その同じ日の午後半ば、アキは自転車で鴻城の屋敷へと向かっていた。背中にはヴァイオリンのケースを背負っている。本当なら車で送ってもらいたいところだったが、母親はサクヤと弟を連れて遊びに出かけてしまっている。ひどい話だった。

 何とか屋敷までやって来ると、アキは自転車をとめて階段をのぼった。あたりはもう、夏の訪れを感じさせるほどの気温である。光の弾む音が聞こえてきそうな陽射しで、自転車をこいでいるとちょっと汗ばむくらいだった。

 屋敷の中庭を通りぬけようとすると、そこにはウティマがいた。以前と同じようにテーブルに座って、何かを手元で動かしている。机の上には何だかよくわからない、奇妙なものが置かれていた。

「――何をしてるんですか?」

 アキはちょっと足をとめて、訊いてみた。

 テーブルの上に置かれているのは、三本の細い杭が立てられた台だった。杭の一番左には、何枚もの円盤がピラミッド状に差しこまれている。右の二つの杭にも同じように円盤が積んであったが、こちらは左よりも山が小さかった。

「パズルじゃよ」

 と、ウティマは短く答える。

「……パズル?」

 言われて、アキはなおも作業を続けるウティマを観察してみたが、どういうルールがあるのかはさっぱりわからなかった。

「簡単に言うと、山を左から右に移すゲームじゃな」

 ウティマは手をとめて、アキのために説明してくれた。

「動かせる円盤は一度に一枚だけ。円盤は必ず杭に差しこまねばならん。ただし小さいものの上に大きなものを置くのはルール違反じゃ。その条件で、山をそっくり別の場所に移してしまう。『ハノイの塔』とも呼ばれておる」

 実際に、ウティマはそれをやってせた。三本の杭をうまく使って、大きい円盤を徐々に移動させていく。二歩進んで一歩下がる要領だった。

「ああ、なるほど。左の山も置き場所に利用するんですね」

 とアキは何となく納得した。

「そうじゃ、作業そのものは単純で、機械的にこなすことができる。ところが、このパズルを解くことはできないんじゃよ」

「どうしてですか?」

 アキは首を傾げた。解法がわかっているのに解けない問題なんてあるのだろうか。

「――あるのじゃ、それが」

 円盤は右に動き、左に動き、また右に動き、また左に動く。盆に載せられた水を、零してはまた、すくいとっていくみたいに。

「この一つの円盤を動かすのに、常に一定の時間を消費すると仮定しよう。パズルを完成させるために必要な最小手数はわかっておる。すると必然的に、完成までに要する時間が算出されるわけじゃ」

「なるほど」

 わかっているのか、いないのか、アキはうなずいている。

「円盤の数によっては、計算された時間は人の一生どころか、地球がなくなるまでの時間がかかっても終わることはない。つまり、事実上完成は不可能ということじゃ。完成することはわかっておってもな」

 ウティマの話を聞いて、アキはあらためてテーブルの上に置かれたパズルを見つめた。妙な話だった。神様がいても、できないことはあるらしい。

「――でも、だったらどうしてそんなパズルをしてるんですか?」

「何、ただのじゃ」

 そう言って、ウティマはまた円盤の一つを動かす。アキは首を振って、とりあえずその場を立ち去ることにした。少なくとも今のアキには、解けないパズルにつきあうほどの時間はない。

 中庭を抜けて、アキは東屋のほうに向かった。庭の草花は自分勝手に成長しているようで、どこか乱雑な印象がしている。暇を見て来理が世話をしているはずだったが、片手間の仕事としては手に余るのかもしれない。

 アキが東屋をのぞいてみると、ちょうどそこには来理がいた。例の魔術具はほとんど修復が完了していて、あとは大きなパーツ同士をつなぎあわせるだけになっていた。

「来理さん、こんにちは」

 と、アキは声をかけた。来理が気づいて、顔をあげる。そこにいるのがアキだとわかると、彼女はひどく自然な笑顔を浮かべた。

「ずいぶん久しぶりな感じね、アキに会うのも。ここでずっと作業をしてると、自分の知らないうちに何年も時間が過ぎてるような気がするわ」

「タイやヒラメが舞い踊ってくれるとよかったんですけどね」

「ええ、本当に」

 来理は同意して、おかしそうに笑う。それから、

「魔術具のほうはすぐにでも完成するわ。でも、今日はサクヤはいないみたいだけど、どうしたの?」

「サクヤはうちの家族とお出かけです」アキはちょっとため息をつくように言った。「それで、わたしだけが仕事に来たんです。わざわざヴァイオリンのケースをしょって、自転車で」

「それはご苦労だったわね――でも、ということは本当にわかったのね? あの暗号のことが」

「もちろんです。そのためにここまで来たんですから」

 アキは言って、背中のケースを床に降ろした。そうしてその中から、一枚の楽譜を取りだす。

 わざわざアキがここまでやって来たのは、魔術具の試験運転をするためだった。暗号の解読には成功したはずだったが、実際に試してみなければわからない。

「その楽譜が、あの暗号の答えということ?」

 と来理は訊いた。解読のことも、試験運転のことも室寺から聞いてはいたが、詳しいことまでは知らない。

「そうです、実はあれは音楽だったんです」

 アキは自信満々で言った。


「Βρείτε τα τρία μάτια του δέντρου.

 12・9・8・6

 1‐72|10 / 551|D.C.720

 Α’|ΣΝΔ’|Ξ’|ΜΒ’|ΣΓ ’| ΦΑ’|ΤΟΘ ’|……」


 ――これが、例の暗号だった。

 冒頭の一文がオルゴールの曲を指していることは、間違いなさそうだった。そして結局、その楽器からの連想が数字の意味を解くヒントになっている。

 二行目の数字は、ピタゴラスの音律を示す数字だった。和音を得るための弦の比率を表していて、ここから十二音階を得ることができる。

 三行目の数字に関しては、オルゴールを調べたところ、櫛歯の数が七十二列、ピンの本数は問題の曲で総計、五百五十一本が数えられた。「1‐72」は櫛歯に割りあてられた数字、「10 / 551」はその櫛歯を弾くピンに関するものだと推測できる。

 そして「D.C.」は音楽記号の「最初に戻る」だった。つまり、を合計して、「720」で一回りさせろ、ということである。わざわざ「720」にしたのは、櫛歯の最大合計値がそれ以下になることを示唆してのヒントのようだった。

 最後のギリシャ文字は、数字を表している。「Α’」は「1」、「ΣΝΔ’」は「254」そんなふうに。それが五十組、用意されていた。これとオルゴールから得られた数字を合計してやれば、正しい数値が得られるのである。

 ただし最初の数字が「1」なのは、それが基準音になるからだった。ピンの数が一本だけ余るのも、それが理由である。最初のピンを除いて同一処理を実行すると、数字はすべて「12」以下に収まった。すなわち、十二音階である

 基準音の決定と記譜作業は、アキの母親が行った。彼女には音大の卒業生という肩書きがある。音色についての指定はなかったので、拍子や強弱といったものは彼女が適当に加味した。正確な音階を鳴らせば、曲としての体裁は必要ないのだろう。

 そうしてできあがったのは、平板で単純ではあったが、ひどく古代的な感じのする曲だった。どこかの遺跡や古い墓でなら、今でも発見できるかもしれない。

「――ずいぶん大変だったのね」

 かいつまんだ説明を聞いたあと、来理は大きく息をついた。話を聞くだけでも、なかなか大変そうである。

「すごく苦労した――って言ってました」

 アキはにこにこして答える。実際に苦労したのは、彼女の友達と数学教師である神坂柊一郎ではあったけれど。

 やがて魔術具の修復が完了して、実際に試してみることになった。そうしてアキがヴァイオリンを取りだそうとすると、室寺が東屋にやって来ている。この男はいつになく重々しい雰囲気で、そこに立っていた。

「何かあったんですか、室寺さん――?」

 来理はそのことに気づいて、やや慎重な口調で訊いている。

 ちょっと迷うように口を閉ざしていたが、室寺はやがて言った。

「今入った報告によると、らしい」

 まるで独り言でもつぶやくみたいにして、室寺は続けた。

「ただしウティマによれば、それは消滅したんではなくて拡大したんだそうだ。世界全体が、完全世界の領域にすっぽりと収まるくらいに、な。つまり、もう時間はないということだ。牧葉清織の言いぶんに従えば……ことになる」


 ――そして、最後の日はやって来た。

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