ニニとサクヤの二人は、上空を飛びながらはっきりと異変を感じとっていた。自分の知らない体の一部が死んでいくような、そんな感じである。

 それがただの勘のようなものなのか、ホムンクルスとしての魔法的なつながりによるものなのかはわからない。

 ただ――

 鴻城希槻に何かがあったことだけは、確かだった。

 空に近づいたぶんだけ、風は冷たく、容赦なく吹きつけてきた。気位の高い人々が、物事に対して冷笑的になるみたいに。

 けれどホムンクルスである二人には、それは何の問題もないことだった。肺が氷りつくことも、寒さで四肢が麻痺することもない。古代の迂闊な少年のように、翼の蝋が溶けだすこともなかった。

 やがて二人の眼下では、本来閉じられているはずの空間が露出しているのが確認された。何かの傷跡にも似た感じで、〝ミノスの迷宮〟が破れられているのが。

「屋敷を守っていた魔法がなくなってる――!」

 ニニは、感情の薄いこの少年には珍しく、狼狽した声をあげた。

 その手がつかんだ先で、サクヤも笛の音に似た甲高い鳴き声をあげる。巨大な翼を一打ちして、二人は屋敷のあるその場所へと急いだ。


 庭園にある西洋風の東屋で、清織はあるものを点検していた。

 列柱に囲まれた円形の東屋には、そのスペースのほとんどを使ってある魔術具が設置されていた。〝ウロボロスの輪〟と呼ばれるもので、正確には二つの装置から成っている。

 床面にはホロスコープにも似た感じで一種の座標を表示する器械が埋めこまれ、それは少し前からある地点を指し示していた。その器械の上には、人が一人楽に通れるくらいの円形の輪が置かれている。両脇から支えをあてて、床面からはわずかにだけ浮かせてあった。近づいてみると、虹色をしたその不思議な材質がガラスなのだということがわかる。

 この一組の魔術具を使えば、完全世界へと到達することができた。だが鴻城希槻はそのための最後の鍵を見つけることができなかったため、そこに行くことはできなかった。どんなに小さな一歩でも、月に降りなければ刻むことはできない。

 そして清織はすでに、そのための鍵を手にしていた。

 あとは、その鍵を使って扉を開き、完全世界へと向かうだけだった。そこで、清織は自分の望みを叶えることができる。

 ただ、この世界に残った最後の用事をすませるために、清織は少しだけ時間を待つ必要があった。

 そうして、装置に何の問題もないらしいことを確認しているときのことである――

 上空から巨大な鳥のはばたくような音が聞こえ、かすかにだが清織のいる東屋にも風が流れてきた。何かが、すぐそこまでやって来たのだ。

 清織がその空間をあとにすると、そこにはちょうど二人の子供が到着したところだった。象ほどもある怪鳥の足から手を離して、ニニがまず地面へと着地する。次いで、波紋のような揺らぎを残して変身を解くと、サクヤも地面に飛びおりた。

 二人のうち、ニニのほうはすぐに清織のことに気づいてそちらを向く。サクヤは水面から急いで顔を出すような勢いで、例の部屋の扉を開けて中へと入っていった。

「――いない、二人ともいないよ。ニニ!」

 部屋の中からは、叫ぶようなサクヤの声が聞こえる。

 そのあいだも、ニニは清織のほうから目をそらそうとはしない。

「…………」

 清織はかすかに微笑んで、持っていた本を開く。念のため、いくつかの記述を書き換えておく必要がありそうだった。

「希槻さまも櫻さまも、どこにもいない……確かに、ここにいるはずなのに!」

 ニニのところに戻ってくると、サクヤは迷子の女の子が助けを求めるみたいにして言った。

「牧葉清織――」

 と、ニニは清織のことを睨みつけるようにして言った。声こそ普段と変わりはなかったが、サクヤにはこの少年が恐いくらい怒っているのがよくわかった。

「どうしてお前がここにいる?」

 そう言われて、けれど清織は落ちついている。窓の向こうの雨でも眺めるみたいに。

「知ってのとおり、僕は完全世界を求めている」

 清織はただ、それだけで十分だろうというふうに答えた。

「お二人はどこに行った?」

「鴻城希槻と鴻城櫻なら、もうこの世に存在しない」

「お前が、希槻さまを……?」

 ニニは声を落として質問する。そう訊くことさえ堪えがたい、というふうに。けれど、

「正確には違うが、そう言っていいだろう」

 と清織はあくまで平然としていた。

 その時――

 ニニの中で、何かが壊れた。

 おそらくそれは、とても大切なもののはずだった。誰もがそれを知っている。普通なら誰かが、それをどう呼ぶのかを教えてくれる。この世界に存在するうえで、足場にも手がかりにもなりうるもの。

 でもそれが何なのかを知る前に、ニニの中からそれは失われてしまっていた。

 失って、もう二度と取り戻すことはできない――

「――ああ、ああぁ」

 この世界に存在してからはじめて、ニニはそれを知った。自分が失った、名前も知らないもののことを。

 だから、ニニは今ようやく――

 本当の感情が自分の中に起こるのを感じた。

「ボクはお前を、牧葉清織!」

 そう叫んで、ニニは正確無比に清織の頭部めがけて〈迷宮残響〉による一撃を放つ。

 直撃すれば、脳震盪か脳挫傷を引き起こす威力である。そしてニニの知るかぎり、牧葉清織にそれを防ぐような手段はない。

 けれど――

 放たれた振動による一撃は、清織の手前で何か別のものにぶつかりでもしたように四散してしまう。大部分の衝撃波は消滅して、わずかな残滓が風になって草花を揺らしたにすぎない。

「どうして――?」

 ニニはあっけにとられたように、固まってしまった。魔法は十分な威力をもって飛んだはずである。

「波の干渉、というやつだよ」

 清織は簡単な講義でもするような声で言った。

「二つの波を重ねあわせると、その状態は各波の変位の和によって表される。つまり、同形の地点では大きく、山と谷では小さくなる。そのため、ある波に対して逆の位相になるような波をぶつけてやれば、それを打ち消すことができる――僕がやったのは、それと同じことでしかない」

 説明されて、ニニは首を振った。問題なのは、そんなことではない。

「どうして、そんなことが起こるっていうんだ?」

 清織は簡単なメモでも読みあげるように言った。

「頭部を正確に狙ったのなら、たいしたものだ。けど、どこを狙っても同じでしかない。君の〈迷宮残響〉についてはすでにわかっている。もしも僕を殺したいなら、直接触れるしかない。だが――」清織は残念そうに微笑む。「それは、無理だけどね」

 そして彼は、その右手をニニのほうへと向けた。より正確には、その右手にはめられた指輪を。

 〝ソロモンの指輪〟

 それがどういう魔術具なのかを、ニニは知っていた。いや――本当の使いかたについては知らなかったが、それでどんなことができるのかは知っている。かつて鴻城希槻が実演して見せてくれたように。

 その魔術具がどれだけ強力な兵器なのか、ということは――

「――!」

 ニニはとっさに、前方の空間に振動を発生させる。

 同時に、強力な雷撃がその盾を襲った。

 鋭い爆音と稲光を伴った雷の一閃が、ニニの作った空間の振動と激しく干渉しあう。飛散した電撃は地面を打ち、建物の屋根瓦をいくつか吹きとばした。発生した高熱が気体をプラズマ化し、空気の焼ける尖った臭いが鼻をついた。

(くっ――)

 雷撃の一部はニニの振動壁を貫通し、頬にかすかな焦げ跡を作っていた。光の去ったあとの黒い煙と小さな残り火の向こうでは、清織が何事もなかったような涼しげな顔で佇んでいる。

「僕としては、できれば穏便にことを収めたかったんだけどね」

 と、清織は言った。その口ぶりからして、もはやニニたち二人を見逃すつもりはなくしてしまったらしい。

〝……サクヤ〟

 とニニは清織のほうを向いたまま、振動だけを発生させて声を伝えた。

〝サクヤは、ここから逃げるんだ〟

(……何言ってんの、あんた?)

 サクヤは囁き声を返しながら、顔をしかめる。でもそれは不可解だったからではなく――恐かったからだ。

〝ボクたちじゃあいつには勝てない。あいつは希槻さまの指輪を持っているんだ〟

 ニニはごく落ちついた様子で言った。

 たぶんそれは――

 すでに、自分の運命についての見通しが立っていたからだろう。

(けど――)

 サクヤは何か言おうとして、言葉につまってしまう。ニニの言うことは事実だった。あの魔術具は、二人の力でどうにかできる種類のものではない。

〝サクヤだけなら、きっと逃げきれる〟

(でも、あたしは――)

 二人が密かに会話しているあいだに、清織は一歩足を進めていた。

 そして右手を、同じように突きだす。

 先程と何の遜色もない雷撃が、そこから放たれた。ニニは全力で防御壁を作って、それを散逸させる。けれどそれは、まるで瀑布に向かって雨傘を差しているようなものだった。これでは長く持つはずがない。

「――いいから早く逃げるんだ、サクヤ!」

 ニニはほとんど怒鳴るみたいにして叫ぶ。

「けど、だって、そうしたら……」

 サクヤはニニの後ろで、ためらうようにつぶやく。目の前では、ガラスを粉々に砕くみたいにして、光の束が四方に飛散していた。

 その時、雷撃の一部がニニの壁をすり抜けて、サクヤのほうへと向かってきた。一瞬のことで、サクヤには対応できない。彼女は思わず、目をつむってしまっていた。

 電撃は肉を焦がし、神経を焼ききるだろう。

 ――だが、想像したような衝撃はやって来なかった。

「……?」

 とサクヤが目を開けると、そこには相変わらずの電光の奔流と、があった。

「ニニ――!」

 サクヤは悲鳴のような叫びをあげる。

 少年の腕は大部分が炭化し、わずかに原型をとどめているにすぎなかった。左腕を犠牲にして少女をかばった少年は、けれどただ彼女の無事を確認して安心したような顔をしただけだった。相手を責めることも、苦痛に顔を歪めることもない。

 彼はただ悪い夢から覚めたときに、世界が以前のまま残っていることに気づいてほっとしたような、そんな顔をしただけだった。

「ニニ、ニニ!」

 彼女は泣きながら、彼に駆けよろうとする。けれどそれを押さえて、ニニは言った。

「行くんだ、早く」

「そんなこと、できない――」

 サクヤは子供が苦い薬でも嫌がるみたいにして首を振った。涙がぽろぽろと、音もなく零れていく。

「このままだと、ボクたちは二人とも死ぬ」

 ニニの壁はすでに持ちこたえきれずに、いくつかの亀裂が生じていた。そこから漏れだした電流が、地面や彼の体をかすめていく。

「そうなったら、ボクは死んでも死にきれない。お願いだから、サクヤだけでも逃げて」

「あたしは、あたしは……」

 サクヤはもう、正常に思考することができなかった。ニニの言っていることが正しいのだとはわかる。でもそれは、ニニが死ぬということだった。自分が彼のいない世界で、生きのびるということだった。

 そんなのが、正しいこととは思えない――

 一方で、ニニは冷静だった。

 生まれてはじめて明確な形になった感情は、彼を混乱させたりはしなかった。渡り鳥がいつもその目的地を知っているように、自分がどうしたいのかがはっきりとわかっていたから。

「いいから、行けって言ってるんだ!」

 ニニはぼろぼろに崩れていく壁を支えながら、精一杯の声で怒鳴りつけた。

「このまま無駄死にしたいのか! そんなのが君の望みなのか? いつもの調子はどこ行ったんだよ。いつも言ってたろ、馬鹿らしいのは嫌いだって。だから、早く行けよ、行けったら――!」

「……ニニ、あたし……」

 サクヤは子供みたいにつぶやくことしかできない。

「――お願いだから、行ってよ」

 ニニは不意に、いつものこの少年の声で言った。

「だってボクには、どこにいたって君の声がよく聞こえるんだから」

「――――」

 サクヤは涙を拭いて、とうとう決心した。そうするほかに、この少年にしてやれることはなかったから。

 〈妖精装置〉で、サクヤは一匹の蜂に変身した。そうして一瞬だけためらうように円を描くと、ニニの望み通りにその場から姿を消す。かすかな羽音だけを残して――

 その頃には防御壁は完全に崩壊し、指輪による雷撃も停止していた。

「…………」

 歪んだ空気と煙の中を、清織は無言でニニのほうへと近づいていく。

 ニニは――このホムンクルスの少年は、両腕をつけ根まで炭化させて失い、全身のいたるところに裂傷や熱傷を受けながら、それでもまだ生きて立っていた。普通の人間ならとっくに死んでいるはずの損傷である。さすがに虫の息ではあったが、その瞳の光はまだ失われてはいない。

 おそらくは身動きもままならないだろうが、清織は念のためにそのことに関する記述を終えていた。

 清織が目の前に近づいても、ニニは微動もすることなくその場に立っている。

「すでに魔法の使用は禁止させてもらっている。体の動作についてもね」

 と、清織は左手に持った本を示しながら言った。

「最初からそうすればよかった、と君は思うかもしれない。けど記述範囲の狭いことが、この魔法の弱点でもあってね。所詮、僕はもう不完全な魔法の持ち主でしかない。だからこそ、僕には〝完全魔法〟が必要なんだ」

 その言葉をニニが理解しているのかどうかは、わからない。この少年はただ、かろうじて動かすことのできるその目で、清織のことをじっと見つめているだけだった。

「最初に言ったとおり、僕は君たちを殺すようなつもりはない。僕の邪魔をしないとさえ誓えば、君の体を元に戻して、見逃してやってもいいんだ。僕はもう、この世界にほとんど用は残っていないんだから」

 言われて、ニニはかすかにだけ口元を動かす。風にさえ、その痕跡を残そうとはしないかのように。

「――あの人のいない世界に、存在する意味なんてない」

 清織は教誨師のようにただ黙って、その言葉を聞いていた。

 この少年は決して、その意見を変えるつもりはないだろう。だとしたら、清織にできることはもう一つしかなかった。

「君は少しだけ、鴻城希槻に似ているようだ」

 そう言って、清織は持っていた本に手をあてた。この不完全世界に対して、少年の最後を記しておくために。

「だからせめて、君が彼と同じ場所に行けるように祈っているよ」

 その言葉のすべてが終わらないうちに、ニニの体は消えはじめていた。あの二人と同じように。桜の花片が光になって、散っていくように――

 世界に何の痕跡を残すこともなく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る