祖父江周作は魔法委員会の会長である。あるいは、会長ということになっている。

 実質的なところとしては、彼はまったくそんなことは気にしていなかった。会長といってもろくな権限はなかったし、重要な決定については委員による合議制によって決定される。そもそも、祖父江は自分が何故ここにいるのかを正確には理解していなかった。

 痩せ型で、体はひょろ長く、どことなく案山子に似ている。性格も、ほとんどそれと一致していた。体格と性格のどちらが先だったのかは、永遠の謎である。

 彼は一応、魔法使いだった。一応というのは、本人もよくはわかっていなかったからだ。魔法の揺らぎのようなものを感じることはできるが、それだけだった。自分で揺らぎを作ることもできなかったし、魔術具の使用など論外である。

 それでもこの男が委員会の会長などという役職に選ばれたのは、たんに彼以外には条件に当てはまる適任者がいなかったからだった。条件というのは、魔法使いであると同時に国家の奉仕者であること。つまり、国家公務員試験に合格した官僚、ということである。

 祖父江周作が会長に選ばれたのは、ただそれだけの理由だった。魔法使いとして優秀だったわけでも、自他からの強い推薦があったわけでもない。路傍に転がっていた石が、たまたまつっかえにちょうどよかった、というだけの話だった。

 だから現在起こっている騒ぎについても、祖父江はまるで関知していない。そもそも、理解ができないのだ。完全世界、魔法の壁、結社――とても現実のこととは思えなかった。

 元来、祖父江は事態を静観する立場を取り続けてきた。それは、渋河という男に釘を刺されたためでもある。大学時代から一貫して、この男には頭が上がらなかった。そういう星の巡りあわせだったのだろう。

 祖父江はあらゆる権限を利用して、のらりくらりとやってきた。名目だけとはいえ、会長である。それに、その程度の腹芸なら十分に心得ていた。

 だがここにいたって、事態は完全に祖父江の手を離れていた。緊急招集による参事会が結成され、今後の方針は彼らによって決定される。祖父江はただ、事後承諾を加えるにすぎない。とはいえこの男にとって問題なのは、あくまで渋河弘章のことだった。この事態は、あの男と何か関わりがあるのではないか。だとしたら、いったいどんな責任をとらされることになるのか。あるいは、あの男はこの件で逆に脅迫してくるつもりなのではないか――

 祖父江周作は執務室で一人、戦々兢々として頭を抱えていた。委員会の人間はほとんどが出払っていて、邸内には彼と事務の数名しかいない。緊急事態であるはずらしいのに、トップである彼が一番何も知らない、という状況だった。

 そもそも、この場所からしておかしな話なのだ。どこから予算が出ているのかは知らないが、由緒ありげな古い洋館に、アンティーク調の家具がそろっていた。彼のいるこの部屋には、年代物の柱時計や、絨毯、地球儀、いわくありげな古書の詰まった本棚といった調度品が設えられている。

 そんな豪勢な部屋の主として、彼ほど不似あいな人間もいなかった。いずれは部屋のほうで、この貧相な主人を追いだしてしまうかもしれない。

「…………」

 その時ふと、人の気配を感じて祖父江は顔をあげた。

 もちろん、そんなはずはない。館の人間は現地に飛んでほとんど残ってはいないし、そもそもノックもせず、ましてや何の物音もなく、その場所に人のいるはずがなかった。

 けれど――

 そこには、少女が一人いた。

 少女、だろう。少なくとも見ためには。

 シンプルだが、ひどく古風なデザインのドレスを身にまとっている。十二、三歳くらいの年齢だろうが、その風貌には古典派絵画で見かける種類の、現実離れした神々しさがあった。蚕の繭糸にも似た白い髪は豊かに波打ち、額には小さな朱印が施されている。その一対の瞳は、もっとも純粋な鉱物の結晶を連想させた。

 祖父江は何故か、驚く気にもなれずにいた。それは少女の出現があまりに自然だったから、というのではない。それとは逆に、図抜けて不自然すぎたせいだった。おかげで、頭が通常にとられるような反応を拒否してしまっていた。

 少女はきょろきょろと、あたりを見まわしている。その様子にはどこか、好奇心の強い獣に似た傍若無人さがあった。

「――お主が、この館の主人か?」

 やがて、少女は言った。

 祖父江はその時代がかったもの言いにも驚かなかった。大体、予想はできていたのだ。きっと予想のつかないことを口にするだろう、とは。

「一応、そういうことになっていますが、あなたは?」

 少女に対して、祖父江は比較的丁重な物腰で対応した。彼女がただの人間でないことくらいは、さすがの祖父江にもわかっている。

「我か、我はウティマじゃ」

 少女は短く答えた。ウティマ、というのが彼女の名前らしい。

 そこからの続きはなかった。

「……えー、それでその、いったい何のご用でしょうか?」

 祖父江は我ながら自分の間抜けさ加減をばかばかしく思いながら、仕方なく訊いた。

「我が何なのか、お主は知らぬのか」

 ウティマは不服そうな、呆れたような、それでいて何の感想も持ってはいないような、そんな口調で言った。

「残念ながら、私には何のことか……」

 と祖父江は恐縮してみせるしかない。

 ウティマは気にした様子もなく、次のように説明した。

「我は世界じゃ。世界の揺らぎが発生した以上、我が顕現することは必定じゃろう」

「…………」

 はいそうですか、と納得できる話ではない。だが祖父江には、詳しい説明を聞いても理解できるような自信はなかった。

「あー、それで、結局あなたは何をしにここに来られたんですか?」

 祖父江は何とか、話を自分に理解できるレベルに変更しようとした。それが上なのか下なのかはわからなかったが。

「なに、ただの挨拶じゃ」

 と、ウティマは意外なほどあっけないことを言った。

に聞いたところ、お主がこの地での魔法に関する統括者だという話だったのでな。これから起こるであろうことを考えれば、一言あってしかるべきじゃろう」

 最高責任者というのが誰のことなのか、祖父江はあえて思考しないことにした。やはりこれは、自分の手に負えるような話ではないらしい。

「……いったい、何が起こっているというんですか?」

 祖父江はひどく疲れたような声で言った。実際、もはやため息しか出てきそうにない。

「お主は知らぬのか、今この世界で何が起こっているのか?」

「ええ、何も」祖父江は正直に答えた。

 ウティマはふと、あらぬ方向を見つめる。それが天橋市のある地点を正確に指しているのだとは、祖父江にはわかるはずもなかった。

「完全世界が誕生したのじゃ。あるいは、復活したと言ったほうが正しいのかもしれんが……指輪の持ち主によって、かつて楽園にあった三本目の樹へと扉がつながったのじゃ。ただし、扉そのものはまだ開いてはおらん。どうやらそやつは、最後の鍵を開けられずにおるようじゃの。あるいはそれも、何か考えがあってのことかもしれぬが――」

 ウティマはそう言ってから、おかしそうに祖父江のことを見つめた。その瞳は彼一人を、というよりは、人間一般とでもいうべきものに向けられているようでもある。

「げに、魔法使いどものいとけなく、愚かしきことよ。相も変わらず完全世界を求め、迷い続けておる。どれほどの時が経過しようとも、この性向は捨てられぬものらしい。苦難と歓楽、悲哀と喜悦を繰り返す、憐れで頑是ない、矛盾した族よ。永遠を夢見ては現在を否定し、運命に挑んではかえって破れ、幸福を求めてはあえなく裏切られ、孤独の淵にあって平然を嘯く――我が言うのも何じゃが、不可思議の存在よ。もっとも、ヘルンの持ちだした種がこのような僻遠の地で芽吹くことになるとは思わなんだがの」

 少女はかすかに笑ってみせたが、もちろんその意味については祖父江にわかるはずもなかった。

「……あなたは、あなたはいったい、誰なんです?」

 祖父江は小さく首を振って、無理に混乱を抑えるようにして言った。けれどそれは、少女の言葉が理解できなかったからではない。結局のところ、祖父江周作も魔法使いの一人だったのである。

「先にも言ったとおり、我は世界じゃ」

 と、ウティマは再言した。

「完全世界と不完全世界のあいだに生じた揺らぎが、いわば〝世界〟という魔術具によって形象せしめたのが、我という存在よ。その魔術具の原型が誕生したのは、はるか昔に、〈ヒト〉という魔法が出現した頃に遡るがの」

 祖父江は何の返事もせずに、ただ首を振るばかりだった。まるで子供が否やをするみたいに。

「――どうやら、これ以上お主と話をしていても埒が明かぬようじゃの」

 ウティマは別段気にしたふうもなく、軽く肩をすくめて言った。

「それにお主には、完全世界を希求する精神も、それに挑戦する動機も持ちあわせてはおらぬようじゃ。となればなおさら、〝ウロボロスの輪〟をくぐる資格を与えるわけにはいかぬ」

 それだけのことを告げると、ウティマはくるりと背中を向けた。祖父江は慌てたように声をかける。

「どちらに行かれるんですか?」

「もちろん、彼の地じゃ」ウティマは顔だけを振りむかせて言った。「

 そして、少女は部屋の扉を開けて出ていってしまう。

「…………」

 祖父江は少ししてから、恐る恐る同じ扉を開けてみた。横にのびた廊下のどこにも、少女の姿は見えなかった。当たり前だ。彼女は世界なのだ。この場所から影も残さずに一瞬で移動することなど、本のページをめくるのと同じくらい容易なことのはずだった。

 それでも念のために、祖父江は内線で受付けの職員を呼びだしてみた。そして誰か一人でも、あるいは半人でも玄関の前を通らなかったか聞いてみる。

〝いいえ、今日はまだお一人の訪問者もおられませんが〟

「そうか、わかった」と、祖父江は言う。

〝ご気分がよろしくないようですが、大丈夫ですか――?〟

「少し疲れただけだ」祖父江はそっとため息をついた。「心配はいらない、何も問題はない」

 内線を切って、祖父江は深々とイスに腰をおろす。今となっては、この館の奇妙さなど、どうでもいいことになってしまっていた。祖父江は目を閉じて、その暗闇ができるだけ濃くなるように目を覆った。

 いつかこのことを夢だったと思えるのが、現在の祖父江周作が持つ唯一の望みだった。

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