例によって、サクヤがいったん炎を吐き終えて小休止に入った瞬間のことである。

 五人のいるほうに、変化が起こった。

 フユの壁を解除して、二手に別れたのである。ハルとアキ、来理は公園の外に向かい、ナツとフユはその場に留まった。

 一瞬、サクヤはどちらを追うべきかの判断に迷った。〈断絶領域〉がなければ、炎に対しては丸裸同然になる。来理はさすがに年齢のこともあって全力疾走とはいかず、離れていく三人はまだ十分に熱攻撃の射程距離内にあった。一方で、残った二人が何をするつもりなのかはわかっていない。

 サクヤがそんな逡巡をしているうちに、ナツとフユの二人は動いていた。

 ナツの手には、〈幽霊模型〉で魔法のかけられたボールが握られている。かなり強力なものだったので、準備には時間がかかった。物をぎゅうぎゅうに詰めこんだ袋のファスナーを、無理やり閉めるようとするみたいに。

 そのボールを持って、ナツは投球体勢に入った。腕を大きく振りかぶり、右足を蹴りだすとと同時に左足を踏みこんで体を支える。腰の捻転と腕の回転、手首から指先のしなりを使って、ボールをリリースする。

 豪速球というほどではないにしろ、ボールはなかなかのスピードで放たれた。狙いは過たず、サクヤの顔めがけてまっすぐに飛んでいく。

(ふん――)

 と、しかしサクヤは思った。どんな魔法をかけたのかは知らないが、硬い竜の鱗を破れるはずがない。それにこんなボールなぞ、着弾する前に消し炭に変えることだって可能だった。

 だがそんなことはもちろん、二人にもわかっている。

 フユはサクヤの手前、ボールの軌道上にある場所に壁を作った。形としては、投球から彼女を守ることになる。当然ながら、ボールは壁に直撃した。

 直撃して、弾ける。

 ――大量の閃光を放って。

 世界が白く灼きつくされて、サクヤは完全に目が眩んでしまった。変身中は声帯も変化しているため、人の言葉を話すことはできない。サクヤはただ、岩が谷底を転がり落ちるような低いうめき声をあげるだけだった。どれほど頑丈な装甲であっても、光を防ぐことはできない。

 ナツとフユはそのあいだに、三人のあとを追って公園の出口に向かった。もちろん、閃光からは目をそらしている。

 頭にからまった蜘蛛の巣でも払おうとするように暴れるサクヤの後方で、ニニも同じように閃光の直撃で視界を奪われていた。ただしこの少年の場合、視覚以外でも行動が可能だった。いわゆる反響定位というやつで、自分で発した振動の響きをもとにして周囲の状況を多少は知ることができる。

 ニニは目を閉じたままサクヤの横を通りぬけると、五人のいるほうに向かった。このままみすみす逃がしてしまうわけにはいかない。

 一方、先に出口のほうへ走っていた三人は、別の行動に移っていた。歩みの遅い来理と、その手を引くハルを残して、アキが先行する。そして、大声をあげて叫んだ。

「クロ――!」

 もちろんそれは、室寺の車にアキがつけた名前だった。犬でも呼びよせるように、アキはその名前を口にしている。

 その声に、反応があった。

 馬のいななきに似たエンジン音を響かせて、その車はこちらへとやって来た。多少の段差や悪路などものともせずに、野牛のような力強さで走行している。

 そのあいだに、来理とハルがアキに追いつき、ついでナツとフユも合流した。

 けれどその後方からは、ニニが追ってきている。どこかの醜女か雷神みたいに。車が五人のところまで到着するには、まだ時間がかかった。ぎりぎり、間にあうかどうかというところである。

(車を停めてしまうのは簡単だ)

 と、ニニは思っていた。人間の心臓をとめるのと、そう変わりはしない。直接触れられれば、エンジン内部にあるピストンの振動を停止することは可能だった。

 けれどその時、意外なことが起こった。

 ハルがその魔法〈絶対調律〉を使ったのである。

 それが〝すべてのバランスを零に戻す〟ものだということは、ニニは知っていた。互いに共通する事象を足しあわせ、いわばその平均値をとるものだということは。だがこの状況で、いったい何を平均化するというのか。

 疑問には、眼前で答えが出されていた。

 魔法の揺らぎが発生すると、ハルたち五人とその車は、ちょうど互いの中間地点にまで移動している。その時点での目標地点、移動すべきその距離の半分ずつをとれば、お互いが同じ場所に存在するのは当然の話だった。

 ようやく薄れはじめた白い暗闇の中で、ニニはそのことを確認する。車のドアが勝手に開いて、五人がその中へ乗りこむところも。もはや鳥の翼があったところで、間にあいはしない。

 だが――

 だが何か、妙だった。

 もう車に乗りこんで逃げるだけのはずのところで、一人だけがそれをせずにこちらを見ている。いや、こちらというよりも、そのずっと先のほうを――

 大地を揺るがすような震動が伝わってきたのは、その時だった。天空に届くほどの豆の木が伐り倒されたかのような。

 ニニが振り向くと、その理由はすぐにわかった。竜に変身したサクヤの体が、横倒しになって地面に伏せているのである。

 そのすぐそばには、今回の標的でもあるその男が立っていた。

「――俺はジークフリートじゃないんだがな」

 室寺蔵之丞は不敵な笑みを浮かべて、そううそぶいてみせた。


 ――その少し前、室寺と朝美がスタジアムをあとにした頃のことである。

 二人は朝美のバイクにまたがって、花火の上がった地点を目指していた。その場所には雲になりそこねたような、不恰好な色つきの煙が漂っていた。方角からして、公園内にある子供の広場付近だろう、と朝美は推測している。

 鷺谷と烏堂の二人は、放送室に会ったコード類を使って拘束してあった。とりあえず、あの二人がこれ以上関わってくることはないだろう。

 朝美はできるだけのスピードを出しつつ、後ろに乗った室寺の様子をうかがっている。さすがに疲労の色が濃く、いつものような調子はなかった。じっと呼吸を整えることに集中している。やはり、長時間の戦闘がかなりの負担になったことは間違いない。

 けれど朝美には、もう一つ気がかりなことがあった。それはスタジアムを赤外線で探知しているときに見つけた、もう一つの影のことである。照明塔の上にあったその影は、室寺と合流する頃には消えてなくなっていた。それがあの子供たちのどちらであったにせよ、今はどこにいるのか――

 バイクを走らすうち、池のほとりにさしかかっていた。目的地まで行くには、この場所を大きく迂回しなければならない。面倒だが、ほかにはどうしようもなかった。朝美がそうしようとしたとき、室寺が急にそれをとめている。

「ちょっと待て」

 理由を聞く暇もなく、室寺はバイクを降りて池のほとりへと向かった。朝美も仕方なく、バイクに搭乗したままでそのあとを追う。

「……あれを見ろ」

 と言って室寺が指さしたのは、池の水面だった。朝美がよく見ると、そこには透明な何かが浮かんでいた。巨大なガラスのおはじきに似ている。おそらく、氷の塊か何かだろう。

「何ですか、あれは?」

「たぶん、だろう」

「――足場?」

 だがそれに答える前に、室寺は再びバイクの後ろに乗っている。そこから、続きを説明した。

「あのニニってほうの魔法だろう。熱運動は、要するに粒子レベルでの振動のことだ。それを押さえて氷点下にまで温度を下げれば、水を凍らすことができる。氷に十分な大きさがあれば、足場として利用可能だろう」

「……つまり、ショートカットしたと?」

「ああ、そうだ。だから俺たちも、同じことをする必要がある」

「同じこと?」

 その方法を聞かされたとき、朝美の表情は豪雨の到来を告げる黒雲みたいに曇っていた。ヘルメットをかぶっていてよかったと思う。蛇足ながら、室寺のほうは何も着けていなかった。

「本当に大丈夫なんですか、それ?」

 バイクを回転させて方向転換しながら、朝美は訊いた。

「俺は信頼できる男だよ」

 本気なのかただの気休めなのか、室寺はひどく自信ありげである。ただ、この男の自信は意外と馬鹿にならないことを、朝美は知っていた。

「どうなっても知りませんよ――」

 むしろ自分に言いきかせるために、朝美は言った。

 助走のための距離を十分に確保すると、朝美はアクセルを目一杯に回した。すばやくギアチェンジして、最高速度に達する。

 そのスピードのまま、バイクは池に突き出た桟橋へと突入した。

 当然だが、バイクは桟橋を飛びだし、慣性に従って直進を続ける。だが、重力を振りきれるわけではない。そのあいだも、バイクは確実に水面へと落下している。弾丸でもその場で落としたコインでも、落下時間に変わりはない。射出速度に従って多少遠くまでは行けるが、池の対岸まではまだかなりの距離があった。

 だがバイクが着水するその寸前、室寺はおもむろに立ちあがっている。そして朝美の襟首を猫みたいに引っつかむと、後部シートから思いきり跳躍した。

 土台にされた憐れなバイクはそのまま水中へとダイブしたが、室寺と朝美はさらに先へと進んでいる。

 それでも、対岸に到達するには無理がある。室寺は空中で朝美を抱えなおしながら、〈英雄礼讃〉による魔法を使った。魔術具であるブーツの力で、室寺の右足は空中で一歩を刻んだ。そして三段跳びの要領で、跳躍を重ねる。二人はついに対岸へと到着した。

 背後では、バイクが完全に水面下へと沈みつつあった。残念ながらその様子からして、金のバイクも銀のバイクも手に入りそうにはない。

「……私のバイク、弁償してもらえるんですよね?」

 地面に降ろされた朝美は、ひどく恨めしそうに言った。

「さあな、そこまでの責任は持てん」

 自称、信頼できる男はそう言って肩をすくめるだけだった。


 ――時は、元に戻る。

 そうしてニニのあとを追ってきた二人は、ちょうど現在の状況に出くわしていた。室寺はまず、竜を一撃で地面へと転がしてしまう。〈英雄礼讃〉には、それだけの力があった。

 五人のことを放りだし、ニニは室寺のほうへと向かった。予定は大幅に狂ったが、結果的には問題ない。鯨に飲みこまれたどこぞの預言者のように、文句をつける気はなかった。

 ニニはある程度の距離まで接近すると、五人に向けて放ったのと同じソニックブームに似た衝撃波を発生させた。超音速の振動が室寺へと向かう。回避は不可能だった。

 雷音を鋭利にしたような響きと、派手な土埃を巻きあげつつ、衝撃波は室寺を襲った。まともに食らえば、もちろんただではすまないだろう。

 だが――

 煙幕のような土埃が晴れていくと、そこにはまったく無傷のままの室寺が立っていた。その顔には、かすかな笑みさえ浮かんでいる。魔術具であるコートのおかげだった。

(やっぱり、心臓を直接停めるしかないか――)

 ニニはそう思って、室寺へとさらに接近した。格闘戦の間合いに入る。

 二人の体格差を考えれば、徒手での勝負は無謀だった。けれどニニには、十分な訓練とホムンクルスとしての身体能力がある。加えて、室寺には疲労の蓄積があった。それに腕相撲で勝負をするわけではない。ゴリアテを倒せるのは、何もダビデだけではなかった。

 すばやく懐に潜りこんで、ニニは打撃を重ねる。常に位置を変え、無理はしない。摑まれてしまえばおしまいだからだ。

 室寺はその動きに対処しきれなかった。足運びを工夫して間合いを取ろうとするが、簡単ではない。そのくらい、ニニの動きは速かった。次第に、室寺は防戦の比重が高くなっていく。戦闘では、攻撃の最適距離を保てる側が優位に立つことができる。

「この――!」

 室寺の打突は空を切った。的が小さいうえに、よく動く。岩を砕くには、それが静止している必要があった。

 一方、ニニのほうでも実際には手詰まりになっていた。どうやら室寺は、攻撃を捨てて防御に専念しているらしい。〈迷宮残響〉で強化した攻撃も、魔術具の効果によってほとんど通用しなかった。

 決め手を欠いた戦いの中で、ニニは一瞬油断をした。

 室寺はその隙を逃さない。開いたドアから無理に体をねじこむみたいにして、わずかにできた間合いから一撃を加えた。

(まずい!)

 ニニはかろうじて、回避行動をとった。間一髪、体をひねってそれをかわす。

 目標を外れて地面を打った室寺の拳は、爆撃に似た衝撃をともなって地面を吹き飛ばした。その余波で、ニニの体は木の葉みたいに宙を舞う。空中で難なく姿勢を整えて着地したが、それでも目の前にあるのはぞっとするような光景だった。

 室寺はお化けの格好をして子供を脅かすような、そんな笑顔を浮かべる。ただしそれは、追撃に移るだけの余裕がないことをごまかしているにすぎなかったが――

(さすがに、これ以上は限界が近いな……)

 疲労のため、体はネジを外した時計みたいにばらばらになりそうだった。室寺にすれば、そんな笑顔で自分を鼓舞する必要がある。

「キシャアアァァ――!」

 その時、空気を裂くような咆哮とともに、サクヤがその首をのばしていた。すでに起きあがって、目くらましの閃光からも回復している。空気を大きく吸いこむ音が、その口元から聞こえた。

 次の瞬間、灼熱の炎がその口から吐きだされる。すべてを焼失させんばかりの威力で、室寺に向かって火炎が襲いかかった。一面は文字通り、火の海だった。空気は歪み、空間ごと燃え尽きかねないほどである。

 サクヤがいったん炎を吐き終わると、そこには黒煙と灼熱と焦土と化した地面だけが残されていた。さっきまでとは違う、本気の炎である。骨の残骸さえ消し炭へと変わっているだろう。

 ところが――

「悪いが、こいつは耐火仕様でな」

 まったくの五体満足で、室寺は立っていた。わずかにコートの襟を立てているだけで、体どころか服さえ焼けてはいない。その魔術具による防御力は、フユの魔法にすら近いものがあった。

 そして、戦闘は膠着状態に陥っている。実際には、もはや室寺にそれほどの力は残っていなかったが、ニニとサクヤの二人からしてみれば簡単には手を出しかねていた。攻撃はことごとく防がれているうえに、厄介な一撃も見せられている。しかも本人は不敵な笑いを崩していない。

 経験値の差が出た、というところだろう。いかに高い戦闘力を持っていても、そこは子供だった。室寺のブラフとしての挑発の意味を、正しく理解できていない。自分の影に怯える、まだ幼い嬰児みたいに。

 空の上では、太陽が知らぬ顔でいつもの運行を続けていた。室寺たちがこの公園に来てから、すでに数時間が経過しようとしている。

 けれど、その時――

 ニニの表情が、不意に変わった。夜空で、流れ星が暗闇を引っかくみたいに。何かの変化を、それも重大な変化を感じとった顔だった。戦闘中であることも忘れて、あらぬ方向を見つめている。わかりにくいが、サクヤのほうでも同様の現象が起きているようだった。

(何だ……?)

 室寺はしかし、とっさには手を出せない。虚勢をはるのだけが精一杯で、そもそも攻撃を仕かけるほどの余裕はなかった。

 遠くの物音にでも耳を澄ますようだったニニは、やがて室寺のほうに向きなおった。魔法の揺らぎが、そこから発生する。室寺は攻撃に備えて身を固くした。

 だが、予想したような衝撃がやって来るようなことはなかった。

 代わりに、広場のあちこちで異変が起きはじめる。突然、何もないところから爆炎が生じ、大きく吹きあがる。それも一ヶ所や二ヶ所ではなく、ほとんど広場全域でのことだった。

「どうなってる?」

 室寺が注意して炎の発生源を見ると、そこにはネズミ色の大型ボンベらしきものがあることがわかった。おそらく、プロパンガスのボンベだろう。振動をコントロールして氷が作れるのなら、バルブをひねってガスを放出し、同じようにしてそこに着火させることもできるはずだった。

 それだけのことを理解するまでに、ニニとサクヤの二人はすでに次の行動に移っている。

 いったん変身を解除したサクヤは、今度は巨大な鳥へとその姿を変えた。ロック鳥とか、サンダーバードとか呼ばれる類の鳥である。翼をはばたかせると、その体は大きく風を起こしながら、ふわりと宙に浮きあがった。

 ニニがその足を摑むと、サクヤは一声あげてから、一気に空へと舞いあがった。まるで矢を射るような勢いで、二人はその場から離脱していく。

「室寺さん――!」

 五人のところで警戒にあたっていた朝美が、室寺のほうへと駆けよった。

「……何か、問題が起こったらしいな」

 誰にともなく、室寺はつぶやいた。状況としては、命拾いしたというのが正しいところだった。あのままの状態が続けば、いずれ確実に殺されていただろう。

 だがいったい、何が起きたというのか――?



 その屋敷は、丘の中腹に建てられていた。

 春の光が祝福するように、その場所を照らしている。屋敷といっても平屋の比較的こぢんまりとした、いたって慎ましやかなものだった。人が造ったというよりは、最初からそこに建っていた、という感じである。誰に命じられるでもなく、草花が野辺を飾るみたいに。

 その屋敷を見るのは、清織も初めてだった。けれど一見して、ほかの屋敷とは趣きが違うことに気づく。場所や、建物のせいだけではない。そこには風や、音や、光があった。半分以上が死んでいるほかの屋敷とは違って、そこだけは今も生きている。

 ゆるやかな階段をのぼりきって敷地の中に立つと、建物の左手には庭園が広がっていた。そこにはわざとらしさのない自然さで草花が配置されている。たった今、色をつけたばかりのような鮮やかさで、それらはあった。けれど世話をする人間がいなくなった以上、その庭園もやがては荒れ、元の形を失うだろう。百年の眠りを約束するような、七人目の魔女もいない。

 清織は本を開くと、少しのあいだそれに目を通した。そうしてゆっくりと、歩きはじめる。屋敷の一番南にある部屋に向かって。

 部屋のドアを開けると、そこには一人の女性が横たわっていた。艶やかな着物姿をした、妙齢の婦人である。彼女は〝オシリスの棺〟と呼ばれる魔術具の上に乗せられていた。停止した時間の中に閉じこめられながら。

 清織はそのそばまで近づくと、置いたあったイスに腰かけた。もちろん、そのあいだにも彼女に変化はない。例え世界が滅んだとしても、彼女が目を覚ますことはなかった。その魔法が解けないかぎりは。

「…………」

 見えない棺の上に、清織は手を置いた。温度も質感もない、時間の壁がそこにはある。魔術具の効果が切れるまでは、誰にもその壁を壊すことはできない。

 けれど――

 清織は手を置いたまま、本を開いた。そして世界そのものを、書き換えてしまう。文字という形に記述された世界を、自由に操って。

 それはある意味では、鏡に映った世界を変化させることに似ていた。鏡像は本来、現実を写しとったものにしかすぎない。それはわずかな歪みや瑕疵を持つ、不完全なものだ。けれど等号で結ばれたがあるとすれば、その中での変化は逆に現実をも変化させずにはいられないものになる。

 牧葉清織が使ったのは、そういう魔法だった。ここに来る途中、〝隠匿魔法〟や〝空間魔法(ストラクチャー)〟を解除したのも、同じ魔法である。だからここでも同じことができるのは、しごく当然のことだった。

 世界の書き換えが完了すると、ガラスの棺は音もなく砕けている。時間の破片はコップの水を海にでも注ぐみたいに、すぐに世界と同化して消えていってしまった。

 しばらくのあいだ、何の変化もない。窓の外では緑が風にそよぎ、鳥の鳴き声が聞こえる。光は相変わらず透明で、温かかった。

 けれどやがて――

 彼女は、静かに目を開いた。

 静止した一瞬という、長い長い時間を越えて。

「はじめまして、鴻城櫻さん」

 と、清織はごく当然のことのように挨拶をした。

「…………」

 彼女はほんの少しだけ、あたりの様子をうかがうような仕草をした。今までに素通りしてきた時間の一部が、もしかしたらその辺に落ちているのではないか、というふうに。

 それからゆっくりと、水中で体が自然に浮きあがってくるように上体を起こした。たったそれだけの動作にも、どこか典雅なところがあった。彼女はそして、清織のことを見つめる。

「あの人は?」

 ほかの質問など思いつかない、というふうに彼女はまっすぐ訊ねた。いったい今がいつなのか、目の前にいるのが誰なのかも、聞こうとはしない。

 そんなことはたいした問題じゃない、とでもいうように。

「おそらく、すぐに来られます」

 清織はそんな彼女に向かって、特に驚くこともなく言った。

「――早く会いたいわ」

 鴻城櫻は朝顔の蕾が開くような、そんな笑顔を浮かべた。

 まるで、ついさっきまで幸せな夢を見ていた少女みたいに。

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