一通りの話が終わってしまうと、世界は急速に静かになったようだった。今や、世界は魔法によって自由に組み変えが可能な状態なのだという。子供が積み木で遊ぶみたいに。そしてそれは、いつ起こってもおかしくない。

 そんな中で、ウティマだけが優雅に紅茶をすすっていた。

「――それで、俺たちはいったいどうするんです?」

 ナツはとりあえず蓋を開けて中身を確認するみたいにして訊いた。何にせよ、それを決めなければならない。

「追う……しか、ないだろうな」

 と、室寺は少し疲れた声で言った。どれほどの戦闘でも我を折らない男が、この話の展開にはいささか困惑しているようでもある。

「やつが世界をどうにかするのを、ただ黙って見ているわけにはいかない。例えそれで、世界が完全になるとしても、な」

「でも、その人がどんな魔法を使えて、何をしようとしてるのかもわからないんですよね?」

 アキがちょっと困ったように訊く。

「それに、室寺さんは現状では戦闘不可能なはずじゃ」

 とハルも戸惑うように言った。室寺が〈英雄礼讃〉を使えないとすれば、こちら側の戦力は存在しないも同じである。

「……何にせよ、俺たちは現在できることをやるしかない」

 室寺はちらっと、ウティマのほうを見た。が、もちろん世界そのものであり傍観者でもあるこの少女は、何の助言も口にすることはない。

「佐乃世さんが〝ウロボロスの輪〟の修復を完了次第、やつを追って完全世界へ向かう――!」

 どちらかといえば自分を鼓舞するように、室寺は言った。けれど、

「それはけっこうじゃがの――」

 とウティマが不意に口を挟んでいる。

「魔術具が復元できても、がなければ向こう側には行けぬぞ」

「何だ、その鍵というのは?」

 出鼻をくじかれた形になって、室寺は不満そうな顔をした。

「我からはそれが何かは言えぬ。牧葉清織は独力でそれを見つけたのじゃからの。それでは公平を欠くというものじゃろう?」

 痛みいる、というふうに室寺は肩をすくめた。下手に天秤をあわせようとして、いつのまにか皿の上のものがなくなっていないことを祈るのみだった。

「これで問題が一つ増えたわけだ。天国の鍵なら、確かどこかの聖人に与えられたはずだが」

 室寺はうんざりした様子で言った。が、その時、不意に神坂が口を開いている。

「そのことについてなら、問題はない」

「何だと?」

「どうやらその鍵とかいうものは、もう持っているらしいんでね」

 神坂はそう言って、一枚の紙をテーブルの上に置いた。

「これは?」

 三つ折りになったそれを開きながら、室寺は訊いた。

「暗号だよ。そこの世界さんの言う、鍵についてのな」

「どこから、これを?」

 紙面に目を通しながら、室寺は言う。出自は信頼できるのか、という意味だ。

「牧葉澄花という少女からもらった。彼女は、牧葉清織の妹だ」

「何で、妹がそんなものを?」

 ナツがうさんくさそうに訊ねる。

「彼女の心は、俺には読めなくてな」

 神坂は苦笑気味に答えた。難解な数式の答えでも求められたみたいに。

「ただ、おそらくは本物だろう。俺も今まで、何のためのものなのかずっとわからずにいたが」

「ふむ――」

 と室寺はその紙をのぞきこんでいたが、やがて紙ひこうきでも放るように、それをテーブルの上に置いた。

 紙には、こんなふうに書かれている。


「Βρείτε τα τρία μάτια του δέντρου.

 12・9・8・6

 1‐72|10 / 551|D.C.720

 Α’|ΣΝΔ’|Ξ’|ΜΒ’|ΣΓ ’| ΦΑ’|ΤΟΘ ’|……」


「最初のは、『三本目の樹を探せ』というギリシャ語らしい」神坂はみなに向かって説明した。「ただ、あとの数字や記号のことはさっぱりわからん。おそらく暗号だろう、ということ以外にはな」

 当然ながら、その意味がわかる人間はその場には誰もいない。

「だが、こいつを解かないかぎり俺たちはやつに会うことさえ叶わないわけだ」

 室寺は嘆息するように深くイスにもたれた。

 どこかの厄介な結び目なら剣で叩き切ればいいだけだが、もちろんこれはそんなわけにはいかなかった。世界の支配者になるのも、なかなか難しい話ではあるらしい。


 いくら紙を眺めていたところで結び目がほどけるわけでもないので、室寺はイスから立ちあがった。この男は、ほかにもやらなければならないことを抱えている。天空を支えるほど厄介ではないにせよ。

「とりあえず、俺は委員会への報告やら事後処理をしなけりゃならん。もしかしたら、向こうから助言をもらえるかもしれんしな」

 あまり期待はしない様子で、室寺は言った。実際、名ばかりの会長はウティマのことさえ報告してはいないのである。

「その暗号については、お前たちに任す。それと、佐乃世さんは――」

「魔術具の修復ね」

 心得ている、というふうに来理は言った。

「ええ、できるだけ急いでもらえると助かります」

「……とりあえず、努力はしてみるわ」

 室寺は連絡のために部屋をあとにし、来理も中庭のほうへと移動した。その場には、子供たち四人に、神坂と朝美、それに高みの見物を宣言しているウティマだけが残っている。

「――暗号といっても、これだけだとどう解いていいのかわからないけど」

 ハルは何とかとっかかりをつかもうと、その文面に目をやった。暗闇で手探りをして明かりのスイッチを探すみたいに。

「最初の一文が何かのヒントになってるのかもな」

 ナツも頬杖をつきながら、とりとめなさそうに言った。

「神坂先生は、何か知らないんですか?」

 とアキは訊いた。この暗号を直接渡されたのは、この男である。が、神坂は簡単に首を振った。

「さっきも言ったとおり、俺はこいつを渡されただけでな。もちろん意味はわからん」

「……もうちょっと頼りになってもいいんじゃないですか?」

「期待にそえなくて申し訳ない」

 あまりそう思っているふうでもなく、神坂は言った。

「何しろ、このことについて調べていたのは、牧葉清織と鴻城希槻本人、透村操老人くらいのものだったからな」

 ああそうですか、というふうにアキはそっぽを向いた。やはり、この問題は何のヒントもなく解かなければならないらしい。

 けれど――

「透村操……?」

 と、ナツはつぶやいている。

 それは、どう考えても心あたりのある名前だった。三年ほど前、ナツはその老人の魔法によってずいぶんな騒ぎに巻きこまれたのだ。そのせいで、結社や委員会と関わりを持ち、ある少女を家に住まわせることになった。

 あの時、あの少女は何と言っていただろう――

「……オルゴールだ」

 と、ナツは思い出した。

「何のこと?」

 ナツのつぶやきに、隣のフユが不審そうな顔をする。

「確か、あいつがそんなことを言ってたはずなんだ。秘密だって言ってな。もしかしたらあれは、完全世界への鍵だというこの暗号と何か関係があるのかもしれない」

 ナツは真剣な顔で、その時の記憶を引っぱりだしながら言った。

「あの老人の孫ということなら、ありえるな」神坂はうなずいてみせる。「……だが、オルゴールとは何のことだ?」

 言われて、ナツは肩をすくめるしかない。

「さあ、そこまでは。何しろ予言の有効期間はもう過ぎてるみたいなんで」

 けれどその話の最中、アキは何事かをぶつぶつとつぶやいていた。

「鴻城希槻、遠くの島国から来た男、百年以上前、オルゴール……」

 何かが、アキの中でひっかかっていた。というより、今までずっと胸にわだかまっていた何かが、さらに深くまで沈んだ、という感じだった。息をとめて海に潜って、もう少しで底の砂地に手が届くというくらいまで。

「――そうだよ、博物館だ」

 買い物に頼まれていた食材でも思い出したみたいに、アキは言った。

「ねえハル君、覚えてるでしょ? 博物館だよ。鴻城って人は、きっとあの柏崎のことなんだよ」

「何のこと……?」

 急に言われても、ハルには何のことかわからなかった。

「もう、忘れちゃったの?」アキはひどくもどかしそうな表情を浮かべる。「ほら、わたしたち博物館に行ったでしょ。その時、オルゴールを聴いたし、鴻城って人のことも見てるんだよ。魔法の種を持ってきたって人のことも――」

 説明しながら自分でもちょっと無理があると思ったのか、アキはいったん口を閉ざした。そして少し考えてから、朝美のほうに向かって言う。

「あの、鴻城希槻って人の写真はありますか?」

「……どうして、そんなことを?」

 朝美はちょっと戸惑うような感じで訊きかえした。

「もしかしたらわたし、その人のことを知ってるかもしれないんです」

 もちろん、水奈瀬陽が鴻城希槻のことを知っているはずはなかった。二人のあいだに接点が存在するとは思えない。それは地球が木星のまわりをまわっているくらい、ありえないことだった。

 それでも、朝美はともかくその頼みを聞いてやることにする。パソコンを操作して、鴻城の写真を表示した。手元にある唯一の写真である。

 その画面を、アキはじっと見つめた。

「やっぱりそうだよ、ハル君も見たことあるでしょ?」

 と、アキはハルに呼びかけた。ハルもその写真を見て、確かに見覚えがあることに気づく。

 そう、それはつい一週間ほど前のことだった。二人は歴史博物館を訪れたのだ。そこでは、百数十年前に題材をとった特別企画展が行われ、写真も飾られていた。その写真と、現在画面に映しだされている人物は、どう見ても同一人物なのである。新月の闇に包まれたようなその風貌は、簡単に見間違えるものではない。

「……何のことなの、それ?」

 話についていけずに、フユが戸惑うように言った。ほかの人間にしても、反応は同様である。

「朝美さん、歴史博物館のホームページを開いてもらっていいですか?」

 順序立てて説明するため、アキはまずそのことを頼んだ。

 うなずいて、朝美は言われたとおりの操作をする。表示された公式ページから、アキは今回の特別展に関するところに移ってもらった。そうしてその中から、柏崎とシャムロック・L・ヘルンを並べた写真を見つけだす。

 そこにさきほどの鴻城希槻の写真を表示させ、みなのほうへと示した。

 白黒とカラーの違いはあったが、確かにそれは同一人物だった。古代のシンボルめいた特徴のあるその顔は、他人の空似ということはありそうもない。

「柏崎希槻が婿入りして、鴻城希槻になったというわけか」

 神坂は冷静にそう分析した。「――だが、それがどうしたというんだ?」

「ええと、だからあれですよ」

 アキはページを操作して、それを見つけだす。

「……オルゴールです」

 画面には、あの日二人が実際に見て音楽も聞いた、古いオルゴールの写真が載せられていた。表面には二本の樹を図案化した装飾が施されている。

「わたし、部活で調べものをしてたからよく覚えてたんです。だからオルゴールって言われたとき、これを思い出して。それに年代も、外国の人からもらったっていうのも、話としてはぴったりだったし」

「だが、これが問題のオルゴールだと――オルゴールが問題だとして、だが――何故、そんなふうに言える?」

 数学教師らしく、神坂は証明に厳密さを求めた。

 が、アキにはそんなものは通用しない。

「ほかにいったい、何があるっていうんですか?」

 身も蓋もない反駁に、神坂は口を閉ざしてしまった。どうやらこの少女には、ややこしい結び目も謎めいた神託も、ほとんど意味がないらしい。

「オルゴールはきっとこれで間違いありません。あとは実際に手にとって、調べてみるだけです」

 アキはそう宣言して、ナツのほうを見た。何故か、にっこりとした笑顔を浮かべて。

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