いきなり声がしたのは、ちょうど暖炉の手前からだった。見ると、そこには一人の少女が立っている。

 古典派絵画に登場するような、神秘的な雰囲気をした少女だった。額には朱印があって、雪にも似た白い髪をしている。古風なドレスを身にまとっていた。

 当然、八人は謎の少女の出現に慌てた。立ちあがって、すばやく距離をとる。何しろ、何の気配も予兆もなくそこに存在していたのである。白い手をした狼が侵入してきたどころの騒ぎではない。

「心配せずとも、我は敵ではない」

 けれど、少女はひどく落ちついた声で告げた。

「もっとも、味方というわけでもないがの」

 周囲の当惑をよそに、少女は当然のような顔でその場の全員を見渡している。

「――誰なんだ、あんたは?」

 室寺は最大限に警戒しながら訊いた。とりあえず、この少女がただの女の子でないことだけは確かである。

「我か、我はウティマじゃ」

 と少女は、いつぞや祖父江周作に対してしたのと同じ答えをした。

「ウティマ?」室寺はメモに書かれた読めない字でも眺めるように言った。「いったい、何者だ?」

「我は世界じゃ。お主らにもわかりやすく言うなら、〝世界〟という魔法じゃな」

「……悪いが、もう少し説明してもらいたいんだがね」室寺は力なく首を振った。「どうも、わかりやすすぎたみたいだ」

「よかろう」

 と、ウティマは嫌がりもせず説明を続けた。

「お主らも知ってのとおり、つい先頃に完全世界が誕生した。正確には、つながったというべきじゃがの。だがこの不完全世界と完全世界が重なった以上、そこに巨大な揺らぎが発生するのは至極当然のことじゃ。その揺らぎは〝世界〟という名の一つの巨大な魔術具によって、我を顕現させた。つまり、我は世界そのものなのじゃ」

 室寺はどんな表情を浮かべていいのかもわからないまま、首を振った。奇妙な化学実験でも見せられたときみたいに。目の前の少女が世界そのものだと言われても、簡単に信じられるわけがない。

「佐乃世さんは、何か知っていますか?」

 助け舟を求めるように、室寺は訊いた。

「私は百科事典ほど物知りじゃありませんからね」

 来理も困ったように首を振る。彼女だけは座ったままだった。が、それは単にすぐ動けなかったからにすぎない。

「立ち話もなんじゃから、お主らもイスにかけるがよかろう」

 と言いながら、ウティマは右手を持ちあげて指を鳴らした。

 一瞬、その場にいた全員が、動きと音に気をとられる。同時に、かすかな魔法の揺らぎが感じられた。

「――せっかくじゃから、お茶でも用意しての」

 ウティマがそう言ったとき、テーブルの上にはいつのまにか人数分のティーセットが用意されていた。各自にカップとソーサーが配られ、そこにはすでに紅茶が注がれている。白い湯気が立ち、もちろん香りも漂っていた。

 唖然とする八人を尻目に、ウティマはテーブルの中央に席をとった。そうして、白鳥が羽づくろいでもするみたいな優雅な仕草で紅茶に口をつける。

 まともに思考しても埒が明きそうになかったので、全員が大人しく席に着いた。「砂糖は銘々で好きなだけ入れるがよい」とウティマは言う。

「――あ、美味しい」

 アキはカップに口をつけて、素直に感想をもらした。実際には、それはかなり勇気のある行動だったが。

「こいつはいったい、どこから用意したんだ?」

 室寺は疑りぶかそうに手元の紅茶を眺めながら言った。今にも葉っぱか何かに変わってしまうんじゃないか、というふうに。

「世界というのは、お主たちの頭によって認識されるものじゃ」

 と、ウティマはのんびりとした様子で、ひどく迂遠な話をはじめた。

「物体を触知したとき、お主たちの手がその固さや形状、重さや温度といった情報を脳に送る。それらの統合が、物体の本質じゃ。じゃが、そこにはあくまで情報があるにすぎん。ならば、情報だけを頭に送ってやればどうなる? 当然じゃが、お主たちはそれを実在と信じる。というより、実在と情報、その二つを弁別することは原理的に不可能なのじゃ。〝そこに紅茶がある〟という情報が完全に与えられれば、お主たちはそれが本物か幻か、区別することはできぬ」

「……つまり、このカップも紅茶も、だっていうのか?」

 室寺は憮然とした顔で言った。

「いや、これはこの屋敷にあったものを拝借しただけじゃ」

 とウティマは鈴でも鳴らすようにころころと笑った。

「じゃが、それを証明することは不可能だというだけの話じゃよ。さっき説明したとおりにの……このこと、何かに似ていると思わんか?」

 いたずらめいたその問いかけに、ハルが小さくつぶやいた。

「――魔法だ」

 その答えに、ウティマは目だけで微笑んでみせる。幼児がはじめて言葉を口にしたときみたいに。

「そうじゃ、魔法が組み変えておるのがか、か、その区別はできぬ。原理的にの……じゃが、これはただの戯言じゃ。そろそろ話を本題に戻すとしよう」

 余計なことを話しすぎた、とでもいうようにウティマは言った。

 八人はいったん腰を落ちつけなおし、互いの様子をうかがった。この中の誰一人として、事態を正確に把握できている人間はいない。濁った水の下でものぞきこむみたいに。

 だがともかく、室寺が代表して質問することになった。

「あんたはさっき、自分は敵でも味方でもないと言ったな?」

「うむ」

「あれは、どういう意味なんだ?」

「そのままの意味じゃよ」

 ウティマは何の衒いもなく答えた。

「我はただ、世界のを見届けるために現れたにすぎん。その運命に干渉するつもりはない。ただし、それはできるだけ公平に決められなければならんがの」

「どういう意味だ、公平というのは?」

 訊かれて、ウティマはにやっと笑った。いたずらを見破られた子供のように。あるいは、それを仕かけようとする子供みたいに。

にしても、それはできるだけ偏りのないものであることが望ましいじゃろう? 世界がこのまま不完全であるにせよ、あの男の望む完全を実現するにせよ、どちらにしても。我はその調に来たのじゃ」

 室寺は諦めるように首を振って、肩をすくめた。

「とんだ機械神デウス・エクス・マキナだな」

「そう、我は決定するためでも、裁決するためでも、指示するために顕現したわけでもない」

 ウティマはまじめな顔で言った。

「我はただのなのじゃ。物語とその終焉を見届けるためだけの存在。だからすべては、お主たち次第じゃ。お主たちと、牧葉清織のあいだ次第でのこと――」


 ウティマの言葉を聞いて、八人は一様に押し黙った。世界は急にいくらか重くなったようでもある。それは、神様がどこかにサイコロを置いたぶんなのかも知れなかった。

「そんなわけじゃから、お主たちが知っておくべきことは我がここで教授しておいてやろう」

 と、ウティマは最初に告げたことを再び口にした。

「――ずいぶん気前のいい話だな」

 室寺はため息をつくように言った。実際、そんな気分でもある。ここで話を聞けば、サイコロの確率調整に利用されるのを了承するということでもあった。だが、手持ちの情報は十分とはいえない。

 敵でも味方でもなくとも、今はこの少女に頼らざるをえないのが実情だった。

「……まず、我のほうから少し話をしておこうかの」

 ウティマはちょっと考えながら言った。

「そこの庭で壊れている〝ウロボロスの輪〟について」

「〝ウロボロスの輪〟?」室寺が首を傾げる

「お主たちが希少系と呼んでおる魔術具の一種のことじゃ」

 ウティマは指先で、草についた朝露にでも触れるみたいにちょんと虚空を押した。するとテーブルの上に、手の平くらいの映像が浮かびあがっている。立体映像になったそれは、壊れる前の魔術具を示しているのだろう。今度は誰も驚いたりはしなかった。

「この魔術具は完全世界へ到るための通路になっておる。ただし、これが作られたのはごく最近の話じゃがの」

「魔術具って、作れるんですか?」

 アキが何気なく質問した。彼女の聞いたところでは、その制作方法は久しい以前に失われているはずだった。

「それを作るのは、それほど難しいことではない」言って、ウティマはナツのほうに視線を向ける。「例えば、そこのわらべの魔法を考えてみるとよい。何かに似ておるとは思わんか? そやつの魔法は既存の物品の再現に留まっておるが、その性質が少しでも異なっておればどうなる。魔術具を作れるじゃろう。つまり、魔術具を作るためにはその魔法があればよいのじゃ。ただしこれは、お主たちが普遍系と呼んでおるものに限られるがの」

「希少系は違うといういのか」

 室寺に訊かれ、ウティマはうむとうなずいた。彼女が立体映像に軽く手を触れると、映像は夜の星空めいた速さでゆっくりと回転をはじめる。

「こうしたものは、普遍系のものとは違って大量生産は不可能じゃ。何故なら――」ウティマは短く言葉を切ってから、言った。「希少系の魔術具には、使が必要だからの」

 かたん、と音がして室寺は突然立ちあがっていた。今すぐにでもウティマに食ってかからんばかりの様子で。

「なら、なら――?」

 室寺は自分を引き裂こうとでもするかのような声で言った。

「お主にとっては残念な話じゃがの」

 とウティマは気の毒そうに首肯する。

 室寺は呆然とするように魔術具の映像を見つめた。それはかつてよく知っていた人物の、変わりはてた姿でもあったのである。

「こいつは、新真幸雅の魂でできているということか――あの人の、空間に穴を開ける〈虚構機関〉で」

 最後につぶやくように言って、室寺は再び腰をおろした。その事実は、室寺がずっと抱えてきたものに終わりをもたらしていた。それが完成されたのか、破壊されたのかはわからなかったが。

「そう――」

 ウティマはあくまで淡々と、落ちついた声で続けた。

「これは、鴻城希槻が長年に渡って探しておった魔術具じゃ。床にあった完全世界への座標をあわせる部分と違って、そちらはもう失われてしまっておったからの。やつは古書を漁り、輪を復活させるための方法を調べあげた。そして、最近になってようやくそれは完成した……」

「そもそも、鴻城希槻は何のためにそんなものを必要としたんだ?」

 消沈した様子ながら、室寺は訊ねた。

「そのきっかけは、かれこれ百年以上前に遡るの」

 と言って、ウティマは鴻城と櫻のことを簡単に説明した。彼女が不治の病に冒されたこと、〈楽園童話〉による魔法、〝停止魔法〟とその副作用、完全世界を求め、結社を作ったこと。

「あやつに完全世界のことを教示したのは、はるか海の彼方にある島国からやって来た男じゃ。完全世界にある〝完全魔法〟のことをの。その男はやつに種を渡した」

「種……?」

「言うなれば、それが〝完全魔法〟のじゃ」

 ウティマはテーブルの上に浮かぶ映像を、ぴんと指で弾いた。途端に映像は粉々になって砕け、代わりに何か丸いものが出現する。奇妙な幾何学文様の刻まれたそれは、実際には球体ではなく正二十面体になっていた。

「じゃが、この魔術具はいささか特殊なものでの。植物と同じく土に埋められなければならん。ただしそれは、どこでもよいというわけではない。場所を選ぶのじゃ」

「それが、この天橋市だったと?」

「この町にほかの土地よりも比較的に大勢の魔法使いがおるのは、そのためじゃろうな。あるいは、〝完全魔法〟による何らかの影響なのかもしれぬが……」

 ウティマは言って、続ける。

「〝完全魔法〟は大地に埋められたあと、自ら完全世界を創りだし、そこに根を張る。そして植物と同じように、成長するのじゃ。完全世界と不完全世界の境界である壁が拡大するのは、そういう理由によっておる」

「だが今、それは停止している」

「うむ――」

 ウティマは少し難しい顔をして言った。

「牧葉清織が向こう側で何かをしておるようじゃが、いかんせんあちらのことは我にもよくわからなくての」

「――やはり、やつが鴻城希槻を?」

 室寺が慎重に訊くと、ウティマはいったん口を閉じて間を置いた。そしてカップを手に取って、これ以上は不可能なほど優雅に口をつける。すっかり冷めていたはずの紅茶からは、澄ました顔で白い湯気がのぼっていた。

「確かに、鴻城希槻を退けて向こう側へ渡ったのは、牧葉清織じゃ。あやつが鴻城を出しぬき、すべてを奪った。その際、あやつは〝ソロモンの指輪〟も譲渡されておる」

「何なんだ、そいつは?」

「完全世界の王たる証になる指輪じゃ」

 ウティマはすっ、と右手を示してみせた。その人さし指には本物と同形の指輪がはめられている。

「これがなければ〝完全魔法〟を扱うことはできぬ。そしてこの魔術具は、自然を支配する圧倒的な攻撃力も秘めておる。ただしこの指輪は、本人の意志がなければ外すことができぬがの」

「鴻城がそんなものを持っていたなら、やつはどうやって勝つことができたんだ? そもそも、やつには〈悪魔試験〉がかかっていたはずだ」

 ウティマが音楽の指揮でもするみたいに軽く手を振ると、そこにはもう指輪も種もなくなっていた。

「牧葉清織は鴻城櫻を人質にとったのじゃ。それで鴻城の今までの苦労は泡と消えた。もっとも、それは十分すぎるくらいの泡ではあったがの――ただし、牧葉清織がどうやってそれを行ったかは、教えるわけにはいかんの。あやつが何をしようとしているのかも」

「何故だ?」

 室寺は顔をしかめた。

「それはというものだからじゃ。言ったとおり、我はお主らの敵でも味方でもないのだからの」

 ウティマはにべもなかった。

 小さな針穴から空気が少しだけもれるようにため息をついて、室寺はイスに深くもたれた。腕を組み、天を仰ぐように首を曲げる。

「――だが、一つだけ聞いておきたいことがある」

 と、室寺はやがて言った。釣り針にかかった雑魚でも見るような気のない顔で。

「その〝完全魔法〟とやらは、いったいどんな魔術具なんだ?」

 質問に対して、ウティマは何の問題もなく返答した。

「〝完全魔法〟は、魔術具じゃ。この魔術具があれば、いかなる魔法の制限、制約も解除され、完全化する――世界そのものを自由にできるほどに、な」

 ウティマはそう、簡単に答えた。

 子供のために、絵本でも読みきかせてやるみたいに。

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