗り出たところで、むざむざ罪人が捕まりにいくようなものだし、何らかの方法で捕まらずに国民を説得しようとしても、荒唐無稽な陰謀論を唱える、頭のおかしい輩とみなされるのが関の山だろう。誰もシャフトを敵に回そうとは思わない。そうして昨日まで、あれほど熱狂的に皇帝を支持していたにも関わらず、皇帝を助けようとする者は誰もいなかったのだ。

「俺達以外はな」

 アルコンは言った。確かに皇帝は救えない。だが二人はシャフトへの復讐を誓った。神は沈黙している。皇帝を救ってくれない。だが神が沈黙しているなら、自分たちでやるしかない。熱しやすく冷めやすい民衆たちを背に、アルコンとヱメラリーダは、すみやかにアリーナを立ち去った。アリーナでは即決裁判に続いて、その場で公開処刑が行われると発表されている。それを背に脱出した二人は、振り返る事なく走った。皇帝を救いたかったが、この場で襲撃しても自分たちも捕まるだけだ。今は一旦引き、捲土重来するしかない。ふと、アリーナの何かに気付いて、アルコンは足を止めた。


 マリス・ヴェスタは、アリーナに降り立って罪人たちのヴリルを計測していた。万が一にも力が復活しないように監視する為の作業だった。だが……何か、さっきから、誰かの声が頭の中でリフレインしている。


 みんな、早くここから逃げるのよ! 早く、早く逃げて。


 クソッ。誰だ。一体誰の声が聞こえるんだ。受刑者たちの誰かではない。ならこのアリーナの中の誰かなのか。なぜ自分の中にダイレクトに聴こえてくるんだ。他の人は気づいていない。……分からない。気が散る。せっかくシャフトの正式メンバーに選ばれたのに、もしミスでもしたら……。


 もう時間がない、早く、早くここから逃げてッ!


 マリスは「声」を振り切って、アミュレット(魔法石)のゴールドルチルの横に着けた計測機に意識を集中し、眺めた。すると、当然ながら彼らの心は深く沈んでいる。しかし当のアトラス帝の心は処刑場の雰囲気と全く真逆な数値を示していた。なんと帝の心はリラックスしていたのだ。マリスは驚く他はなかった。疑問に取りつかれたマリスは彼に少しずつ近づいていった。遂にマリスはアトラス帝のすぐそばに立っていた。マリスのような下級の保安省の人間にとって、皇帝を間近で見るのは人生で初めての経験だった。たぐいまれなる霊力を持っていると噂される皇帝に、心を読まれるのではないかと一瞬警戒した。しかしその間もなく、マリスは皇帝と目が合った。深い藍色の静かな目だ。とっさにマリスは水筒の水をアトラス帝に差し出した。なぜそうしようと思ったのか。まさにとっさの判断だった。帝のやつれた顔に、笑顔が作られている。「ありがとう」藍色の眼の奥に深い慈愛が宿っているような気がした。決して愛想笑いなどではなく、帝がマリスに愛想笑いする必要性はなかった。マリスは一瞬あっけに取られ、同時に全身に電撃が走ったような衝撃を感じる自分に戸惑いを覚えた。

 それについてゆっくり考える暇もなく、処刑の時間が来た。処刑人たちを指揮しているラムダ・シュナイダー大佐が上空に集結させたヴィマナ搭載艦隊が六芒星の陣を形作する。それだけでも圧倒的に威圧的な光景だったが、さらに恐るべきは、船に取りつけられた重力波兵器の強力な反重力作用によって、大量の土砂が六機の飛行船の高さまで持ちあげられ、次第にアリーナ上空に集まって浮かんでいる情景だった。つまり、宙に土砂が浮かんでいるのだ。次の瞬間何が起こるのか、想像しただけで誰もが戦慄した。マリス達研究者はヴィマナ艦に引き上げられ、その巨大な漆黒の鯨型飛行船に搭乗して下のアリーナをうかがう事になった。この処刑の残忍な手法を考案したのはシャフト保安省のカトージ・ハウザー長官である。

 シクトゥス4D議長が右手を振りおろしてヴィマナ艦隊に合図を送ると、ラムリザードに乗ったラムダ大佐が反重力装置を作動させた。

 ラムリザード号の光線がアリーナに巨大なクレバスを作り出し、さらなる土を持ちあげた。何十トンと云う大量の土が、天から降る土石流のように受刑者たちを埋め立てていった。大量の土砂が物凄い勢いを伴って、皇帝たちの頭上へと落下していく。まるで天から降った山津波のように。上空から降る土砂はクレバスの中へと受刑者を飲み込んでゆく。粉塵が天高く巻き上がり、アリーナを覆い尽していった。悲鳴と怒号が飛び交い、人々は我先にとアリーナの出口に向けて殺到する。

 アクロポリスの市民たちに明らかな動揺が広がった。国民はシャフトを恐れて沈黙していたが、帝を愛していた。その絶大な人気にシャフトは嫉妬し、神秘科学の新たな教義を語る事は越権行為だと激しく非難した。シャフトのアデプト達の霊力は、アトラス帝の語るアガペーの二元性を超えた哲学の前に、ことごとく打ち砕かれたのである。だからこそ、先の暴動において何の非もなかったアトラス帝をクーデターで倒すしかなかったのだ。

 土砂の轟音と、悲鳴と怒号がアリーナに響き渡る。阿鼻叫喚。恐怖と絶望、悲しみと怒りが心の中にまで浸食してくる。マリスは急いで外し忘れた計測器を離した。だがその事よりも、マリスはさっきから奇妙な感覚が抜けなかった。マリスの胸には、今まで感じた事のない『温かさ』が宿って、それは去る事がなかった。確かにハートのチャクラが反応している。あの皇帝から分け与えられた暖かいヴリル。もしかしてこれは、アガペーなのか。マリスは必死でその感覚を否定し押し殺すのに忙しく、目の前の惨状を目撃しながらそれについて考えを巡らす事ができなかった。

 市民たちの悲鳴や怒号がいつまでもアリーナに渦巻いている。彼らはやはり、皇帝を愛していた。シャフトのクーデターに逆らう事はできなかったが、悲しみの感情を抑える事はできなかった。怨嗟の声の中、マリスは皇帝の姿を確認しようと目を凝らした。粉塵の中で帝はひざを屈し、両眼をつぶり、両手をゆっくり天へと向けて、まるで、運命を受け入れたかのような格好だ。その帝の姿は王家の人々と共に、一瞬で土砂の中へと呑みこまれていった。

 シャフトの幹部達は異様な熱気に包まれ、戦勝パーティか何かを彷彿とさせる熱狂が支配している。只一人、マリス・ヴェスタだけが、その浮かれた空気に同調する事なく、ずっと帝のまなざしと言葉に囚われていた。マリスは青々とした空を見上げている。


 夜の祝賀パーティは、シャフトの正式なメンバーしか呼ばれないものだった。そこにマリスとカンディヌスは招待され、二人とも参加した。だが、何となくマリスは気分がうかなかった。

 上のテラスで、ハウザーとラムダ、ラツィンガー、イゾラ・マジョーレが、アヴァランギ平原産のリンゴのリキュールで乾杯している姿が見えた。その中には大貴族議員として高名な、ロード・カカ・オージンの姿もあった。夜風に輝く長い銀髪をなびかせた五十代のオージン卿は、何かを感じて、探しているような横顔で街を見下ろしている。

「祝杯だ! 我等はとうとう、アトランテオトル大帝を倒したぞ!」

 ハウザー長官が銀の杯を掲げて快哉を叫んでいる。この期に及んでわざわざ正式な御名で呼んでいるのが長官らしい。悪魔の計略を見破って打倒し危機を回避した安堵というよりも、彼らの表情は完全に戦勝パーティのそれだった。マリスは喧騒を離れて一人になり、薄暗いテラスから街を見下ろした。

 ショックだった。今日アリーナに急遽参加したマリスは、処刑についてどのようなものかほとんど知らされていなかった。マリスはシャフトの保安員として、秩序を回復させる戦いに勝利したはずだった。だが、彼らの死に対して、自分がこれほどの衝撃を感じるとは予想外だ。あの声は誰だったのだ。「逃げろ」と叫んでいた。アリーナの中の誰かのような気がしない。

「今日は疲れただろ?」

 後ろから飲み物の追加を運んできたカンディヌスが、蜜酒オーズレーリルの夜光杯をマリスに渡した。

「……はい」

 マリスは思わず微笑んだ。二人は無言で町を見渡す。

 夜半頃、アクロポリスの上空に続々と流星群が降り注いでいった。ツーオイ石が「久しき昔」を流す祭の佳境、多くの人々が夜空を見上げ降りしきる白い流星に驚きの声を上げた。漆黒の闇夜の中、閃光を放って流星群は一個一個地平線に落ちていく。やわな光ではない。それは残酷な行為が行われた地上とは別世界の景色で、それらを洗い流そうとしているようでもあった。流星のひとつがマリスに迫り、胸の中に飛び込んできた夢。それはハートを暖かく灯し続けた。多くのシャフトメンバーは地上における勝利に熱狂し、上空のイベントを無視していたが、マリスはそれを一個一個数えた。左腕のゴールド・ルチルクォーツと同色の、金色の瞳が星を捉える。動体視力には自信があった。正確に数えたら、おそらく二十五個で合っている。三十個には満たない。マリスにはそれが、クーデターを成功させたシャフトの魔術科学者たちにとって、何かの不吉な予兆のように感じられさえもした。唐突にある映像が浮かんでくる。流星群が降った直後、マリスは妙に白けた気分でパーティを後にした。まだ、遠くであの声が響いているような気がした。


 誰一人として……罪のある者はいなかった。誰一人として。それなのに、皆殺されてしまった……。


 夜の帝都が急に騒がしくなった。

 アクロポリスのランドマークのユグドラシル(世界樹)・タワー前の広場に、ゴールデンキャットガールがまた出現したらしい。市民が騒いでいる。これまでアクロポリスで何度も目撃されてきた謎のダンサーである。それは全く半獣半人キメラのような姿だが、しかし正真正銘のキメラなのか、それとも変装した何者なのかは誰にも分からない。何しろ保安員が追いかけても、神出鬼没で追跡を逃れてしまう。その脱走能力は、誰よりも勝っていた。さらに保安省の神経を逆なでしたのが、その踊りが、情熱党の別称を持つアイドルグループ「ワルキューレ」を彷彿とさせるダンスだった事である。

 アトランティス最高のアイドルグループ・「ワルキューレ」。またの呼び名を「情熱党」。それはアトランティスのアイドルでありつつ、戦士でもあった。伝説の美神フレイヤを崇拝し、歌って踊って戦える、人類史上最強のアイドルを目指していた。アトランティスにおいて音楽や舞踏は、魔術的効果を持つ。単なる娯楽ではない。彼女達は、帝の演説以外の日に、アリーナを観客で埋め尽くした。それは「ワルキューレの騎行」と呼ばれた。アマネセル・アレクトリア姫をトップに、ヱイリア・ドネ、エストレシア・ユージェニー、ヱメラリーダ・ロックバルトの三姉妹、その他候補生を含めて三百人を超える大グループ。彼女らはシビュレと呼ばれる巫女であり、高度な霊力を備えていた。日々、戦闘訓練に歌にダンスという集団だった。観客席を埋め尽くすファンや支持者たちは高度に組織化していた。それら全体で何万人という組織をまとめて情熱党と呼ぶ事もあった。

 彼女らはクーデター前夜、皇帝の盾となってシャフト保安省と戦った。だが、大勢力だった情熱党は、保安省のラムダ大佐が建てた電撃作戦によって壊滅した。候補生も全員である。その作戦には、後方でマリスも参加していた。

 彼女達は例外なく片っぱしから逮捕され、抵抗した者はその場で射殺されていった。情熱党の音楽は当然のように演奏禁止とされ、シクトゥス議長の命令で大量の記録媒体、グラビアや革命に関する文献などのあらゆる貴重な書籍が焼かれたのだ。

「追え! 何としても俺の前に引きずり出して来いッ! 保安省の権威にかけてあの破廉恥な輩を捕らえろ」

 議長も参加しているパーティに水を差されたホスト役のハウザー長官が怒鳴り、保安部員たちが夜の街を走る。巨大な漆黒の鷲が、逃げながら踊る彼女の脇を通り過ぎていく。

 情熱党は滅亡した。混乱の続く暗い時代のさ中、ゴールデンキャットガールだけがかつての情熱党の輝きを継承した。当然ながらクーデター直後に出現したゴールデンキャットガールは、見る者全てを驚嘆させた。一体このご時世に誰がこんな事を? 有力メンバーで生き残った者の中に、あのキャットガールの風貌を持つ者はいない。

 今夜は危険を賭してでもキャットガールになりたかった。それは、皇帝と情熱党への弔いのダンスをしなければ気が済まなかったから。あの皇帝の目を見た瞬間から、慈悲深い深緑の瞳。それを忘れたい。そして何よりずっと頭にこだましていた、「逃げろ」という何者かの悲痛な叫び声。ふっ切りたい。

 マリス・ヴェスタがキャットガールとして踊っていたのは、保安員を目指してここ一年余りの事。マギルドの忠実な使徒・マリスはずっと、皇帝の教義には否定的だった。だが、皇帝のフォロワーである情熱党の踊りと歌は好きだった。理性で否定しても感性がうずく。事件後の今も変わらずに。今日、なぜまた危険を冒してキャットガールになったのか。パーティで目の当たりにしたシャフトのアデプト達の俗物さ加減にうんざりした憂さ晴らし、それと皇帝への悼み。一介のマギルド構成員から憧れのシャフトメンバーに昇進した夜なのに、こんな矛盾した感情が自分の中に生まれて来るとは不思議だった。


…………


 赤く焼けただれた大地。空は薄暗く、冬曇りの夕暮れ。白い墨と化した巨大なユグドラシル(トネリコ)の枯れ木に、大量のどくろが引っかかっている。ヒューという風と共に髑髏がカラカラと乾いた音を立てて順番に地面に落ちてゆく。それを真帆は、誰かと一緒に見ている。隣の誰かは雰囲気だけの存在だが、女性であった。

 そうだ、世界は死んだ。ここはきっと地獄だ。あるいは地獄の門。隣に居るのは一体誰だろう。女性の様な気がしたが、結局それが誰かは分からない。

 目を開けると満天の星空だ。白く微笑んだ髑髏が浮かんでいる。しかしそれは髑髏ではなかった。巨大な月。真帆はしがみついていた浮遊物に仰向けになり夜空を見上げていた。あの大黒柱だった。空は晴れて波は静かだった。スーパームーンが間近に迫っている。明るくて海を見渡せるが、四海に陸は観えない。真帆は沖合まで流されたのだ。月の角度からいって、今は夜中の十二時ころだろうか、かなり沖に流されたらしい。

 満天の星空を見上げる。あぁ……美しい。大地は生きている。地震、津波。被災して真帆はガイアを感じた。あのラブロックのガイア仮説は、本当だったんだ。つまり地球は生きている。人間というちっぽけな生き物には巨大な生き物の上に乗っかって、そこに文明を築いて生活している事に気付かない。古石川で、かつてバナナボートで遊んだのが夢のようだった。

 白い光が胸の飛び込んできた夢のお陰で、まだ暖かかった。

 左腕につけているブレスのゴールドルチルを眺める。一昨年、豆生田教授がくれたものだ。パワーストーン代わりに着けていた。良かった。まだあった。

 古石川を襲った津波の光景はありありと焼きついている。

「逃げて……早く逃げて! 津波が来る。どうしてみんな、逃げないの」

 真帆はあの時、声を枯らして叫んだ。だが、助けられなかった。皆、津波の中に呑みこまれてしまった。皆、津波の中に呑みこまれてしまった。考えているうちに、時が尽きた。何も出来ないうちに。誰一人助けられなかった。

 どうして、みんな逃げなかったんだろう。逃げてくれなかったんだろう。助けられなかった。家族を助けに行った美咲は、助からなかっただろう。津波のときはてんでばらばらに逃げろ、その「てんでんこ」の教訓が言い伝えられていたのに、いざとなると忘れてしまう。何人かは真帆の言葉で逃げてくれただろうか。

 ……何も問題なんか起こらない。そうやって、誰もが何となく、昨日と同じ明日が来ると思うのだ。いや、たとえ問題があったとしても、たいした問題ではないと捉える。そう考えて、多くの人がずうっと同じ日常が来ると思い込んで、大いなる危機がそこに迫っていることに人は気づかない。たとえ地震があっても毎回テレビで津波に注意しろと聞くが、そのたびに津波が来ない。その繰り返しが続くうちに人は都合よく考える。避難しなくてもきっと大丈夫だ。そうして自宅に居たまま津波に流される。自然災害だ、それは分かっている。

 だが、彼らが一体何をしたっていうのか。あまりに理不尽。あまりに残酷じゃないか。何の罪もない人々なのに。彼らは、無実の罪で死んだ。殺された。


 理不尽だ、理不尽だ、理不尽だ……!


 あの夢……アリーナの受刑者が土砂にのみ込まれて死んでゆく。異世界で起こった焚書坑儒。為政者の方が悪人で、受刑者はみんなえん罪だった。彼らは無実の罪で死んだのだ。なんで、なんであんな夢を見たんだ。恐ろしくリアルで残酷な明晰夢。ひょっとして臨死体験か。きっとこの津波のせいだろう。

 それにしても、どうして夢の中で自分は悪人側なのだろう。納得がいかない。名も、マリス(malice)か。英語で「悪意」。顔も悪人そのものだ。まるで、メデューサのように広がった金髪が揺れる様。

 何か情報が欲しい。とはいえ、ここは古石川沖合の海。四方見渡しても何もない。そうだ。ステンカラーコートのポケットの中に確か鉱石ラジオが入っていた。鉱石ラジオは電源不要、水にぬれても大丈夫。良かった。だいぶ乾いている。しばらくいじっている内に音が聴こえて来た。最初の局は、「蛍の光」を流していた。夢の中で、確かそれは「久しき昔」という名の曲だった。

 ニュースを探して周波数を変えると、ラジオは東日本一帯を襲った地震と津波の惨状を伝えていた。だがこの様子では、とても真帆を発見してくれそうにない。その内、ラジオは天音暁子の曲を流し始めた。姿を消した伝説のソプラノ歌手の声を聞きながら、真帆はかろうじて生きている事を実感した。

 だが、今後も生きていく気力はなかった。胸の温かさは意識がはっきりするにつれ消え、今度は寒さで震える。きっと低体温症で助からない。このまま死ぬだけだ。


「もう、生きられない」

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