鴻城は部屋の外に出て、清織のところへ向かった。最後に、いくつかの質問と確認をするためである。牧葉清織は春の陽射しのもとで、ひどく平和そうに庭を眺めていた。

「――ここまでのことがわかっている以上、あの暗号についても解読はすんでいるんだろうな?」

 と、鴻城は声をかけた。まるで、試験でもするような口ぶりで。

「もちろんです」

 清織は振りむいて、うなずく。もうとっくに書き終わった解答用紙を提出するみたいに。

「あの暗号の鍵については、あなたには伏せておくよう細工をしましたから。透村老人から読みとった記憶、それから僕自身の記憶を操作して――」

「ふん」

 と鴻城はこざかしそうに笑う。

「お前のことだ、それくらいはするだろう。まったく、退屈しないですむやつだよ」

 少しだけ、二人のあいだで時間が流れた。最後の扉の鍵を清織が所持している以上、鴻城が質問することはあと一つしかなかった。

「いったい、お前はどんな完全世界を手に入れるつもりなんだ?」

 そう――

 牧葉清織はすでに、ある意味では完全世界に等しいものを自ら放棄してしまっていた。そのうえで、いったいどんな世界を望むというのか。

「僕が望んでいるものを、あなたや結社のほかの人間とはまるで違うものです」

「だろうな――」

 鴻城は軽く肩をすくめてみせる。

「それは例えば、あなたが美乃原咲夜の魔法を利用して行おうとしたこととは、ほとんど関係のないものです。何かを取り戻すことや、何かが失われないようにすることとは」

「なら、お前は何を望む?」

 訊かれて、清織は答えた。何の迷いも、逡巡もなく。光が常に絶対速度をたもっているのと同等の確かさで。

「――

 その発言を、鴻城はただ黙って受けとめる。完全世界というにはあまりに殺伐とした、救いのないその言葉を。手の平の上で、その重さを十分に量りながら。

「それが、お前にとっての完全世界だというのか?」

 言葉はなく、清織はただ小さくうなずくだけだった。

 鴻城は、この男には珍しくため息をつくように力なく首を振った。鉄やダイヤの固さをはるかに越えるほどの意志を持ったこの男にしても、牧葉清織の言動をどうすることもできない。

「――まあいい、お前は俺ではないし、俺もお前ではないんだからな」

 どこにもはまることのないパズルのピースを、鴻城はあっさりと投げ捨てた。

「だが一つだけ、お前も知らないことを教えておいてやろう」

「何です?」

「牧葉澄花のことだ」

「…………」

 一瞬よりも短い時間に、清織は口を閉じた。

「お前は、彼女にも俺の〈悪魔試験〉がかかっていると思っていたんだろうな?」

 言われて、清織はかすかに顔をしかめる。それを見て、鴻城はにやっと笑った。図星だとわかったからだ。

「しかし、そいつは違うのさ。彼女は俺の試験に落第しなかった。つまり、見事合格した。それがどういうことなのか、お前にはわかるな? 牧葉澄花は、完全世界を望んではいなかった。これでわかっただろう。俺が何故、お前を使い続けてきたのか。その本当の理由について――」

 そこまで言うと、鴻城は少し言葉を切って、皮肉っぽい調子をやや落として続けた。

「魔法が失敗したせいで、俺は彼女に逆らうことができなかった。つまるところ、お前に危害を加えることはできなかった。お前が俺に対してそうであったようにな」

「…………」

「一種の三すくみだ。お前は俺に、俺は彼女に逆らえない。そして彼女はそれをお前に秘密にしていた。俺は彼女の本当の望みをあてなくてはならなかったが、それはわからなかった。もちろん、今でもな。ある意味では、俺はお前にではなく、牧葉澄花に敗れたともいえる。完全世界を望まなかった、彼女に――」

 その話を聞いても、清織の表情に変化はなかった。確かに、それは清織の知らないことだった。彼女が決して完全世界を望まなかった、ということは。

 けれど――

 だからといって、彼の望みそのものが変わるわけではなかった。牧葉澄花が本当は何を願っていたとしても、彼の望みそのものは。

「……どうやら、お前の望みは変わらんらしいな」

 鴻城はやや疲れた声で言った。夕陽が夜に溶けていくのを憐れむような、そんな声で。

「だがどちらにせよ、俺たちには関係のないことだ。近似値にしかすぎないとはいえ、俺たちはもう十分に完全世界を手に入れた。百年以上の時間をかけてな」

 そう言ってから、鴻城は右手の人さし指にはめていた指輪を抜きとった。銀に似た鈍い輝きを放つ、奇妙な造形をした指輪である。

「こいつはお前にくれてやる」

 放り投げられたそれを、清織は無造作に受けとった。

「その〝ソロモンの指輪〟についても、もちろん知っているんだろうな?」

 清織は黙ったまま、うなずく。

「なら、これでお前がだ」鴻城はごく簡単に禅譲を宣言した。「そこでせいぜい、お前の望みをはたすがいい――」


 それだけの話が終わると、二人は鴻城櫻の待つ例の部屋へと戻っていった。

 ――もはや、すべてが終わる頃だったのである。

 鴻城はそっと彼女の手をとると、床に立たせてやった。

「俺たちの時間は、もうここで終わりだ」

 と、鴻城は静かに告げた。

「ええ、わかってます」

 櫻は軽く微笑んで言う。それは正確には、終わりではなく到着を意味していたから――

「……すまなかったな、本当に」

 最後に、鴻城はやはり彼女のことを慈しむように言った。その言葉を聞いて、櫻は泣きそうな顔で笑う。誕生日に、一番欲しいものをもらった少女みたいに。

「やっぱり、あなたは変わりませんね……」

 そう言って、櫻は鴻城にそっとよりそった。鴻城は彼女を、軽く抱きしめてやる。

 歳月というにはあまりに長い時間のはてにたどり着いた、それが二人の終着点だった。眠り姫の魔法が解けたようには、その運命が望まれる結末を迎えることはなかったけれど。

 二人はただ言葉もなく、二つの影を重ねるみたいにお互いの形を確かめあっていた。

 その、魂の形を――

 やがて二人を中心に、魔法の揺らぎが起こりはじめる。

 それが百年以上という魔術具の長期の使用による副作用だったのかどうかはわからない。ほかの何らかの原因だったのかも。何しろ、再現実験を行うにはあまりに時間のかかることだったから。

 ただ、それから何が起こったのかははっきりとしていた。

 今まで停まっていた時間が急に動きだすみたいにして、二人の存在は塵になりはじめていた。体の輪郭が徐々に薄くなって崩れ、着ている物も含めて何もない空間へと溶けていく。まるで、燃えつきた灰のように。

 あるいは――

 散りはじめた、桜のように。

 二人の体がすっかり消えてなくなるのに、たいした時間はかからなかった。その存在がすべて、何の痕跡も残すことなく失われてしまうのには。

「…………」

 清織はただじっと、最後までそれを見とどけている。

 もしかしたら、彼の魔法でならその現象をとめることができるのかもしれなかった。時計の針を少しいじるように、百年という時間をなかったことにするのは。あるいは、鴻城櫻の体からその病巣をすべて除去するようなことは。

 けれど――

 牧葉清織に、その資格はなかった。二人の完全世界に干渉する権利など、誰も持ってはいない。

 例えそれが、神様のような存在だったとしても。

 清織は鴻城から受けとった指輪を、同じように右手の人さし指にはめた。その指輪はもう、彼自身が放棄しなければ外れることはない。もし指輪を簒奪しようとするなら、その者は王殺しを行わなければならなかった。

「僕は、僕の望みを叶えることにしますよ、鴻城さん――」

 まるでそれがはなむけの言葉であるかのように、清織は二人のいた場所に向かってそっとつぶやいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る