指定された場所であるライブハウスは、地下形式になっていた。

 乾は地上口から幅のない、すべり台みたいな階段を降りる。あの世との境界にあるとされる黄泉比良坂にしては、ひどく味気ないものだった。

 ここに来るまでに室寺へ連絡してみたが、時間的には間にあいそうになかった。不本意ながら、約束は守るしかない。まあいい、と乾は気にしなかった。いざとなれば、全力で逃げるだけだ。

 〈空想王国〉は、その気になれば高度の暗殺能力を発揮するものだったが、乾は性格上、あまりそうしたことは考えていない。彼における戦闘行動とは、主として退却行為を意味するものだった。

「…………」

 階段を降りると通路があって、左手の遠方に控え室、正面すぐに店の入口があった。人の気配はない。昼なのでまだ準備にもかかっていないのか、それともこれから会うはずの相手が追いはらってしまったのか。

 乾はドアを開けて、店内に入る。バーカウンターらしきところがあって、その横が会場に続いていた。照明は閃光弾なみの明るさで、まるで何かに腹でも立てているようだった。どうやら、女神様は姿を隠す気はないらしい。

 奥に進んで、やや重い防音扉を開けると、大きめの教室くらいの空間が広がっていた。ライブハウスとしては、平均的なものだろう。イスが隅のほうに重ねて置かれているほかは、がらんとして何もなく、どこかにとっかかりさえあれば折りたたんで片づけられてしまえそうだった。ここにも人の姿はなく、照明だけが不満げに輝いている。

 いや――

 そこには一つだけ、人の姿があった。

 数十メートル先のステージに、たった一人だけ。そいつは明らかに、乾を待っていた。この距離からでも、その顔がかすかに笑っているのがわかる。

 乾は周囲への警戒を怠らずに、そいつのすぐそばまで移動した。

「やあ、お久しぶりですね、先輩」

 と、そいつは陽気に言った。

 なるほど、それは確かに〝千條静〟そのものの姿である。柔らかい癖っ毛に、猫みたいにくるくると表情の変わる目。童顔で、実年齢よりはいくらか若く見える風貌。その顔には、弦月に似た一種独特の皮肉っぽい笑みが浮かんでいた。

 声も見ためも、それはまぎれもなく千條本人のものである。

 だが、もちろん千條静は死んだのだ。

「――誰か知らんけど、少し趣味が悪いらしいな」

 乾は不機嫌に言った。

「感動の対面じゃないですか。可愛い後輩がこうしてわざわざ生き返って会いにきたんですよ。もうちょっと喜んでくれてもいいんじゃないですか?」

「戯れがすぎとるわ」

 乾はつきあわない。だけでなく、口調どころか話しぶりまでそっくりなその様子に、嫌悪感を覚えてもいた。

「……仕方ないな」

 と、自称千條静はため息をついて言った。

「もう少し旧交を温めておきたかったんですけど、先輩がそう言うんじゃしょうがない――ニニ!」

 最後の言葉と同時に、ライブ会場の防音扉が音を立てて閉じられていた。

 乾がそちらを向くと、距離があるのでわかりにくいが、どうやら子供らしい人影がそこにはあった。扉の少し前で、通せんぼでもするように立っている。もちろん、ただの子供ではないだろう。

 それから振りかえって、乾は驚く。

 すでに、そこには千條の姿はなかった。ステージ上の同じ場所には、見知らぬ女の子が一人立っているだけである。年齢的には向こうの子供と同じくらいだろう。桜色をした髪を、片側でくくっている。

 乾は顔をしかめながらも、油断なくその様子をうかがった。

「それが、お前の本来の姿ってわけか?」

「どうかしらね」

 と、女の子――サクヤは言った。

「これだって、誰かになりすましてるだけかもよ」

(……いや、おそらく違うな)

 何となくだが、乾はそう思った。変身前の姿を見せられるくらい余裕がある、ということだろう。が、

「いずれにせよ、それがお前の魔法ってわけや」

 そう――

 すでに乾も推理しているとおり、サクヤの魔法〈妖精装置トリック・アカウント〉は〝別の生きものに変身する〟というものだった。声とその姿を認識すれば、他人になりすますことも可能である。

「ま、別に否定はしないわ」

 サクヤは意外にもすんなりと認めた。

 けれどそこには、兎がわざと足跡を残すような調子があった。おそらく、他人の姿を借りるだけの魔法ではないのだろう、と乾は留意しておく。

 現れたのは、その子供たち二人だけのようだった。ほかにも仲間がいるのかもしれないが、確認はできない。ニニと呼ばれた子供のほうも、いつのまにか近くにまで来ていた。乾はその二人に挟まれた格好である。

「それで、どうするんや?」

 二人の様子を確認できるよう、乾は少し位置を変えた。

「約束通り、俺は一人で来てやっとるんやぞ」

「だからこうやって、あたしたちも会ってあげたんでしょ?」

 サクヤは多少、馬鹿にしたような口調で言う。

「なら、親睦を深めるためにトランプでもするか?」

「そこまでの仲じゃないわね」

「――ボクらが知りたいのは、あなたの魔法についてです」

 不意に、ニニが言葉を挟んできた。

 乾はちらりと、そちらのほうを見る。「俺の魔法やと?」

「あの時、どういうわけかあなたの存在はボクの魔法にひっかからなかった。その秘密を知りたいんです」

 朴訥というか倣岸というか、少年の態度は少し形容に迷うところがあった。とはいえ、無茶な質問には違いない。カードゲームの相手に、一方的に手札を見せろと要求しているようなものだった。

「そう言われて、答えると思っとるんか?」

「答えてもらえなければ、死んでもらうまでです」

 ニニは実に物騒な発言をした。

「見かけによらず、横暴なやつやな。もしも教えたら、お前たちのほうは何をくれるんや?」

 乾は苦笑しながら、落ちついて訊きかえす。

「あなたに許される選択肢は〝楽に死ぬ〟か〝苦しんで死ぬ〟か、です」

 ますます物騒な話だった。

「――お前たちは交渉の仕方ってものを知らんみたいやな」

 乾はけれど、軽く一笑してみせた。

「自分たちの優勢を、まるで生かそうとしとらん。勝てさえすれば、賭け金のことなんぞ眼中にないって感じやな……お前たちはどうせ、俺の魔法が透明になるものやって知っとるんやろう? そのくせ、秘密を教えろと言う。それにあの時、お前たちから電話がかかってきたのは、俺が魔法を解いて連絡をしてからやった。つまりそれまでは、お前たちは俺のことに気づいとらんかった、ということになる。どうやらそっちの少年の魔法は、その辺にヒントがあるみたいやな」

 二人は黙ったまま、何も言いかえしてはこない。どうやら、図星のようだった。その点は、見ため通りの子供らしい反応といえる。

「それから、ほかにもわかることがある」乾は続けた。「それはお前たちが結社に関わりのある人間で、あそこは結社にとって重要な場所らしい、ということや……お前たちの本当の目的を教えてやろうか? わざわざ俺をこんな場所に呼びだした本当の目的や。それは俺の秘密とやらを探ることにもあったんやろうけど、もっと切迫した理由があった。それは使、や。誰から聞いたかは知らんけど、お前たちは何でも知っとるってわけじゃないみたいやな――」

 そう言って、乾は〈空想王国〉を発動させた。またたく間に、その姿は背景へと溶けこんでいく。

「ニニ――!」サクヤは叫んだ。

「わかってる」

 途端に、見えざる衝撃波が飛んで乾のいた場所を直撃した。

 だが、乾はすでに動いている。ニニの攻撃はコンクリートの床を激しく打ち鳴らしただけだった。

(なるほど、な――)

 乾はそれを見て、ニニの魔法特性をほぼ正確に理解していた。

 〈迷宮残響ハッキング・ノイズ〉――その魔法は〝あらゆる振動をコントロールする〟ものだった。だから振動糸を作って鳴子のように使用したり、衝撃波のような振動攻撃を加えることが可能なのである。

 あの時、ニニが乾の存在に気づけなかったのは、〝消音魔法〟の効果によるものだった。音とは、振動のことである。ニニはそれを拡大して、広範囲の音声収集を行うことで侵入者の検知を実施していた。そのため、音が消されることによって、乾はステルス戦闘機のようにレーダーにひっかからなくなっていたのである。

 そして乾が読みとったもう一つ重要なことは、ニニのその魔法が必ずしも殺傷能力には優れていない、ということだった。今の光景がいい証拠である。攻撃速度や精度には秀でていても、コンクリートの床を砕くような力はない。直接相手と接触しなければ、例えば心臓の鼓動を停止する、といったことはできないのだろ。

 ――乾は冷静に、それだけの分析を行っている。

 一方で、ニニとサクヤの二人は、乾の所在を完全に見失っていた。

「気をつけて、サクヤ!」

 ニニは鋭く言った。乾の存在はやはり、彼の検知にはひっかかってこない。

「わかってる」

 周囲の警戒をしながら、サクヤは答える。けれど、何を警戒すればよいというのか。

 しばらく不自然な間があってから、不意に部屋の隅で物音がした。

 ニニはすばやく、攻撃を行う。積まれていたプラスチック製のイスは、窓をハンマーで叩きわるみたいにして粉々になって吹き飛んでしまった。

 が、それだけで特に何の反応もない。

 ニニが慎重に近づいてみると、心ならずもパズルのピースに変わってしまったイスに混じって、十円玉が一枚床に転がっていた。どうやら、物音の正体はそれだったらしい。

「姿を現せ!」

 〈迷宮残響〉を一気に解放して、ニニは部屋中に衝撃波を放った。

 小さな落雷でも受けたみたいに残ったイスが砕け散り、壁や床が激しく音を立て、照明のいくつかが壊れた。けれどそれだけで、乾の姿が出現するような兆しはない。

「あいつがどこに行ったかわかる、サクヤ?」

 ニニは少し呼吸を乱しながら言った。不用意に魔法を使いすぎたせいだった。

「わかるわけないでしょ」サクヤは怒ったように唇を尖らす。「でも、向こうの扉は開いてないわね」

「じゃあ、控え室のほうは?」

 ニニが言って、二人はそちらのほうに向かった。

 舞台袖から楽屋部分に移ると、鏡ばりの壁と丸イスの置かれた狭い空間に出る。そこから通路につながる扉は、蹴破られるかして完全にドアノブが壊れていた。絵の具を乱雑に塗りつけたような、ひどく暴力的な痕跡だった。

「やられたわね。でも何で、音が聞こえなかったのかしら? これくらいなら、よほど派手な音がしそうなものだけど」

 サクヤは八つ当たりでもするみたいに壊れたドアを蹴った。

「――ああ、そうか」とニニはようやく閃いている。「音を消してるんだ。そういう魔法を使ってるんだよ。だからボクの〈迷宮残響〉にひっかからないんだ」

「ということは、今のあんたは役立たずってことね」

 特に面白くもなさそうに、サクヤは言った。

「まあ、そういうことになるのかな」

「なら――」

 サクヤはちょっと、偉そうな口調で言った。

「あたしの出番てわけね」



 路地裏で、乾はいったん自転車をとめて魔法を解除した。色の着いた気体でも注入されたみたいに、その姿はすぐさま浮かびあがってくる。

 携帯端末を取りだすと、すぐに電話をかけた。相手はかかってくるのがわかっていたような早さで電話に出る。そういう男でもあった。

「今、連中に会ってきたところや」

 と、乾は単刀直入に告げた。

〝無事なのか?〟

 質問は短い。

「まだ死んどらんなら、生きとるんだろうよ」乾は笑いもせずに言った。「だがいくつか、わかったことがあるぞ。やつらの魔法についてな。それから、例の場所にはやはり何かあるみたいやな――」

 二人に会ってからのいきさつや、その魔法についての推測を、乾は簡潔に伝えた。それから、もう一つ、

「その二人の写真を送る。見ためは子供やけど、どうも普通じゃないな。特別な訓練を受けたとか、そういうレベルじゃないわ」

 写真というのはあの時、十円玉を投げる前に撮ったものだった。乾はそれだけの時間をかけてから、逃走のための布石として二人の注意をそらしたのである。

「わかったのは、それくらいやな。あるいは結社の純粋な戦闘要員は、あの二人だけなのかもしれん。何にせよ、あとはいつものとおり逃げるだけや。まだあの世の食い物は口にしとらんから、大丈夫やとは思うけどな」

〝こっちも今、そっちに向かっているところだ。もう少し時間はかかりそうだがな〟

「ああ、〝信号魔法シグナリング〟で確認できとる」

 乾は懐から、卵くらいの大きさの球体を取りだした。透明な水晶を金色の縁で十字に囲み、中心にはコンパスの針に似たものが宙空に浮かんでいた。よく見ると、その針は方向と形状を微妙に変化させている。

 〝信号魔法〟は発信器と受信器で構成された、対象の現在位置を知ることのできる魔術具だった。あらかじめ周波数のようなものさえ知っておけば、複数者を対象にすることも可能である。室寺が千條静の死体を見つけたのも、この魔術具によるものだった。

「あの連中が筍や葡萄を食っとるとは思えんから、できるだけ早めに助けに来てくれるとありがたいな」

〝わかった。すぐに向かう〟

 室寺は断固とした口調で言った。頼りがいのある男なのだ。

「――俺としても、十拳の剣を抜くような真似はしたくないしな」

 と、乾は最後に言って電話を切った。

 それから乾は再び透明化して、ともかく遠くへ行こうとした。二人の追跡を振りきったかどうかはわからない。少なくとも、あのニニとかいう子供のほうの魔法では、検知不可能なはずだった。そしておそらく、室寺の魔法でなら戦闘力の面であの二人を圧倒できるはずだった。

 そうして自転車のペダルを踏みだそうとしたとき――

 乾はふと、足をとめた。

 路地の向こうから、一匹の犬が現れている。耳のたれた、毛並みのなめらかな中型犬だった。背中が塗料を塗ったように黒く、全体は赤茶色をしている。いわゆる、ブラッドハウンドと呼ばれる犬種だったが、乾はそこまでは知らない。

 ただ、その犬が何かを探していでもいるかのように、ふんふんと鼻を鳴らしていることには、嫌な予感を覚えた。

(――何や?)

 乾は一瞬、判断を迷う。ただの気のせいなのか、それとも――

 もちろん乾は知らなかったが、ブラッドハウンドの最大の特徴は、その嗅覚にあった。数ある犬種の中でも最高のもので、二日たったあとの臭いでも正確に判別することができる。その能力は例えば、自転車に乗った人間のあとをつけるといったことさえ可能だった。

 その犬は不意に顔をあげると、じっと乾のいるあたりに目を凝らした。あまりよいとはいえない犬の視覚以前に、透明な乾の姿が見えるはずはない。にもかかわらず、その視線は明らかに乾のほうを指していた。

 音や姿を消すことはできても、臭いまで隠すことはできない。

 ブラッドハウンドの目に、何かを捉える確かな気配があった。継ぎめのない箱の蓋を、ぴったりと閉じあわせたみたいに。そして身を低くしていきなり走りだすと、まっすぐ乾のほうへと向かってきた。

(くそっ――)

 乾には、二つの選択肢があった。一つは今すぐ逃走に移ること。いつもと同じ基本戦術だった。だが今回の場合、追跡を振りきることは不可能である。

 そしてもう一つは、応戦すること。

 千條と同じく、乾も銃を携帯している。十分な訓練も受けていた。彼の魔法を使えば完全な無音で発砲することもできる。

 けれど――

 乾はすでに、その機会を逸していた。本来ならあのライブハウス会場で、それをすべきだったのである。あの状況でなら、完全に二人を始末することが可能だった。

 それをしなかったのは、相手が子供だったからである。

 見ためがそうだというだけのことは、わかっていた。それが無用の情けだということも。すでに千條静は殺されている。躊躇や容赦をする必要はない。

 しかし、乾にとって戦闘とは、主として負けないことに意味があった。相手に勝つことは、それほど重要ではない。少なくとも、あの二人を殺してしまうほどには。

 それだけの逡巡が、乾の行動を遅らせた。

 構えた銃から放たれた二発の弾丸は、かすりもせずに回避されてしまった。どうやら、わずかな臭いの変化で発砲を察知されてしまったらしい。〝消音魔法〟の範囲を外れた銃弾が、地面に跳ねて甲高い音を立てた。

 ブラッドハウンドは闘争に向くような犬ではなかったが、この場合そんなことは問題にならない。サクヤが〈妖精装置〉で変身したその犬は、乾の喉笛めがけてまっすぐ襲いかかった。彼女の変身能力は他人への偽装だけでなく、その能力も含めたあらゆる生き物の完全なコピーを実現する。さらにその変身範囲は、必ずしも実在を問わない。

「がはっ!」

 体重六十キロほどの犬にのしかかられて、乾は激しく地面に叩きつけられる。はずみで、銃を手放し透明化も解除されてしまった。浮かびあがったその姿は、首筋をがっしりと犬の口元に咥えこまれている。

 喉元をぎりぎりと締めつけられているおかげで、息ができない。ひゅうひゅう、と乾はか細い呼吸を繰り返した。このままでは、遠からず首の骨が砕かれてしまうだろう。

(ちきしょう――)

 相手を呪う気はなかったが、自分の甘さについては笑いたかった。どうやら、これ以上の逃走は不可能らしい。

「サクヤ、もういいよ。あとはボクがやる」

 不意にそんな声が聞こえた。乾にはもうそれを判断する力もなかったが、ニニという少年のほうが追いついたらしい。

 ふっ、と喉にかかっていた力が消える。同時に、どろりとした液体がそこから流れだすのがわかった。世界の底にあった栓のようなものが抜けて、重要なものが排出されていくようでもある。光が急速に失われつつあった。

 少年の手が胸に触れるのを、乾は感じた。

 それから、本の綴じかたがばらばらになっていくみたいに、心臓が停止して体の機能が消滅していく。スイッチを一つ一つ消していくのと同じ要領で、やがて世界は暗闇に沈み、乾重史の魂は跡形もなく失われてしまっていた。


「死体はどうするの?」

 と、変身を解いて元の姿に戻ったサクヤが言った。その口元には、かすかな血の跡が残っている。

「〝信号魔法〟があるから、たぶんすぐに仲間が来るよ」

 ニニは死体の懐から魔術具の球体を取りだしながら言った。発信機の揺らぎの特徴がわかれば、それでほかの執行者の居場所を知ることもできるはずだったが、もちろんそこまでの情報は持っていない。

 それから念のために、ニニは〝消音魔法〟の魔術具も回収しておいた。乾以外の人間にはそれほどの使い道はなさそうだったが、それでも使用されると厄介な場合はある。

「……このままにしておくってこと?」

 サクヤは重ねて訊いた。

「死体を処理しようとして、また魔術具ごと持っていかれるのも困るしね」

 とニニは立ちあがりながら言う。

 路地裏には昼間だというのに人通りもなく、まるで地面を割ってはいだしてきたような薄闇がにじんでいた。空までの距離さえ、いつもより遠い。

「――何であの時、あたしにとどめをささせなかったの?」

 サクヤは鎖のないブランコにでも腰かけているような、静かな声で言った。

「殺してほしくなかったからだよ」

 と、ニニはすぐさま答える。光が鏡に反射するほどの早さで。

「何で、あたしに殺してほしくないわけ?」

「だって、そのほうが人間らしいと思うから」

 ニニの言葉に、サクヤは黙った。宛て先の間違った手紙でも受けとってしまったみたいに。

「――あたしたちはのよ」

 サクヤはつまらない数学の証明でも口にするように言った。

 けれど、ニニは微笑って、はっきりと答えている。

「ボクと違って、サクヤは人間だよ――ちゃんとした、人間なんだ」

 太陽の角度が変わって、ビルのあいだから小さな光が落ちた。サクヤはまるでそれが気に食わないかのように、かすかに顔をしかめている。

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