最後の終わり

 春の陽射しは重さのない雨みたいに、柔らかく地上に注いでいた。仕事の途中だとでも言いたげに、風が急いで吹きすぎていく。空気の層が薄く剥がされたように、そこにはかすかな冷気が感じられた。

 ハルは大きく、そっと息をすいこむ。そうすると、少しだけ体が軽くなったような気がした。もちろん、そんな気がするだけのことだ。地球の重力はそう簡単に変化したりはしない。でも、そんな気になれるのが春のよいところだった。

「――準備はいいのか?」

 玄関の扉が閉まる音がして、父親の恭介が鍵を閉めながら声をかけてきた。ハルはその先に、一人で立っている。何となく、入学式に向かう日の朝みたいでもあった。

「うん――」

 と、ハルは体の向きを変えてうなずく。

「父さんこそ大丈夫なの? 免許証とか、ガソリンとか」

「……うむ」

 恭介は逆らいもせず、ポケットを探って財布を取りだし、車のドアを開けてメーターを確認した。「問題ないな」

「じゃあ、行こうか」

 二人が車に乗ると、エンジンがかけられた。春の微睡みから覚まされたような鈍い音を響かせて、エンジンは回りはじめる。車はゆっくりと、玄関先から道路のほうへと向かった。

 フロントガラスから射しこむ光が変化して、コップの水を傾けたみたいに影の位置が動いていく。粒の丸くて大きな光が、そこら中を輝かせていた。ちょうど、春の真ん中にでもいるような感じに。

「……俺は魔法使いじゃないから本当のところはわからないんだが、いくつか気になることがある。そもそも、その牧葉清織という男は何をしようとしているんだ?」

 車が通りに入ったところで、恭介はハルに向かって訊いた。

「それはまだ、わからないんだ」ハルは前を向いたままで答える。「あの人にとってこの世界は不完全すぎる、ということ以外は。でも、だからといって何もかも壊してしまおうっていうわけじゃないと思う。あの人は、たぶん――」

「たぶん?」

「――物語の形を、正しくしたいんだよ」

 恭介は道路のカーブにあわせて、わずかにハンドルを切った。もちろん魔法使いでない彼にとって、話のすべてを理解できるわけではない。

「しかし、その男は危険じゃないのか?」

 坂道を降りた赤信号で、車はいったん停止した。

「よくわからんが、世界を自由にできるほどの魔法が使えるんだろう?」

 ハルはちょっと眠るような姿勢でシートにもたれていたが、やがて口を開いた。

「それはたぶん、大丈夫だと思う」

「――何でだ?」

「力の差がありすぎるからだよ」

 信号が変わって、車は発進した。

「ライオンはウサギを狩るのには全力を尽くすかもしれないけど、ハエを追うのに無駄な力を使ったりはしないだろうから」

 道なりに進むうち、建物が増えて、車の数は次第に多くなっていった。いつもながら、世界には不思議なほど大勢の人間が暮らしていた。

「……未名がいれば、お前の力になってやれるんだろうがな」

 と、恭介は不意に言った。ずいぶん昔、とある魔法使いからそんなことを言われたことがある。「ハル君の、力になってあげてください」と。けれど魔法使いだった母親とは違って、恭介にそれは無理な話だった。

 街中で、ちょうど信号が赤に変わった。歩行者用の横断歩道で、くたびれた心臓みたいな電子音が響く。老人や若者や子供が、それぞれのペースで道を渡っていた。

「――父さんは、どうして母さんと結婚したの?」

 空中に何かが書かれているのに気づいたとでもいうふうに、ハルは言った。

「ずいぶん唐突だな」

 恭介は笑う。そして光の落下点でも追うように、前のほうを見つめた。

「今度ゆっくり話してやる、と言いたいところだが――さて、何でだったかな」

 信号が変わり、時間はのろのろと流れはじめた。車は加速を終え、流れの速さは一定する。風景は同じ足どりで通りすぎていった。開いた窓から、音を立てて風が吹きこんでいる。

 ――やがて、恭介は言った。本当なら、すぐにでも答えられたその言葉を。

「未名は確かに、世界を愛していたよ。それがどんなに不完全なものだったとしても――だから俺は、彼女のことを好きになったんだ」

 世界は無言のまま、ただその役割と法則に従って運行され続けていた。重力は見えない力で働き、光は絶対速度で直進していく。季節はやがて、春の終わりへと向かうだろう――

 その時、どこからか桜の花びらが一枚、車内に舞いこんできた。ほとんどの桜は散ってしまっていたけれど、どこかにまだ花が残っていたらしい。

「――春だな」

 と、恭介はその小さな花片を見て言う。

「もう、しばらくはね――」

 ハルは花びらをそっと手で受けとめて、答えた。

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